chapitre139. 白昼夢の夜
文字数 6,654文字
――新都ラピス ハイバネイト・シティ第36層
「……逃げるよ」
シェルが小声で告げた、次の瞬間。
立ち尽くしたアルシュの四方を、目を灼き尽くすかと錯覚するほどの白が包み込んだ。まるく膨らんだ光の壁が身体に叩きつけられて、そのままアルシュを飲み込んでいく。強すぎる光に、アルシュは反射的に目を細めた。視界が完全に閉ざされるより一瞬だけ早く、手錠に覆われた手首を、誰かの手が掴む。
「シェル君!?」
その姿はもう見えないが、掴む手の持ち主は、隣に立っていた彼以外に考えられない。
「ちょっと、何を――」
無言で引きずろうとする力に抗議しようと、アルシュが声を上げかけたところ、抑えた声音が「静かに」と告げてくる。
「落ち着いて。
いつもの彼よりむしろ静かなほどの声に、一瞬だけ噴き上がった体温が正常に戻っていくのを感じた。早くなった心臓の動きを感じつつも、シェルの言葉の意味を考える。
「……初めてじゃ、ない?」
「そう。でも、名前は言わないでね」
言葉の後半はほとんど子音のみで、シェルは静かに言った。
白い光は徐々に薄れ、アルシュは細めていたまぶたを押し上げる。瞳孔に飛び込んできたのは、
静かに息を吐くと、昔日の記憶がよみがえった。忘れもしない葬送の日、透明な雑踏がひしめくラ・ロシェルの湖底を、友人と手をつないで
「そうか――
いるはずの人が見えない時空間異常。
それに付けられた名前を、アルシュは良く知っていた。こちらが落ち着いたのを確認してか、シェルが掴んだ手首を無言で引く。彼の誘導に素直に従って、人垣を静かにかき分け、ふたりはブレイン・ルームの外に出た。
経緯は分からないが、誰もお互いの姿が捉えられないという状況下において、拘束されていた自分たちがすべきことはひとつしかない。この好機を逃さないうちに、できる限り遠くまで逃げるのだ。両手首が手錠で繋がれたままなので歩きづらいが、文句は言っていられない。
アルシュは静かに息を吸って「シェル君」と囁く。
「チェーン、抑えて。音が鳴る」
「っと……ほんとだ」
シェルが手で抑えたのだろう、ガチャガチャと鳴っていた手錠の金属音が控えめになる。ふたりは足音を殺して、ブレイン・ルームからゆっくりと遠ざかった。
異言語で何かを騒ぎ立てる声が近づいてきて、アルシュは慌てて身体を捻る。空気の動く気配が真横を通り過ぎて、背筋が冷たくなった。音を立てなければ大丈夫――と自分に言い聞かせて、緊張で絡まりそうになる足を、どうにか交互に前に出す。
「そこを左に」
直角に交差した通路に近づきながら、小声でシェルが告げる。彼の足取りはやけに確信めいていて、なぜ進むべき道を分かっているのか気に掛かるが、ともかく後に従う。
通路の角を曲がると、壁に阻まれていたらしい喧噪が耳に入った。そのなかからひとつ、気配が飛び出して、瞬きの暇すらなく足音がやってくる。
ぶわっと風を伴って、何かが接近した。
顔が正面から柔らかい壁に突っ込んで、バランスを崩す。身体の重心がはるか後方に飛んでいき、放り出された身体はコントロールを欠いて、腰から床に落ちた。全身に鈍い痛みが広がるのと前後して、ガシャンと耳障りな音が響く。手錠が床に叩きつけられた音に、誰かが振り返る気配を感じた。
「――――!」
早口の異言語がすぐそばで聞こえた。
「気づかれた」
隣に膝をついたシェルの気配がそう呟く。起き上がるのに手間取っていると、彼はアルシュの腕をわし掴みにして、半ば強引に立ち上がらせた。そのまま、引きずられながらどうにか姿勢を立て直して、彼のあとに続く。
声はこちらを追っていた。
何を話しているのか分からないのが、かえって恐ろしい。シェルなら理解しているかもしれないが、うかつに彼に話しかけでもして、その声を聞きつけられたら元も子もない。鼻の中を切ったのか、鼻孔を伝って生暖かいものが落ちていくが、すすり上げたくなるのをぐっと堪えた。喉のかすかな息擦れさえ、まばたきで揺れる刹那の風だって、居場所を相手に伝えてしまう。
混ざり合う足音は、まるですぐ後ろを付いてきているようにも感じられた。今にも後ろから手が伸びてきて、肩を掴むのではないか――頭蓋を締め付ける恐怖をこらえて、曲がり角を越えたとき。
不可視の霧を割いて、聞き覚えのある声が遠くに響いた。
その直後。
まるで磁石の向きが揃うように、不特定多数の気配が、少年と
「――助かった」
安堵のにじんだ声でシェルが呟く。身体に張り詰めていた力が抜けてしまい、アルシュは壁にもたれかかって溜息を吐いた。
「みんな、向こうに行ったよ。当分、こっちには来ないはず……このまま行けばスロープがあるから、そこまで、ゆっくり行こう」
「――うん」
籠もる声で返事をする。
大丈夫、と問われたので、鼻血が出たようだ――と正直に伝えた。
*
スロープのなかを降りていって、しばらくすると、薄い膜のようなものを突き抜ける感覚と共に、ふたりは正常な視界を取り戻した。斜めに伸びた暗い円筒のなかを、ベルトコンベアが流れている。
「だいぶ離れたね」
白く光っている後方を振り向いて、シェルが言う。
「正確には分からないけど、5、6層は下ったかな。流石にもう、追ってこれないと思う」
「うん――良かった」
ふたりは安堵の表情を見合わせて、どちらともなくベルトコンベアの床に腰を下ろした。全身に汗をかき、息が上がっていた。シェルが目に掛かった前髪をかき上げて、あ、とこちらに視線を向ける。
「そうだ、アルシュちゃん、血が――」
「え? ……ああ、忘れてた」
彼が指さした胸元を見下ろして、アルシュは小さく溜息をつく。あごを伝い、鮮血がぼたぼたと落ちて、光沢のあるブラウスの生地を汚していた。
シェルが片方の眉をひそめてみせる。
「医療室を探した方が良いかな」
「いや、ちょっと切っただけだと思う」
出血の量こそ派手だが、痛みはほとんど収まっていた。布もちり紙もないので、仕方なく指で鼻を抑える。金属製の手錠に、下半分が血に染まった自分の顔が反射して見えて、アルシュは思わず眉間にしわを寄せた。
「思ったより酷い見た目」
鼻をつまんだまま、冗談めかして呟くと、シェルが声を出さずに苦笑するのが分かった。
先ほどまで、アルシュたちは、非遷移性の
その知識の差が、数十秒のアドバンテージを作り出し、ふたりはブレイン・ルームから逃げ出すに至ったのだ。
「……でも」
アルシュは両目を見開いて、ベルトコンベアの床を見つめながら考える。偶然と呼ぶには、あまりに都合の良いタイミングで
「そもそも、ブレイン・ルーム内に水晶ってあったかな」
「その話をしてなかったね。あの
「シェル君? ――なに言って」
何の冗談かと、半笑いで顔を上げたアルシュの視線を、シェルは静まりかえった無表情で受け止めた。その口調は普段と変わらず、天気の話でもするように軽いが、こちらを見つめる瞳に浮かんでいる色は真剣そのものだった。
「急に、そんな、突飛な話……どうしちゃったの?」
「冗談でもなんでもなくて、本人がそう言ってたんだよ。水晶もたぶん、彼女がどこかに隠し持ってたんだと思う。エリザの白銀色の瞳なら、自由自在にD・フライヤを呼びつけるくらい、できるってことかもね――」
「待って。色々話が飛びすぎだよ」
よどみなく話を進めるシェルの目前に、アルシュは片手を広げて突き出した。少しあごを仰け反らせたシェルが「そう言っても」と肩をすくめる。
「信じてもらうしかないんだけど……ぼくだって半信半疑だよ。でも、現に
「いや、えっと……私だって、この期に及んでシェル君が、おかしな幻覚を見たとか、そんなことを思ってるわけじゃない」
アルシュは小刻みに首を振って見せた。
「さっきの、最初からもう一度言ってくれる?」
「うん。エリザの意志でこれから
「言ってた、って?」
エリザとブレイン・ルームで対峙したとき、双方はフィラデルフィア語圏の兵士に監視されていた。
「そんな余裕なかったでしょう」
「唇の動きで、言ってた。それを読んだんだ」
「読唇ってこと?」
「そう」
シェルが真顔のまま頷く。そんな特技があったのか――と驚いて、アルシュは少し目を見開いた。たしかにエリザは、あのとき、不自然に唇を動かしていた。
「スロープの入り口がある場所も、エリザが教えてくれた。たぶんね、最初から、ああやって出し抜くつもりで人質交換を提案したんだと思う。
「皮肉? 何が」
「フィラデルフィア語圏の人たちは、
「あぁ――そういう」
やけに向こうの陣営に肩入れした意見だとは思いつつも、腑に落ちたので頷いて見せた。
「なるほどね……にしても、いつ読唇なんて練習したの」
「うん、昔――まだ研修生だった頃にさ、ルナと練習して。そのときは、単に遊びのつもりだったけど……あはは、また役に立った」
彼の幼馴染の名前を出して、屈託なく笑って見せたシェルが、ふと視線を斜め上に向ける。数秒、停止したまま考え込んでから「でも」と掠れた声で呟いた。
「エリザ、ぼくが唇を読めるの、なんで知ってたんだろ……」
「それは――」
アルシュはひとつ唾を飲み込んで、視線を横に滑らせた。
「何でだろうね」
「カノン君あたりが教えたのかなぁ……」
わずかに水気を含んだ声が、空虚な響きで呟く。アルシュはその理由を知っていたが、彼に教えてはいけないと思い、黙っていた。事実を伏せられているシェルは、そうとも知らずに顔をそむける。
喉の奥が引きつる高い音が、暗いスロープのなかで断続的に響いた。
「その、思い出しちゃって――ごめん」
途切れ途切れになった息の隙間で、シェルが小さく謝る。アルシュは、そちらを見ないように背を向けて、可能なかぎり普段通りの口調で話しかけた。
「……良かったら話してよ」
「そんなわけに行かないよ」
「言葉にして、それで整理できることだってあると思う」
隠しごとをしている後ろめたさから、自然と声音が優しくなってしまう。首筋に嫌な汗が伝うのを感じつつも、見かけ上の平静を保ってみせると、シェルは重たい息をゆっくり吐き出してから、言葉をひとつひとつ選びはじめた。
「……エリザを見て、やっぱ、ルナに似てるなって……そう思って。いや――うん、
「夢……」
「エリザの身体のなかに、ルナの心が宿る。それで、ぼくを見て、愛称で呼んでくれる――うん、再三言うけど、夢なんだ。夢っていうのは、ぼくがそう望んだから、見えた幻でしょ。ぼくはルナを待っていないといけないのに、あんな夢、見ちゃうのは、ホント駄目だよなって――」
声は掠れて、高く上ずった。
「弱いなって」
「……眠っているとき、本当に願望だけが見えるなら、誰も悪夢を見ないでしょ。夢にまで責任感じることは、ないと思うよ」
「あはは……ありがとう」
シェルが薄く微笑む気配を背中で感じながら、アルシュはベルトコンベアの向かう先をじっと見つめる。暗闇が口を開けて、こちらをゆっくりと待ち受けていた。
お礼を言われるようなことではない。
あの日、エリザの身体がコアルームで目覚めたとき、おそらくシェルは誰よりも早く真実に気がついていたのだ。五次元宇宙のどことも知れない場所に飛ばされた、アルシュたちの友人が、彼女の心だけを伴ってこの世界にやってきた、その、奇跡とも呼べそうなできごとを、理屈や常識抜きに知覚した。
どうして気がついたのか、今さら問うような気にはならない。彼が彼で、彼女が彼女だから――きっと、それ以上の理屈は必要なかったのだろう。
エリザの身体のなかに、シェルの幼馴染の意識が宿っているというのは、
「もしもさ」
顔を背けたまま、静寂を埋めるための世間話を装ってアルシュは問いかける。
「マダム・エリザのなかに、本当にロンガの心があるとしたら、シェル君はどうするの?」
「……仮定の話、だとしても、それは考えたくないな」
「そっか……ごめんね」
「ううん」
シェルが首を振る気配。
握りしめた指先がちらりと見えて、胸がずきりと痛くなった。エリザのなかに彼女がいて、彼女にとって、シェルと、おそらくはアルシュ自身が大切な友人であったからこそ、ラ・ロシェル語圏側も、このような不確実性の高い作戦を決行するに至ったのかもしれない。
とはいえ、危うく捕まりかけたが。
その窮地を救ってくれた、あの声についても、シェルが教えてくれた。
「うん、フィラデルフィア語圏の言葉でね――こっちに人質がいるよ、来て、って言ってた。向こうの幸運な勘違いとかじゃなくて、たぶん最初から、仕込んでたんだと思う」
「そう、うん……ねえ、あのさ、あの声って。もしかして」
「ああ――」
シェルが静かに頷く。
「うん……たぶん、ティア君だね。ほかにも何人かいた感じだけど」
「あの子は地上にいるんじゃなかった?」
まだ血のしたたる鼻を抑えながら問いかけると「ぼくもそう思ってたけど」とシェルが首を傾げた。
「今は、MDPのヴォルシスキー支部でお世話になってたはず。まだ怪我も治りきってないと思うけど、でもまあ……来た理由は想像つくよね。アルシュちゃんが危険な目に遭ってることは、きっと地上にも伝わったはずだから」
「……私を助けに来たって言いたいの?」
「と、推測はできるかなってこと」
シェルが小さく肩をすくめた。
「よほどの理由がないと、こんなことしない。ティア君は決して、無謀でも、向こう見ずでもない。そんなティア君を、突き動かすものって何かなって思ったら、それは――」
視線がじっとアルシュを見つめた。
「償うべき人のため……じゃないかな」
「――私に」
アルシュは視線を逸らして、流れていく天井をじっと見つめた。
「あの子に
じっとりと湿った感情と共に、アルシュは
「でも……何だろう」
黒い靄のような異物感が、胸の奥底でうずまく。うまく言葉にできないけれど、どうも自分たちは何かを間違っているような気がした。形のない違和感に手を伸ばすが、考えているうちに、どこかに逃げてしまい、それっきり姿を見せてくれなかった。