幸せのかたち

文字数 10,961文字

 ハイバネイト・プロジェクトの本拠地であり、プロジェクトそのものである地下シェルターは、縦に細長い構造をしている。最終的に百万人の収容規模を目指しているが、現在の規模だと一万人にも届かない。ここから水平方向へ、四方に腕を伸ばすように居住区を広げていくのが、プロジェクトメンバーに課された次のステップだった。

 そのためには何よりも資金、つまりは支援者が必要だった。

 プロジェクトリーダーであるニコライが、スクリーンを指さして必死に熱弁しているのも、つまりそのためだ。マルチデザイナーのアマンダが作成したプレゼンテーション資料は、さまざまな技巧と多少の誇張を加えて、ハイバネイト・プロジェクトの可能性を証明しようとしている。

『人類を未来へいざなう箱船』
『凍土のなかで冬を耐え忍び、いずれ来たるべき夜明けの地平を目指す』

 少々詩的すぎるのではないか。

 会場の隅で椅子に腰掛けているエリザは、ひっそりとそんな感想を抱くが、口にするわけにもいかない。アカデミアは客観的な正しさを追求する場所だと思っていたけれど、誰も彼も追い詰められた昨今では、そういう深遠な議論よりは、ただ耳に心地よい言葉こそが求められているようにも思えた。

 講演時間が終わり、質疑応答に移る。

「ひとつ、よろしいですか」

 話を聞いていたスーツの男が、マイクを受け取って話し出す。

「お話によると、寒冷期は五十年をめどに終わると考えていらっしゃるようですね」
「はい」

 ニコライが頷く。

「その根拠としてジゼル女史の論文を引用していらしたようですが、件の研究は、シミュレート手法の記載が不明瞭である――という指摘を受けています」
「それは――」
「およそ学術論文として適切ではない、と」

 壇上のニコライが唇を噛むのが、遠目に見ていても分かった。

「ふふ、手厳しいね」

 隣に腰掛けていたルーカスが、エリザの耳元に唇を寄せて囁いた。

「まさか……未来が見える少女がいるなんて、馬鹿正直に言うわけに行かないものね。クローズドな交渉ならともかく、こういう場所では」
「……そうですね」
「つれない返事だなぁ」

 ルーカスは小さく肩をすくめた。

「こういうときは、一端(いっぱし)のレディなら、もっと会話を広げて返すものだよ、エリザ」
「すみません……」

 肩に回された手を煩わしく思いつつ、エリザは頭を下げる。辺境の街で生まれ、育ての親には売られて、今は大人たちに利用されている、こんな矮小な存在に、形ばかりの淑女らしさを求めるほうが、どこかおかしい気もするけれど。

 講演会はそれから一時間ほどで解散になり、エリザはルーカスに連れられて会場を出る。講演をしていたニコライは、個別で議論をしたい相手がいるから――と言い、近隣の会議室に向かった。

「これ、君の切符ね」

 メトロの駅まで歩いて戻ると、ルーカスが切符を買ってくれる。手渡された切符を見たエリザは、そこに刻字された金額に、おやと目を見開いた。先にプラットホームに降りていったルーカスが「どうしたの」と振り返る。

「ほら、四時の便が出ちゃうよ」
「あ、あの……切符、値段、足りないですよね」

 ハイバネイト・シティの最寄り駅までは足りていない金額だった。エリザが切符を握りしめて立ち尽くしていると「ああ」とルーカスが事もなげに笑う。

「途中で降りて、夜、食べていこうよ」
「え……でも」
「アマンダには連絡したから」

 ほら――と強引に手を引かれて、あやうく足を絡ませそうになりながら、エリザは車両に乗り込んだ。

「良いんでしょうか」

 ロングシートに腰掛けて、エリザはうつむく。

 全ての生活がシェルター内で完結することをアピールするために、外で食事を食べることはあまり推奨されていない。それこそニコライに知られたら、渋い顔のひとつもされそうなものだけど。

「怒られるんじゃ……」
「平気だってば。エリザだってさ、たまには、人工じゃない肉とか、焼きたてのお菓子とか、食べたいでしょ?」
「はぁ……」

 曖昧に頷く。

 食べたくないと言えば嘘になる。でもメンバーに叱られることと天秤に掛けると、諸手を挙げて賛成とはいかなかった。とはいえ、財布を持たされていないエリザは、ルーカスに着いていく以外の選択肢を持たず、彼に案内されるまま途中の駅で降りた。

「ここ。昔よく通ってたんだ」

 そう言ってルーカスが、立て付けの悪い扉を押し開ける。薄暗く、アルコールと煙草の匂いに満ちた店内は、レストランというよりバーに近い雰囲気だった。ルーカスが慣れた様子で店主と挨拶を交わすと、店主はエリザをじろじろと見て「へえ」と笑った。

「こりゃまた若い」
「そんな言い方、よしてくださいよ」
「いつぞやの女の子は」
「マリアのことですか? いや、あれは、彼女が強引に――」

 ルーカスが店主と会話を交わしている傍ら、従業員に案内されて、エリザは席に着く。アルファベットのUのような形をしたソファの端に座ると、ルーカスが「もっと奥に入ってよ」と言うので、仕方なく奥に詰めた。そんなことをしなくても、もう片方の端に彼が座れば、それで済む話な気もする。

 やはり、どうにも苦手な相手だった。

「なにを頼む?」

 ルーカスが隣でメニューを開いて、エリザに見せてくれるが、見慣れない料理名ばかりが並んでいる。ふと、数日前にユーウェンからもらった小冊子を思い出して、ひそかにマカロンを探してみるが、見つけられなかった。

「あの、私……分からないです」
「そう? じゃあ、僕が適当に選ぶね」

 ルーカスが店員を呼んで、注文を済ませる。ほどなくして運ばれてきた前菜のサラダを取り分けてもらい、レタスの瑞々しい食感を舌の上で転がしていると、ルーカスが「僕はさ」と小声で囁いた。

「前にも言ったけど、君を心配してるんだよ」
「心配されることなんて……なにも」
「本当に?」

 エリザの言葉を遮って、ルーカスは至近距離でじっとエリザの顔を見つめた。彼がいつも吸っている煙草の匂いが、店内のアルコールの匂いと混ざって、頭がくらりと揺れる。

「本当に何もない?」
「なんで、そんなこと……聞くんですか」

 顔が近い。

 長い睫毛が反っているのが見えるほど近くまで顔を寄せて、ルーカスが「あのさ」と悲しげに笑う。

「エリザ……辛い思いをしてるのに、何も頼ってくれないのは、けっこう悲しいよ。僕は、そんなに頼りなく見えるかな」
「辛いって……なんで」
「だってさ」

 いつの間にか腰に回されていた腕が、ぐっとエリザの身体を引き寄せる。エリザの髪をかき分けて、耳元に息が掛かるほど近くで言う。

「君、サティに乱暴されてない?」
「えっ――」

 いきなり核心を突かれて、息が止まる。

 エリザが唇を震わせていると「ほら」とルーカスが身体を離して微笑んだ。

「やっぱりそうでしょ」
「……違います」
「そう?」

 エリザが頑なに首を振ると、ルーカスは意外にもあっさりと引き下がった。そこでちょうど料理がやってきて、会話はいったん中断になる。馴染みのない料理だったらどうしよう――と心配したのは杞憂で、運ばれてきた料理はパスタとフライドチキン、それにオレンジジュースだった。

「ほら、食べなよ。君の分だよ」
「は……はい」

 勧められるまま、フォークに手を伸ばす。

 服を汚さないように気をつけながらパスタを食べていて、ふと気がつく。

 どう見てもアルコール飲料がメインの店なのに、ルーカスはエリザと同じジュースを飲んでいた。料理のメニューといい、もしや未成年のエリザに合わせてくれたのだろうか。もしかして、本当に――エリザのことを心配して、気に掛けてくれているのだろうか。

「……ルーカスさん」
「うん?」
「私の誕生日って、覚えていますか」
「え? あ、うん」

 グラスをコースターに戻して、ルーカスはこちらに微笑みを向けた。

「先月の二十日だよね。もちろん覚えてるよ。そうだ、僕、あの日おめでとうって言わなかった……ごめんね」
「あ、い……いえ」

 あっさりと答えを返されて、エリザは逆に当惑する。ルーカスの親切は口ばかりだと思っていたから、どうせ答えられないだろうと思って聞いたのだ。想定外の反応に言葉を失っていると「意外だな」とルーカスが口の端に笑みを浮かべてみせる。

「男を試すなんて、そんなの、誰にでもやっちゃダメだよ」
「試す……? ご、ごめんなさい」
「別に僕は怒ってるわけじゃないけど……ああ! そうか」

 思いついた、というようにひとつ指を鳴らして、ルーカスが楽しそうに笑いながらこちらをのぞき込む。

「エリザは僕が好きなんだね」

 穏やかな口調と噛み合っていない発言内容に、エリザの思考は吹き飛んで真っ白になった。電撃が走ったように、身体が動かなくなる。

「好き……?」
「だってそうでしょ?」

 おうむ返しに呟くと、ジュースで濡れたエリザの唇を、ルーカスの指先がもてあそぶようにつまんでみせた。

「僕が君にちゃんと興味があるか、試したかったんでしょ。それって、エリザが僕を好きってことだよ」
「いえ、そんな気は――」
「ちなみに」

 ぐい、と肩を押される。

 妙に頭が熱っぽくて、身体に力が入らない。されるがままソファに背を押し付けられたエリザの頬を、ウェーブした髪の毛先がくすぐる。

「僕は君が好きだよ」

 どくり、と心臓が跳ねた。

 香水や煙草やアルコールの混ざり合った匂いが脳を浸して、曖昧になった感覚のなかで、ルーカスの声だけが反響する。

「ね? 両想いだ、僕ら」
「あ、あの」

 最後に残った力を振り絞って、エリザは自分に覆い被さっているルーカスの肩を押し返す。

「止めて下さい」
「どうして?」
「距離が、近いです」
「良いじゃない。だって僕らは両想いで、恋人なんだよ」
「えっと……」

 そう、なのだろうか。

 ルーカスが当然のように言うので、エリザは自分の意志に自信が持てなくなる。スカートから露出した膝を、ルーカスは指で辿って「だから」と眉をひそめた。

「サティが君の身体に無理やり触ってるのだとしたら、僕はすごく悲しい。そういうのは、本当は、恋人同士でやることだ……これからは僕としかそういうことしないって、エリザが約束してくれるなら、僕がサティを叱ってあげるよ」
「あの……」
「ほら、エリザ」

 唇に指先が触れる。

「言ってみて。約束するって――」

 そのとき。

 ガラガラと派手なチャイムの音がして、エリザははっと我に返った。ルーカスの顔が眼前数センチの近さにあることに気がつき、その顔を力任せに押し返す。うっ、と低い声で呻いて、ルーカスが首に手を回す。

「痛っ……酷いなぁ」
「な――る、ルーカスさんこそ、酷いです」

 こんな近くまで迫られていたことに、どうして気がつかなかったのだろう。まだ力の入らない腕で身体を支えて、ソファの上でじりじりと後ろに下がると「困るよ、お客さん」と遠くで店主の声が聞こえた。観葉植物と衝立が視界を遮っているが、どうやら新しく客が入ってきたようだ。

「今、貸し切りなんだ。ほら、ドアにボードが掛かってるだろ」
「あれ、気づかなかった。これはどうも、すいません」

 店主に謝っている、その声には聞き覚えがあった。

 エリザは目を見開いて、口元に手を当てる。

「ゆ、ユーウェンさん……?」
「ああ……邪魔が入ったな」

 心なしか低い声でルーカスが呟き、垂れ下がった髪をかき上げた。

「エリザ、僕とここに来たことは、僕らだけの秘密ね。僕はお会計をするから、彼を連れて帰ってくれる?」
「え、あ、あの……」
「ほら」

 身体を抱えられて、エリザはソファから通路にふらふらと歩き出す。足が絡まって転びそうになり、バランスを崩したエリザが柱にもたれると、ユーウェンがぎょっと目を見開くのが見えた。

「エリザ!? 君、どうしてここに」
「お客さん、あんた……もしかして、その子の知り合いかい」
「ええ、そうですが」
「そうか……」

 店主は店の奥をちらりとみて「それなら」と少し声色を明るく作り替えた。

「悪いがその子、連れて帰ってくれ」
「え?」
「ほら、出てった出てった」

 店主に強引に背を押されて、店外に追い出される。膝にまったく力が入らなくて、エリザはそのまま、埃っぽい壁ぎわに座り込んだ。ユーウェンが途方に暮れた様子でエリザを見下ろしながら、ええと、と呟いた。

「なんで、ここに……」
「……言えません」

 僕と君だけの秘密ね、とルーカスに釘を刺されたことを思い出して、エリザは俯く。頭がぼやけていて、思考がまとまらない。隣に膝を突いたユーウェンが、濃い眉をふと歪めて「この匂い」と呟く。

「エリザ」

 真剣な顔が、こちらを見ている。

「君、この店にはよく来るの」
「……いいえ」

 匂いって何だろうと思いながら、エリザは小さく首を振る。

 頭がぼうっと熱くて、くらくらと目眩がした。

「初めてです」
「そうか……次は、来ない方が良い。子供相手に、これは多分……まともな店じゃない」
「え――あの、まともじゃないって、なにがですか……?」
「いや……」

 彼は唇のはしにぎゅっと皺を寄せて、小さく首を振った。こちらの質問には答えず、ユーウェンは「帰ろうか」と声を掛けてくる。だが全身が気怠くて、エリザはとても立ち上がれる気がしなかった。

「あのさ」

 ぐったりと壁にもたれたエリザを見かねてか、ユーウェンがこちらに片手を差し出した。

「もし、君が嫌じゃなければ――」

 ***

 いつもより、視界が広い。

 筋が浮いた首に腕を回して、エリザはユーウェンの肩で目を閉じた。短く刈り上げられたうなじからラベンダーのような匂いがして、ぼんやりと熱っぽい頭のなかに、爽やかに浸みていった。

 誰かに背負われるなんて、何年ぶりだろう。

 故郷で義家族と暮らしていた頃だって、滅多になかった気がする。自分の身体をまるごと誰かに支えられている感覚は慣れないが、規則的な揺れも相まって心地よい。スカートの裾が広がっていて不格好なのは気になるけれど、地下通路にはほとんど人通りがなかったので、まあ良いか――とエリザは結論づけた。

 そう言えば。

 ふとエリザは、ユーウェンがここにいる必然性の低さに気がついた。この辺りは拠点のシェルターからも遠いし、ビジネスに使われるようなオフィスもない。どうして、ルーカスとエリザがいる店に、彼までやってくるなんて奇跡が起きたのだろう。

「あの……ユーウェンさんは」

 革のジャケットに頬をくっつけたまま、問いかける。

「あのお店、前から知ってたんですか?」
「え? いや、ううん。ただ、偶然が重なって、あそこに辿りついてね」
「偶然?」

 エリザが薄目を開いて問い返すと「そう」と彼は頷いた。

「まず……メトロに乗ったら手持ちが足りなくて、途中で降りたんだ。そうしたら、ダイヤが乱れてて。次の便までずいぶん時間が空いてるものだから、その辺りで食事を食べようと思って。ただ、地下通路が工事中で、細い道を回り込まないといけなくてね……こう、右往左往しながら歩いてたら、偶然あの店の看板を見つけて……そこに入ってみたら、偶然、君が」
「ぐうぜん……?」

 エリザが訝しげに尋ねると「いや」とユーウェンは慌てたように背筋を伸ばした。横目でこちらを見て、早口で言葉を並べ立て始める。

「違う――これは本当に、天文学的な偶然なんだ。信じて。間違っても君のあとを付けたとかじゃなくて。これ、とんでもない汚名になっちゃうよ、参ったなぁ」
「……ふふ」
「エリザ……?」
「ふふっ、あはは……!」

 ユーウェンの肩に抱きついたまま、たまらなくなってエリザは笑い出す。彼が、とつぜん笑い出したエリザを見て戸惑っているのが分かるが、一度あふれ出した笑いは簡単には堪えられなかった。

 濁った視界を洗い流すように。

 喉の詰まりを吐き出すように。

 エリザは散々笑ってから、はあぁ、と深く息を吐いた。涙がにじんだ目尻をブラウスの裾で拭って、肩で息をする。

「あはは、あぁ面白……もう、汚名って、何ですかっ」
「そりゃ、君みたいに年端もいかない子供をストーキングするなんて、全世界から後ろ指を指されるもの、いや、大人相手でもダメだけどさ……!」
「ぜ、全世界って、大袈裟……!」
「えっ、どうしてそこで笑うかなぁ……」

 困ったように首を傾げながら、よっ――という掛け声とともに、ユーウェンはエリザのずり落ちた身体を背負い直した。彼の広い背中の上で、エリザの身体が小さく跳ねて、また受け止められる。

「……大袈裟なんてことはないよ」

 ひとつ溜息を吐いて、ユーウェンが前を向く。

「こんな時代だから、尚更、子供のことを考えないといけないはずだ。それは、僕たちの夢とも、決して無関係ではないのだし……」
「……夢」
「そうだよ。僕やニコライ先生や、プロジェクトメンバー、みんなの夢だ」

 ユーウェンは口元を持ち上げて、上を見上げた。

 その視線の先は、配線が張りめぐらされた天井で覆われている。

 地上が灰色の雪で閉ざされてから、あらゆる都市はその基盤を地下に移し始めた。ここ数年でその作業は飛躍的に進み、今となっては地上に取り残されているものの方が少数派となっている。

 世界規模で、人々は地下に向かっている。

 だが、そのさらに先を見据えているのが、ハイバネイト・プロジェクトだ。

「いつか、この寒冷化が終わったとき。僕らは土の下を抜け出して、ふたたび太陽の下に、新しい都市を造る。遺伝子バンクから子供を作り、家畜を作り、農作物を作って、かつての地球と遜色ない世界を作るんだ」
「いでんし……」
「えっと、知らないかな。君って、学校は行っていたの?」
「行ってません」

 エリザは首を振る。

 育ての親のもとを離れたのが六歳のときで、それからずっとハイバネイト・プロジェクトのメンバーと一緒に育った。読み書きの素養はプロジェクトリーダーのニコライに、家事はアマンダに、公の場での立ち振る舞いはサティに教えられたが、学校に通うことはついにないままだった。

「ユーウェンさんは……学校の、先生だったんですよね」
「そうだね。とはいっても、大学教員だけど」
「なにか違うんですか?」
「うーん……そうだね。どう言ったらいいのかな」

 ユーウェンはしばらく考えてから、うん、と小さく頷く。

「新しいものを創るのが、仕事なんだ」
「新しい……ですか」

 エリザは呟く。

 ジャケットの襟の向こう、横から見る瞳は、きらきらと輝いていた。

「まだ、誰も見たことがないものをね……作るんだ。僕はそういうことがしたくて、生きている。ニコライ先生の誘いに乗って、大学を辞めてきたのも、ここならきっと、もっと新しいことができると思ったからなんだ」
「ハイバネイト・プロジェクトのこと、ですか」
「そうだよ。素晴らしく革新的な試みだと思わない?」
「えっと、あんまり、よく知らなくて……」

 エリザの言葉に「そうか」とユーウェンが平坦な相槌を打つ。怒っている様子でも、咎める様子でもない、ごく淡々とした水のような相槌だった。それが目新しくて、エリザは少しだけまぶたを持ち上げる。

 この人は、エリザよりずっと賢い。

 足下に積み上げてきた教養の数が違いすぎて、多分、見えている世界が違う。だけど、それを誇ったり振りかざしたりしない、ニュートラルな優しさで背負ってくれる。その雰囲気に引き込まれて、エリザは生意気かなと思いながら「でも」と尋ねてみた。

「いま、ある世界を作り直すのが、新しいことなんですか?」

 ユーウェンが言ったことを素直に解釈すると、そういうことになる。かつて人々が太陽の下で暮らせていた、当時の世界をふたたび構築する――それは凄いことだけど、創造的な試みとは少し違うような気がした。

「それって」

 おそるおそる言ってみる。

「レプリカと同じなんじゃぁ……」
「手厳しいな」

 ユーウェンが苦笑する。

 彼が笑うと、目尻に何本かしわが寄った。彼はエリザの言葉に「たしかにそうだ」と頷いてみせてから「でもね」とこちらを横目で見る。

「地下の限られた領域で生活を全て完結させること、それ自体は革新的と言って良い。それに僕らは、今の地球と全く同じものを作ろうとしているんじゃないよ。新世界にはひとつ、今の世界と決定的に違うものがある。何か、分かるかな?」
「えっと……分かりません」
「人が、人を産まないんだ」

 首を振ったエリザに、ユーウェンはすぐ答えを教えてくれた。

「新しい命の創生を、遺伝子バンクを使ってオートメーション化して、女性の身体的負荷を軽減する。子供の教育も人間のカップルに託すのではなく、社会全体で面倒を見る。つまり社会全体が、ひとりの子供の親になるんだ」
「それって……善いこと、なんですか」
「うーん、善し悪しだね」

 ふふ、と彼は息を吐き出して笑った。

「大概のことは、善か悪かを一律に決められるようなものじゃない。ただ僕らは、いったん滅びた世界を再建するためには、この方式が最良だと思っていて。後世の人間が、僕らの志をどう判断するかは分からないけど……」
「けど……?」
「僕らは、自分が正しいと思ったことを、やっていくしかないから」

 まっすぐなまなざしで、ユーウェンは前を見据えている。

 その横顔と、短いまっすぐな睫毛を見つめながら、エリザは口を噤んだ。

 正しいと思うことをやっていくしかない――その通りだ。こんなに賢い人がそう言っているのだし、エリザ自身も同様の感覚を持っている。だけど、じゃあハイバネイト・プロジェクトの人たちが、エリザの身体を弄んで欲望を発散するのや、十歳以上も年下の子供を口説こうとするのは――正しいと思って、やっていることなのだろうか。

「ユーウェンさん」
「うん」
「正しいって、何ですか?」

 エリザは問いかける。

 ユーウェンはしばらく考えて、なおも首を捻りながら「僕の意見としては」と言った。

「苦しさの合計が、できるだけ小さくなること……かな」
「そう――ですか」

 エリザは頷いて、彼の肩で目を閉じた。

 ――ユーウェンさん。
 ――貴方は、私の苦しさを知らない。

 そんな言葉が、エリザの胸のなかでだけ渦巻いた。ユーウェンは知らない。サティに組み敷かれて身体を押し開けられていることも、ルーカスに無理やり迫られたことも、他のプロジェクトメンバーが、そんなエリザの現状に気がつこうともしないことも。

 苦しさの()()が小さくなる、というのなら。

 誰かひとりに苦しみを押し付けてしまう形でも「正しさ」は成立するのだろうか。

 そんなことを考えながらエリザがユーウェンの背中で揺られていると、不意にユーウェンが立ち止まって「いや」と呟いた。

「今のはぜんぜん違うな。それは先進的どころか、時代に逆行した考えだ」
「……え」

 エリザは目を開ける。

「ちがうんですか?」
「だって、それじゃあ、誰かひとりが全部の苦しみを背負う形でも、全人類が平等に背負う形でも、同じになるじゃないか。そういう不均衡をなくすのが、ハイバネイト・プロジェクトのひとつの理念なのに……ニコライ先生に聞かれてたら、叱られるな、今のは」
「あの……」

 つらつらと並べられる言葉が難しくて、エリザはぎゅっと指を握る。だが、思索に深く入り込んでしまったのか、ユーウェンは今度は答えなかった。斜め下くらいを見つめた瞳が何度も瞬きをして、何か、見えないものを探しているようだった。

 彼の横顔を見る。

 遠くを見つめている、褐色のまなざし。

 エリザの、何色とも言いがたい色合いの瞳とはまったく違う、すこし焦げたカラメルのような色。人目を惹きつけるような派手さはないけれど、まっすぐ前を見据えている、揺らぎのない実直な色。

「……きれい」

 ぽつりと呟くと、ユーウェンが不思議そうに振り返って「なにが?」と聞いてくる。何でもないです、と小さく首を振ってみせると、褐色の瞳が少しだけ揺れた。その虹彩に捕らえられている光も、ふわりと優しく揺れる。

 ああ、綺麗だ、と思った。

 一回りも年上の男性に言うようなことではないけれど、それでもそのとき、エリザはたしかに、ユーウェンのことを綺麗だと思った。瞳の色だとか顔立ちだとか、そういう局所的な話ではなく。ひと言で言うなら「歪んでいない」と思ったのだ。

「あのさ……」

 前を見たまま、ユーウェンが口を開く。

「さっきのより、もっと曖昧な話になるけど」
「はい」
「正しいというのは、みんなが……幸せになること、かなって」
「……ふふ」
「これも、別に冗談じゃないんだけどなぁ……難しいな、君は」

 難しい――というネガティブな言葉とは裏腹に、ユーウェンは唇のはしを持ち上げていた。エリザはそれを一瞬だけ不思議に思ってから、もしかしたら「難しい」というのは、この人にとっては嬉しいことなのかもしれない――などと考える。まだどこにもない新しいものを創るというのは、きっとすごく難しくて複雑なことで。だけど、この人は目をきらきらさせて、その難題に取り組んでいる。

 ――じゃあ。

 不思議な温度が、エリザの胸のなかに灯った。

 そんな彼に「君は難しいね」と言われたのは、褒め言葉なんじゃないだろうか。

 気がついた瞬間に顔が熱くなって、エリザは思わず両手を握りしめる。どうしてか分からないけど、ユーウェンに「君」と呼ばれたこととか、困ったような笑顔とか、膝を抱えている大きな手のひらとか――そういうものが頭のなかでぐるぐるっと渦を巻いて、ぜんぶが、微熱のような暖かさに変わっていった。

「君は……」

 ユーウェンが問う。

「たとえばどんなときに、幸せだと思うのかな」
「幸せ……」

 ぼんやりと繰り返す。

 柔らかく溶けた思考に、幸せ、という言葉がじわりと染みていく。幸せというものが何なのか、エリザは学んだことがなかった。言葉としては知っているけど「これが幸せというものですよ」とは、誰も教えてくれなかったのだ。

 だけど、たとえば――何日か前に見た、あの夢は、すごく幸せな景色に見えた。青空の広がる下に街があって、ちょっと埃っぽい図書館があって。ステンドグラスの光に導かれるように階段を上っていくと、そこに二人の先客がいて。エリザに微笑みかけてくれて、白い皿の上に乗っかっている、丸っこいお菓子を勧めてくれて。

 あのお菓子の名前は――

「……マカロン」
「え?」

 ユーウェンが振り返る。

 あの優しい味を思い出しながら、エリザはぎゅっと指を握った。

「マカロン、美味しかったです。カシスと、シトロンと、プラリネ……」
「え、うん、そっか……なら、良かった。気に入ってくれたなら、また今度、街に出たときに買ってこようか」
「いえ……それは、良いです」

 エリザは首を振る。

 ユーウェンが一瞬不思議そうな顔をしてから「もし欲しくなったら教えて」と言って、白い歯を見せて笑った。遠慮してみせたせいで、もしかしたら社交辞令のように受け取られたかもしれない。

 社交辞令ではない。

 マカロンは間違いなく美味しかった。

 たった一口の中に味が詰まっていて、エリザに「幸せ」をくれた。

 だけど……だから、色とりどりの幸せを知りすぎてしまうのは、怖いから。分不相応な憧れを持ってしまうのは怖いから、エリザは「幸せ」を知らない振りをする。
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登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

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