chapitre79. 砂の降る空
文字数 10,109文字
「
ロンガが切り出すと、フルルが頷いた。彼女もMDPの構成員であるから、昼間のうちに先んじて話を聞いていたのだろう。
「フルルも地下に行くのか?」
「私は――まだ迷ってるんです。すみません」
ラ・ロシェルに住めなくなるという非常時において、地上に残るか地下に向かうかというのは、簡単に決められる問題ではない。だから、謝るようなことではないのに、フルルは申し訳なさそうな顔をして頭を下げた。
「MDP構成員として、地下と引き続き関わっていたい気持ちはもちろんあります。でも、私……その、“ハイバネイターズ”を実際に前にしたとき、冷静でいられるか分からないんです」
フルルは胸元で手をぎゅっと握りしめた。
「私が感情のままに突っ走ってしまうことは……きっと、マダム・アルシュも望まれないと思うので」
「無理をしてまで地下に来る必要はないと思う。距離を置くのもひとつの選択だ」
「ええ……情けないんですけどね」
フルルは眉を歪めたまま笑って、手の甲で目元を拭った。彼女は自分の隣に座っているリヤンに視線を移して「リヤンは?」と問いかける。
「昼間に聞いたときは、まだ迷ってるっていってたけど」
「うん。でもあたしは、やっぱり、地上に残りたいなって思った」
「何かきっかけがあったのか」
「そう聞かれると難しいけど、そうだなぁ――地下に行くよりは地上に残った方が、みんなの役に立てるかなって思ったの。きっとどこも人手不足だから」
「そうだね。例えばMDPの支部だったら、どこに行っても役に立てると思う」
「うん」
リヤンが微笑む。
年下の子供だと思っていたのに、いつの間にかはっきりと自分の意見を言うようになった。リヤンが先日、毎日少しずつ大人になっていくんだ、と言っていたのを思い出す。その言葉通り、立ち止まらずにどんどん成長していくリヤンが頼もしくもあり、少し寂しくもあった。
その彼女がこちらに振り向いて、「ロンガは――」と問いかける。
「もう、どうするか決めたの?」
「私は……地下に行こうと思う。アルシュを助けたいし、ティアやカノンのことも、手伝えるなら手伝いたい」
地下で“ハイバネイターズ”に混ざって行動しているらしい、知人たちの顔を思い浮かべながら言う。彼らの助けになりたいのは本当だが、ロンガにはもう一つ、地下に向かうべき理由があった。
「それに――気になるんだ。地下世界というのはどんな世界なのか、“ハイバネイターズ”というのはどんな人たちなのか、叶うならこの目で見たいと思うようになった」
ロンガがそう言うと、フルルとリヤンは少し驚いた顔で目を見合わせた。ややあって、フルルが「分かりました」と小さく頷く。
「やはり、マダム・ロンガは開発部の人ですね」
「えっ、どういう意味だ?」
「好奇心が原動力になっているということです――悪い意味ではないですよ? ただ、統一機関にいた頃からずっと、開発部の人間はどこか違う気質だなぁと思っていたんです」
軍部の出身であるフルルは、今はない統一機関を懐かしむような表情になった。
ロンガも一瞬だけ、当時の暮らしを思い出した。自由がなく、真実も隠されていたが、物質的には満たされていたあの時期。子供が大人に逆らうように、自分を縛り付ける世界に反発していた頃。ロンガは友人と共に、狭い世界のさらに内側に閉じ込められて、大きな犠牲を払ってその場所を飛び出した。
その後――まさか本当に、あの世界が壊れてしまうなんて思わなかった。
どちらが良いとか悪いという話ではない。それに遅かれ早かれ、今のような事態にはなっていたように思う。積み上げた過去を否定するつもりなどなくて、ただ単に――ずいぶん遠い場所まで来たものだ、と改めて思ったのだ。
*
翌朝、外套の上にリュックサックを背負って、フルルとリヤンはラ・ロシェルを旅立った。
地上に残ると決めた2人は、ひとまずフルルの故郷であるスーチェンに向かうと決めたようだ。ロンガは途中まで一緒に向かい、街の外に向かう分かれ道まで辿りつくと、じゃあ、と片手を差し出した。
「リヤン、元気でな。フルル、本当に世話になった。ありがとう」
「こちらこそ――」
指しだした手を、フルルが握ってくれる。小さいけれど厚みのある手のひらが、しっかりと握り返した。
「どうか、マダム・アルシュを頼みます」
「約束するよ」
「ホントに――地下に行っちゃうんだね、ロンガ」
リヤンは目を赤くしていたが、それでも笑顔でロンガの手を握った。暖かくて柔らかい、彼女の性格をそのまま表したような手のひらが、ロンガの手を包み込む。
「2年間ありがとう。リヤン」
「その言い方、
「そうか? また会えると思ってるんだけど」
「あたしだってそう願ってるよ。それで、いつかまた宿舎のみんなで……一緒に夕ご飯を食べよう」
「うん。約束だ」
ロンガが頷くと、リヤンは花が咲いたように笑った。
遠ざかる彼女らの背中が見えなくなるまで見送ってから、ロンガは一粒だけ流れた涙を拭って、コラル・ルミエールの教堂に向かった。アックスは自分が説得すると言っていたし、リジェラも協力してくれているだろうが、やはり心配だったのだ。
教堂の扉を押し開けると、いつもよりもずっと多くの団員がそこにいた。すでに支度を終えたコラル・ルミエールの団員たちに混ざって、アックスが忙しそうに動き回っていた。荷造りをしていたリジェラと目が合ったので、彼女のもとに向かう。
隣に膝をついて、小声で話しかけた。
「ルージュたちはどうしていますか」
「アックスが説得してくれて、ルージュは何とか納得してくれた。でもロマンは、まだ。他にも何人か、出て行きたくないって言ってる子がいて、奥の居住区にいるわ」
「……困りましたね」
「好きな場所を大切にしたい、っていう気持ちは分かるのよ」
リジェラは俯いたまま言った。グリーンの瞳に、長い睫毛の影が落ちる。
「積み上げたものを壊したくない気持ちも」
「でも――だからって、ここに残るわけにいかないのに」
「それはきっと、ロマンたちも分かってるよ。分かってるけど、心が言うことを聞いてくれないんだと思う。だから今、一番苦しいのはあの子たちなの」
「……私に何かできることは?」
ロンガが躊躇いながらも聞くと、リジェラは微笑んで首を振った。
「その心遣いは嬉しいけど、ごめんね、ないよ。あったら、私たちがとっくにやってるもの」
「――そうですね」
小さく肩を落とすと、そんな顔しないで、と言ってリジェラは明るく笑う。それから膝をついて立ち上がり、奥のほうに視線をやった。
「もし時間があるなら、他の子を手伝ってくれると嬉しいな。私は平気だから」
「あ、ええ。お手伝いしましょう」
言われたとおり奥に向かうと、大量の楽譜を抱えたルージュと出会って、あ、と彼女は小さく声を上げた。今にも腕から滑り落ちそうになっている楽譜のいくつかを、ロンガは変わりに持った。
「ありがとうございます、お姉さん」
「いえ。でも、これ全部持って行くつもりなんですね」
「はい」
ルージュは頷いて、大型のリュックサックに端から楽譜を詰め込んだ。ロンガも言われるまま手伝う。大きさも厚みも様々で、上手く詰めるには少し苦労した。ようやくひとつのリュックサックを満杯にすると、予想以上に重たかった。小柄なルージュがこれを背負って歩けるのか、少し不安になる。
「少し量を減らした方が良いような」
「ちょっとくらいの無理ならします。持って行きたいんです」
「そこまでですか……」
ロンガが改めて教堂を見回すと、団員たちが荷物に詰めているのはほとんどが楽譜だった。そうか、と思い至る。コラル・ルミエールの団員にとっての楽譜とは、そこから音楽が生まれる源泉なのだ。音楽を何よりも愛し、己の指針とする彼らにとっては、楽譜とは食料や水よりずっと大切なものなのだろう。かつて図書館を愛し、本の世界をよりどころとしたロンガにも、その感覚は少しだが理解できた。
本も楽譜も、ただの紙束ではない。
そこにあるのは先人の叡知であり、歴史の集積なのだ。
「分かりました。私も持ちましょう」
ロンガは膝をついて、自分のリュックサックを開けた。ルージュがきょとんとした顔になって目を見開く。
「良いんですか?」
「はい」
「……お姉さんには理解してもらえないと思ってました」
ルージュが歯に衣着せない口調で言って、いくつかの楽譜を自分の荷物から抜き取り、こちらに寄越した。ロンガは苦笑しながらそれを受け取り、リュックサックの余白に詰めた。
「私に音楽のことは分からないけど――この楽譜の、1ページを書くだけでも、きっと途方もない労力が掛かっているんだと思うんです。それに敬意を払う気持ちなら、私にもあります」
「そうですか」
「ええ」
「……ありがとうございます」
「はい」
ルージュは俯いたまま、小声でぼそりと礼を言う。ロンガが頷き返そうとした、その瞬間、彼女の顔色が変わった。楽譜をバサバサと取り落としながら立ち上がる。
数秒経って、ロンガも気がついた。
外でサイレンが鳴っている。
ロンガは団員たちと共に外に飛び出し、周囲を見回す。その十数秒後、不吉な音が空から聞こえた。
「……嘘でしょう」
アックスが空を見上げて、呆然とした顔で呟いた。
「早すぎる。夕刻のはずでしょう? どうして」
そこには。
“ハイバネイターズ”に奪われたはずの、数十機の
*
慌ててロンガは教堂のなかに引き返した。
尋常でない様子を感じ取ったのだろう、ルージュがこちらに走ってくる。
「どうしたんですか?」
「あの航空機が見えますか。あれは
「え。ええと……つまり」
「今すぐ、逃げます」
ロンガは他の団員にも聞こえるよう、声を張って言った。ざわめきが大きくなり、何人かが慌ただしく外套を羽織って立ち上がる。そう言っている間にもサイレンの音は大きくなり、その音に混じって、危険を通告するMDPの放送が聞こえ始めた。慌てて放送を開始したのだろう、音声が割れている。
一刻の猶予もないようだった。
まだ混乱している表情の団員たちに向けて、ロンガは無理やり落ち着かせた声で呼びかける。
「MDPの本部に、向かってください」
「場所は」
「誰も知らないんですか」
彼らが顔を見合わせると、まだラピスの言語をほとんど理解できないリジェラが袖を引いて、何て言ったの、と尋ねてきた。
『MDPの本部に向かって欲しいんですが、場所が分からないと』
『それなら……私が知ってる』
リジェラが立ち上がり、まだ慣れていない発音で「ついてきて」と叫んだ。状況が読めないらしい団員が顔を見合わせる。コラル・ルミエールの団員でも、アックスのようにリジェラの言葉を理解できるのはまだ少数のようだった。
「彼女がMDPの本部を知っています。ついて行ってください」
ロンガが補足の意を込めて言うと、彼らは戸惑った様子ながらも頷き、駆け出したリジェラの後を追って教堂を出て行った。リュックサックに詰め切れなかった楽譜が床に散乱している。それらを踏まないようにしてロンガは教堂の奥に戻り、虚ろな表情で楽譜をかき集めているルージュの肩に手を置いた。
「ルージュ! もう諦めてください」
「お、お姉さんだって、楽譜は大事だって、分かるって……言ってくれたじゃないですか」
床に膝をついたロンガの横を、こちらは任せます、と叫んでアックスが通り過ぎていく。彼は音を立てて奥の扉を開け、居住区に走って行った。
ルージュの細い手首を掴むと、どうして、と呟いて彼女はこちらを見上げた。彼女は、どう考えてもリュックサックには収められない量の楽譜を両手に抱えて、呆然とした顔でロンガを見上げた。
「
ルージュは涙を散らしながら、激しく左右に首を振る。ロンガはその身体を無理やり立たせて、リュックサックを背負わせた。音を立てて楽譜が床に落ちる。ルージュは自分の手のひらをじっと見下ろして、荒い呼吸をしていた。ロンガがその肩に手を置くと、縋るような目でこちらを見る。
「――お姉さん」
「行ってください。今すぐ」
ロンガがあえて冷徹な口調で言うと、敵意を隠そうともしない目で睨まれた。目を見開いて、口元が引きつるように笑いの形を作る。
「そんなこと言う人だなんて、思ってませんでした」
「……そこまで欲しいんですか」
「言ってるじゃないですか!」
「だったら!」
ロンガはその肩をつかんで、真剣な顔で見下ろした。
「それこそ今は逃げるべきです。生き残るべきです。そして、全てが終わった後に、またここに戻ってくればいい」
思った以上に大声を出してしまい、叫びに近い言葉は教堂の高い天井に跳ね返った。ルージュは唖然とした表情を浮かべ、数秒黙ってから下を向いた。
「全てが終わる……って」
「地上と地下が和解し、地上の太陽も、地下の高度な技術も、どちらかに占有されたものではなくなるってことです」
「――そんな都合の良いこと、ないでしょ」
「MDPは本気でやるつもりですよ」
ロンガが強い口調で言うと、ふ、と口元を緩めてルージュが笑った。
「綺麗なことばっかり言いますよね、大人って」
「そうですね」
「あーぁ……アタシもそういう大人になるんでしょうね」
ルージュが溜息をついて、散らばった楽譜を見下ろした。頬に流れた涙を拭って、彼女はくるりと背を向けた。重たいリュックサックに振り回され、よろめきながらも姿勢を立て直す。小指を立てた手の甲をこちらに向けた。
「信じますよ、お姉さん」
「約束です」
ロンガが同じように小指を差し出して応えると、ルージュは小さく頷いてから背を向け、こちらを振り返らないまま駆け出した。彼女が教堂の外に出たのを確認して、ロンガは奥の扉を開け、奥の居住区域に向かった。
通路で、何人かの団員とすれ違う。
教堂から去ることを拒否して、奥に引っ込んでいた団員たちだ。アックスに説得されて不承不承、MDP本部に向かうことにしたのだろう。だが、そのなかにロマンの顔はなかった。無人の談話室を横切って階段を上り、以前にロマンが教えてくれた、楽譜が収められた書庫に向かう。
予想通りというべきか、ロマンとアックスはそこにいた。ロンガが書庫に駆け込むと、床に座り込んだロマンはちらりとこちらを見て、何だよ、と掠れた声で呟いた。
「置いていってって言ってるのに」
「できるわけないでしょ」
「ここで歌えなきゃ意味なんてない」
「生きるのが歌うためなら、歌い続けるために今は生きなきゃダメなんだよ、ロマン」
アックスが強い口調で言えば言うほど、彼は心を閉ざしていくようだった。アックスがちらりとロンガに視線を向けて「ルージュは」と問いかける。
「彼女は行きましたか?」
「はい。それから、通路で何人かすれ違いました」
「良かった」
こんな切迫した状況にも関わらず、アックスは穏やかに微笑んだ。
「じゃあ、それで全員です。ロマン、今の聞いてた?」
「……聞いてたけど、だから何」
「うん。団員はみんないなくなった。つまりね、ラ・ロシェルが誇った最高の
温厚なアックスには似合わない、あまりに酷い言い草に対して、ロンガは思わず絶句した。制止する言葉が喉元まで出かけたが、ロマンが意外にも神妙な顔で俯いたので、その言葉を飲み込む。
「――だから?」
「だから地下に行こう。そこでまた、僕らの音楽を作ろう。ロマン、舞台がなくたって、身体一つで音楽を作れるのが君でしょう。それが僕たちでしょう?」
「何だよそれ……」
「コラル・ルミエールの指揮者として、来て欲しい。ロマン、君がいないと始まらない」
ロマンはしばらく唇を尖らせていたが、アックスがあまりにも真剣な顔で言うからか、諦めたように立ち上がった。アックスが手渡したリュックサックを受け取って、渋々ながらも背負う。少年の細い背中を押すようにして、アックスが書庫から出てきた。
「行くよ、ロマン――ロンガさんも、付き添ってもらってありがとうございます」
「あ――ええ」
我に返ってロンガは頷いた。
やはり、何よりも音楽を愛する彼らのことを理解したようで、全然掴めていないようだ。アックスの言葉でロマンの心が動いた理由は、ロンガには分からなかった。ただ、その瞳に宿る色が少しだけ変化したことだけが、彼らの心が通じ合ったことを教えてくれた。
階段を三段飛ばしで降りて、通路を抜け、楽譜の散らばった教堂を駆け抜けて、重たい扉を押し開ける。
ロマンとロンガが外に出て、最後に扉をくぐったアックスは、名残惜しそうな表情を浮かべて教堂を振り返った。彼だって、ここに未練がないわけがない。ただ単にロマンやルージュよりは多少大人だったから、割り切れたというだけだ。
ほんの一秒程度、ステンドグラスを眺めてから、彼は丁寧に扉を閉めた。行きましょう、と自分自身に言い聞かせるように低い声で呟く。
ラ・ロシェル中の人が集まったのだろう、道は混雑していて途中で進めなくなった。有線放送からMDP構成員と思われる人の声が流れ出し、その案内に従って集団が移動する。アックスとロマンと一旦別れて、ロンガは人波に流されつつもMDP本部に向かった。アルシュの病室の扉の前を通り過ぎ、顔見知りの構成員と出くわして、何か手伝えることがあるか問いかける。
「荷物とか、あれば運びますが」
「助かります。これをお願いします」
保存食や水を受け取り、リュックサックに詰める。アルシュに声をかけていこうかと思ったが、そこまで時間に余裕がなかった。彼女のように動けない者に対しては“ハイバネイターズ”が避難を手伝ってくれると言っていたから、また地下で会えるだろう。最後まで残っていた構成員と共に、ロンガはMDP本拠地を出て、“ハイバネイターズ”が指示したという街外れの地へ向かった。
30分ほど走って、目的地に辿りつく。
ぞろぞろと列をなした人々が、誘導に従って森の奥に向かう。どうやらそこに、地下空間へ向かう入り口があるようだ。構成員たちと一緒に、人々の誘導を手伝っていると、隣に誰かが立つ気配があった。
「あんたも地下に来るのか」
普通なら聞き逃すほど小さい声だったが、知っている声だったので、ロンガは弾かれたように顔を上げた。ガスマスクの向こう側にあるのは、数ヶ月前にも見たカノンの顔だった。頭ひとつぶん以上高い位置から、こちらを横目に見下ろしている。
驚きで息を呑み、それから溜息をつく。
「誰かと思った。カノンか」
「どうも。また会おうって言われたんで、会いに来ましたよ」
「ああ……律儀だな」
適当に返事をしてから、そうだ、と顔を上げる。
「アルシュのこと。どうもありがとう」
「……何のことかな」
「“ハイバネイターズ”側で便宜を図って、彼女のような怪我人を運んでくれるんだろう。おかげで助かった」
「んん……」
カノンは曖昧に唸って、少し視線を逸らした。
彼にしては珍しい反応だった。カノンは回答をはぐらかすことこそあるが、頭の回転が速いのか、答えに窮するようなことは滅多になかったからだ。
「どうかしたか?」
「ああ――ロンガ、これを聞いても騒がないで欲しいんだけどね。
「――は?」
「そもそも、アルシュが怪我していることすら俺たちは聞かされていない。だから多分、それは彼女の嘘だ。負担をかけることを嫌ったんだろう」
ロンガは勢いよく振り返り、MDP本拠地があるだろう方角を見た。
もう景色がかなり霞んでいる。
昨日まで2万人が暮らしていたはずのラ・ロシェルの街から、人々のざわめきが消えた。砂の降る空の下、埋もれていく街はもはや、人が住むべき場所ではなくなった。
そのラ・ロシェルの片隅、古い学舎を利用したMDP本拠地の一室に、アルシュはただひとり残っていた。
換気口から、バチバチと何かがぶつかる音が聞こえた。火花が飛んでいる音にも聞こえる。アルシュは頭痛に耐えながら、それでも目を見開いて天井を見つめていた。自分が愛したラピスの、音や匂いや光を、少しでも頭に焼き付けておきたかった。視界がにじみ、涙が頬をつたって顔の両側に落ちていった。
動けないまま、こんな場所で死んでいく。
脳に後遺症が残っているかもしれないと言われたときから、その覚悟はしていた。自分がいなくてもMDPが回るように準備をして、心の準備もしてきたつもりだった。だが、いざその時が来てしまうと、まだまだできることがあったな、と次々に思いついてしまう。
ふと、どうせ死んでしまうのなら安静にしている必要もないのだ、と気がつく。
アルシュは頭痛を堪えてゆっくりと身体を起こし、砂の降り積もった外の景色を見た。見慣れたラ・ロシェルの街並みが、全て砂の下に埋もれていく。裸足のまま床に降りて、思うように動かない足のまま、冷え切った廊下に踏み出した。さっきまで騒がしかったMDP本部がすっかり静まりかえっていて、胸を締め上げる寂しさに少し涙ぐむ。途中で休憩しながらも階段を上り、いちばん見晴らしの良い部屋に辿りついて、ラ・ロシェルを見下ろした。
雪よりはやや茶色っぽい砂が、白い空から降り注いでいた。石畳の道にレンガの屋根、街路樹や花壇。形も色も様々だったラ・ロシェルの街が、一色に塗りつぶされていく。遠い空に、旋回する
アルシュの故郷が、今、眠りにつく。
路地には、すでに人の姿は見えなかった。みんなが無事に逃げていることを祈った。研修生だったころの友人たちや、MDPの同志や、共に旅をした仲間たち、コラル・ルミエールの人々、そして名も知らぬ多くのラ・ロシェルの住人。アルシュの時間がここで終わっても、彼らが足掻いて生き続けてくれる限り、まだ希望はある。
だから、自分ひとりが彼らの足を引っ張ってしまうなら、いっそここで尽きてしまおう。たった一つを捨てることで、百や千を救えるのなら、それが例え自分自身の生命だって投げ出せる。
どうか彼らが気がつきませんように。
自分が吐いた、最後の嘘に。
「……きっと大丈夫、だよね」
呟いて、アルシュはソファに身体を倒した。痛む頭の奥できぃんと音が鳴る。今にも自分の身体から抜け出しそうな意識を、どうにか掴み止めていた。水も食料も全て持っていかせたこの場所で、あと何日生きていられるか分からない。だからこそ、自分に時間が残されているうちは、せめて目を開けていたかった。
けれど、次第に意識が遠くなる。
ぼやけていく頭の中で、最後に浮かんだのは他責の念だった。
あのとき“ハイバネイターズ”に襲われて頭さえ打っていなければ、もっと皆の役に立てたのに。こんな場所で終わることもなかったのに。
「ああ――こんな風に思いたくなかったな。最後まで、許そうとしていたかった……」
アルシュは呟き、静かに目を閉じた。