chapitre137. 風に消えて
文字数 6,438文字
膝下が濡れたボトムの生地を引っ張って、フルルがぼやく。本当ですね、とレゾンが相槌を打ったのと重なるように、壁ぎわを冷たい風が通り抜けて、三人は思わず首元を縮めた。
「早く中に入ろう」
リヤンは水道の栓を締めながら、服が濡れているふたりに、先に室内に向かうよう促した。
濡れた手を拭いていて、リヤンはふと違和感に気がつく。周囲をぐるりと見渡して、やっぱり――と頷いた。
「……かごがない」
洗濯物を屋上に持って行くための、蔓を編み上げたかご。リヤンが屋上に持って行って、ティアが戻しておくと言ってくれたはずの洗濯かごが、手洗い場のどこにも見当たらなかった。
「洗い場の場所が分からなかった、とか……?」
凍えた手を擦り合わせながら、通用口をくぐり抜ける。通路を曲がったところの休憩室で、先に屋内に入っていた仲間たちを見つけた。ふたりはストーブを囲むように座って、濡れた服を乾かそうとしている。リヤンはそこに歩み寄り、あのさ、と声を掛けた。
「ふたりとも、ティア君見た?」
「え? 見てない」
「どんな人ですか?」
「えっと、このくらいの背丈で――」
自分の視線の高さに手をかざして、リヤンは言う。
「ふわふわの髪の毛の、10歳くらいの男の子。腕に包帯をしてる」
「……見てないですね」
あごに手を当てて、レゾンが首を捻る。
「何かあったんですか?」
「ううん、大したことじゃないんだけどね」
そうは言いつつも気にかかって、リヤンは休憩室を出て、屋上まで戻ってみる。外階段を昇っていくと、階段の折り返しにある踊り場に、横倒しの洗濯かごが落ちているのが見えた。拾い上げると、僅かに水気が残っている。間違いなく、さっきリヤンたちが洗濯物を干すときに使ったものだった。
『かごなら、僕、戻しておきますよ』
そう言って彼が持ち上げたはずの洗濯かごが、コンクリートの上で転がっていた。
「ティア君……?」
呼びかける声には誰も応えない。
洗濯物のはためく屋上、風の通り抜ける外階段、彼の使っていたはずの寝室を順番に巡る。そのどこにも、彼はいなかった。血相を変えて休憩室に飛び込んだリヤンを、仲間たちがぎょっとした顔で見つめ返した。
*
ひとつ階段を登った先にある会議室は、賑やか――というよりは騒々しく、誰も彼もがせわしなく動き回っていた。
「あのぅ――ティア君がいないんです」
構成員を捕まえて話しかけては、忙しいからと断られ、リヤンたちがようやくそれを伝えられたのは10分後だった。
「部屋にも、どこにもいなくって」
「ああ……あの別棟の子か」
MDP構成員の男性は、言葉の合間に水筒の中身を飲み干して、申し訳なさそうに眉を寄せる。
「それは気がかりだね」
「えっ――あ、あの」
素っ気ない言い方に、思わず当惑する。
「ティア君、まだ、怪我してるんですよ。どこかで動けなくなってるのかも……探さないと」
「いや……悪いけど、それは君たちだけで探してくれないかな」
前に踏み出したリヤンとは対照的に、MDP構成員の男は一歩後ろに下がった。なおも食い下がろうとしたリヤンの肩に、後ろから手が置かれた。
「ちょっと変わって」
小声で言いながら、フルルが横から顔を出す。
「あの、ずいぶん忙しそうですが……何かありましたか」
「ん? ああ――君って」
フルルの顔をちらりと見て、明らかに迷惑そうな雰囲気を出していた彼の表情が少し変化する。
「もしや、アルシュさんと一緒にいた子って」
「あ――はい」
MDPの総責任者である女性、アルシュがまだ地上にいた頃、フルルは彼女の身辺の世話を務めていた。
「私ですが……何か?」
「いや、そうか……」
彼は首の後ろに手をやって、困ったように視線を逸らした。
「ええと、だね――君には話すべきかもしれないな」
「――え?」
「部屋に入ってくれるかな」
そう言って彼は、半ば強引にフルルを会議室に入れさせた。目の前で扉が閉められ、暖房の効いた空気ごと切り離される。途方に暮れて立ち尽くすと、外で待っていたレゾンと目が合って、彼は言葉の代わりに首を捻ってみせた。
「なんで忙しいのか、俺たちには話す気がないんですね」
「うん――なんでだろう」
ヴォルシスキー支部に滞在している構成員たちは、いつもリヤンに好意的に接してくれていた。それだけに、どこか違う雰囲気に、胸の中がざわつく。溜息とともに通路の壁に寄りかかったレゾンが、あ――と小さく声を上げる。
「もしかして、人手が足りなくなるかもしれない……という話と関係してるんでしょうか。実は今朝も、なんだか追い出されるような感じで、支部を出てきたんですよ」
「えっ、そうなの?」
「はい」
彼はあごに指先を当てて、唇を尖らせた。
「そちらの事情も、曖昧に濁されたままです」
「なにか……隠されてるってこと?」
「可能性はあると思います。まあ――それなら仕方ないので、俺たちだけでも、ティアさんを探しに行きましょうか」
「え? 待ってよ」
背中を向けようとしたレゾンを、リヤンは慌てて引き止めた。
「あたしたちだけ、知らないままなんておかしい。スーチェンでもこっちでも、同じことのせいでいつもと違うなら、それだけ
「いや――でも、本当に隠されてるとしたら、それはなにか考えがあってのことですよ。言わない方が都合が良いことだってあるんでしょう。それこそ……ハイデラバードで、貴女が危ない目に遭ったように」
「それは――」
「……違いますか」
非難のニュアンスを僅かに含む声で問いただされて、リヤンは視線を逸らした。
「レゾン君の言うとおりかもだけど……考えって、たとえば?」
「まあ……俺たちが子どもだから、とか」
「やっぱ聞く」
むっと頬を膨らませて、リヤンは会議室の前に戻った。ちょっと、と言いながら後ろを足音が追いかけてくる。
「駄目ですってば――ってか、話してくれないでしょう」
「分かってる。ここで
壁ぎわに立って、リヤンは人差し指の前に指を立てた。平均よりは多少、聴覚に優れていると自負している。薄っぺらい壁の向こうで交わされる会話くらいなら、耳を澄ませば聞き取れないこともない。
「……俺、知りませんからね」
目を細めて渋い表情になりつつも、レゾンが口を閉ざす。
リヤンはまぶたを閉じて、耳から入ってくる情報に集中した。昼下がりの通路には、余分なノイズが溢れている。自分の息遣いや心臓の音、レゾンの靴が床を擦った音、通り抜ける風が建物を揺らす音、遠い場所で揺れる木の葉の音――そういうものをひとつひとつ遮断して、聞きたい音だけに焦点を絞っていく。
意味を成さない音の重なり合いのなかに、見つけた言葉だけを抽出した。
「――実は」
男性の少し籠もった声。
「アルシュさんが――」
続く言葉を聞き取って、リヤンは閉じていた目を大きく見開いた。腕を組んでいたレゾンが、ぎょっと眉をひそめてこちらを見る。どうかしましたか、と問いかける声に答えようとするのに、喉の使い方を忘れてしまったように言葉が出てこない。
その代わりに身体を半回転させて、ドアノブを掴んで捻る。
いきなり部屋に入ったリヤンに、四方八方から視線が突き刺さった。レゾンの引き止める声が追いかけてくるのも構わず、ずかずかと会議室を横切って、こちらに背を向けたまま立ち尽くしているフルルの肩に手を伸ばした。
「……リヤン」
表情の凍りついた顔がこちらを見る。
そんな彼女の横からぐいと顔を出して、フルルと会話していたらしいMDP構成員を見上げた。
「ごめんなさい、
いつの間にこんな嘘を吐けるようになったのだろう――と自問しながらも、自分の中にある勢いが萎んでしまわないように、リヤンは強い口調で問いかけた。
「本当ですか。今の。アルシュさんが、別のラピスから来た人に捕まったって」
「ああ――そうだよ」
不承不承といった様子で、フルルと話していた彼は頷いた。後ろを追いかけてきたレゾンにも視線をやって、ひとつ溜息をつく。
「君にも聞かれてしまったね」
「あ――すみません」
「いや、仕方ない。隠そうとして悪かったね、座って話そうか」
MDP構成員の彼は、鼻の付け根を擦りながら、薄いついたてに囲まれたスペースを指さす。血の気の失せた表情のまま動かないフルルの背中を押して、苦い表情をしているレゾンと共に、リヤンは彼が示した席に向かった。
「まず、君たちは、フィラデルフィア語圏――という言い方は分かるかな」
「えっと……あまり良く分かってないです。教えてください」
「ラ・ロシェルではなく、フィラデルフィアがラピスの中央都市に据えられていた並行世界を指す表現だ。融合した七つのラピスを区分するのに有用だから、暫定的にこう呼ばれている」
「じゃあ、
「そうだね」
水を注いだコップを両手で包み込んで、リヤンは言葉をひとつひとつ、頭の中でかみ砕いていく。自分よりも賢い仲間たちは、とっくに理解している様子でありつつも、リヤンが考え終わるのをじっと待ってくれていた。知識と知識が線で結べたのを確認してから、リヤンはひとつ頷いて視線を上げた。
「分かりました。それで、フィラデルフィア語圏がどうしたんですか」
「うん、ハイバネイト・シティ、ああ……これは地下の居住区域のことだが、そこの包括的なコントロール権限を要求してきた。その盾に、マダム・アルシュともうひとり、捕らえられている」
「盾にって」
「もう仕方ないから直接的に言うが、つまりだ。仲間を殺されたくないなら権限を譲渡しろと――そういう要求だよ」
「それって人質……ですか」
強ばってうまく動かない唇で問いかけると、彼は重々しく頷いてみせた。隣に座っているフルルが、ぎゅっと拳を握りしめたのが見える。
「あの――」
そんな彼女の手に自分の手を重ねて、リヤンは意を決して顔を上げた。
「あたしたちには、話さないようにしてましたよね。どうしてですか。アルシュさんが危険な目に遭ってるからでしょうか」
「……いや」
リヤンの手を両手で包むように握って、フルルが小刻みに首を振った。斜め向かいに座ったレゾンも、静かに頷いてみせる。
「違います……よね。それなら俺たちをここまで避ける道理はない」
「――そうだね」
「え、じゃあ……?」
手のひらを握りしめる熱を感じながら、リヤンはテーブルを囲む面々を見回す。睫毛の向こうに涙を浮かべたフルルが、ちらりとこちらを見た。その眼差しが、見たこともないほど深い悲しみに染まっていて、心臓が冷たく跳ねる。
「……MDPは権限を譲るつもりはないんだよ、リヤン」
「えっ、だってそれじゃあ、アルシュさんが――」
それに続く言葉は恐ろしくて、口に出せなかった。冗談だよ――と誰かが笑ってくれるのを祈って、リヤンはしばらく口元を抑えていたが、ついに誰も言葉を発さないまま、息が苦しくなってしまった。
大きく息を吸って吐く。
「だって……アルシュさんは、MDPのいちばん上なんでしょう。助けない選択肢、あるんですか」
「いえ――それが」
レゾンが静かに首を振って、こちらに視線を向けた。
「マダム・アルシュが仮にご不在でも、
「でも――!」
フルルやレゾンや、会議室に散っている構成員たちの表情を見れば、彼らがそれを望んでいないことは明白だった。思わず腰を浮かせて立ち上がると、一連の話をしてくれた構成員は「もちろん」とこちらを見上げた。
「私たちだって最善は尽くすよ。権限を渡さないまま、どうにかマダム・アルシュたちを解放できないか、そのためにね――だが」
彼は俯きながら、深く息を吐いた。
「必ずしも最優先事項ではない、ということだ――そう聞けば、きっと君たちは、反発したくなるだろうと思ってね。だが、話させたからには、君たちにも心構えをしておいて欲しい」
*
氷の塊を飲み込んでしまったように、胸がざらついて痛む。その冷たさをごまかすように、冬の空気を吸って吐きながら、リヤンは支部の建物を駆け足でぐるりと回った。渡り廊下の落とす影を走り抜けて、別棟の角を曲がったところでレゾンと出会う。
「どうだった?」
「――いえ」
彼が苦い表情とともに眉をひそめるのと前後して、二階の窓が開いた音がする。中からフルルが顔を出して「こっちもいない」と首を振った。リヤンが溜息をついて俯くと、耳にかけた髪の毛がひと束垂れて、吹き付ける風のなかではためいた。
ティアの不在に構っている余裕がないMDP構成員の面々に代わって、彼を探しているのだが、支部を隅から隅まで見回っても、彼の小さい背中は見つけられなかった。
「……おかしいですよね」
日光の暖める、本棟の入り口脇まで戻って一息ついていると、レゾンがぽつりと呟いた。
「ティアさんはたしか、怪我をしてるんですよね? そんなにすぐ、遠くに行けると思えないんですが」
「――そうだよね」
「でも、思い当たるところは、もう全部見た」
まだ少し目を腫らしているフルルが、顔を伏せたまま言う。リヤンも頷いて、屋上で屈託なく笑っていたティアの表情を思い出す。つい先刻まで、手が届く場所にいたはずなのに。まるで空気に溶けたかのように、彼は忽然と消えてしまった。
「あ――まさか」
恐ろしい仮説に思い至り、背筋が氷を差し込まれたように冷たくなる。
「誰かに、連れて行かれた……?」
「うん……正直それも考えた」
フルルが顔を上げて、でも、と語気を強める。
「誰がどんな理由があって、そんなことをするのか分からないし――洗濯かごが落ちてた、外階段の辺りで連れ去られたとしたら、声のひとつくらい聞こえたと思うんだよね。リヤンは耳が良いし」
「俺たち、そのとき、ちょうど裏の水場にいましたもんね」
「そう。だからやっぱりティア君は、自分の意志でどこかに行ったんだと思う」
フルルの説明に納得して、リヤンはひとまず安堵し、口元を引いた。
でも、その
ティアはあの年齢だが、おそらくリヤン以上に礼儀と冷静さをわきまえている少年だ。リヤンや、世話になったMDP構成員たちに何も告げず、怪我をした不自由な身体をかえりみることもなく、どこかに消えたのは――やっぱり、ただ事とは思えない。
リヤンは目を細めて、ティアの取りそうな行動を想像してみようとしたが、頭の中で思い描いた像はひどくぼやけている。彼が一歩を踏み出した瞬間に、その足取りは霧のなかに消えてしまった。
「……分かんないなぁ」
髪をかき上げながら、重たい空気を晴らしたくて、リヤンはわざと明るい口調で言う。ずっと沈み込んだ顔をしていたフルルは僅かに微笑んでくれたが、あごに手を当てていたレゾンは真剣な表情のまま顔を上げた。
「あの、ひとつ聞きたいんですけど」
「うん」
「ティアさん……ってもしかして、例の、2年前にフィラデルフィア語圏から来た子ですか。名前の響きがそれらしいような」
「あ――えっと、そうだよ」
リヤンが肯定するのと前後して、フルルも静かに頷いた。
雲が流れて日光が薄れ、冷え込んだ気温のなかでも暖かかった陽だまりが、日陰と同化する。開けていた襟元に冷たい空気が入り込んで、リヤンは身体を縮めながら首だけを持ち上げた。
「それが、どうしたの?」
「もしかしてなんですけど……ティアさんが、さっきの話を、偶然聞いてしまって――故郷の人たちに会いに行った可能性は、ありませんか」
「故郷の?」
「――つまり」
後頭部で括った髪を風にあおられながら、レゾンがこちらに向き直った。
「これだけ探しても見つからないのは、ティアさんが、地下に向かったからではないでしょうか」