chapitre110. 第八の分枝
文字数 7,351文字
――第8の分枝世界
ロンガが次に目覚めたとき、薄いピンク色の巨大な影がこちらをのぞき込んでいて、思わず息を呑んだ。喉に何かが絡まり、咳き込みながら起き上がると、それは4本の金属の腕を備えたロボットだった。
ロンガが目を見張ると、頭部とでも呼ぶべき場所に設けられた赤に近いピンク色のライトが点滅する。
『おはよう、リュンヌ。この子の案内に従って、出て来てくれる?』
エリザの声だ。
過去にやってくるときに痛めたのか、ギプスで固定されている腕を庇いながら、少し倦怠感の残る身体を起こす。着崩した服を直していると、ロボットが同じ台詞を繰り返した。あくまで録音された音声のようだ。一本足のロボットは、跳ねるような動きで滑らかに移動して、部屋の扉を開けてくれる。
「もう抗体検査は終わったのか?」
問いかけてみるが、返事はよこさない。どうやら会話応答のシステムは組み込まれていないらしい。ロンガが部屋から出るのをひたすら待っているようなので、気がかりではあったが扉を通り抜けた。通路に出て振り返ると、ロボットは器用に頭を屈めてこちらにやってくる。
それの後を追いかけて、しばらく通路を歩いた。見覚えのある間取りと出会って、やはりここはハイバネイト・シティ居住区域と同じ場所なのだ、と確信する。もしかしたら以前に通り過ぎていたかもしれない場所を、過去にやってきた今、再び歩いている。
暦と記憶が交錯しているのだ。
これが時間を遡るということか、と今更ながらに理解する。それと同時に、異様なほど冷静に事実を捉えている自分にも気がつき、不思議に思った。
「ああ、抗体と一緒に……少し鎮静作用のあるお薬を打ったの」
食堂のソファに腰掛けて、エリザが申し訳なさそうに微笑んだ。ロンガが眠っているうちに抗体検査が終わっていたらしく、もう彼女と同じ空間を共有しても問題ないと判断されたようだ。不自由な腕でもう片方の腕に触れると、少し腫れていた。眠っているうちに注射を打たれたということらしい。
「勝手に、ごめんなさいね」
「いえ、おかげで……あまり悲観的なことを考えずにいられる気がします」
「良かった」
エリザは穏やかに微笑んで、シトロンと呼ばれているロボットから白い磁器のスープ皿を受け取る。薄いイエローのボディから、その名前を付けたようだ。シトロンはロンガの前にも朝食を並べ、器用に動くロボットアームを内部に格納して遠ざかった。
エリザはスプーンを口に運んで、それから視線をロンガに戻す。
「
「エリザは本当に、何の比喩でもなく……たったひとり、なんですか」
「ええ、仲間と呼べるのはこの子たちだけ。シトロンと、貴女をここまで案内してくれたカシス、自立移動型データベースのプラリネ」
呼ばれた名前に反応してか、彼女の背後に控えている薄いピンク色のロボット、カシスがくるりと頭部を回転させた。それに応じてから、エリザがこちらに向き直る。
「七人の、貴女が祖と呼ぶ人たちはね、眠っているの。貴女の母親がそうであったように……自分の時計を遅らせて、新時代を待っている。あれより、もっと完璧な技術よ。身体をまるごと凍らせてね、肌の細胞ひとつまで年を取らないの」
プラリネ、と彼女が背後に呼びかけると、子供ほどの背丈があるロボットがこちらに向かってきた。近くにいたカシスやシトロンが、まるで挨拶をするように電子音声を発する。頭部に液晶パネルを備えたプラリネをエリザが操作すると、デジタル表示の時計が表示された。
「あと、およそ50年。これは私の未来視に基づいて設定された、人工冬眠が解除されるまでの時間。安全性を見込んで、多少長めに設定したけれど……そのくらい待てば、地上は生活可能なレベルの気温に戻ると考えられるの」
「50年ですか……」
いたずらに待つにはあまりに長く、子孫を残そうと考えるにはやや短い時間だ。だからこそ彼らは、生命凍結――いや、人工冬眠を選択したのか。
「あれ、でも」
ロンガは嫌な寒気を覚えて、目の前で微笑む女性を見つめた。
「どうしてエリザは眠っていないんですか」
「……何故だと思う?」
背筋がぞくりと冷える。
未だかつて見たことのない冷淡な笑みを、エリザは浮かべていた。
「寒冷化の終わる時期さえ知れば、彼らにとって私はもう、用無しなのよ。だから、私のためのカプセルは用意されなかった。代わりに彼らの番人をしているのね」
「それは……あまりに、非道では」
「いいえ、関係ないの。彼らには正義がある。優秀な彼らこそ後世に生き残るべき、という正義がね」
エリザは淡々と答えて、珈琲カップに口を付ける。彼女が穏やかな口調を崩さないのが、かえって恐ろしくすら感じられた。
「私が寿命で死ぬ頃、彼らは目覚め、そして公用語を巡って争いつつも新時代を築く。そんな未来図を描き、貴女が祖と呼ぶ人間たちは眠りについた……あら」
ロンガの頬に涙が伝ったのを見て、エリザは小さく微笑んだ。鎮静剤の効果だろうか、心は凪いでいるのだが、静かな悲しみが胸に満ちていた。
「泣いてくれるのね」
「だって、そんな。利用するだけして、使い捨てるなんて」
「あの人たちの作った世界で生まれ育っても、そんな、優しい心を持てるのね」
「エリザ……怒っているんですね」
「ええ。とても」
空になった食器を脇に避けて、エリザはテーブルに頬杖をつく。口元は薄く微笑んだままなのに、まとう雰囲気は冷たく張り詰めていた。微笑みの裏に真意を隠してしまう人間をロンガは何人か知っているが、彼女もその部類に入るのかもしれない。
エリザは閉じていた目を開いて、少し頬を緩ませた。
「でもね――この世界の彼らがあんなに自分勝手なのも、全てはD・フライヤの思し召しなんだと思う。他の分枝ではもっと、優しいもの」
「そうなのですか?」
「
「あ――確かに」
他ならぬエリザの名前を冠した管理AIや、エリザの外見を模したインターフェイスを思い出して、ロンガは頷く。
「私のいたラ・ロシェル語圏でも、システムに貴女の名前や肖像が使われていました」
「ええ。だから彼らをあまり恨むのも、どうかとは思うけれど……超越的存在のせいだから、と割り切ってしまえるほど、人間ができていないわ。ごめんなさいね、貴女の尊敬する人と同じ顔で、こんなことを言って」
「……いえ」
ロンガは首を振った。
今までずっと、エリザの表情と言えば笑顔しか知らなかった。何があっても、何を言っても常に上を向いていた口の端、優しく緩んでいた目尻。悲しみに引きつったり、怒りに歪む様子なんて想像すらできなかった。だけどエリザが後ろ向きの感情を持っていなかったわけがない。ロンガに見せようとしなかっただけで、苦しみも憤りもしていただろう。
その当たり前に、今初めて思いを馳せた。
「今のお話を聞いて――私の中でようやく、エリザという人が人間になったように思いました。当たり前の感情を持った人間なのだ、と」
ある意味ではロンガこそ、誰よりも彼女を神格化していたのだ。それを噛みしめてロンガが俯くと、そう、と彼女は苦笑した。
「そう言ってもらえると……嬉しいわ」
「嬉しい、ですか?」
「ええ。時々、自分が本当に人間なのか、分からなくなるものだから」
エリザはそう言って、近くに寄ってきたシトロンに空の食器を渡した。シトロンは頭頂部の円形トレイに器用に食器を積み上げて、片付いたテーブルに別の皿を置いた。丸っこいパステルカラーのお菓子が、綺麗に並べられている。エリザはひとつを摘まみ上げて口に運び、貴女もどうぞ、とロンガに勧めてくれた。
「ありがとうございます」
見覚えのないお菓子だが、上品な甘さのなかに果実の風味が感じられて美味しかった。以前に食べた、甘ったるいだけの携行食とは大違いだ。ロンガがその美味しさを称えると、そうでしょう、とエリザはどこか自慢げに微笑む。
「私、これが好きなの。貴女が気に入ってくれるなら、明日からも用意するわ」
「――明日からも」
その言葉が妙に気にかかった。
エリザは一瞬だけ不思議そうな表情を浮かべ、それから嘆息する。
「ああ……ごめんなさい。まだ受け入れられないわよね」
明日からも、ずっと。
あのラピスとは遠く離れた、ここで過ごすしかない。
考えないようにしていた事実が、ロンガの胸に重たくのしかかった。
地上は雪に閉ざされており、過去と未来を行き来する手段は絶たれた。エリザとたった二人、この孤独な地下で過ごす以外に道はない。身体がずっしりと重たくなり、椅子のクッションにどこまでも沈んでいくような錯覚に襲われる。
身体が震え出す。
エリザはスカートを払って立ち上がって、ロンガの隣に座り直し、肩に手を置いた。
「あ、あぁ、私は――」
「今はあまり、考えすぎないほうが良いわ。そのうちに受け入れられるから」
「嫌です……嫌だ、そんなのは」
「ええ、嫌よね。分かるわ」
エリザの声も途中から涙混じりになり、ロンガの肩に手を回して抱きしめた。彼女の腕は暖かいのに、身体の芯が凍りついてしまったように冷たい。飲み下したばかりの甘いお菓子が突然、おぞましい味に思えてきて、食道を何かが逆流する感覚に思わず口を押さえる。
何か囁かれたかと思うと、首の後ろにチクリと痛みが走る。一瞬だけ浮遊感が全身を包み込み、次の瞬間に固い腕に抱きかかえられた。
身体が張り裂けそうなほど膨らんだ感情が、あっという間に凪いでいく。侵食されるように狭くなった視界で蜂蜜色の髪が揺れて、白銀色の濡れた瞳がのぞき込んだ。
「こんなことをして、ごめんなさい」
シトロンのトレイに、エリザが注射器を戻すのが見えた。カシスの
「何を……したんですか」
「少し、お薬を。どこか痛かったり、気分が悪かったりしない?」
「いいえ……」
身体の感覚が戻ってきて、椅子から落ちそうになっていた身体を立て直す。先ほどまでの感情の波が嘘のように、心が静まり返っていた。エリザが先ほど言っていたのと同じ、鎮静作用のある薬を打たれたのだ、と冷静に考えられる程度には余裕が戻ってきた。
「感情の振幅を抑える薬、ですか」
「ええ、そう思ってもらって良いわ。中毒になってしまうから、あまり使いすぎてはいけないのだけど……今の貴女には、必要に見えた」
「そんなに――酷い有様でしたか」
「そうね……」
気を遣った表情ながらも、エリザは頷く。
「心の動きを無理やり抑えつけるだなんて、野蛮かもしれないけど。だけどね、貴女をあのまま放っておいたら、それこそ心が消えてしまうと思った」
「私の母親だったエリザのように、ですか」
「ええ。案外簡単に、心なんて壊れてしまうわ。それに――これは、私のエゴなんだけど、やっと出会えたお友達を失いたくなくて」
彼女の申し訳なさそうな眼差しを受け止めながら、先ほどまで自分の中にあった感情に、ロンガはぼんやりと思いを馳せた。底なしの大穴に落ちていくような感覚だった。骨と肉を皮で包んだ身体が、蒸発して消えてしまう錯覚さえあった。
エリザが悲しげに呟いた。
「ここには、苦しみを紛らわせるものが少ない。賑やかなお喋り、暖かい陽射し、友達や恋人、そのどれもない。だから、抑えつけてしまうしか方法がないのよ」
指を折りながら、世界で一番孤独な女性が言う。
「それでも、リュンヌ、貴女が望むならこんなことは止めるわ。どちらが良いかしら」
「私は……」
ロンガは強く目を閉じた。
元から、あまり器が大きい方ではない。
少し衝撃的なことがあっただけで動揺して、いつも通りに行動できなくなる自分の性格を、ロンガはここ数年で思い知った。
そんな自分が、真正面から事実を受け止められるとは、とても思えなかった。エリザが警告するとおり、巨大な悲しみに食い潰されてしまうだろう。心が焼き切れて、抱えきれない感情を涙として流すだけの存在になってしまう、そんな予感がした。
「消えてしまうのは……嫌です。それよりは、まだ、薬品に頼ってでも生きていくのが良いのかも知れません」
「ええ……そうよね」
どこかほっとした表情で、エリザが頷いた。彼女自身もそういう生き方をしているからこそ、ロンガが同様の意志を示したことに安堵したのかもしれない。
「それに、貴女がここにいるのはD・フライヤの思し召しでもある。貴女には
「役割、ですか」
「そう。D・フライヤは人類の存続を願っているわ。だからおそらく、人類の未来を救うために、貴女はここにやってきたのよ」
「そんな……押し付けられた役割なんて」
果たす気はありません、と続けようとした。
だが、そこで思い出す。
「……分かりました」
言葉を飲み込み、ロンガは静かに頷いた。
「
「ずいぶん毛嫌いしているのね」
エリザが苦笑する。
「D・フライヤは確かに、非情な存在だわ。人間ではないから、情を期待するだけ無意味だけど……でも私たちを守るつもりだけはあるみたい。まあ、分枝世界のどれかが残れば良い、という意味だけどね」
彼女は自律歩行型データベースのプラリネを呼び寄せて、液晶パネルに樹形図を表示させた。8本の枝がほぼ同じ場所で分岐しており、それぞれの枝が平行世界に対応しているのだろう、と推測できる。
エリザはひとつの分枝を指さして、口元を強く引いた。
「この世界……第8の分枝が生み出されてしまったということは、おそらく、他の7つの世界はどれも
「失敗? どういう意味ですか」
「
言葉の重さと反して冷静な口調が、そう告げる。
「社会として滅びるということよ。貴女の右眼を通じて、私も多少そちらの様子を見ていたのだけど……生命の誕生を司る技術が失われたのよね。だからこそ」
エリザはそこで一息ついて、ロンガの顔をじっとのぞき込んだ。
「D・フライヤは、私たちに賭けてみたのではないかしら」
「でも……他に6つの分枝があるんですよね?」
「ええ。
彼女がプラリネを操作すると、画面の端まで伸びていた7本の枝が半ばで途切れた。
「電力の供給源がなくなる。統治機構が完全に消える。食糧が絶対的に不足する――色々な原因で、分枝は存続不可能と判断され、D・フライヤに切り捨てられていった。これはどれも創都340年を過ぎての出来事なの」
「最近ですね」
「貴女の感覚で言えばね」
「どうして、そんなに同時に?」
「分枝によって多少の前後はあるのだけど、ラピスが水没するのは大体同じ時代なのよ。その危機を乗り越えようとして、どの分枝も悉く失敗していった。非常事態になって、ラピスという共同体そのものの歪みが現れてしまったのね」
一息にそう言って、だからね、とエリザは微笑んだ。
「長期的に見て、人類を存続させるためには、ラピスを作らせてはならない。D・フライヤが言っているのはおそらく、そういう意味なの」
「そんな――」
「リュンヌ」
目を見開いたロンガとは対照的に、穏やかな表情でエリザは微笑んだ。
「この分枝はどのラピスにも繋がっていない。貴女は、そして私は、ここで全く新しい世界を作っていかないといけない」
「新しい、ラピスではない――文明?」
「おそらく、それがD・フライヤの示す因果」
彼女は胸元で指を組んだ。
力を込めた手の甲に、うっすらと骨が浮き上がる。
「貴女が祖と呼ぶ、七人の人間が作ったラピスは、どれも失敗したの。新時代を作るべきは、
「……待って下さい、エリザ」
とてつもなく嫌な予感が胸を駆け上がって、ロンガは彼女の言葉を遮った。
「恐ろしいことを、言おうとしていませんか」
「そうね。この世界は、七語圏のどれとも違う未来に辿りつかなければならない。この意味が分かるかしら?」
エリザは目をゆっくりと見開く。
白銀の瞳は、悲壮なまでに力強かった。
「私たちは、眠っている彼らを……殺さなければならないの」