chapitre63. 生命の質量
文字数 5,795文字
「やっぱ、間違いない気がする」
深夜、他の住人が寝静まったなか、ひとりキッチンで朝食の仕込みをしながら、シャルルはぼそりと呟いた。仲間に分けてもらった貴重な肉を薄く
仕事を終えて宿舎に戻ると、外套を脱がないまま一階の扉をノックした。三度目のノックで布団から起き上がったらしい衣擦れの音がした。半目のアンクルが扉を開け「何かあった?」と寝癖がついた頭をかきながら聞いてくる。
「今、良いか。大切な話がある」
「あぁ、うん」
あまり分かっていないような生返事をしてから、やっと目が覚めたようでぱちくりと目を瞬かせた。アンクルは自分の頬を軽く叩いて、シャルルの神妙な表情を見上げる。
「大切な話って言った?」
「おぅ。サテリットに聞かれたくない、外に出ないか」
「――分かった」
アンクルは一度部屋に引っ込み、外套を着込んで出てきた。会話もないまま、重苦しい沈黙の中をしばらく歩き続けた。宿舎から5分ほど歩くと、ちょうど木陰になっていて雪の積もっていないベンチがあったので、「ここで良いだろ」と呟いて座る。外套越しでも座面が冷え切っているのが分かり、その冷たさに身を震わせながらシャルルは言うべき言葉を探した。
「えぇとだな……先に行っておく。アン、腹が立ったら殴ってくれ」
「えっ」
「その代わり、場合によっては俺がお前を殴る」
「うん?」
アンクルは困ったような笑顔を浮かべた。彼に心の準備をしてもらおうと思ったのだが、上手く行かなかったらしい。結局、自分の場合は単刀直入に言うのが一番マシらしいな、と踏んで、シャルルは大きく息を吸った。氷点下の空気が肺に満ちていき、まだ残っていた迷いをかき消していった。
「よし言うぞ。――サテリットが妊娠しているんじゃないか、と思う。心当たりは?」
「妊娠?」
その言葉の意味が分からないとでもいうように、アンクルがぼんやりと呟いた。表情が抜け落ちた虚ろな顔で、白い息をぼんやりと吐き出す。シャルルの言葉を予期していた
「心当たりは」
「な、ないでもない。けど」
「けど何だ」
ランタンをブーツで蹴飛ばしてしまい、音を立てて倒れたのを慌てて直す。気がつかないうちにアンクルの襟元を掴みかねない勢いで彼に迫っていた。暖色の光の中でも分かるほど血の気の失せた顔で、アンクルが「けど」と繰り返す。
「そんな訳ないって――」
取り繕うように笑おうとした顔に拳を叩き込んだ。
頬骨と拳がもろにぶつかった感触があり、不意を突かれたらしいアンクルがベンチから地面に転げ落ちた。何が起きたのか理解しきっていない顔のまま、鼻血の流れ出した口元を拭う。シャルルは地面を蹴ってベンチから立ち上がり、地面に腰をついたアンクルの襟元を掴み上げた。
「そんな訳ないって何だよ、
「ちょ、ちょっと待って――」
「現実は待ってくんねぇんだよ。刻一刻とあいつの身体は変わってんだよ!」
「違う。考えを整理する時間が欲しいだけだ」
「おぅ、そうか。1分やるよ」
「十分だ。ありがとう」
使うか、と言って乾いた布きれを放る。礼を言って受け取ったアンクルは、積雪した地面に腰を下ろしたまま黙りこくっていた。しっかりしろよ宿長、とシャルルは心の中で声援を送る。ややあってアンクルが地面から腰を上げ、ベンチに座り直した。顔をややうつむけたまま、しかしはっきりした口調で話し始める。
「――確かに言われてみれば、シャルルの言う通りだ。まさにそれらしい兆候を示していたと思う。だというのに、僕は無意識に目を逸らしていたかも知れない」
「心当たりあるくせに気付くのがおせぇよ」
シャルルが小さく笑うと、アンクルは「うん」と呟いて夜闇をまっすぐ見据えた。
「噂だけど、ラピス市民――つまりソヴァージュじゃない普通の市民は、自然の状態に比べて極端に妊娠しづらいと聞いたことがあった。だから……いや、うん、これは言い訳だ」
「それは、クジ引いといて当たる訳ねぇって言ってるようなもんだろ」
「うん、その通りだ。教えてくれてありがとう。シャルル」
「あぁ。で、どうする」
「そうだね……ソヴァージュの子供か。まずサテリットはどうしたいのか、そもそも気付いているのか、無事に生まれたとしてどうすべきか。考えることが山積みだ」
「だなぁ、でも脅すようなことを言ったけどさ――俺はね案外、どうにかなるって思ってるぜ」
「……楽観視、できる理由が分からないな」
アンクルがぎこちない口調で言って、怪訝そうにこちらに顔を向けた。布きれで覆っていても分かるほど頬が赤くなっていて、流石に少し力加減を誤ったかな、と心の中で謝罪しておく。その代わりに、臨界ぎりぎりで平静を保っているらしい友人に明るく声をかけてやった。
「だってよ。ラピスは今まさに変わろうとしてるじゃねぇか」
「変わろうとしてる……滅びかけている、の間違いではなく?」
「みんなが自分の行きたい方に行こうとしてんだよ、今は。なあ、お前たちだって好きな方に行きゃあ良いんだ。それ自体は何も悪いことじゃねぇ」
答えないまま半信半疑の顔でうつむくアンクルの背中に手を置き、「それに」と言葉を付け足す。
「それに俺はロンガと約束したからな。あいつ請け負ったぞ。愛し合う恋人たちや、ソヴァージュの子供が普通に暮らせる世界にする、ってさ。なあ、お前たちの子供の親はお前たち2人だけじゃねえだろ。俺もロンガも、リヤンだって、全ラピス市民が親みたいなもんだ! そういう街だろ、ラピスって」
「……うん」
小さく頷いて、アンクルは赤くなった目元をシャルルに向けた。ありがとう、と口元が動いてかすかに微笑む。
「でも、それはそれとして僕らの問題だ。僕が、いや僕らが責任を持って考える」
「
「はは。有り難いな」
鼻血と涙で汚れた顔を布で
「ぶん殴って悪かったな」
シャルルが顔を前に向けたまま言うと、「いや」とだけ答えてアンクルは首を振った。鼻を啜る音が聞こえる。
「腫れそうか?」
「うーん、まあ、多分」
「明日薬草を練っといてやるよ」
「そこまでじゃないよ」
しばらくとりとめもない会話をしながら、いつもより多少ゆっくりした速度で歩いた。月の見えない夜は暗く、夜空と森の境界すら分からない。話し声が静寂に吸い込まれていき、ランタンの照らす空間以外の世界が消え失せてしまったような錯覚に
はあ、と大きく息を吐いてアンクルが顔を上げた。
「――明日の晩、サテリットと話すよ。僕らがどうしたいか、どうすべきか」
「おぅ、そんで色々決まったら俺にも教えてくれ。食事だって気をつけてやんなきゃいけねぇからな」
「そっか、そうだね……本当にありがとう。恵まれてるね、僕ら」
「良いんだよ、お互い様だろ」
白く凍る息を見上げて、厚い雲に覆われた空を見上げる。
「……リゼ」
そこに彼はいるだろうか、と思いながら懐かしい名前を呟く。アンクルがこちらを向いた気配があったが、彼は何も言わなかった。
収穫祭で死者に浄火を
かつて第43宿舎の宿長だったリゼなら、こういうときどうするだろう、と考えることが少し前まではよくあった。しかし、最近はあまりしなくなった。リゼの記憶が遠ざかって薄れてしまったのが理由の一つ。もう一つは、記憶の中の年を取らない彼と、日に日に変化していくシャルル自身があまりにも
リゼは16歳で亡くなり、彼と同い年だったはずの自分はもうすぐ22歳になる。もうどこにもない過去のことを思いながら、シャルルは何となく話を切り出した。
「死んだ人間の歳を数えるのは止めろ、って話を知ってるか」
「いや、知らないな。怪談か何か?」
「出典は知らん。でもさ、残酷だよな。俺たち、リゼと同い年だったから、年を取るたびに奴の年齢を意識しちまう。一生忘れられねぇんだ」
「そうだね。でも……忘れてしまうよりは、誠実だと思う。どうして突然、リゼの話を?」
「何だろうな。もう記憶の中のアイツに相談をする
「んん……シャルルの心に、まだリゼが生きてるってことかな」
要点の定まらないシャルルの言葉を、アンクルがそんな言葉でまとめて見せたが、シャルルは心の中で首を振った。彼はもうどうしようもなく死んでいる。心の中にいるリゼの肖像が16歳の姿からアップデートされることは、一生ないのだ。
ただ、新しい
それだけだ。
*
翌日の夜、ハーブティーを
ひととおりアンクルの話を聞くと、風呂上がりらしいサテリットは水気の残る髪を垂らしてうつむいた。
「私も、そうかなって思ってた。妙に体調が悪いし……その、生理、来ないし。言い出せなくてごめんなさい」
「謝らないでほしい、僕こそ気付くのが遅くて悪かった。いつくらいから?」
「えっと……」
視線を天井に上げたサテリットの表情が、はたと固まった。ぱちぱちと瞬きをして、
「あれ……『ハイバネイト・シティは新たな生命の誕生を祝福致します』?」
「ん? それは何」
「わ、分からない。でも何だか、誰かにそんなこと言われたような気がして……今、突然、思い出したの」
「突然思い出した?」
その意味するところをアンクルは考えた。サテリットは落ち着かない表情で、マグカップを握りしめている。誰か――ハイバネイト・シティと名乗る相手が、身ごもっているサテリットに対して、「生命の誕生を祝福」した。
「誰だ、ハイバネイト・シティって」
まず、見た目ではさほど変化がない時期にも関わらずサテリットの妊娠を見抜いた。さらに、一般的には
隣でサテリットがはっと顔を上げた。
「あぁ……そうか、そうだったんだ」
「サテリット?」
青白い顔になって額を抑えているサテリットの身体を抱き寄せたが、彼女は恋人の腕に身体を委ねることはせず、アンクルの肩に手を置いてまっすぐ視線を合わせた。深い緑色の瞳に並々ならぬ決意が満ちていて、あれ、こんな表情するんだ、と少し驚く。
「アン、聞いて欲しいの。思い出した。私、地下に行かないといけない」
*
ハイバネイト・シティへの入り口を見つけるのに丸三日かかった。サテリットが以前迷い込んだときの入り口は念入りに爆破されており、重機でも持ち込まなければ通れなそうだったので諦めた。
急坂の途中に口を開けた
「そろそろ良いだろ、行くぞ」
未練を断ち切るつもりで、シャルルはわざと明るい声を上げた。頬にガーゼを貼っているアンクルが無言で頷き、サテリットが新しく作った杖を取って立ち上がる。
「本当にありがとう、シャルル。巻き込んでしまってごめんなさい」
「あのなぁ……巻き込んだって言うの、次から禁止な。確かに俺はアンやサテリットと違って当事者じゃねぇけど、同じ重さを背負わせてくれよ。寂しいだろ」
「寂しいって」
冗談だと思ったのか、サテリットが小さく笑った。
3人は朝日から遠ざかるように洞穴を進み、人工的な光の照らす扉に辿りついた。両開きの重たそうな扉を見て、見覚えがある、とサテリットが呟く。やはり彼女はあの日、“地底の民”の支配する領域に偶然迷い込んでいたのだ。地上に情報を持って帰られては困るから、記憶を消されたのだろう。
アンクルが扉を開け、3人は部屋に踏み込んだ。天井から人工的な音声が降ってくる。
『こちらは、包括型社会維持施設、ハイバネイト・シティ。本日は稼働より149249日、負荷率12.9パーセント、システム異常なし。ようこそ、生存者の皆さま』