借りものの翼/地上
文字数 10,458文字
三日後にようやく吹雪が収まり、厚い雪雲には切れ間ができて、ごく薄い水色がラ・ロシェル上空に広がった。雪が向こうに積もっているせいで外開きの扉が開けられず、一同は窓から外に出る。雪掻きを数人の研修生に任せ、一行は腰まで埋まる雪をかき分けて、ラ・ロシェル市街に踏み出した。
吹雪は収まったが、人通りはきわめて少ない。
わずかに一人、
「用事を、できるだけ一度で済ませるようにしているのでしょう」
フルルがそんなことを言った。
「外気が入れば、その分だけ室内が冷える。可能な限り家に閉じこもって、本当に必要な時だけ外に出るようにして、扉を開け閉めする回数を減らしているのでしょうね」
「ああ、そっか……小さい建物はすぐ冷えちゃうだろうね。統一機関くらい大きい建物だと、あまり気にする程でもないけど」
「ええ……」
白く濁った息を吐いて、フルルが目を細める。
「……ラ・ロシェルでも既に、数十人が低体温症などで亡くなっている、と聞きます」
「そう……」
アルシュには淡白な相槌を打つしかできなかった。陰鬱な報せを聞いたにしては驚くほど感情が動かなかったが、いくら哀れんだところで、死んだ命が帰ってくるわけでもない――アルシュの親友がそうであるように。
気に掛かったのは、もっと現実的な問題だった。
「弔いはどうしてるんだろう」
「葬送を執り行う余裕がなく、ひとまず雪中に埋めているとか」
「雪中に、か。春が来る前に、そちらも手を打たないといけないよね。融け始めたら不衛生だから……」
口にしてから、流石に死者への思慮に欠ける発言だったか、と不安になったアルシュだが、フルルは何も言わなかった。同行する他の研修生たちも何も言わず、ただ、寒気が喉に入ってくるのを恐れるかのように唇を結んでいた。
そう――死を哀れむのは自分たちの仕事ではない。起きてしまった悲劇は事実として受け止め、同じことが繰り返されないようにラピスの仕組みを改善していく、アルシュたちに出来るのはそれだけだ。
だからこそ、とアルシュは頬に付いた雪の欠片を拭う。
上り坂の先に、葉が落ちた灰色の木立があり、その向こうに、レンガ積みの小さな二階建てがある。今日の目的地はここ――ラ・ロシェルの伝報局だ。死にゆく街を救う切欠が、もしかしたら、ここで得られるかもしれない。
伝報局の前まで辿りつき、一行は建物を見上げた。
アルシュは今までも何度か伝報局を訪れたが、外からでも人の喧噪を聞くことができた以前と違って、今は冷たい静寂に飲み込まれていた。傾斜の緩い屋根には分厚い雪が積もり、ますます寒々として見える。建物の枠が歪んだように見えるのは、積雪の重みのせいか、或いは目の錯覚だろうか。
「無人……でしょうか」
「どうかな……」
問いかけに曖昧な返事を返しつつ、アルシュは冷えた扉に拳を打ち付けてみる。くぐもったノックの音が二つ三つ響くが、答えるものはない。続いて「ごめんください」と声を掛けてみるが、やはり返事はなかった。前庭の片隅に橇が置かれているが、使われた形跡もない。人の生活している気配が、一切存在しなかった。
ううん、とレゾン少年が難しそうに眉をひそめる。
「局員って、生活もここでしてるんですか?」
「全員じゃないけど、そういう人もいたはず」
「それにしては静かすぎますね。他都市に逃れたのでしょうか」
「んん……春までは残るって言ってた気がするんだけどな」
「あの――皆さん」
フルルが一同を振り返って問う。
「ここで立っていても仕方ありませんし、先に鳥舎を見に行きませんか。建物の裏手にあるという話でしたよね?」
「うん」
彼女の問いかけにアルシュは頷く。
鳥舎――鳥を飼うための小屋。すなわち、
とりあえず鳥たちの様子を確かめよう、という話で合意し、一行は伝報局の裏手に向かう。建物と外塀の間に雪が吹きだまり、小高く盛り上がっていて、行く手を阻む。腐って柔らかくなった雪に難儀しつつ乗り越えて、建物の角を回ると、鳥舎はすぐに見つかった。
一歩一歩近づいていくと、
「――わっ……!」
突然、バサバサという音が静寂に響き、何人かが驚きの声を上げる。無数の紙束が擦れあうような音にははっきりと聞き覚えがあり、アルシュはひとり口元を固く結んだ。
厳寒と飢餓のなかでも、まだ生きていたのだ。驚いた研修生たちもすぐに音の正体に気が付いたようで、我先にと奪い合うように鳥舎に駆け寄る。金網越しに中を覗いたフルルが「無事です」と、上ずった声で叫んだ。
「驚かしたら駄目だから、静かにね」
言いながら、アルシュも鳥舎に歩み寄る。
板材を組み合わせて丁寧に作られた鳥舎のなかに、
「マダム・アルシュ――ちょっと良いですか」
鳥舎の向こうに回っていたフルルが、角から顔を出して手招きをする。アルシュが彼女の方に向かうと、鳥舎の側面から、片腕で抱えられる程度の木箱が突き出しているのが分かった。木箱は上面が開けられる構造になっており、蓋を持ち上げてみると、箱のなかには穀類が詰められていた。
「これって、もしかして」
「うん、給餌器だね。隣のこれが給水器かな」
「だから、世話をする人がいなくても、元気だったんですかね……」
フルルが敬服したように呟いた。
金網越しに、アルシュは改めて
ひとまずバレンシアに飛べる個体を探そうということになり、数人が側面の扉から鳥舎内に入る。鳥に触った経験などない研修生たちは、おっかなびっくりという形容が相応しい及び腰で手を伸ばすが、本来の飼い主ではないからだろう、鳥たちが鳥舎内を飛び回って全く捕まえられない。
宿り木に脚を休めた一羽に、フルルが背後から近づいた。武術のときに相手の呼吸を読むような調子でタイミングを見計らい、そして手を伸ばすが、驚いたらしい
外から様子を見ていたアルシュは、コミカルな光景に思わず微笑む。
「もっとゆっくり触ってみたら?」
「笑うくらいなら、貴女もやってみて下さいよ」
アルシュが助言のつもりで言うと、フルルが金網越しに唇を尖らせた。
「難しいんですからね、見た目より」
「分かった分かった。じゃあ、交代しよう」
荷物を外に置き、アルシュは彼女と入れ違いに鳥舎に入った。
フルルが言うとおり、
しかし、では手紙を括りつけて放そう、という段になったときだった。
薄い青色だった空を、灰色の雲がにわかに覆い始める。毛羽立った雲があっという間に空の余白を埋めてしまい、透明だった空は暗くなる。乾燥していた空気は湿り気を含み、ずんと重たくなった。
雪時雨、と誰かが呟く。
これが合図になったように、空から無数の雪片が降り始めた。最初は粉雪程度だった雪の結晶は、あっという間に大きな塊に変わる。雪が白煙のように街の景色を覆い、色彩を奪ってモノトーンにしていくなか、アルシュは屋外に出た。
「……間が悪いな」
白い空を仰いで呟く。
これは、と研修生の一人が難しげに呟く。
「明日以降、また機会を窺う感じですかね……」
「そう……だね」
アルシュは肩を落としつつ頷いた。
連絡を急ぎたいのは勿論だが、雪のなかで無理をさせた結果、鳥を死なせてしまっては元も子もない。ようやく見つけた、電気通信に代わる貴重な情報伝達手段だ。また日を改めようという結論になり、一行は吹雪が激しくなる前に統一機関に戻ろうと決めた。
裏庭を立ち去ろうとした、その時だった。
「――あれ?」
どこかから、きぃ、という音が響いた気がした。
蝶番が軋む音に聞こえた。鳥舎の扉を閉め忘れでもしただろうか――と、アルシュは引き返すが、扉はきっちりと密閉されている。おや、と首をひねると、今度は背後から同じ音が聞こえて、アルシュはようやく音の正体に気が付いた。
伝報局の裏口が、ほんの小さな角度だけ開いている。これが吹き付ける風に揺れて、軋む音を立てていたのだ。
「マダム・アルシュ、どうしたんですか?」
建物の向こうから声を掛けられる。
「早く戻りましょうよ」
「ごめんね。私、ちょっと残る」
揺れる裏口の扉に手を掛けながら、アルシュは答えた。
「先に帰ってて」
「えぇ? 雪、酷くなりますよ」
「すぐに戻るから、大丈夫。心配しないで」
アルシュが強く言い切ると、フルルは気掛かりな様子を態度に滲ませていたものの「分かりました」と言って去って行った。研修生たちの喧噪が遠ざかっていき、賑やかに飛び回っていた
屋内は、外と同じくらい寒かった。
「どなたか、いますか?」
冷たい空気を吸い込み、声を張る。
声が二階の吹き抜けに反響したが、返事はない。人がいる気配ひとつしなかった。やはり、局員はラ・ロシェルの外に逃げ出してしまったのだろうか。局員たちとは顔見知りだったこともあり、寂寥感がアルシュの胸を満たす。同時に、彼らに快適な住環境を提供できなかった、統一機関としての申し訳なさも。
ただ――それらの感傷とは別に、彼らと会えない場合、ひとつ問題があった。
「やっぱり居ないかぁ……」
扉を靴先で抑えたまま、アルシュはしばし悩んだ。
笛を借りることができないなら、伝報局内部をしらみつぶしに捜索してでも手に入れるしかない。彼らの領地に勝手に入って探すのは気乗りしないが、それを言ったら
照明の消えた室内をぐるりと一瞥する。
ラ・ロシェル伝報局は二階建てで、地下に倉庫がある。一階にあるのは事務室や電信室といった業務用の部屋で、二階が局員たちの私室になっている。右手の階段から二階に上れるようだが、笛があるとすればおそらく一階だろう。
アルシュは通路をまっすぐ進み、突き当たりの事務室に入る。
入った右手には作業用らしいデスクが、左手にはソファがある。応接用らしいソファには、かつてアルシュも通されたことがあった。間取りからして、伝報局でもっとも広いのはこの部屋のようだが、やはりと言うべきか人の気配はない。手前のデスクにクリップでまとめた書類が置いてあり、アルシュは何気なく持ち上げて読んでみた。
どうやら電信記録のようだ。
一日に三度、早朝六時と正午と夜の六時に、六都市に向けて発信が試みられていた。いずれのログもきわめて短く、いくつかの数字が出力されたのを最後に途切れている。ログの最後に出力されている数字はどれも同じ。アルシュは電信に詳しいわけではないが、数字が示す意味の予想は付いた。
「……
何らかの事情でシグナルが送れなかったことを示す
無為な、しかし真摯な試みの記録に目を通していると。
「あれ……?」
ふと、アルシュは日付に違和感を覚えた。
日付がやけに新しい。壁に掛けられていた暦と見比べると、わずか五日前まで規則的な発信が行われている。つまり、伝報局員がここを後にしたのは、ほんの数日前の出来事だったということだ。しかし、十二月に入ってからというもの、街はいつも深い雪に覆われていた。ラ・ロシェルを出て他の街に向かおうとすれば、尚更雪が深いだろう。本当にそんな状況で、街の外に旅立ったのだろうか。
「だとしたら、随分無謀だけど……」
首を傾げつつ、アルシュは紙束を元の場所に戻す。
そして目的だった笛を探すが、デスク近辺には見当たらない。普段の業務で使うわけでもないから、もっと奥まった場所に格納されているのだろうか。十五分ほどで捜索を終えて、アルシュは隣の部屋に向かった。
扉を出て、右手の扉を開けるとそこは電信室だ。
やはり人の気配はないが、ひとつ、視界のはしに点滅するものがあった。近づいてみると、通信機器のひとつが稼働している。刻字された名称から推測するに、受け取った信号を変調する機器のようだ。変調器は非常電源と接続されており、主電源が切られていないせいで、何かのランプが点滅しているままのようだ。
片付けくらいしてから出立しそうなものだ、とまたもやアルシュは首を傾げる。整頓された室内を見ても、伝報局の人たちはそこまで無精な性格には思えないのだが。急ぎの旅立ちで、ひとつ電源を落とし忘れた――というところだろうか。
電信室でも、結局、笛は見つからなかった。
困ったな、と呟きながら、アルシュは電信室を出て通路に戻る。大きい部屋は探し終えてしまった。あとは地下倉庫だが、たしか過去の通信記録を保管しているだけのはずだ。笛が置いてある可能性は低いが、いったん倉庫を漁り始めれば時間がいくらあっても足りない。倉庫を探すのは最後だな、と決めて、アルシュは先に二階に向かった。
二階には全部で六つの部屋があった。
うち五つは私室のようで、扉はいずれも閉まっていた。最後の一つが共用設備らしく、自由に出入りできる構造だったので、アルシュはひとまずその部屋に向かってみた。廊下をまっすぐ進み、突き当たりを右へ。
部屋の中を見通す。
右側が給湯設備を含むキッチン、左側が洗濯と掃除用品。物干し用のロープが斜めに張られている。奥に窓があって、灰色の光がほのかに満ちていた。その光を遮って、おかしな形をした影が部屋の中央辺りに転がっている。
何だろう――と目を凝らした。
布が纏わりついた、小高い盛り上がり。全体的に丸みを帯びているが、ところどころが妙に出っ張っている。布の裾がまくれて、何か丸太のようなものが突き出し、アルシュの方に向いている――
「……えっ?」
先端で広がっている指。
突き出したそれは、腕だった。
――人の、身体。
ひぃ、と息を呑んで、アルシュは反射的に通路まで後ずさった。
向かいの部屋の扉に背中側から衝突し、ガタン、と硬い音が響いた。頭と腰をしたたかにぶつけ、鈍い痛みが広がる。何かが飛び出しそうな口を必死に抑えて、目を見開き、ゆっくり呼吸をしながら室内を改めて見た。
洗濯物が積み重なった下に、人間が倒れている。
アルシュはおそるおそる近づき、突き出した腕の手首辺りに触れた。脈はなく、肌は凍ったように冷たい。いや――部屋の気温は外気と大差ないので、真実、凍っているのだろう。途端に震え始める指先に無理やり力を込めて、アルシュは、凍りついた死体を覆う洗濯物を退けていった。
いきなり顔を見る勇気は持てず、胴体の方から少しずつ布を捲る。
死体は女性だった。右手が胸もとに置かれていて、服の布地が引き攣れている。死の間際に胸を抑えたらしい。寒さのあまり、心臓発作に見舞われたというところだろうか。何かの仕事を片付けている最中だったのだろう、少し離れたところに手のひら大の容器が落ちていて、そこから零れたらしい粒状のものが床に散らばっていた。
散らばる粒の正体を理解した瞬間、思わず口元を抑えた。
麦と麻のミックス――
はあぁ、と息を吐いて、アルシュはいったん手を止める。
洗濯物はほとんど退けてしまい、残っているのは顔を覆う一枚のみ。本音を言うなら、これ以上はもう見たくなかった。彼女だって、死に顔を暴かれるのは良い気分ではないだろう。だけど、誰が最後まで鳥たちの面倒を見、電信室で発信を繰り返していたのか、それを知る義務があるような気がした。あるいは――単に、知りたいと思った。誰にも知られず死んでいった彼女の思いを引き継ぎたい、そう思った。
アルシュは意を決して、最後の一枚を退ける。
苦悶に引き攣った表情が、そこにあった。力なく開かれた口から舌先が飛び出して、そのままの形状で凍りついている。口の周りに付着した唾液や、双眸からこぼれた涙の筋も凍っている。どこでもない場所に目の焦点を合わせている、風貌は変わり果てているが、顔立ちには見覚えがあった。
晩秋に、アルシュが伝報局を訪ねたとき、仲間が肺炎に罹ったという男性が、統一機関に所属するアルシュに憤りをぶつけてきたことがあった。あのとき、八つ当たりは止めなさいと彼を窘めてくれた――あの彼女だ。
思い出した瞬間、流れ込むように記憶が甦った。
彼女は、憤っていた同僚を宥めて室内に押し込んだ後、非難の言葉を投げつけられて動揺していたアルシュに「ごめんなさいね」と肩を竦めてみせた。あまり怒らないであげて、と言っていた。自分も春が来たら他の街に逃げようと思う、とも言っていた。
そして彼女はアルシュに、悲しげな笑顔でこう言った。
――あなたも逃げた方が良いんじゃない?
あれを聞いて、自分は少しだけ苛立ったのだ、とアルシュは思い返す。自分以外に養う相手がいない一般市民だから、無責任にそんなことが言える、と思った。逃げ出せる立場にあって良かったですね、という嫌味すら思い浮かんだ。
だけど、本当は。
「逆だったんだ……」
死体を見下ろして、アルシュは乾いた声で呟いた。
研修生のアルシュは、統一機関という暖かい住処に逃げることができた。一介の伝報局員に過ぎない彼女には、その逃げ場が無かった。それでも最後まで鳥たちの面倒を見て、届かない発信を繰り返して、局員としての役割を果たそうとし続けた。
――そんな人に向けて、私は一体、なんて酷いことを思ったの。
濁流のように後悔が押し寄せて、アルシュの身体を地面に押し付ける。ああぁ、と言葉にならない唸りを吐き出して、アルシュは冷え切った床に蹲った。
何て――何て、至らないんだろう。
何もできずいたずらに時を過ごしていたアルシュより、彼女の方がずっと、自分の役割が何たるかを分かっていたのに、アルシュは彼女を誤解したままだった。そして彼女は、市民に目を向けない統一機関によって殺された。何重にも重ねた罪は、何を捧げれば贖えるのか、想像すらできない。
「……ごめんなさい」
ようやく、それだけ絞り出す。
涙腺まで凍りついてしまったように、涙は出なかった。まだ萎えている全身をどうにか組み立てて、アルシュは彼女の隣に膝を突く。頭を垂れ、目を伏せて、組み合わせた両手に強く力を込める。謝り、許しを請うたところで、彼女には届かないが、心に強く念じることで、せめて何かを自分に刻もうとした。感情を増幅させて観念に昇華させ、永遠に消えない傷として彫り込もうとした。
彼女の行為は、端から見れば祈りだった。
しばらくそのままの姿勢で固まっていたアルシュは、ひとつ息を吐いて目を開ける。心臓はまだ苦しいほどに鳴っていて、顔は火照って熱い。零下の気温だというのに、額から汗をかいていた。それら全ての現象が、アルシュが生者であり、代謝が存続していることの証だった。脳髄まで凍りついた身体は、涙を流すことすらできない――そう思った瞬間、皮肉なことに、はじめてひと筋だけ涙が零れた。
外套の袖で頬を斜めに拭い、アルシュは身体を起こした。
いつまでも膝を突いてはいられない。極寒が市民を殺し始めているのは、彼女の死体を見つける前から知っていたことだ。知った相手が亡くなるのはひときわ心痛をもたらしはしたが、それでもやはり、嘆き悲しんだところで彼女は還らない。
なら、アルシュができることは一つだけだ。
彼女が届けようとして、届けられなかった報せを、彼女が守った鳥たちの翼を借りて、代わりに届けよう。彼女のように死んでいく人たちを一人でも減らすために。それが、生者の特権を享受するアルシュの――生き残った者の宿命だ。
遺体の首元に、ふとアルシュは目を遣る。
白く粉を吹いたような肌に、ごく細い銀色のチェーンが見えていた。もしやと思い、指先で掬って引っ張り出す。するとアルシュが予想した通り、チェーンの先には、ペンダントトップの代わりに銀色の笛が繋がれていた。
アルシュは唇をぐっと横に引いて、チェーンの金具に爪を掛けた。
「……ごめんなさい。借りますね」
ぱちん、と軽い音がして、金具が外れた。チェーンをするりと首元から外し、その冷たさをアルシュは手のひらで握りしめる。せめてもの礼節として、乱れた彼女の服と体勢を直し、開いたままの目を閉じさせてから立ち上がった。
「また、来ます」
――弔いの支度ができたら、その時に。
最後に深く一礼して、アルシュは凍った部屋を出た。
***
翌朝。
澄んだ青色が空を満たすなか、研修生たちは再び伝報局の裏手に集った。バレンシアと刻印されたリングを付けている
ゆっくりと腕を持ち上げ、透けた蒼天に伸ばす。
バレンシアの方角、北東に腕を掲げると、横から照りつけた太陽が、翼のシルエットを浮き上がらせる。眩しさに目が滲むのを感じながら、アルシュは首元に手を差しこみ、内側に収めてあった銀色の笛を取り出した。
冷えた先端を唇で挟む。
言葉に代えて息を吹き込む。聞こえない音が鳥に命じて、薄灰の羽はふわりと浮き上がる。柔らかな羽ばたきが寒気をかき混ぜて、鳥は重力を解除されたように空へ。緩やかに曲がった軌道は伝報局の二階を僅かに掠め、そして――あっという間に見えなくなった。
行っちゃった、と誰かが呟く。
羽ばたきから零れた白い羽毛が舞い散り、ひらひらと花弁のように落ちて、白い積雪と重なり合う。前髪に付いた羽毛を指先で摘まみとり、繊細な毛の流れを数秒眺めたのち、ふっと息を吹きかけて飛ばした。
「無事、届くでしょうか」
やけに静かな帰路、フルルが呟いた。
「バレンシアの人たちが、
「そうだね……でも」
言いながらアルシュは、北東を一瞥した。
バレンシアのある北東は、あの日、葬送の小舟が流れていった方角だ。あの時アルシュは、
「きっと、大丈夫だよ」
毎朝のように編んでいた癖っ毛を思い出して、アルシュは目を細める。
「バレンシアには、友達がいるから。きっと気が付いてくれる」
「え、そうなんですか?」
「うん」
できる限りの事はした。
だから――どうか、見つけて。