chapitre117. 今を歩く
文字数 8,584文字
椅子に腰掛けたリヤンとフルルに視線をそれぞれ向けると、少女たちはほぼ同時に頷く。シェルが
「あれを見てどう思った?」
「どうって」
フルルが困ったように首を傾げる。
「その、本当になくなってしまったんだな――と、思いました。それ以上のことは、あまり」
「うん、変なことを聞いてごめんね。ぼくは、あれを取り戻そうと思ったんだ」
「どういう意味ですか?」
「そんなの無理じゃないですか」
少女二人が口をそろえる一方、ティアはひとり険しい表情を浮かべた。痩せたまぶたを持ち上げて、まさか、と呟く。
「過去を、書き換えようとしたんですか」
「そう。時間転送装置を使って、まだ技術が焼失していない段階まで遡ろうとした」
「……あの」
眉間に濃いしわを刻んだフルルが、片手を広げてみせた。
「これは何かの冗談でしょうか。真面目に聞いている私が馬鹿なんですか?」
「悪いけど冗談じゃない。統一機関の三塔のひとつ、開発部の塔の最上階には、時間を越えた移動を可能にする装置――と、言われているものがある」
固い口調で言い切ってから、戸惑っている様子の彼女らに向けて微笑んで見せた。
「あながち変な話でもないと思うよ。性質としては
ビヨンドあるいはD・フライヤは、
彼らは普段は人間に干渉しないが、祈りやそれに類似する強い感情が彼らを刺激し、時空間異常を引き起こすことがある。見えないはずの過去や未来が見えたり、並行世界と繋がったりする――この世界で呼ばれるところの
「要するにあれは、時空間異常を恣意的に引き起こす装置と呼べると思う」
一旦、言葉を切って様子を見る。
ええと、と呟きながら、リヤンがせわしなく瞬きをしていた。表情が次々に変わる様子を、どこか微笑ましくすら感じる。シェルはより平易な説明をしようとしたが「それは良いです」と止められた。
「そういうものがあるのは分かりました。それで……どうしてロンガは、シェルさんと一緒にいないんですか」
「うん、ぼくはね――彼女ひとりを連れて、過去に戻ろうとしたんだ。普通に来てくれるわけないって思ったから、眠らせて、塔の上まで連れて行った。目覚めるのを待って、過去に戻ってやり直す計画を伝えた」
「はい……それで?」
「すごく、怒られた」
「当たり前じゃないですか!」
リヤンが、その丸みを帯びた顔に、思わず身を引くほど険しい表情を浮かべた。両耳から下げた、手作りらしいイヤリングが激しく揺れる。
「だって、それって、今ここにいるあたしたちとは、お別れってことですよね」
「……そうだね」
「分かっててやったんですか!?」
信じられない、と言いたげな視線が、シェルを射抜くように見据える。返す言葉もなかった。シェルは唇を噛んで、小さく頷く。
そんなリヤンとは対照的に、フルルは静かに俯いていた。
「あの、私は。責める気はないです」
「フルル、どうして」
「だって。リヤンにこれを言うのは悪いけど、私たちのほとんどはあの場所から産まれてるんだよ。次世代の望めない世界に、見切りを付けてしまう気持ちも、ちょっと分かる」
「そ、そうだけどさ」
冷静な調子で返されて、リヤンは少したじろぐ表情を浮かべた。
「だからって、この世界まるごと捨てようなんて、思わないじゃん」
「ムシュ・シェルは思ったんだよ」
固い表情でフルルが言う。
彼女が代弁してくれたので、シェルは唇を横に引いて頷いた。
「本気で捨てようと思った。不誠実だと思う。後ろ向きだと思うよ。でも、ぼくは今でも――」
この問題が何とかなるとは思えないよ。
喉元まで出てきた言葉を、音になる直前で噛み潰した。飴玉を無理やり飲み込んだような嫌な感覚が、食道を駆け下りる。
小さく咳払いをした。
「……ともかく、ぼくは彼女と言い争ったんだ。そうしたら、時間転送装置を核に
「そんな」
リヤンは蒼白な顔を小刻みに震わせていた。大きく見開いた目の端から、涙が落ちる。
「どこに、行ったんですか」
「分からない。五次元空間上のどこか、それ以上は言えない」
無限に広がる、時間と選択の積み重ねからなる五次元宇宙の、ありとあらゆる場所に行った可能性が考えられる。行き先が無限ということは、つまり、彼女を見つけられる確率は限りなくゼロに等しいということだ。
「もう会えないんですか」
「分からない」
「なんで、そんな、淡々とっ……」
大粒の涙を頬に伝わせて、シェルの顔を覗き込んだリヤンが、はっとした顔になって身体を引いた。
「あ……ごめんなさい」
「謝られることなんて、ないよ」
責められるべきは自分なのだから。
自分が彼女をあんな場所に連れて行きさえしなければ、彼女が
だからいっそ、言葉の限りに罵ってくれる方が気が晴れるのに、泣いているリヤンも、額を抑えているフルルも、黙って俯いているティアも、誰ひとりシェルに文句を言ってくれなかった。
「だって」
ハンカチで頬を拭って、リヤンが言う。
「ごめんなさい、全然悲しんでないように聞こえたんです。でも、すごく、苦しそうな目をしてる」
「――そんな風に見えるのか」
「だって、一番辛いの、シェルさんじゃないですか。すごく悲しいときって、悲しんでることにも気がつけないんだと思います」
「うん……それは、そうかも」
シェルは視線を逸らして、窓の外を見た。葉の落ちた枝が、冬の風に揺れている光景をぼんやりと見つめる。交差した枝が切り取った一瞬の光と影が、遠くを歩く彼女のシルエットのように見えた。
「ただ、ぼくは、ルナがまた戻ってくるって思ってて、いつまででも待つって決めたから。だから、悲しいというのは少し違うかな」
「戻ってくる……その根拠は?」
「ないよ」
訝しげな表情で問いかけたフルルに、笑顔で答えてみせる。
「ただ、そう信じることに決めただけ。彼女はD・フライヤの右眼を持っているから、普通の人間よりはちょっとだけ可能性があるかな、とは思うけど」
「そう、ですか」
フルルは複雑な表情を隠そうとしているが、隠しきれていない。疑念と憐れみ、悲しみと怒り、そして少しの呆れが混じった感情を、素直な少女の視線から感じ取る。
――情けないことを言ってごめんね。
そう言って頭を下げたかったけれど、これは口に出してはいけない種類の謝罪だと思ったから、シェルは何も言わずに視線を逸らした。
しばらく、誰も言葉を発さなかった。
風が窓ガラスを叩きつけて、窓枠がカタカタと揺れる。どこかに隙間が空いているのか、冷えた空気が前髪を揺らして逃げていった。冬の寒さに凍りついてしまったように、誰もが息を潜め、口を噤んでいた。
「――あの」
ティアが
「あり得なくはない、と思いますよ。並行世界と合流するなんて、数日前までは考えられなかったことが、実際に起きたんですから」
「……ありがとう」
気を遣って励ますために言ってくれたのだとしても、ティアが理解を示してくれたことが嬉しかった。
これは、“
彼女がいなくなった世界ではなく。
彼女とやがて出会う世界と捉えて生きていく。
嘘ではないものの、限りなく虚構に近い未来予想図を、希望という名で呼んでみる。
「それはそれで不誠実かな」
誰に聞かせるでもなく、ほとんど唇の動きだけで、シェルはそう呟いた。
*
ティアの病室をリヤンたちと一緒に出て、本棟へ戻る通路を歩きながら「そういえば」とシェルは振り向いた。
「二人はスーチェン支部の人なんだってね。どうして、今日はこっちに?」
「リヤンが、こちらに用事があったので。私は付き添いです」
短い髪を風に揺らして、フルルが応じる。リヤンが頷いて、あの、と心なしか緊張した表情になった。
「出生管理施設の代わりとなる技術を、こちらで研究しているらしいんです。あたしも協力することになって」
「ああ、そうなんだ」
頷いてから、首を捻る。
「協力って?」
話を聞いている限り、彼女は生命工学を専門に持つわけでもない、ごく一般的な市民のようなのだが。不思議に思って問いかけると、リヤンは穏やかな口調で答えた。
「あの、あたし、
「え?」
「ちょっと、気をつけてってば」
シェルがぎょっと目を見開くのと前後して、フルルが彼女の肩を強くつかむ。出生管理施設で生まれた人間に生殖能力が乏しいことが明らかになりつつある今、その例外である
フルルに威嚇する視線を容赦なく向けられて、シェルは肩をすくめる。
「いや、ぼくは、何もしないけどさ……」
年下の少女であるフルルよりも小柄なシェルだが、男性である以上は警戒されるのも無理はない。本棟の扉を開けて屋内に入り、二人と少し距離を取った。
「あのさ、それ、あんまり言わない方が良いよ。
具体的に言うのも憚られて、シェルが口ごもると、リヤンは「ああ」と苦笑した。
「それは分かってます。あのね、フルル、シェルさんは大丈夫だと思う」
「何を根拠に」
「だってロンガも
「リヤンはさ、もうちょっと人を疑っても良いと思うよ……」
フルルが溜息をつきながら、室内に入ってきた。
「一度、痛い目見たくせに」
「そ――そうだけどさ。でもあたし、信じた人に裏切られたことはないもん。人を見る目があるんだよ」
「どうだか」
フルルに生返事であしらわれ、リヤンはむっと頬を膨らませた。フルルに続いて室内に入り、後ろ手に扉を閉める。
その様子を少し遠くから見守りつつも、なるほど、とシェルは内心で頷いた。
未来が開けるかもしれないのだ。
「そんな解決策も、あったんだ……」
過去に戻ってやり直すしかないと思っていた数日前のシェルには、全く見えていなかった選択肢だ。きっと自分が思うよりも、この世界には沢山の人がいて、それぞれが少しずつ違う方向を見つめつつ、それでも前に進んでいるのだろう。
MDP構成員がリヤンを呼びに来て、彼女たちと一緒にいるシェルの顔を怪訝そうに見遣る。
元より、招かれざる客だ。午後にはコアルームに戻るように頼まれていたので、長居せず立ち去ることに決めた。
「じゃあ、またね」
片手をひらりと振って、外に通じる扉を開けると、待って下さいと声をかけられた。
「シェルさん」
振り返ると、胸元で拳を握りしめたリヤンが、足を肩幅に開いて立っていた。こちらを見つめる視線は力強く、まっすぐな意志で輝いていた。
「貴方が捨てようとした、この世界だって、まだまだ捨てたものじゃないって、あたしは思ってます。だから、見ててください」
「うん、ぼくも……できることをするよ」
「はい」
そう応じて、彼女は表情をふわりと緩めた。陽光で白く霞んだ視界の向こうで、陽だまりのような笑顔がこちらに向けられる。
「あの、あたしも、ロンガがまた帰ってくるって言う話、信じることにしました。だからロンガを見つけたら、一緒に会いに来て下さいね」
「そうだね。約束するよ」
彼女が小指を差し出してみせるので、シェルも袖をまくって小指を見せた。
*
オレンジ色の長い髪が遠ざかっていくのを、唇を横に引いて見つめた。
「そろそろ戻らないと、リヤン」
「……うん」
フルルの声に応えて、リヤンは彼に背を向けた。胸の奥がまだざわついて、大雨が降った後の川のように嫌な色をしていた。
「ロンガの話と、全然違う人だった」
自分の影を見つめて、そう呟く。
「あのさ――あたし、ロンガに、太陽のイヤリングを作ってってお願いしたことがあるんだよ。ロンガの、月のイヤリングと対になるから」
「ムシュ・シェルと同じこと考えたのか」
「うん。断られたけどね」
当時は、作る技術が足りないからと言い訳をされて、それで諦めた記憶がある。だが、ロンガの探している
「ロンガの一番大切な友達は、ずっと前からシェルさんだったんだ」
理解したとき、少しだけ悔しかった。
だけど、子供の頃から付き合いのある友達で、そのうえ危険な目に遭ったときに助けてくれた相手でもあると聞いて、それなら仕方ないか、と思った。
同時に、どんな人なのだろう、と興味を持った。
「きっと頼もしくて明るい人なんだろうな、って思ってた。なのに」
今生きている世界を捨てて、自分たちだけ逃げだそうとしたなんて。そんな裏切りを企てる人がいるだけでも信じがたいのに、よりによってそれがロンガの
「あんな悲しんでるとこをさ、責めることなんてできないけど――やっぱり、酷い。あんな人だなんて知りたくなかった」
「うーん……でも」
玄関の扉に向き直ったフルルが、ドアノブを握った手を見下ろす。
「私だって、この扉を開けたら平穏だった時期に戻れます、って言われたら、悩むよ。リヤンや皆のことを忘れてしまうとしても、もしかしたら、ムシュ・シェルと同じ決断をするかもしれない」
「そうなの?」
「そうだよ」
にこりと微笑んで、フルルが玄関の扉を開ける。向こうに広がっているのは、もちろん、何の変哲もない通路だった。少し埃っぽい匂いが、開いた隙間から流れてくる。
「私たちは過去に手を伸ばす手段を持っていない。時間の流れるままに生きていく、それ以外の選択肢は、最初からない。だからこそ、悩む必要がないだけ」
「……そっか」
「むしろ、よく今まで、過去に戻ってやり直す誘惑に耐えていたなって思った」
ちらりと見えたフルルの横顔は険しかった。
そこでリヤンも想像力を総動員して、自分が過去に戻る力を手に入れたらどうするか、考えた。例えば、死んでしまった実の兄のリゼに出会えるとしたら、あの日に戻って彼を救えるとしたら、果たして過去に戻るだろうか。
答えはすぐに出た。
「あたしは……それでも、昔に戻りたくはない」
リゼがいなくなって、宿舎にひとつ空室ができたからこそロンガと出会えた。彼女を通じてMDPと関わりを持ち、広い世界に一歩踏み出せた。失ったから得たものがあり、欲しいものの全てを手に入れることは、たとえ時間を超えたって無理なのだ。
ならば――せめて、起きてしまった出来事に対し誠実でありたい。
「って――あたしは思うけど」
フルルの表情が気になってちらりと伺うと、何かを内側に押し込めたような笑顔がこちらを見て、頭に手を置かれた。
「今が好きなんだね、リヤンは」
「うん」
「良いことだと思うよ」
そのまなざしは少しだけ、悲しそうだった。
今はかなり近い立場にあるリヤンとフルルだって、それだけの違いがある。時間を遡ろうとしたシェルの行動は、リヤンの目から見れば信じられない禁忌に見えるけれど、フルルから見ればまた違うようだ。
「ほら、もう行かないと」
フルルの手が背中を軽く押した。
通路の向こうからMDP構成員が呼んでいた。私は戻るよ、と言ってフルルが靴紐を結び直す。彼女はリヤンに付き添ってヴォルシスキーまで来てくれただけで、今日中にスーチェン支部に戻るため、そろそろ出発しないと陽が落ちる前に帰れないのだ。
「終わったら、また迎えに来るから」
「うん、ありがとう。検査って、どのくらい時間掛かるのかなぁ」
「一週間くらいって聞いてるけど」
フルルが首を傾げる。
「それにしても、よく協力する気になってくれたね。MDPとしては、すごく有り難いんだけど……あのさ、ホントに、嫌なことは断って良いからね」
「ううん」
胸を張って、口の端を持ち上げてみせる。
「だって。レゾン君が、MDPはあたしの尊厳を傷つけるようなことは絶対にしない、って言ってた。だから大丈夫」
ハイデラバードの暗い通路でこちらを見ていた、年下とは思えないほど頼もしい視線を思い出して頬を緩めると、へえ、とフルルが笑った。
「ずいぶん気に入ってるね」
遠回しな言葉の含意に気がつき、緩めた頬が今度は熱くなった。
「違うもん」
「なにが?」
思わず腕を掴もうとしたリヤンの手をひらりと躱し、じゃあね、と手を振ってフルルは茶色い草原の向こうに消えていった。
その背中を見送って、もう、とリヤンは頬を膨らませた。行き場のない緊張感のようなものを持て余して、その場で意味もなく二、三回跳ねてみる。それから意を決してドアノブを捻り、待ってくれていたMDP構成員に頭を下げた。
「お世話になりますっ」
*
古びた学舎、木材の匂い。
少し埃っぽい空気のめぐる教室で、子どもたちは膝を抱えて、大人の話を聞いている。
「――だからね、君たちの身体には、鍵が掛けられています」
幼い日のサテリットはひとつ欠伸をして、涙のにじんだ目元を擦った。子どもにも何となくニュアンスだけが伝わるように、曖昧にぼかされた言い方は、むしろ眠気を誘う。
当時は理解できなかったが、つまりこういうことだ。
野生でない、ヴォルシスキー出生管理施設で生まれたラピス市民は皆、妊娠しづらいように
以前に興味を持って図書館で調べた記憶があるが、一般市民の手に入る情報はそれくらいだった。誰がどんな意図を持って、どのような方法で「鍵を掛けた」のかは分からないが、目に見えた結論はシンプルだった。
ラピス市民は妊娠しづらい。
その言葉がやがて、サテリットのなかで「私は妊娠しない」に変容していき、自分の恋人であったらしいアンクルと、軽率な行動をするに至ったのだろう。
「ああ……愚かだわ」
寝台で横になっていたサテリットは、ハイバネイト・シティの天井を見上げて呟く。記憶操作のせいで曖昧になった思い出の向こう側、アンクルと恋人であった自分の頬を張ってやりたい。何を浮かれているの、と叱り飛ばしてしまいたい。
だけど。
内臓の圧迫感に耐えて、サテリットは深く息を吐く。
いま、この身体のなかに、ラピスの大人たちの思惑を越えた何かが生まれようとしている。その事実を、ただ過ちと呼んで切り捨てたくない感情も、胸のどこかで、たしかに存在していた。