chapitre143. 宙に揺れる
文字数 6,670文字
喉から絞り出した声は、高い空洞に跳ね返って何重にも反響した。白銀色の瞳を収めている目蓋がゆっくりと持ち上げられて、透けた双眸が、カノンをまっすぐに見つめ返す。身を乗り出して姿勢を下げると、恐怖からだろう、彼女の喉元がびくりと揺れる。首の裏を支えていた手のひら越しに、小さな震えを感じ取りながら、カノンは静かな声でエリザ――の姿を借りているロンガに語りかけた。
「エリザの声で、そう、システムに命じろ」
「……理由を教えろ」
「あんたに
「私――私たちでは、力不足ということか?」
頭を押し下げられて血液が集まったのか、あるいは屈辱のためか、白かった額が血色に染まっていく。
カノンは肯定も否定もせずに、早く、とだけ告げて、さらに姿勢を下げた。
遠い場所で何かが壊れた音がする。
直後に床が揺れて、その振動で彼女の身体がずり落ちる。小柄な身体の、膝から上が全て宙に放り出されるが、それでも彼女は悲鳴を上げなかった。一メートルの向こうから、睨むような縋るような視線で、じっとこちらを見ている。
彼女がこの距離で話してくれるようになるまで、カノンは何年もかかって積み上げた。積み上げたものは、時間、労力、もしくは信頼。嫌われていた他人の立場から、ようやく友達、あるいは仲間と呼べるだけの距離まで近づいた。
なのに、今。
自分自身の手でそれを壊そうとしていた。
*
光のない双眸が、静かに見下ろしている。
ロンガは指をぐっと伸ばして、どうにか床のへりを掴み、揺れる身体を安定させた。しかし、カノンの腕をはね除けて起き上がるには、体格に差がありすぎる。事実上、身体のコントロールが奪われた状況に歯噛みすると、後ろに頭が引かれる感覚と共に、エリザの気配を感じ取った。
「どういう状況、これは」
ただならぬ事態を察知したらしい、エリザの意識がすぐ隣まで浮き上がり、厳しい口調でロンガに問いかける。
「貴女、何をしたの。彼は味方でしょう」
「私にも、さっぱり――ただ、総権を彼に譲るようにと、突然」
「なぜ」
「分かりません」
数秒、エリザは沈黙した。
「どういう心変わりか、知らないけれど――それで彼が満足するなら、そして私の身体が落とされずに済むなら、譲ったらどう」
「いえ……落とす気はないようですね」
床板に辛うじて引っかかっているエリザの膝下に、カノンの体重が掛けられているのが分かる。混乱して暴れたときに、エリザが落ちないための保険だろう。彼はただ、ロンガたちを脅して、物事を強引に進めようとしているだけだ。
ただ、そんな状況証拠などなくても、ロンガはカノンの人柄を良く知っている。
「無意味に、誰かを傷つけるような人じゃないですから。私が話してみます」
「リュンヌ――貴女ね」
ロンガの本名で呼びかける、エリザの声は、壊れる寸前の水滴のような響きを伴っていた。
「
「エリザ……違います」
「
「違う……ここしか
「――それは」
エリザが言い淀む。
分枝世界に置いてきたロンガの身体に、一度、意識が帰りかけたことがある。そのとき、ロンガは自身の手で心臓を切り裂いた。自分の身体が死んだ瞬間を見届けたわけではないが、あれだけの傷を付けて、まったくの無事であるとも思えない。
「エリザの身体が死ねば、私の意識だって、消えてしまうと思います。でも、その可能性を考えても、やっぱり結論は同じです」
「いえ……そうなのね。貴女は――」
「なんでしょうか?」
言葉の最後を濁された気がして、問い返すが、エリザは首を振った。
「なんでもないわ」
そして、壁一枚を隔てた背後――くらいの距離まで、エリザは意識を遠ざける。
「分かった。そこまで言うなら、貴女に任せる」
エリザの言葉に頷き返して、ロンガは意識を外界に戻した。床が、壁が、エリザの身体が揺れている。視界の上の方で静止している昇降装置の底面も、垂直方向に長く這ったケーブルも揺れている。
そのなかで唯一、こちらを見ている不動の視線がある。
「――カノン」
強ばった喉に力を込めて、その名前を呼ぶ。
「私たちが総権を持つべきではないと、そう、考えてるんだな?」
「……そうだよ」
「理由は。私利や名誉じゃないだろ」
「良いから、早くしろ。第二波が来る」
教える気はないようだ。
仕方ないので、自分で考えることにする。
カノンの言うとおり、ハイバネイト・シティの全域を揺るがす権力が、エリザという小柄で虚弱な女性に集中していることは、たしかに危険ではある。
だが、カノンに権限を動かしたところで、そこまで違いはないだろう。いくら彼が頑強と言っても、結局はただの人間である。肉体的な限界は、巨視的に見ればエリザもカノンも大差はない。
それに、何よりも。
「カノン、忘れたのか」
このハイバネイト・シティには、エリザにひとりの人間以上の意味を見出す人々がいる。
「前に話したことじゃないか。エリザの姿だから“
床が小さく揺れ始めて、
「強大な権力を持っていても、いちばん安全なのはエリザだって――話しただろ。さっきのが、軽率な行動だったと言われたら、たしかにそうかもしれないけど……だからって、総権を動かすのはダメだ。カノンの身を危険に晒すことになる」
ぴしりと、裂ける音が壁を伝う。
昇降装置の底面が、ケーブルがちぎれる嫌な音とともに傾いた。上下左右に振動が広がっていくなかで、首の後ろを支えている腕が、むしろ頼もしい。信頼している仲間をじっと見つめて「だから」とロンガは言葉を続けた。
「引き上げてくれ。その提案は間違ってる」
カノンは答えなかった。
昇降装置の底面が、再び傾く。装置内の床の角度は、もう人が立っていられないほどの勾配だろう。外れた部品らしき塊が、顔のすぐ横を掠めて落ちていった。昇降装置が落ちれば、その真下に身体を突き出しているエリザも、彼女を支えているカノンも、巻き込まれて死ぬだろう。
できるかぎり冷静な声で呼びかける。
「カノン、もう良いだろう。これ以上は、本当に、お互い危険だ」
顔は影に飲み込まれて、カノンの表情はほとんど見えない。非常灯の照り返しのなかに、苦しそうに歪んだ口元だけが、どうにか見てとれる。
残ったケーブルが千切れていく、プツプツという音が聞こえた。
「カノン!」
ブチッと、ひときわ大きな音。
スローモーションのような動きで、装置の底が迫ってくる。その影が前髪を掠めると錯覚した瞬間、エリザの身体は勢い良く持ち上げられて、反動で通路に倒れ込む。
数秒ののち、背後で轟音が響いた。
脇腹の傷を庇いながら起き上がり、乗り組み口に近づいて見下ろすと、最下層まで落ちたらしい昇降装置の天井がちらりと見えた。
現況を確認して、ロンガは横に視線を向ける。額に汗をかいている彼は、気まずそうに視線を逸らした。その隣に腰を下ろして、なあ、と話しかける。
「……分かってなかったわけじゃないよな。真祖として崇められてるエリザだから、総権を持っていても安全だって、教えてくれたのはカノンだろう」
まだ、エリザの身体に入り込んだロンガが自身の正体を明かす前ではあるが、カノンとそんな話をした。
「自分でそう言ったのに。どうしたんだ」
「まあ、そうだけど……あの状況で、よく、そんなところに頭が回せたね」
「だって……悪いけど、あれは全然、脅しにならないよ」
ロンガが首を振ると、カノンは少し驚いたように瞬きをしてみせた。
「あんたの身体じゃないから、死んでも問題ないってことかい」
「違うよ。エリザと同じことを言うんだな……私は、他人の身体を借りてる分際で、そんなに無責任な行動をする人間に見えるのか?」
「じゃあ何故――」
「だって、カノンはそんなことしないだろ」
「……え?」
まるで時が止まったような、間の抜けた返答。力の籠もっていない無表情が、石像と見
「違うのか?」
ロンガが眉をひそめてみせると、いや、と口ごもって、カノンは向こうを向いた。
「――そうだよ」
長い沈黙の後に、ぽつりと答える。
「あんたを傷つけるつもりはなかった」
「だよな。カノンがそんなことするわけない。その、高い場所は流石に怖かったけど、不安じゃなかった。絶対、助けてくれると思ったから」
「助ける、って……危険な場所に追い込んだのも、俺なのに」
「それはそうだけどさ」
どこか話を逸らすカノンの癖が、なんだか懐かしく思えて、ロンガは苦笑を吐き出した。
*
まだ笑ってくれるのか――と、それに驚いて、カノンは振り返った。まだ研修生だった頃の、本来の彼女を思い出す三つ編みを背後に流して、隣に座り、両足を投げ出している。
言わずもがなカノンは、総権が欲しかったわけではない。人によっては、喉から手が出るほど欲しい権力なのかもしれないが。それこそフィラデルフィア語圏の人々が、シェルとアルシュを人質に取ってまで、総権の譲渡を主張したように。
強大な権力であることは確実だ。
それゆえに危険を伴うことも事実だ。
まだ“
それを差し引いても、尚。
「なあ、何かほかに理由があったのか?」
彼女が、エリザの顔を被って、首を傾げる。
「私だって――さっきのに反論してくれれば、カノンの主張に正当性があるなら、総権を譲渡するけど」
「いや、もう良いよ」
誤魔化して笑う。どれだけ問い詰められても、あんな強引な真似をした、本当の理由を口に出す気はなかった。
痛みに倒れ込んだ彼女が、どうにか笑って見せたときに、頭のなかで何かが弾けた。
総権という責務に縛られて、彼女がこんな危険な場所にいることが、とつぜん、耐え難く思えたのだ。ひとつの身体にふたつの意識が同乗している、イレギュラーな存在ではあるけれど、総権を手放してしまえば、
「教えてくれたって良いだろう」
「衝動的にやったんだよ」
「そんなに無鉄砲な性格じゃないだろ……」
彼女が溜息を吐いて、膝を引き寄せる。
しかし、衝動的な行動だったのは本当のことだ。彼女の言うとおり、どちらかと言えば慎重な自分が、ほとんど間を置かずに行動したのは、珍しいと言えば珍しい。何故だろう――と、初めて問いを立てる。
「ああ、そうか」
すると、すぐに分かった。
問うまでもないほどの簡単な問題だった。最初からそこにあった結論が、ようやく言葉になる。
「俺があんたのことを好きだからだ」
「なっ――」
浮かんできた言葉をそのまま口に出すと、彼女は面白いほど動揺してくれた。今度ははっきりと、羞恥によるものだと分かる反応で、顔を真っ赤にする。
「そう言えば煙に巻けると思ってるのか」
「いや……わりと本当だよ」
「あのさ……私、あの晩、ちゃんと断ったつもりなんだけど――」
座ったまま背後にじりじりと下がりながら、彼女が決意したように顔を上げる。
「私ひとりのために生きたいって言っただろう、あれ、ごめん、嫌なんだ。いや、人を愛することがダメなんじゃなくて……私の周りにも、そういう人はいるし……でも、カノンのはちょっと性質が違うと思う。その――自滅的というか、自己犠牲というか」
「――まあね」
危険を伴う総権を譲り受けようとしたのは、まさにそれだった。
「えっと、そういう感情を持つのは、個人の自由なのかもしれないけど……でも、それが私に向けられる限り、私は、ダメだって言うからな」
「じゃあ、俺がそういう性格を克服したら、どうする。応えてくれるかい」
「それは――ごめん。友達でいて欲しい」
「だろうね。知ってたよ」
訊ねる前から分かっていたから、思ったより悲しくはなかった。カノンは背後のポケットに手を回して、
「貸しておくよ。シェル君たちに連絡を取って、合流できないか打診してみてくれ」
「あ、ああ、分かった――カノンは?」
「俺はコアルームに行く。ケーブルを辿ってここから降りる」
「分かった。気をつけてくれ」
彼女は頷いて、傷口の開いた脇腹を庇いながらも、片手を振って見せる。姿形は変わって、関係性のあり方も変わったが、彼女が彼女であるという事実は変わりなくて、それが嬉しかった。
背を向けてから、次はいつ会えるか分からないと気がついて、カノンは振り返る。もうひとつだけ、言葉にしておきたいことがあった。
「初めて好きになったのが、あんたで良かったよ」
「――あら」
「あの……今のあんたはどちらですか」
「ああ、その――間の悪い娘が、失礼なことをしてごめんなさいね?」
「いや……! そこで変わるのはずるいでしょう」
思わず額を抑える。
「すみません。どうか聞かなかったことに」
「今の一言だけなら忘れることもできるけど、もう色々と聞いてしまったわ」
「はぁ、そうですか……どこから?」
「貴方に空中に吊された辺りから、かしら」
「全部ですか。あ、というか、その――」
情報処理が追いつかず、調子が外れかけた声を、ひとつ咳払いをして整える。固い床に膝をついて、まっすぐ頭を下げた。
「貴女の身体に、手荒なことをして、本当にすみませんでした」
「ああ――そうね、正直焦ったけれど」
言葉とは裏腹に落ち着いた声で、エリザが前髪を払いのける。
「でも、あの子が言ったとおり、本当に落とす気はなかったようだから、別にもう良いわ。ねえ……もしかして貴方、私たちを、総権から自由にしようとしたの?」
「……そうです」
彼女の娘とは違って、エリザはカノンの真意を鋭く見抜いて見せた。謝罪のために下げていた頭を少し持ち上げて、頷いてみせる。
「
「お気遣いをありがとう」
エリザが微笑んでみせる。
「でも私、ここまで来て、投げ出す気はないわ。きっと、あの子も同じ」
「そうですか。いや――そうですよね」
「ええ。貴方やカシェや、みんなのこと、仲間だって思ってるのよ。ひとりだけ特別扱いされたくはないってことよ」
「すみません、俺は余計なことを――」
「でも」
カノンの謝罪を遮って、エリザが悪戯っぽく微笑んでみせる。
「好きってそういうことよね。特別扱いしたいのよね」
「まあ――」
自分はからかわれているのかと疑いながらも、結局は素直に頷いてしまった。
「そう、ですね」
「良かったわ。あの子、良い人に好かれたようで」
「とっくに振られましたよ」
「ええ、聞いてたわよ」
エリザは頷いて、そうだ、とひとつ思いついた顔になる。カノンを片手で招いて、耳を近づけるようにジェスチャで示す。言われるままカノンが耳を寄せると、エリザはほとんど風音のような囁き声で、一連のとある話を語った。
驚いて、思わず目を見開く。
「本当ですか」
「ええ、分枝の私から、ちゃんと聞いたことよ。まあ、後半は推測だけど――リュンヌは知らないようだけど、貴方には伝えておくわね」
「聞き届けました。でも、それは――良かった、と言っていいんですかね」
「さあ……」
エリザはあごに人差し指を添えて「それはあの子次第ね」と付け足した。