地下/琥珀の少年
文字数 6,991文字
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新都ラピスは、人口八万の都市である。
中枢都市ラ・ロシェルの人口は二万人ほど。他に六つの街があるが、どれも小規模だ。最小の街であるバレンシアなど、人口は僅かに二千。街と名乗るのも烏滸がましい、村か里がせいぜいと言ったところ。旧時代の人間が見れば、なんと矮小な国家かと笑っただろう。しかし、ラピス市民にとっては、これが世界の全てだった。
地上ラピスから、地表面を隔てて真裏、そこにもう一つ世界があった。
ハイバネイト・シティなどと呼ばれている、こちらの人口は十万ほど。新都ラピスと同じく小さな社会だが、その人口は地上を辛うじて上回る。では、さぞかし華やかで賑やかだろうと思いきや、こちらは暗闇に閉ざされていた。地下の住民たちは皆、名乗るべき名すら持たず、地上の生活を高水準に保つための労働に従事していた。ハイバネイト・シティ――あるいは地下世界は、街そのものが地上ラピスに隷属していたのだ。
青空が高く天に張られる、九月。
ラピスの創都が成されてから三百と四十二年目の秋、ある青年が翻した反旗の風に導かれるようにして、総勢十八万の世界は変わり始めた。
***
記憶とは、あるいは世界の認識である。
何を思ったか。何に憂えたか。何に怒り、何を尊び、何を愛したか。茫漠とした印象の重ね合わせが記憶には刻まれている。そして「自分が何かに対して何かを思った」これこそが自我であり、従って記憶とは、いわば自我そのものであった。少なくとも、金色の瞳と褐色の肌を持ったこの青年――サジェス・ヴォルシスキーにとっては。
その彼は、潰されて掠れた喉で言った。
「俺は革命を起こす。囚われた地底の民を解放する」
相対するのはカシェという名の長身の女性、こちらは長いウェーブヘアと青い双眸が特徴的である。サジェスの言葉を聞いた彼女は「ご自由に」と疲れた声で言った。今、サジェスはカシェに知略でもって勝利し、その対価を差し出させたところである。彼女の大切な友人を人質に取る――という、なかなかに非道な手法だったが、勝利は勝利だ。サジェスは敗者たる彼女を鍵付きの部屋に閉じ込め、さて、と振り返った。
視線の先には湾曲した廊下が続いている。
彼が今いるのはハイバネイト・シティと呼ばれている場所だ。一言で説明するならば巨大な地下居住施設である。収容人数はなんと百万人を誇り、生活の全てを地下のみで完結させることができる。サジェスが今カシェから奪い取ったものは、この施設を自由に管理し、あらゆる処理工程に介入できる権限――一般に総権と呼ばれているものであった。
サジェスは暗い廊下を引き返して、コアルームと呼ばれている、ハイバネイト・シティの管理を行う部屋に赴く。コアルーム入り口には重たい金属製の扉があり、脇に手のひら大のパネルが取り付けられている。サジェスがパネルに手を押し当てると、手のひらの静脈パターンを機械が読み取り、セキュリティロックが解除されて扉が開いた。
カツカツと革靴を鳴らして、彼は部屋に進み入る。
サジェスの目的は明瞭である。地下で人知れず労働力として使役されている人々を解放することだ。しかし、地底の民はおよそ十万と言われており、十万の民の解放など、一朝一夕で達成できるような目標ではない。
とにもかくにも、まずはハイバネイト・シティの全容を把握せねばなるまい、とサジェスは考えた。自分がカシェから奪った「総権」で、一体何ができるのか。それを知らないことには今後の作戦も立てられない。サジェスは操作盤の上に両手を置き、まだ慣れているとは言い難い手捌きで、ハイバネイト・シティの基本情報を壁面のパネルに展開しはじめた。
サジェスがいくつかコマンドを叩くと、全五十層からなる、地下世界の立体地図が表示される。さらに追加の命令を下すと、さまざまな色の線が有機的に複雑な形状でもって地図の上を這った。
「……難解だな」
サジェスは呟く。
ハイバネイト・シティは「包括型」社会維持施設と呼ばれている。つまり、それだけ多くの要素が絡み合って構成されているのだ。立体地図を縦横無尽に行き交っている線は、電気や水や空気、あるいは物資や食糧や居住者の流れを模擬しているのだが、施設の広大さも相まり、とても一目で理解できるような代物ではなかった。
三秒ほど考えたのちに諦め、サジェスはいったんパネルの表示をリセットする。こういった多次元の情報に対しては、視覚的に理解しようとするより、文書で書かれた資料を探すほうが良いだろう。時間は掛かるかもしれないが、おそらくそちらの方が確実だ。サジェスはそう考え、広大なライブラリを探索し始めたのだが、いくらもしないうちに次の問題にぶつかった。
文書の言語が読めないのだ。
書いてある文字はサジェスにも馴染み深いものだが、その羅列に意味を見出せないのである。最初は文字の表示方法が正しくないのかと勘繰ったが違うようで、どうやらサジェスに理解できない言語で書かれているというのが真相のようだ。そう言えば――と、サジェスは取り戻したばかりの記憶を手繰る。一度消去されてから復元された記憶はぼんやりと霞んでいるが、読めない言語という概念が、曖昧な記憶同士を結ぶ糸となった。
「――ああ……そうだ」
こめかみ辺りを押さえて彼は呻く。
「図書館……そう、本を探した。写真入りの――ステンドグラス……」
誰に聞かせるでもなく、強いて言えば自分自身に聞かせるため、サジェスは思い出した断片をそのまま言葉に紡いでいく。ややあって彼は「そうだ」と大きく頷き、同時に、未知の言語に対する記憶を完全に復元させた。
たしか異言語とか呼んでいた。
サジェスが用いている「この」言語とは構造を異にする言語がある、という話だった。すると、サジェスには読めないハイバネイト・シティの文書もまた異言語で書かれている、という推測ができる。もっとも、この地下居住施設を管理しているというAIは、サジェスが口頭で告げた命令を実行してくれるため、異言語が理解できずとも、ある程度のことは出来そうではあるが。
「……しかし、ある程度――では不足だな」
サジェスは呟く。
何しろ自分は十万の民を扇動しようとしているのだ。持ちうる力の百パーセントを発揮することなど、最低条件にも満たない。地下での言語が分からないせいで、できることが制限されるのならば、言語を学ぶほかに選択肢はない。思った以上に手前の部分で躓いたことを悟り、サジェスが浅く息を吐き出したときだった。
ふと、壁の向こうに揺らぎを捉えた。
サジェスは操作盤から手を離し、そちらに顔を向ける。もう一度同じような振動、あるいは音が響いたのを認め、サジェスはコアルームを出て振動の発信源に向かう。聞こえた音はきわめて微かだったが、彼の足取りに迷いはなかった。音ははるか遠かったが、それがどこから聞こえていたのか、サジェスは既に正確に把握していた。
サジェスは、研修生だったころは弓道で好成績を収めていたが、これは、彼が風の流れを読むのが得意だったことに由来する。僅かな情報を捉え、それらを空間的に構成し直す能力に、サジェスは生まれながらにして長けていたのだ。土地勘などあるはずもない地下の道を彼は正確に進んでいき、数分後、一枚の扉に辿りついた。
向こうから音が聞こえる。
それは子どもの苦しそうな呼吸だった。サジェスは天井を仰ぎ、そこに貼り付けられていたスピーカーに「開けてくれ」と命じる。女性の合成音声が「はい」と応じ、即座に扉がスライドして開く。
すると、熱風がサジェスの顔に吹き付けた。
夏でもなかなか無いほどの蒸し暑さに、サジェスは思わず顔をしかめる。正確には分からないが、摂氏四十度を超えていそうだった。管理AIに空調の調整を命じながら、サジェスは灼熱の室内に歩を進めた。
部屋の奥行きは三メートルほど、突き当たりに寝台がある。
パイプ組みの簡素な寝台に薄いマットレスが敷かれていて、そこに痩せた少年が倒れ伏していた。その手首は背中側に回され、金属の手錠で固定されている。呼吸は浅く速く、全身がぐったりとしている。サジェスは彼に歩み寄って声を掛けたが、琥珀色の虚ろな双眸がうっすら開いただけだった。
熱中症の症状が出ているようだ。
この場所にいさせるのは危険だと判断し、ひとまずサジェスは少年を廊下に連れ出すことにする。少年は手錠を付けていて、これがベッドの骨組みと繋がれていたが、管理AIに外すよう要請してみると、壁の一部からロボットアームが出てきて、器用に手錠を外していった。サジェスは少年のぐったりとして熱い身体を背負い、廊下の少し開けたところまで歩いてから、そこで彼を床に下ろした。
少年は目を薄く開いて、サジェスを見る。
その視線には、わずかな安堵が含まれていた。何か呟いたようにも見えた。ひょっとすると少年の方はサジェスを知っている可能性があるが、あいにく記憶はまだ曖昧だった。サジェスは管理AIに水と冷材を手配させながら、少年の姿を観察する。まだ十歳そこそこといった幼い体躯に、柔らかい癖っ毛、琥珀色の瞳。よくよく考えればどこかで見たようで、しかし、思い出せない。
「とりあえず水を飲んでくれ」
言いながら、管理AIに用意させた水筒を差し出すと、少年は小さく頷いて受け取った。倒していた上半身を軽く起こし、水筒の中身を飲み干す。その顔色はまだ悪いが、どうやら復調してきたようだ。あの暑い部屋から迅速に連れ出したサジェスの行動が正解だったのだろう。
とはいえ。あの部屋が異様に暑かったのは、ここが地表から五百メートルの深さであることを鑑みて、おそらく地熱のためだ。普段なら地熱を遮断する機構があるはずだが、これが停止していたとなると、総権の移動に伴ってイレギュラーが発生したと考えるのが妥当だ。したがって少年が生命の危機に瀕するほどの暑さに晒されたのは、もとを正すとサジェスの所為である。そもそもカシェから総権を譲り受けた以上、地下で起きたことの全責任はサジェスにあると言えよう。
したがって恩人ぶる気など微塵も起こらず、逆にサジェスは「悪かった」と言って少年に頭を下げた。
「おそらく、部屋が暑かったのは俺のせいだ。危険な目に遭わせてしまって申し訳ない。それで、だ――貴方のことを訊きたいんだが、まず、貴方は誰だ。なぜあんな場所にいた?」
サジェスはそう問うた。
しかし少年はぽかんとしていた。ややあって、少年は何かを思い出したように目をひとつ瞬き、首を左右に振ってみせる。ん、とサジェスが問い返すと、彼はぱくぱくと口元を動かしながらふたたび首を振った。
「耳が聞こえない?」
首を振られる。
「あるいは、声が出せないのか」
またも、首を振られる。
ふむ、とサジェスは眉をひそめた。素性を語ってくれないのでは、しかるべき場所に戻してやることができない。かといって、まさかこのまま置き去りにするわけにもいかないだろう。何とかしてやりたいのだが、サジェスの目の前には課題が山積しており、少年にばかり構っている時間もなかった。
「……よし」
ひとつ頷き、サジェスは膝を立てる。
とりあえず少年をコアルームに連れて行こう、と考えたのだ。不安げにこちらを窺っている少年の手を引き、立ち上がるように促してみると、ややふらついた足取りではあるが立ち上がった。サジェスが歩き出し、三歩ほど行ってから振り返ると、少年は戸惑った顔をしつつも後についてくる。
二つの足音が湾曲した廊下を進んでいき、数分ののちに二人はコアルームまで辿りついた。先ほどと同様に静脈認証で扉のロックを解除し、所在なさげに佇んでいる少年に、室内へ入るよう促す。少年がコアルームの隅に座り込んだのを見届けて、サジェスは部屋中央のパネル前に戻った。
中断してしまっていた、資料の閲覧を再開する。
資料のなかには、サジェスも理解できる言語で書かれているものがあり、彼はそれを頼りにしてハイバネイト・シティの概略を掴んでいく。知識を体系化して己のなかに取り込み、いつでも引き出せる書庫に詰めていく。
しかし、資料の深部に入れば入るほど、読めない文書の割合が増えていった。
「……どうやら」
ふう、とサジェスは息を吐く。
「地下では、俺の方が少数派らしいな……」
深層に近づくほど増えていく異言語の割合。多くの人間が読むべき資料は複数の言語で書かれ、一部の人間しか目を通さないものは異言語でのみ書かれているという法則に、この段階にしてサジェスは気がついていた。つまり、地下世界では異言語のほうが標準なのだ。異言語などという呼び方には、自分たちこそ多数派であるという意識が潜むが、どうやら地下において異質なのはサジェスの方らしい。
良いだろう、と彼は不敵に口元を持ち上げた。
元より、簡単に目標が達せられるとは思ってもいない。人生さえ捧げるつもりで蜂起したサジェスにとって、言語の壁など、こなすべき課題がひとつ増えた程度のものでしかない。加えて、もともと彼は、正義感と並び立つほどに強い好奇心を持っていた。記憶や思考を紡いでいくシステムとしての言葉、それが世界に唯一ではなかったことに、新鮮な驚きと喜びを感じていた。
しかし。
文法も語彙もまったく分からない言語を、はたしてどのように学ぼうか。何しろ、手掛かりはゼロに近いのだ。ハイバネイト・シティのライブラリは非常に裾野が広そうなので、探せば他の言語を学ぶ指南書などもありそうだが、そこに辿りつくまでの道標さえ異言語で書かれていそうなのだ。
ふむ、と唸って、彼が椅子の背にもたれたときだった。
カタン、と背後で音がした。
軽いものが倒れるような音に、サジェスは視線だけを寄越す。見ると、壁ぎわに座っていたはずの少年が立ち上がり、琥珀色の瞳を大きく見開いてこちらを見ていた。涙を透かして潤んだ視線は、椅子に腰掛けたサジェスではなく、その背後にあるパネルを見つめていた。
「立って平気なのか」
問うが、少年は答えない。
大きく身体を傾けるようにして一歩前進したかと思うと、ふらふらと浮かされた足取りでパネルの方にやってきた。サジェスが椅子を立って場所を譲ってやると、彼は操作盤に両手を突き、食い入るようにしてパネルに目を凝らす。
大きく見開かれた瞼のふちから、涙がひとしずく落ちた。
濡れた琥珀の瞳が、左右に何度も揺れる。左からゆっくりと滑るように右へ、そして、ある地点まで視線を動かすと、素早く左に戻る。少年の視線の運びが意味していることに気がついて、まさか、とサジェスは息を呑んだ。潰れた喉に勢いよく空気が流れ、咳き込みながら、サジェスは少年の肩に手を掛けた。
――読めるのか?
そう問いかける代わりに、サジェスは、異言語が記されたパネル指さしながら首を傾けてみる。少年は一瞬だけきょとんと目を見開いてから、はっとした顔になって、大きく頷いた。煤けたように黒く汚れた顔に――改めて見ると少年はかなりくたびれた格好をしていた――桃色の血色が上っていく。
その高揚が滲んだ表情。
そして、異言語を解する少年。
「ああ……」
――思い出した。
そう、サジェスは少年と会ったことがある。場所は、青空を臨む塔の最上階。そこには二人の人間が閉じ込められていた。瞳を赤く燃やしていた青年と、静かな青色の瞳を携えた若い女性がいた。そうして彼らは、記憶を持たず、己の名前すら知らなかったサジェスに語りかけたのと同様、この少年――異言語しか語り得ない少年にも、言葉でもって通じ合おうと試みていたのだ。
あの昼下がり、優しい光の描像。
そこに欠けていた小さなパーツ――それこそ、この少年だった。
「……そうか、貴方は……ティアだ」
取り戻した記憶の欠片を、衝動に導かれるままサジェスが呟くと、少年――ティアはまたもや大きく跳ね上がった。サジェスのほうにまっすぐ表を向け、何事か早口で並べ立てる。きっとそれは言葉なのだろうが、サジェスには全く理解できない。ティアも少しして気がついたらしく、ふと身体を引いて、恥じ入るように顔を赤くした。
――そして。
困ったように身を竦めていたティアは、ふと動きを止めた。そして少年はゆっくりと手のひらを持ち上げ、サジェスの方に差し伸べる。琥珀色の瞳が、揺らがずにまっすぐ視線を向けてくる。まるで何かを乞うような、それでいて卑屈さのどこにもない、この視線の意味は。
「……俺の、名前か?」
試しに自分の顔を指さしてみると、少年は大きく頷いた。
そうか、と心得て、サジェスは口元を緩くほころばせた。名前は、ひとつの命にひとつ割り当てられた固有名詞だ。ゆえに二人は、たとえ互いの言葉を解せずとも、名前だけは通じ合うことができる。そこまで考えて名を問うたのなら、ずいぶんと利発な子どもだ。
「俺はサジェスだ。よろしく、ティア」
微笑んで手を差し出すと、わずかな躊躇いののち、少年は彼の手を取る。やや覚束ないイントネーションで、サジェス、と呟いて、少年は彼に応えるように笑った。