レプリカは色鮮やかに
文字数 11,012文字
毎日飲むように、と処方されたタブレット型の錠剤だ。後から知ったのだが、エリザが入院させられたのは、身体的な怪我のためというよりは、自殺未遂に対する経過観察という側面が強かったようだ。精神に作用して不安を取り除く薬、ということらしいが、効いているのか効いていないのかよく分からない。
ただエリザは、叶うなら二度と、屋上から落ちるような真似はしたくないな――と思うようになった。これが薬の効果なのかどうかは不明だ。だが、D・フライヤの言うとおり、エリザが死ねない存在として設計されているのなら、死のうとする試みは必ず失敗に終わる。それだけでなく、周囲の人間が巻き込まれて甚大な被害が出る。それを良しとしない程度には、健全な精神を取り戻した――ということかもしれない。
一週間後に退院が許され、エリザは病院をひとりで出た。
ハイバネイト・シティ最寄り駅までの交通費だと言われて、薄い封筒を受け取る。中身を改めると、百ユーロ札が一枚入っていた。メトロの駅までは病院の関係者に送ってもらい、地下の駐車場から駅のコンコースに入る。
エリザは初めて一人で地下街を歩いた。
夕食までにハイバネイト・シティに戻るように、とプロジェクトリーダーのニコライに言われていたが、駅員に尋ねてみると、夕食どころか昼の少し前くらいには最寄り駅についてしまうようだった。また、交通費としてもらった費用も、片道切符を買うのに必要な値段を大幅に超えていた。
「で、どうすんの。買うの、買わないの」
切符売り場のデスクに肘を突いて、億劫そうな顔の駅員が尋ねてくる。エリザは「すこし考えます」と言って、いったん窓口を離れた。地下通路の片隅に掲示されているメトロの路線図を、エリザはぼんやりと見上げる。複雑に交差しているカラフルな線と、名前だけはおぼろげに知っている駅名が、びっしりと書き付けられていた。
「難しい……」
エリザはひとり言を呟く。
ハイバネイト・シティの最寄り駅に戻るだけなら、駅員に行き方を尋ねれば済む。だけど、こんなにたくさんの行き先があるのに、ただまっすぐ帰るのも何だか勿体ない気がした。かといって他の目的地もないのだが、ハイバネイト・シティの最寄り駅への切符を買ってしまえば帰る以外の選択肢がなくなってしまう。それが嫌で、エリザは路線図の前で立ち尽くして動けないままでいた。
どこかに、寄り道をしてみたかった。
せっかく時間とお金があるのだ。こんな機会、次にいつあるか分からない。人工冬眠のカプセルに入ってしまえば、五十年が経って目覚めるときには、メトロも地下街もなくなっている可能性が高い。別に、この世界に何か思い入れがあるわけじゃないけど。そもそもこの世界はD・フライヤの作り出したレプリカなのだから、意味なんてないんだろうけど、エリザのために作られた世界を否定してしまうのは、それはそのまま、エリザ自身を否定することのような気がした。
「――あ」
ひとつ、覚えのある駅名を見つけて、エリザは瞬きをする。
それは、事情聴取のために病室を訪ねてきた警官が教えてくれた駅名だった。運賃表を調べて、手持ちの金額で十分に足りることを確認してから、エリザはメトロの窓口に引き返す。先ほどの駅員に、途中の駅に寄ってから帰りたいと伝えて、対応する切符を発行してもらった。駅員は切符を手渡してから、相変わらず無愛想な表情で「券売機があるんだから、次からはそれ使いなさいね」と言った。
***
メトロに乗り、それから地下通路を歩く。
四十分ほど掛けて、エリザは目的地に辿りついた。古びて傾いた看板に書いてある文字を見て、間違いなく目的地に到着できたことを確認し、一安心する。両開きのガラス扉を押し開けると、受付のカウンターがあって、向こうに座っていた事務員が片目を細めた。
「面会?」
「はい」
エリザは頷く。
そこは、ユーウェンが入院していると教えられた病院だった。D・フライヤに「もっと彼のことを頼りなよ」と言われたから――というわけでもないが、何となく、ユーウェンに会って話がしたかった。どうして例のオフィスビルにいたのか、とか、どうして「逃げろ」と言ってくれたのか、とか。聞きたいことが色々あったのだ。
「えぇと……」
入院患者への面会というものを、エリザはしたことがない。
「あの、お金とか、掛かるんでしょうか」
「代金は要らないよ」
メトロで払った運賃のお釣りを入れた封筒を覗きこみながらエリザが尋ねると、呆れたようなトーンで笑われる。そんなことも知らないのか、と言われているようだった。
「どなたの面会?」
「朱・宇文さんという方の」
「あー、ちょっと待ってね……」
あごを引っかきながら、事務員が目の前にある端末を操作する。ディスプレイは向こうに向けられているので、カウンターの外側にいるエリザには見えないが、凄まじいスピードで指が動いているのは辛うじて見て取れた。
「はいはい、シュウさんね。とくに面会の制限とかは出てないんですけど、面会時間がまだだから、ちょっと待ってもらうよ」
「えっと……どのくらい、待ちますか」
「面会時間は午後一時からなんで、まあ三時間ほど」
「三時間……」
それは「ちょっと」の範疇ではない気がする。
とは言え、今さら「じゃあ帰ります」と言う気にもならず、エリザは大人しく面会時間まで待つことにした。事務員が「これ」と言って、小さなアクリルの板を手渡してくる。手のひらに収まるほどのサイズで、三桁の数字と、病院の名前が刻字されていた。
「後でこれを出してくれれば、すぐ案内できるから」
そう言って病院を出るように促される。
カウンターの奥には、ソファが並んでいる待合室らしき空間もあるにはあったが、三時間はただ座って待つにはあまりにも長い。周囲の地下街でも散策して時間を潰してきなよ、という意図らしかった。
地下のコンコースを、エリザはゆっくり歩く。
アーチ型の天井に人工照明の白が柔らかく反射しており、地下通路ながら暖かみがある空間だった。幅の広い道の両サイドに、小さなテナントがたくさん並んでいた。七割ほどはシャッターが降りていたが、まだ営業しているものもいくつかある。ベーカリーやファストフード、あるいは銀行の端末といった、生活に直結するものほど廃業を免れているようだ。
頻繁に立ち止まって店舗をじろじろ眺めながら、とくに買い物をするわけでもなくゆっくり歩いているエリザを、店員たちが不審そうに睨んでいた。
交通費として受け取ったお金は、まだかなり残っている。
差額でなにか買うくらいのことは許されるのでは――と密かに目論みつつも、自由に買い物をしたことがないエリザは、いったい何にお金を使ったら良いのか、まったく見当が付かなかった。そもそも、一ユーロにどのくらいの価値があるのか、一回の食事に平均していくら掛かるものなのか、そういう金銭感覚をまるで持っていなかった。
「……私」
突き当たりを引き返して、エリザは呟く。
「なにも、知らないんだな……」
ほんとうに、吃驚するほど自分は無知だった。
誰にも教えられなかったのだから、知らなくて当然だ――と開き直るのはたやすい。実際、学校にも通えない半生だったのは事実だ。それはエリザの責任ではなくて、ハイバネイト・プロジェクトの、あるいは社会のせい、もっといえばD・フライヤのせいだ。
だけど。
今までエリザは、何かを知ろうとしてこなかった。
難しいことや複雑なことから、目を背けてきた。先鋭技術を注ぎこんでいるらしいハイバネイト・プロジェクトの子細だって、エリザは誰にも尋ねたことがない。資料室にはたくさんの本があるのに、読もうと思ったこともない。そうやって、知ることや考えることを放棄した末に辿りついたのが、あの荒れ果てたオフィスビルだったのだ。
今回は、偶然にも助かった。
だけど、同じようなことが次にあったとき、もう一度助かる確約はない。D・フライヤは、分枝世界ではエリザの安全が保障されているなんて言うけれど、あれは肉体的な死を免れるだけの話だ。裏を返せば、それ以外の脅威からは助けてくれないのだ。それどころかあの超越的存在は、悲痛な叫びを「祈り」なんて美しい名前で呼んでいる。エリザが苦境に巻き取られて恐ろしい目に遭うのは、あれにとっては栄養ですらあるのだろう。
だから、もっと知恵を付けないといけない。
ルーカスにも、人身売買に手を出すような輩にも、そしてD・フライヤにも、エリザのことを好き勝手させないために。エリザのために用意されたくせに、エリザのことを救ってくれない世界で、これからも生きていくために。
エリザは封筒のなかを覗きこんで、残りの金額を数えた。
だいたい六十ユーロ残っているようだ。ベーカリーで売られているパンの値段は、どれも数ユーロだったので、六十ユーロというとなかなか大金のようだ。勉強の第一歩として、これで何かを買ってみようと思ったのだが、あまりにも選択肢が多くて、何を買ったら良いのか分からない。エリザはコンコースを何度も行ったり来たりして、何を買おうか、なにか決め手はないか――と周囲を見回した。
見覚えのある店名を見つけたのは、三往復目だった。
看板に綴られているロゴを、筆記体に似たフォントのデザインも含め、どこかで見たことがあったのだ。どこで見たんだっけ、と考えながら、エリザはその店に近づいていった。ガラス張りの陳列棚には、ケーキや焼き菓子が並んでいた。
洋菓子店のようだ。
カウンターの向こうに店番らしい老婆がいて、彼女はエリザを見て優しげに微笑んだ。こちらへいらっしゃい、と言って手招きをされる。一瞬だけためらったが、もし商品を売りつけられたとしても、いまは買うお金がある。エリザは小さく頭を下げて、色とりどりのお菓子が並べられた陳列棚に近づいていった。
「お嬢さん、お買いもの?」
「えぇと……はい」
「良かったら見て行きなよ。気になるのがあったら、味見させてあげる」
「えっ……良いんですか、そういうの」
驚いてエリザが聞き返すと「いいよいいよ」と老婆は笑った。
「前はダメだったけど、今となっちゃあ、道楽でやってるようなもんだからねぇ……誰にも食べられないまま捨てちゃうよりは、お嬢さんみたいな子に食べてもらったほうが、こっちとしても嬉しいさ」
「あ、ありがとうございます」
慌ててエリザは頭を下げてから「でも」と封筒を握りしめた。
「その、ちゃんとお金は払います」
「そうかい」
老婆は、深いしわに埋もれた目を細めて「若いのにしっかりしてる」と褒めてくれた。サービスを断ったエリザの真意は、ここで代金をおまけされてしまうと、せっかくの金銭感覚を掴む機会を逃してしまう――というところだったのだが、何にせよ褒められるのは悪い気はしなかった。
陳列棚の中身を、エリザは端から見ていく。
絵本のようなイラストが描かれた缶に詰められた可愛らしい焼き菓子。銀色の丸いトレイに乗せられた、色とりどりなフルーツが飾られたタルト。扇形や長方形、あるいは楕円形の、形も色もさまざまなプチケーキ。
そして――
「……あ」
いちばん隅にあったものを見て、エリザは思わず声を上げる。
そこには、丸っこいパステルカラーの焼き菓子が綺麗に整列していた。それを見た瞬間に、電撃が走ったような感覚があって、エリザは勢いよく顔を上げ、テナントのひさしに掲げられたロゴを確認した。
この店は。
「マカロンが気になるかい?」
老婆が尋ねてくる。
「うちの店はね、もともとマカロンが有名だったんだ。種類はいろいろあるけど、そこの……カシスとシトロン、プラリネなんかが人気だったね」
彼女の説明を聞きながら、エリザは、どこでこの店を知ったのか思い出していた。この洋菓子店は、はじめてユーウェンがハイバネイト・シティにやってきた時に、手土産として持ってきたマカロンの店だ。商品の宣伝用に作られたパンフレットを読んだから、店名のロゴが記憶の片隅に残っていたのだ。
「あの――」
マカロンを指さして、エリザは老婆に言う。
「これ、買いたいです」
「あらぁ、ありがとう。ひとつ一ユーロだね。味はどれが良い?」
「じゃあ……さっき言ってた、人気の三つを」
「ひとつずつで良いかな?」
「えっと。二つずつ、下さい」
老婆はニコニコと頷いて、小さな紙箱にマカロンを収めてくれた。エリザは慣れない手つきで紙幣を数えて、カウンターの上に並べる。六ユーロと交換に受け取ったマカロンは、思ったより軽くて、注意して持たないと潰してしまいそうだ、と思った。
***
午後一時、エリザは病院に戻る。
先ほども顔を合わせた受付の事務員に、番号の印字されたアクリル板を渡す。コンコースで買ったお菓子を持ち込んで良いか――と尋ねると、あっさり許可をもらった。それからエリザはエレベーターホールに案内され、二つフロアを下る。
「じゃあ、そこの三つ先の部屋だから」
それだけ告げて、事務員は上のオフィスに戻っていった。
人ひとりいない廊下に、エリザはひとり取り残される。耳に響くような静けさに、とつぜん緊張が湧き上がってくるのを感じた。一体、どんな顔をしてユーウェンに会いに行けば良いのか。彼は、エリザのせいでD・フライヤの奇跡に巻き込まれた被害者なのだ。謝らなければ、と思うけれど、まさか馬鹿正直に本当のことを言えるわけもない。
――やっぱり、帰ろうか。
このために三時間も待ったくせに、今さら、そんな弱気なことを考えてしまう。マカロンを入れた紙箱をぎゅっと握りしめて、エリザは自分の爪先を見下ろした。何となくユーウェンは自分の味方をしてくれる気がする。今回のことも、怒らないような気がする。だけど、だからこそ、万が一手を離されたらどうしよう、と考えてしまう。拒絶されるくらいなら、何もなかったことにして帰ってしまいたい、とも思う。
難しい。
それは、今まででいちばん難しい問いだった。他ならぬ自分のなかにさえ、これほどの難題が眠っていたことに、エリザは少し驚いてしまう。ユーウェンと、どうやって顔を合わせたら良いのか。考えたこともなかった問いの答えが、今は分からない。
どうしよう。
エレベーターを呼び寄せるボタンを押そうとしては指を引っ込め、廊下の向こうに行こうとしては足が引っ込む。ぐるぐると回る思考が過熱して、結果としてどこにも進んでいないのに疲労ばかりが溜まっていく。不安定に揺れつづけた心が、それでも弱気なほうに傾いて、ついにエリザの指先がボタンを押そうとした、そのときだった。
それは偶然か、あるいは必然だったのか。
カラカラという軽い音を立てて、病室の扉がスライドした。
「え――」
「……あ」
向こうから出てきた人と、ごまかしようがないほど正面から目が合う。
カジュアルな部屋着の上にオーバーサイズの上着を羽織ったユーウェンが、細めの目を大きく見開く。いつもは整髪料で整えている前髪が、今日は額に垂れていて、どこか見慣れない雰囲気だった。
「ああ――良かった」
口をぱくぱくと動かしているエリザに、彼はほっとした笑顔を向けた。
「君、無事だったんだね。プロジェクトメンバーから音沙汰がなくてさ、心配だった。別の病院に入ってるって聞いてたけど……えっと、今日は、どうしてここに?」
「あっ……あ、あのっ、ユーウェンさん」
うまく呂律が回らないなか、エリザはマカロンの紙箱を手前に突き出した。
「お見舞いに、来ました!」
***
ちょうどユーウェンは売店に向かうところだったと言うので、エリザは彼が日用品を買うのに付き合ってから、彼の病室に入った。病室の壁は薄めのベージュ色で、インテリアはベッドと間仕切りのカーテンのみ。直方体の輪郭が目立つ無機質な部屋だった。室内には椅子がなかったので、エリザは廊下から勝手にひとつ椅子を借りてきて、そこに腰掛ける。
「あの、お見舞い……なので、これ」
そう言ってマカロンの箱を差し出すと、ユーウェンは驚いた顔をした。
「えっ。良いの、僕がもらって」
「はい。あ、って言っても、交通費のお釣りで買っただけなんですけど……」
エリザ自身が稼いだお金で買ったわけではない。それが申し訳なくて、エリザは小さく肩をすくめた。
「さっき、コンコースで買ったんです。良ければ、と思って」
「わ、なんか恐縮だな……どうもありがとう。開けても良いかな?」
「はい」
エリザは頷き、ひそかに緊張しながらユーウェンが箱を開けるのを見守った。彼は、はたして覚えているだろうか。このマカロンが、三年前にユーウェンがハイバネイト・プロジェクトにやってきたとき、手土産に持ってきたマカロンと同じものであることを。
「あ、マカロンか! 良いね」
箱の中を見て、ユーウェンが顔をほころばせた。
「マカロンってさ、ちょっと特別なお菓子って感じで良いよね。君は好き?」
「えっと……」
――ああ、やっぱり。
ほのかな落胆が、小石のように落ちる。
最初に会ったときも同じことを聞かれた、と思いながら、エリザは頷いた。
「美味しいと思います」
「そう。じゃあ、君もせっかくだから、一緒にどうぞ」
「ありがとうございます……実は、最初からそのつもりで、二個ずつ買いました」
エリザが正直に答えると、どうしてか面白そうにユーウェンは笑った。エリザは白い紙箱のなかに手を伸ばし、マカロンのひとつを丁寧に持ち上げる。生地はぽろぽろとしていて崩れやすいので、欠片を病室の床に落としてしまわないよう注意しながら、丸っこい形状の真ん中あたりまで、一口でかじる。
少し青みがかったピンクのマカロンは、カシス。上品に甘くて、すっと抜けるように爽やかな味。暖かくて柔らかいブラウンは、プラリネ。素朴で優しい甘さの後ろに、香ばしい風味が残る。澄んで明るいイエローは、シトロン。じわりと染みる甘さを、どこか目が覚めるような酸っぱさが引き立てていて――どれも、美味しくて、幸せで。
気がついたら、涙がこぼれていた。
「……エリザ?」
ユーウェンがぎょっとした顔でこちらを見遣る。
どうしたの、と問いかけられるが、身体のなかで色々なものがひしめいていて、まともに息ができない。胸が内側から押されているように息苦しい。どんどん流れてくる涙を拭いつつ、まるで水からあがったばかりの時のように、必死に酸素を求めて息をする。
「よ……よっ、良かった……」
震える声で、ようやくそれだけ絞り出す。
この美味しさを思い出す前に、死んでしまわなくて良かった。この美味しさを最初に教えてくれた人が、死んでしまわなくて良かった。そんな、数え切れない「良かった」が、膨らみきった風船のように身体の内側に詰まっていて、苦しいほどに嬉しかった。
「うん……そうだね」
エリザが嗚咽しながら「良かった」と呟いていると、ユーウェンがそう応じた。
「怪我がなくて、本当に良かったよ。それに、君が……その。卑劣な犯罪に、巻き込まれずに済んだことも」
「それは……貴方のおかげです。あの、私……今日は、お礼を言いに来たんです」
目元を拭い、荒れた呼吸を整えながら、エリザは言う。
「あのときは、本当に……ありがとうございました。いろいろ、偶然が重なって助かりましたけど、最初にユーウェンさんが、あの人を引き剥がしてくれなかったら、逃げろって言ってくれなかったら、本当にどうにもできなかったと思います」
「……いや。無力だったよ、僕は、本当に。君が、おかしな問題に巻き込まれているのも、気がつけなくて……結局、彼には逃げられたし」
「あの……怪我、されたんですよね。反撃されて……」
「ああ、まあ、うん。でも君は気にしないで。もうとっくに処置は済んでるしさ、あとは自然に治るのを待つだけだから」
苦笑しながら、ユーウェンは自分のへそ辺りを指して見せた。
あのとき、ユーウェンが咄嗟の判断でルーカスを殴りつけてエリザを逃がした後、彼は銃を持っていたルーカスに反撃されて腹部を撃たれたらしい。幸い、致命傷にはならなかったわけだが、死んでも全くおかしくない状況だったのだ。危険な目に遭わせてごめんなさい、とエリザが頭を下げると、ユーウェンは慌てたように首を振った。
「だから、君のせいじゃないって。それに、あんな、裏取引がされるような場所にのこのこと行ったんだから、自業自得というか。帰って来られただけでラッキーだったよ」
「そういえば……ユーウェンさんは、どうしてあそこにいたんですか?」
エリザは純粋な好奇心からそう尋ねた。
ユーウェンがあのオフィスビルにいたのが、誰の差し金かはもちろん分かっている。偶然をコントロールできる超越者、D・フライヤだ。エリザは単に、超越者がどんな道筋でユーウェンに奇跡的偶然を提供したのかに興味があったのだ。
「それは――」
表情を少し陰らせて、ユーウェンは視線を逸らした。
「……話しても、信じてもらえないことと思う」
「良いです。教えて下さい」
エリザが椅子から身を乗り出すと、気が乗らない様子ながらも「じゃあ」と言ってユーウェンは話し始めた。
「昔の研究仲間から、久しぶりにメールをもらってね。僕の、昔の研究成果について聞きたいことがあるから、直接会えないかと。その指定場所があのビルだった。変な場所を指定するものだなと思ったけど、その人の勤めてる大学が近かったから、まあ、そういうこともあるのかなと思って訪ねたんだ。それで、エレベーターに乗って九階まで行って。そしたら、扉の前に人がいたから、どうもおかしな雰囲気だけど、その人の秘書か何かなのかなと思って『昔書いた論文について、メールをもらった件で来た』って言ったんだけど……後から聞いた話、どうもそれが、裏取引の符牒だったらしいんだよね……」
「なるほど」
エリザは頷く。
だから見張り番は、ユーウェンを取引の客と勘違いして扉を開けたのだ。用意周到に罠を張りめぐらすルーカスなら、見張り番だってそれなりに有能なものを雇っていただろう。だが、まさか、裏取引の符牒を一字一句違わず一致させる偶然があり得るなんて、どれだけ有能な見張り番でもなかなか想定しないはずだ。
はあ、と溜息を吐いてユーウェンが眉間を押さえる。
「後から本人に聞いたら、そんなメール送ってないって言うしさ……警察がメールアドレスを調べたら、とっくにサービスが終わったはずのドメインから届いてたらしくて。一応メールの現物は残ってるんだけどさ……何だったんだろう、本当に」
「すごい偶然ですね」
「偶然、と言ってくれるんだね」
「ちがうんですか?」
「いや、天に誓って偶然だよ。でも、これだけ偶然が重なると、そこに恣意的なものを見出したくなるのが人間だ。僕だって、これが自分の話じゃなかったら、多分、絶対に何か裏があるだろう――って邪推すると思う」
マカロンをひとつ口に放り込んで、ユーウェンは「っていうか」と顔をしかめた。
「今でも、ちょっと思ってる。誰かに導かれたんじゃないか、って。なにか、全部を見抜いている黒幕がいて、僕は、もしかしたら君や、ルーカスたちも、その駒として動いたに過ぎないんじゃないかって――」
「ユーウェンさん」
エリザは彼の言葉に被せるように言った。
「あれは、天罰だったんですよ」
「……だけど」
「そういうことにしませんか?」
エリザは口元を持ち上げる。これ以上、彼が真実に踏み込んで来ないために。この世界がレプリカで、D・フライヤにコントロールされた物語に過ぎない、なんていう事実は、エリザひとりが知っていれば十分だ。
「まあ……そうだね」
難しい顔をしつつも、ユーウェンは頷いた。
「起こってしまった偶然について、その確率を考えたところで、意味はないしね」
「ええ」
「それより……これからのことを、考えるべきなんだろうな」
そう言って、ユーウェンは寝台に備え付けのデスクに置かれていた薄型のノートパソコンを開いた。彼の私物であるらしい。しばらくメールソフトを開いていた彼は、キーを小指で叩いてから溜息を吐いた。
「こんな大騒ぎになって、そのうえコアメンバーが抜けてしまうと、プロジェクトの存続も危ういし……かといって、彼が野放しにされても困るんだけど、ただ――今の情勢だと、犯罪を立件して、裁判を起こして収監してっていう余力は、ないんじゃないかな……」
「ニコライさんとか、他の人たちは、どう思ってるんでしょう」
「それは……分からない」
しわが寄った眉間を、彼は押さえた。
「ちょっと驚いているんだ。ニコライ先生の態度に……先生は、ルーカスが何をしようとしていたのか、薄々察しているような雰囲気すらあって。だというのに、それを黙認していたのだとしたら……」
「……だとしたら?」
「付いていけない、と思う。ルーカスのやろうとした真似は、もちろん、あってはならないことだけど……それ以前に、エリザひとりを犠牲にして、大人だけ未来に行くなんていうのは、ハイバネイト・プロジェクトの思想に真っ向から反するもののはずだ。どこで、歪んでしまったんだろう」
呻くように言って、ユーウェンが目をきつく閉じる。
「僕が賛同した理念は、こんな……こんなものじゃなかったはず、なのに」
ユーウェンが苦しそうに呟くのを聞きながら、エリザは黙って俯いていた。ニコライの思想が変容したのなら、それもきっとD・フライヤの差し金なのだろう。ほかの分枝世界では優しげに見えたルーカスも同様だ。思想を改竄された相手のことを憎む気にはなれないが、それはつまり、彼らに自由意志はないということだ。何かを考えているように見えても、それらしく振る舞っているだけの、魂を持たない人形ということだ。
エリザは彼らに愛着など持っていないから、悲しくはない。
ただ、空しさだけが残った。
エリザを苦しめるように見える人々も、結局ただの操り人形である、という空しさが。ルーカスやニコライは、利害を計算して倫理を捨てたわけではない。ただ、D・フライヤが描いた物語の都合上、悪役が必要だっただけだ。
そして。
苦悩している様子のユーウェンを、エリザは見遣る。
物語に悪役が必要であるように、苦境をひっくり返すヒーローもまた必要なのだ。D・フライヤは偶然を操って、ユーウェンをヒーローの立ち位置に導いた。このままではエリザが心を殺してしまうと予測して、その結末を変えるため、ユーウェンを操作した。
だから――エリザが彼に恩を感じているのも、もしかしたら間違いかもしれない。ルーカスを恨むことに意味がないのと同じように。優しげに微笑んでいる向こう側には、善も偽善もなくて、ただ空っぽなのかもしれない。レプリカの食品に中身が詰まっていないように。外側だけをそれらしく繕った、張りぼての偽物なのかもしれない。
ならば、せめて。
エリザは、祈りを捧げる。
D・フライヤにヒーローの立ち位置を与えられたユーウェンが、あの瞬間、本当にヒーローのようにエリザを助けてくれたことだけは、どうかD・フライヤの操作ではなく、ユーウェン自身の選択でありますように、と。