chapitre109. 孤独な出会い
文字数 5,931文字
とある宗教に由来する暦法であるが、およそ二千年をかけて世界中に広まり、信教の如何によらず普遍的に利用されるようになった。かつてはその宗教に関連した名称が付けられていたが、人類が共有する時流の刻み方となるにつれて、宗教色を排した
「たかが名前の話、と思うかもしれないけど」
珈琲カップをテーブルに置き、分厚いガラス越しに彼女は微笑んだ。その声は肉声ではなく、一度電気信号に変換されたものを室内のスピーカーで再生したものである。
「でもきっと、今の貴女なら分かるよね。名前は
「そうかもしれません。でも――色々と、聞いても良いですか、エリザ?」
三角巾で片腕を吊られたロンガは、身体を斜めに捻って腕を伸ばし、マイクを近づけた。何でもどうぞ、と彼女は微笑んで蜂蜜色の髪を背後に流す。
「聞きたいことばかり、ですけど、まずは今の話の流れで気になったこと――貴女にとって、私が偽名を名乗るのは
「その通り」
彼女があっさりと微笑んで、やはりそうなのだ、とロンガは手を強く握った。
塔の上の部屋でシェルと対峙したとき、時間転送装置から白い光球が生まれて膨張した。必死だったのでほとんど覚えていないが、縛られた腕を無理やり動かして、シェルに命綱を繋ぎ、光球の外に蹴り飛ばした感触だけは覚えている。その反動で自分は背後に飛んでいき――多分、過去にやってきてしまったのだ。
ここは
ラピスが創都される以前に、寒冷化で滅びかけた末期の文明。ロンガの目の前にいる、旧時代の人間であるはずのエリザが、端的にそれを証明していた。ガラスで部屋を区切られているのも、四世紀の時を隔てた人間であるエリザとロンガは、お互いに未知の細菌やウイルスを持っている可能性があるためなのだろう。
「貴女がロンガと名前を変える日の、およそ400年前になるかな」
「どうしてその未来を知っているんですか。いえ、エリザの目が未来を見通せることは知っているけれど――人間の行く末は見えないのだ、と思っていました」
「良い質問ね。その答えは、ここが創都345年1月の因果ありきで作られた分枝世界だから、よ」
もっと言うなら、とエリザは細い人差し指を立ててみせた。
「未来からやってくる貴女を受け止めるために、第8の時流が生まれたのね」
「8番目、ですか?」
「ええ。ラピスにはもともと7つの並行世界があった。あの少年、ティアが生まれたのはそのひとつ、フィラデルフィア語圏と呼ばれる世界ね。ちなみに貴女の友人が幼少期に訪れたのはヴォルシスキー語圏よ。そう呼んでいるのは私たちだけだけど」
「語圏……ビヨンドもそんな表現を使っていた」
「そう、貴女たちが祖と呼ぶ、7人の人間がいるでしょう。彼らはそれぞれ違う生まれと言語を持ち、そのどれをラピスの公用語として採択するかで争った。その結果として世界は7つの語圏に
「そうか、だからティアは私たちとは異なる言語を話していたんですね」
ようやく理解して口に出すと、エリザが頷いた。
「フィラデルフィアという地域で生まれた祖が、公用語を勝ち取った世界からやってきたのね」
「それにしても、祖が、互いに争ったんですか」
「そうだけど、何か不思議? 神様でも何でもないのよ、祖って。もちろん私もね」
ロンガが昨日まで――という表現も正しいのか分からないが、とにかく人生の大半を過ごした世界の一部において、真祖と崇められていたはずのエリザは、悪戯っぽく微笑んで肩をすくめた。
「まあ、神様だって喧嘩するけれど……それにしても、そんなに丁寧な言葉を使わなくても良いのに。ほとんど同年代よ」
「えっと、今のエリザの年齢は――」
「25歳よ。それに私、貴女の母親なんでしょ?」
「……これほど矛盾した言葉もないですね」
ロンガが額を抑えると、本当にね、とエリザが首を傾げた。
「
貴女の父親とか。
口元がそう動いて、何かを堪えるように震えた。白銀色の瞳が潤むのを片手で隠す。
「
「でも、エリザは病気に
「最期は誰にでもやってくるのよ。それが少し早かっただけで……そうね、あの私が不幸だった点があるとしたら、色々な人に迷惑をかけてしまったことかしら」
エリザは羽織ったストールから片手を出して、指を一本一本折り曲げていった。
「ラム。愛した人」
ロンガの仲間たちを守って死んでいった男性の名前を、慈しむように呟く。
「カシェ。大切な友人」
ロンガを殺そうとしたこともあったが、エリザを誰より大切に思っていた女性の名前を、掠れた声で呟く。
「それにもちろん、娘の貴女、リュンヌ。貴女のお友達や、地下世界の末裔にも、かな――私の身体が中途半端に残っているせいで、苦労を掛けてしまった。特にラムは、最後はあの私のために
「えっ……無駄、だったんですか」
ロンガが目を見開くと、エリザは静かに頷いた。
どうして、と呟く唇が震える。旧時代にはなかった感染症に罹り、臓腑を病んだエリザは生命凍結という処置を受けていた。彼女に自分の内臓を一秒でも早く移植するために、ラムは自分の頭を撃ち抜かせたのに。
「だってムシュ・ラムは、移植の条件を満たしていたはずです」
「そうね。彼に問題はなくて、ただ……覚えているかしら。白銀の目を持つ者同士は、繋がっているという話を。リュンヌ、貴女の目を通して、あの世界のエリザは見ていた。見てしまったのよ」
エリザは喉元を抑えて、目を伏せる。
「自分の愛した相手が、死体に変わる瞬間を」
「あ――」
「更に言うならば、娘である貴女を抱きしめることすら叶わずに死んでいった姿を」
もしかして自分は責められているのだろうか、と思った。微笑みの消え失せたエリザの顔が、まっすぐロンガに向けられている。氷柱のように鋭い視線から、目を逸らすことも不誠実に思えて、静かに見つめ返すと「なんてね」とエリザは微笑んだ。
「私は――
「……どうなったんですか」
「しばらく泣き叫んでいたけど、それから何も聞こえなくなった。察するに彼女の心が、全てを拒絶したのではないかしら」
その言葉を聞いて、胸の奥がずっしりと重たくなるのを感じた。引きつった喉から軋むような声がこぼれる。握りしめた拳に涙が落ちて、それで初めて自分が泣いていることに気がついた。
ラムの死を見た日の夜、夢の中で泣いているエリザと出会った。もしかしたらあれは、ただの夢ではなくて、エリザの悲しみがロンガに流れ込んできたのかもしれない。彼女の心が放った、最後の祈りだったのかもしれない。
分枝世界のエリザは悲しげに眉をひそめる。
「あのエリザの心は消えてしまった。だからね、健康な身体を取り戻しても、おそらく――ラピスの人たちが期待しているようなことにはならない」
「そう……ですか」
「ごめんなさい、貴女を悲しませたいわけではないの。ただ、事実として、そうなのよ」
ロンガは涙を拭って頷いた。
ようやく、現実が飲み込めてきた。目の前にいるのは紛れもなくエリザなのだけど、かつて図書館で語らった彼女ではない。遺伝的にはロンガの母親なのだけど、ロンガを生んだのは彼女ではない。記憶や感覚を共有している『エリザ』という人間が7つの語圏の全てに存在して、そしてこの第8の分枝世界にもいるのだが、ロンガが慕った人そのものは、もうどの時空にも存在しないのだ。
「つまり――私の母は死んでしまったんですね」
「そうね……」
エリザは頷き、静かに両手を組んで目を閉じた。
しばらく沈黙が流れた。
ロンガは両手で口を抑えて、喉元にこみ上げる嗚咽を押し戻そうとしたが、内側からあふれ出る勢いのほうが勝り、テーブルに顔を伏せて泣いた。図書館でエリザと過ごした暖かい冬は、もう自分の中にしか残っていないのだ、と気がついてしまう。誰よりも慕ったあの人は、最期に娘の自分を恨んで消えてしまった。
「――だけど」
肩を震わせて泣いているロンガに、エリザが躊躇いがちに声をかけた。
「私は貴女の母親本人ではないけれど、あの私がとても貴女を大切に思っていて、眠りについてもまだ、貴女たちのことを想い続けていたのを知ってるわ。娘を恨んでしまうのが、すごく不本意だったことも」
「それなら……尚のこと」
熱くなった顔を服の袖で拭う。眉根がぎゅっと寄っているのが分かった。
「恩を返したかった。彼女がしてくれたことの、ほんの少しも、私はできなかった」
「……リュンヌ」
いつか図書館で呼ばれたのと同じ呼び方で、同じ声が語りかける。
「そういうものだと思う。想いって一方通行なのよ。私たちみたいに、感情を共有することは、普通は叶わないの」
「でも――」
彼女に愛されていたこと、彼女が娘のために
「ごめんなさい。こんな言葉、何の慰めにもならないわね」
「いいえ、それでも……教えてくれてありがとうございます。知ることができて良かった」
「そう……強いわね、貴女」
唇の片隅に笑みを浮かべて、エリザがこちらを見た。
「不思議。私に娘はいないのに、今、貴女がとっても愛おしく感じる。叶うことなら抱きしめたいと思うほどに」
厚いガラスに手のひらを押し当てて、白銀色の瞳がロンガの顔をのぞき込む。
「私に、よく似てる」
「そうでしょうか」
「顔立ちはラムの方が似ているけど、でも、似ている。分かるの」
彼女は椅子から立ち上がり、ああ、と小さく溜息を吐いた。ロンガの癖のある髪とは全く違う、滑らかでまっすぐな髪が照明を反射して光る。
「羨ましい。子供、愛する人、友人――どれも、
「そんなことはないでしょう」
「いいえ。強いて言えば貴女が、私の友人になってくれるかもしれないけど……貴女が思う以上に、ずっと孤独なのよ、私」
エリザは小さく肩をすくめる。
そこでようやく気がついて、ロンガは周囲を見渡した。ハイバネイト・シティの前身と思われるこの施設には、自分とエリザ以外に誰の声も聞こえず、誰の姿も見えない。
エリザが横に視線を向けたので、彼女の視線を追いかけると、通路の角からロボットが姿を現した。エリザの腰ほどまでの高さがあるそれは、滑らかにやってきて静止し、空になった珈琲カップを金属の腕で持ち上げて運んでいく。
「どうもありがとう。この子はね、シトロンって呼んでるの。他にも何人か、身の回りの世話をしてくれる自立歩行型ロボットがいて……私たちの他に、ここにいるのは彼らだけ」
「そんなはずは。7人の祖がいるはずでは」
「ええ……抗体検査が終わったら、後で直接見せてあげるわ」
エリザはテーブルのライトを消して、椅子を元の位置に戻した。ロンガがすがるような視線を向けると、ごめんなさいね、と眉を下げた。
「少し用事があるの、お話はまた後で。シトロンがお薬を運んでくれると思うから、それを飲んで休んでいてね」
そう言って彼女は通路の向こうに消えてしまい、残されたロンガは立ち上がって部屋を見回した。寝台と簡易的なデスクが設けられ、洗面所とシャワーが最小限のスペースで設置されている。壁の一部が開いたかと思うと、先ほどエリザの珈琲カップを持っていったシトロンというロボットが入ってきて、デスクに薬と水を置いて出て行った。
錠剤を飲み下し、寝台に寝転ぶ。
考えることが幾つもあった。より正確には、受け止めなければならない事実が、ロンガの頭では処理しきれないほどに提示されていた。
ロンガのいた世界で、真祖と崇められていたエリザは、悲しみの果てに消えてしまったこと。そして――ここは
シェルやアルシュやカノン、多くの友人たちが生きているあのラピスからは、どうしようもなく遠ざかってしまったこと。
「……嘘だ」
薬の作用だろうか、急速に意識が遠くなるなかで、繰り返しそう呟いた。覚束ない指先で耳たぶに触れて、一対のイヤリングを外す。金色の太陽と、銀色の月。
シェルの記憶に導かれて、彼と別れてからの日々を過ごしてきたロンガにとって、太陽を象ったイヤリングは彼の象徴だった。左耳から下げた月のイヤリングを見るたびに、彼のことを思い出していた。
だからって――これだけを残されても、何の意味もないのに。彼が持っているからこそ意味があったのに。
太陽も月もない宇宙に、泣き叫びながら身体が落ちていく。涙は星屑になって、天の川に沈み込み、溺れて息ができなくなる、そんな夢を見た。