chapitre148. ひとつの朝へ
文字数 6,645文字
午前4時、原型がないほどに潰れた昇降装置の瓦礫を踏みこえて、カノンはハイバネイト・シティ最下層に降り立った。ワイヤーを伝って強引に降りてきたせいで、体力には自信があるものの、流石に息が切れていた。摩擦で表面が少し毛羽立ったグローブをはめ直し、ひしゃげた扉を押し開けてコアルームに向かう。
扉を開けるや否や胸ぐらを掴まれた。
「貴方っ――貴方、ずいぶんと勝手なことを」
その顔立ちには見覚えがある、MDP構成員のひとりだ。カノンは大人しく胸ぐらを掴まれたまま、彼の肩越しにコアルームを見回した。既に数十人の構成員が集まっており、カノンに敵対的な目を向ける者もいれば、若干の同情と労いを表情のなかに見せる者、掴みかかってきた男を止めようと動く者もいた。
「説明はしたわよ」
横から投げられた声で、初めてカシェがそこにいたことに気がつく。構成員たちの輪から外れ、扉の横にもたれて腕を組んでいた彼女は、伏せた目だけを動かしてカノンを見る。
「私たちの作戦も勝算も切り札も――全部伝えた」
カシェは白銀色の瞳を細めて、コアルームに集った構成員たちを、尖った
「その結果がこれ」
「なるほどね。正確に伝えて頂いたようで何よりです」
カノンたちがアルシュとシェルを連れ戻すために、いかに確率の低い賭けをしたか、それが理解されたからこその憤りだろう。カノンが口の端を持ち上げてみせるのと前後して、胸ぐらを掴んでいた男が何人かの仲間に宥められ、渋々といった様子で手を離す。
「……言っておきますけどね」
別の構成員がカノンを睨みつける。
「貴方に感謝はしていますし、現状、我々ではどうにもできなかったことは事実です。ですが、この件が終わったら、二度とMDPに関わらないで頂きたい」
「そうでしょうね」
忌憚のない意見に思わず笑うと、睨みつける目の鋭さはかえって増した。議論による歩み寄りを基調とするMDPにとって、今回のカノンのように独断専行で動く人間はいちばん迷惑だろう。
「まあ、何というかね……成り行きと、友人への義理で協力してるだけなんで」
腕を組んで、片方の肩を持ち上げてみせる。
「心配せずとも、適当なところで抜けさせてもらいますよ。俺は……貴方がたほどの使命感もなければ、確固たる正義も持っていない。目の前で死にそうな人間がいたら救ってやりたくなる、それ以上の理屈は、俺には受け入れがたいので」
「そういう人間がいちばん厄介だ」
「俺もそう思いますね」
「貴方……マダム・アルシュの言うとおり、本当にやりづらい人ですね」
苦虫をかみつぶしたような顔で、そんなことを言われる。いつの間にやら、散々な評価を下されていたらしい。カノンが返事の代わりに苦笑を吐き出すと、パネルを囲んでいた構成員のひとりが驚いたように声を上げた。彼女が人垣をかき分けて操作盤を奪い、素早い手つきでコマンドを打ち込むと、パネルの表示が切り替わり、赤い非常灯が照らす通路が映された。
そこに映り込んだ少年の映像に、ほんの少し遅れて、異言語の声がスピーカーから発せられる。MDP構成員たちがライブラリを使って翻訳するよりも数秒早く、カノンは
「ティア君……来たのか。地上から、わざわざ」
彼は地上のMDPヴォルシスキー支部で世話になっていたと聞く。支部の構成員たちがティアに直接話をしたとは思えないが、おそらくは何かの手違いで、アルシュたちの危機を耳にしたのだろう。
「まあ……そりゃあ、来るだろうね」
「どういう意味ですか?」
カノンの独り言に反応して、構成員のひとりが怪訝そうに振り向く。
「あの子を知ってるんですか」
「ああ、彼は“
「統一機関の政治部ですが……」
「ならば、こう伝えたほうが早いでしょうね。彼は二年前の
「は――それは、つまり敵方の人間ってことですか。自身の故郷たる向こうの語圏に加勢しに来たと?」
「そう考えるのも無理はないですけどね」
カノンは言葉を切って、説明の代わりにパネルに視線を向けた。ティアの言葉を翻訳して、人工音声がスピーカーから流れ出す。
『――証拠です。僕が。
声は途切れ途切れだった。
ライブラリの翻訳機能を通しているからではなく、フィラデルフィア語圏の人々に抑えつけられているティアが、必死に言葉を絞り出しているからだ。構成員たちがカメラを切り替えて、今まさに上層で繰り広げられている押し合いの様子を追いかける。
「……どういうことなの?」
先ほど問いかけてきた構成員が、理解が追いつかないといった様子で口元を抑える。
「敵方の出身なのに、なぜ」
「あぁ――そもそも、フィラデルフィア語圏を敵と呼ぶこと自体が、どうかと思いますがね」
そう言うと険しい目で睨まれたので「それは置いておいて」と、カノンは大仰に肩を竦めてみせる。
「二年前のティアの襲撃事件で、ひとり死人が出たのを覚えていますか」
「ああ、覚えてますよ。メル・ラ・ロシェル……たしか例の事件がなかったら、
「まあ、彼の子細はどうでも良いんですが」
言葉を遮ると、またもや睨まれる。
刺々しい視線から逃れるように、カノンはパネルに表示されたティアの顔を見つめた。怪我をした腕を庇いながらも、自分よりずっと大柄な大人たちに一歩も引かず食ってかかる、強い決意を秘めた琥珀色の瞳。
その身体を突き動かすのは、たったひとつの過ちだ。
「あのとき死んだのはアルシュの
「――はい?」
怪訝そうに眉をひそめた彼女だけでなく、何人かの構成員がぱっとこちらを振り向いた。コアルームにいる全員の耳に届くよう、少し声量を上げて「ですから」と言葉を続ける。
「これは彼なりの償いなんでしょう。アルシュの危機を耳にして、自分ならフィラデルフィア語圏の人々を説得できるからと、怪我を押して地下に降りてきたんだと思います。下手な手出しはせず、見守るのが良いかと――」
「いや……待ってくださいよ。本当にあんな子どもが?」
「年こそ幼いですが、ティア君はその辺の大人より余程わきまえていますよ」
「そういう問題ではないでしょう。子どもひとりが語圏ひとつを相手取るなど――ならば私たちも何か、加勢をするべきではないんですか!」
「ああ――そっちの心配ですか」
なるほど、と鼻を鳴らす。幼い少年を見て、それが敵であると考えれば、小柄な見かけに拘らず恐れるが、味方だと考えれば頼りなさが際立って思えるらしい。ある意味で素直な発想ではあるし、地上ラピスのために奔走していたMDPらしい考え方だ。
「だが、ここにいる俺たちに、何か、手伝えることがあるとでも?」
「できることは限られているでしょうね。ですが、幻像の起こった証拠を提示するくらいなら、私たちにも――」
「止めておいた方が良いと思うわよ」
静かに話を聞いていたカシェが、低いがよく響く声で遮った。
「彼がフィラデルフィア語圏の出身であることが、最大の説得材料。私たちが安全圏から何を言ったところで響かない。むしろ、あの少年がこちらの語圏に取り込まれているのだと誤解を招くだけ。彼が、独りであることに――惨めであることに意味がある」
カシェは冷静に言って、パネルを見つめた。
癖っ毛をぐちゃぐちゃに乱しながら、ギプスに包まれた腕で大人に掴みかかる姿が映される。明らかに怪我を負いつつ、それでも必死にもがく姿に、同情的な視線を向けるフィラデルフィア語圏の兵士が映り込む。やり過ぎだ、少し話を聞いてやれ、と引き止める者が現れる。
「私たちラ・ロシェル語圏は、前提として総権を保持するぶん、彼らに恐れられている。あの少年の背後に私たちの権力をちらつかせた瞬間、説得力は地の底まで落ちるでしょうね」
「……でも! 子どもが酷い目に遭うのを、見過ごせと仰るんですか」
「その通りよ」
一秒も間を置かずに即答されて、カシェに食ってかかった構成員は唇を噛む。彼女も決して冷酷なだけの人間ではない――とはエリザの弁だが、目的のために手段を選ばない人間には違いないようだ。情に訴えかけても、カシェにはあまり通用しないだろう。
「まあ――心配せずとも」
深く息を吐いて、カシェが目を伏せる。
「
「……お話は理解しました」
構成員のひとりが重々しい表情で言う。
「あくまで彼の行動は、間違った方向へ進まんとしている郷土を引き止めたい、郷土愛ゆえであると……そう
「ええ。それが良いんじゃないかしら?」
それ以上の反論は出されず、構成員のひとりが黙って操作盤に手を置き、全画面表示になっていたティアの映像を、縮小してパネルの片隅に寄せた。すぐに別のウィンドウが開かれ、構成員たちは被害状況のピックアップや、浸水の三次元モデル化に取りかかる。カノンも手伝いを申し出て、しばらくは単純作業に没頭した。
数十分後にアルシュがコアルームにやってきて、無事を喜ぶ構成員たちに囲まれながら、カノンに一瞥を向けた。あまり笑顔とはいえない表情で、それでも「ありがとう」と告げられたので、額面通りに受け取っておくことにする。
手錠の痕が赤く残る手首を擦りながら、アルシュが疲弊した目を細めてみせる。
「あのさ……感謝はしてるけど、二度とこんな、危ない賭けはしないで」
「それは約束できないね。綱渡りが必要な時ってのはどうしてもあるもんだ」
「綱渡りって、貴方さぁ……落ちたら死ぬって、分かってて言ってるのかな。失敗して総権が向こうに取られてたとき、カノン君たちがどんな非難に遭うか、フィラデルフィア語圏がどんな報復をしてくるか、考えただけで胃が痛いんだけど」
「そうは言うが、あのまま下で手をこまねいていたら、あんたとシェル君がどうなっていたか……そっちこそ、分かってて言ってるのかい。言っておくが、MDPは向こうの要求を呑む気はなかったんだよ。人質って言葉の意味を知ってるのか?」
溜息まじりに吐き出してから、自分もアルシュも大差ない主張をしていることに気がつき、思わず笑ってしまう。彼女もほとんど同時に気がついたようで「止めようか」と笑って見せた。
「お互い死にかねなかったけど、上手く行った。何はともあれ、その結果は覆らない――それで良いか」
「そうだね。それに今は、色々と後始末を付けなきゃならない」
「――うん」
アルシュがすっと真顔に戻り、パネルの片隅に表示された映像を見た。ティアとフィラデルフィア語圏を捉えたその映像は、この数十分の間にかなり沈静化していた。ティアが二年前まで自分たちと同じ世界にいた人間であることを認め、彼の言うことをひとまず聞いてみよう、という意識がフィラデルフィア語圏のなかに醸成されつつあるようだ。
「あの子は地上にいたんじゃなかった?」
「そうだけどね――」
続けてカノンは、先程カシェやMDP構成員たちと議論した内容をかいつまんで彼女に伝える。アルシュは小さく頷きながら、真剣そのものの表情で聞いていたが、その視線は常にパネルの映像に注がれていた。
「と、まあ……そんな経緯で」
映像の片隅に見切れて映り込んでいるティアの姿は、服が乱れてボロボロではあるものの、どこか満足げにも見えた。
「俺たちは手出しせずに見守ろうと、そういう運びになった」
「そう……」
「MDP総責任者
「そう、だね――」
一瞬だけ、良く研がれたナイフのような視線を向けられる。
「私もカノン君とマダム・カシェの提案に賛成する。ティアに対して私たちができることはない」
彼女の声は、細々とした会話が飛び交うコアルームのなかでも良く通り、何人かの構成員が唇を噛むのが見えたが、反論は聞こえてこなかった。藁にも縋りたい状況で、頼まずとも勝手に、こちらの利になるよう動いている駒に対して、余計な手出しをすべきでない――そんな言葉が聞こえてくるようだった。
「でも……こんなのは、間違ってると思う」
アルシュが呟いて、靄を振り切るようにひとつ首を振り、構成員たちに混ざって作業を始める。フィラデルフィア語圏からラ・ロシェル語圏へ、ラピス史上初めて穏便な対話が申し込まれたのは、その1時間後、午前5時半のことであった。
*
午前6時。
ハイバネイト・シティ居住区域に朝の放送が流れる時間だ。その日も、いつも通りに放送が流れたが、第37層の一角、“
カシェの指揮した、フィラデルフィア語圏の封じ込め作戦に参加していた“
二十分後に応答があり、MDPとあくまで「対等な立場に立ったうえで」ハイバネイト・シティ居住区域の人々を地上に逃がすため、同胞たち数十名を協力者として提供する――という申し出があった。
「快く受け入れて頂き、感謝します」
「ええ。太陽の照らす土地、地上を目指すのは
仲間たちを代表して対話に応じた女性は、心なしか険しい声音をしていた。その雰囲気にどこか不審なものを感じたのはカノンだけではなかったようだが、些細なことに拘泥するほど状況に余裕がない。僅かな違和感は解消されないままに、後で改めて会議の場を設けることを約束し、“
そして、午前7時。
中間層の医療室にいるシェルとエリザにも、無事に連絡が付いた。
「地上に人々を逃がすんですね?」
事態を察したらしいエリザの声で、そう問いかけられる。口調や雰囲気から、どうやら今エリザの身体のなかで主導権を握っているのは、カノンの友人であるロンガのようだ。違和感を覚えたらしいアルシュが眉毛を小さく動かしたのを見て、そういえば、彼女にはまだ話を通していなかったと気がつく。エリザの身体を借りているロンガは、アルシュの古くからの友人でもある。その意識が目を覚まし、今のところはエリザと混ざり合っていない個別の意識として対話に応じてくれるのは、アルシュにとっても朗報のはずだ。
「アルシュ、ちょっと話が」
「ん、何?」
だが、そこまで言いかけて気がつく。
「あ、いや――」
配電系統の向こうには、エリザと一緒にシェルがいるのだ。エリザのなかにあるもう一つの人格については、シェルには伝えない方が良い――とは、他ならぬカノンが言い出したことだった。
「悪いね。後で伝える」
「……そう」
口ぶりから大凡の話題を察したのか、アルシュは静かに腕を組んで頷き、それ以上は何も聞いてこなかった。
*
地上はちょうど、朝焼けの時間だろうか。
暗い医療室の天井を見上げて、ロンガはそんなことを考える。
太陽の照らす土地で生きていたい。ただそれだけの願いを、
だけど、壁の外側――地上と呼ばれる世界は、地下とは表裏一体の不自由さに満ちていた。自分たちの置かれた場所を疑うことは許されず、そこから飛び出すことも許されない。いつか朝を迎えた、あの塔の上の部屋は、そんな新都を凝縮したような場所だった。
そして――足下を支えていた地面ごと、牢屋は、枷は、封印は砕け散って、焼けて嘆いて混濁して、そして今がある。積み上げた昨日の果てにやってくる明日がある。ハイバネイト・シティの危機にあって、違う方を向いていた人々が、いま初めて同じ方角を見ようとしていた。
――上へ。
限りない空を満たす、ひとつの