夢とうつつと
文字数 14,824文字
つまり、ここは夢のなか。
深い青色の空が、薄い膜を一枚一枚重ねるように、少しずつ紺色になっていく。刻一刻と変わっていく空の色に目を細めると、少し涼しい風がやわらかく吹き付けて、膝丈のワンピースを泳がせた。
黄昏。
レンガ敷きの街に、ひとり佇んでいる。
道の向こう、金属製の壁に映っている立ち姿は、エリザ自身のものだった。長く伸ばした蜂蜜色の髪も、白銀色の瞳も同じ。だけど、やけに大人びて見えた。七分丈の袖から伸びている腕は、やはり自分のもののようで、しかし風合いが少し違った。記憶のなかにある自分の腕よりも、すこし骨張っていて、柔らかさに欠けているような――
「エリザ?」
そんなことを考えていた折。
声が聞こえて、エリザは思考を中断する。ハスキーで、女性にしてはやや低めの声が、今度はもう少し近くで「どうしたの」と呼びかけた。
エリザは顔を上げて、そちらを見る。
金色の髪が印象的な女性が、早足でこちらに歩いてきていた。彼女が歩くと、硬いブーツの底がレンガ敷きの地面を叩いて、コツコツと高い音が鳴る。その女性はただでさえ背が高かったが、黒一色のコートと、ウェーブした長い髪、全体的に堅い服装が相まって、相当な存在感を放っていた。
「カシェ」
口が勝手に動いて、そう言った。
右手が持ち上げられ、彼女の方に向けて振られる。夢の中だからなのか、身体のコントロールはまったく効かず、まばたきすら自分の意志ではできなかった。エリザはただ、エリザに似た容姿の、エリザと呼ばれている女性の動きを、あたかも自分自身の体験であるかのように感じていた。
「危ないじゃない」
カシェと呼ばれた女性は、そう言って眉を下げる。
「あのね、あまり拘束する気はないけど……あんまり不用意に出歩くのは危ないって、いつも言っているでしょう。この辺りは人が多いけど、それでも、うっかり見咎められたら面倒よ。ただでさえその目は目立つのに――」
額を押さえて、カシェが「まったくもう」と肩をすくめた。どうやらエリザは、この夢のなかで、あまり人目についてはいけない存在らしい。カシェがエリザの隣に立つと、その長身が人目を遮って、往来からエリザの姿を隠してくれた。
「ラムは?」
そう言って、カシェがこちらを見下ろす。
「もう部屋に戻っている時間よね」
「ええ、一緒に出てきたのだけど――訪ねるところがあるから、待っていてと言われて」
「それで貴女をひとりで放り出したの? 呆れた」
整った眉根を寄せて、カシェは溜息を吐く。
そこで、ふっと周囲の景色がかすむ。
少し、映像が飛んだような感覚があった。気がつくと、藍色だった空はさらに暗くなっていて、黒に近い紺色に染まっている。道には等間隔に金属製のポールが立っていて、その天辺からオレンジ色の光が広がり、暗い街路に一抹の光を点していた。それが街灯と呼ばれるものであることに、エリザは少し考えて気がつく。昼も夜もない地下空間に街灯は存在せず、ライブラリのなかで画像を見たことしかなかったのだ。
「エリザ――」
遠くから、呼ぶ声が聞こえた。
「ラム」
名前を呼んだらしい声とともに、そちらに視線が向けられる。見ると、レンガ敷きのうす暗い道を、スーツに似た服装の男性が駆けてきていた。暗い色の、癖がある髪をうなじで結び、右眼にモノクルを掛けている。彼はエリザの隣にいるカシェを見て、おっ、と何かが詰まったような声を上げた。
「わ――吃驚した。カシェ、いたのか」
「貴方がエリザを一人で放っておくものだから、仕方なくね」
「あ、あぁ――それは、悪かった。ありがとう」
「こちらこそ悪かったわね。邪魔をして」
「邪魔とは?」
「お二人で一緒に出かけるところだったんでしょう?」
カシェが長い髪の毛を背中に流しながら、からかいと皮肉が半々で混ざり合ったような口調で言う。その様子を見ていて、なるほど、とエリザは内心で頷いた。このラムという男性とエリザは、どうやら特別な関係にあるらしい。皮肉を向けられた当のラムは、一瞬不思議そうに目を見開いて、それから「ああ」とひとつ頷いた。
「いや、そんなことはない。むしろ、カシェ、君も呼びに行くつもりだったから、ちょうど良かった」
「私を呼びに?」
カシェが不審げに呟いて、片方の肩を跳ね上げる。
「貴方が私に、何の用かしら」
「いや――今日、視察でバレンシアに行ってくると言っただろう。その時にもらった焼き菓子があるから、三人で食べないか――と、提案するつもりだったんだが」
「何を言っているの。そういうのをもらったのなら、まず、貴方の所属に届け出なさいな。貴方の独断で消費していいわけがないでしょう」
「うん、まあ本来そうなんだが……そうも行かなくてな。その、学舎を訪ねたんだ」
――学舎?
ことの成り行きを眺めていたエリザは、内心で首をひねった。
学舎。言葉の響きからして、学校のことだろうか。この夢のなかにも学校があるのは、何もおかしなことじゃないけど、エリザが知らない単語が出てくるのは少し不思議だった。夢というのは、あくまで、記憶の断片を繋ぎ合わせた幻に過ぎないはずなのに。
「学舎ぁ?」
エリザが不思議に思っていると、カシェが「信じられない」と言いたげに、目を大きく見開いていた。
「ラム……貴方、学舎を訪ねたの。なに考えてるの本当に」
「いや、それはその。だって世話になっているから――」
「そんなこと分かってるわよ!」
たじろいだ様子のラムに、カシェが鋭く一喝した。
いったい彼女は何に怒っているのか、不思議に思いながらも、エリザは成り行きを見守っていた。目の前で起きることをただ見守る以外に、この夢のなかでできることはないようだ。妙に自由度の低い夢だけれど、まあ、そんなこともあるか――と、エリザは曖昧に事態を受け入れる。
「あのねぇ……!」
一方、怒りを露わにしたカシェは、今にもラムの胸ぐらを掴みそうな勢いだった。
「万が一、あの娘と貴方を見比べた一般市民が、なにか違和感でも感じたら、いったいどうするつもり。言っておくけど似ているのよ、とくに貴方に!」
「いや――その……いや、すまない」
「……まったく」
はぁ、とカシェが溜息を吐いた。
彼女は怒らせていた肩から力を抜いて、腰に手を当てた。叫んだせいで乱れたらしい前髪を後ろに払ってから、カシェは幾分か落ち着いた声で「あのねぇ」と言い、綺麗な弧を描いた眉をひそめてみせる。
「大切にする気があるのなら、接触しないでおきなさい。問題が発覚したら、また、いちから受け入れ先の探し直しよ。あの娘、いま何歳だったかしら?」
「四歳と八ヶ月だ」
「とっくに物心ついた年齢ね。仲の良い友達なんかもいるでしょうね。だけど、もしも学舎で問題を起こしてしまったら、いまの環境とも引き離すことになるのよ。ラム――貴方、ちゃんと、そこまで分かってて行動した?」
「いや――」
矢継ぎ早に責め立てられて、ラムが悲しげに頭を垂れる。
「……すまない。俺が浅慮だった」
「二度としないことね」
「分かってる」
「あと、そのお菓子はお詫びってことでもらってあげるわ。行きましょうか、いつもの酒場で良いわね?」
「あ……ああ! ありがとう」
ぱっとラムが笑って、カシェは苦い表情ながらも口元を綻ばせる。その様子は、交わす言葉こそ厳しくても、二人が気の置けない友人なのだ――とエリザに確信させるのに十分だった。カシェが長身を翻して歩き始め、ラムが彼女を追いかけて、うす暗いレンガ敷きの道に歩き出していく。友人と呼べる相手を持たないエリザは、羨ましく思いながら彼らを見つめた。
少し、周囲の景色が加速した。
エリザの身体が走っているのだ。エリザは数歩分だけ先を歩くラムに追いついて、ラム、と名前を呼びながら、モノクルを掛けたラムの顔を見上げる。黄昏の光のなかで、曖昧な陰影の刻まれた顔が、優しくこちらを見下ろしていた。
「ね――元気そうだった?」
そんなことを問う。
するとラムは、今度はすぐに頷いてみせた。
「ああ。とても」
「そう」
エリザが頷き、それに伴って視界が揺れるのと前後して、胸のまん中がふわりと暖かくなった。経験したことのない感覚に、エリザは少し戸惑う。お腹の中から何かがこみ上げて、今にも口から外に飛び出すような。とは言っても吐き気とか苦しさじゃなくて、もっと優しくて、温かいなにか。
――なんだろう。
未知の感覚に戸惑いながらも、夢の流れは変えられない。エリザの身体は、ラムとカシェを追いかけて、宵の街に踏み出していく。
すると、奇妙なことが起こった。エリザは変わらず、そのレンガ敷きの街にいるのに、友人たちと笑い交わす声や、頬をなでる涼しい風が、少しずつ遠ざかっていったのだ。身体が水飴に絡め取られたように重たくなる。同時に、遠くからベルの音が聞こえてきて、ああ、夢から目覚めつつあるのだ――とエリザは気がついた。
待って、と叫んで手を伸ばそうとする。
幸せな夢には、まだ終わって欲しくなかった。だけど、一度手の中をすり抜けてしまった夢は、二度と掴み返すことは叶わず、ただ一方的に遠ざかるのみだった。夜に沈んでいくレンガ敷きの街も、エリザと親しいらしい二人の人間も、彼らと交わす眼差しも、どんどんと遠ざかって虚空に消えていって。
終わりかけの夢のまぎわ。
――ラピスの黄昏は、綺麗だ。
エリザ自身の声で、そんな言葉が聞こえた。
ああ、たしかに綺麗だわ、とエリザは心のなかで答える。どんなバーチャル・リアリティの映像より、あの藍色は美しかった。その一瞬だけ、身体の外郭を為している「エリザ」と呼ばれていた成人女性と、身体の内側に存在するエリザ自身が通じ合った気がした。
そして、ひとつ瞬きをしたかと思うと、エリザは手狭な自室にいた。
ベルの鳴る音が、頭のなかまで響いてきてうるさい。よれたブランケットを払いのけて起き上がり、目覚まし時計を止める。寝起きのふらつく足取りで洗面所に向かい、冷水で顔を洗いながら、エリザは夢の内容を思い出していた。
あれは不思議な夢だった。
アニメかドラマに影響されたのだろうか。あまり娯楽に触れる機会のないエリザだが、これも教養だから見ておけ、と言われて、過去にいくつかの映像作品を見たことがある。そういった記憶が掘り起こされて、頭のなかで混ざり合った結果、あんな夢を見たのだろうか。
レンガ敷きの、欧風の趣があるクラシカルな街。カシェと呼ばれていた女性と、ラムと呼ばれていた男性。仕事仲間か同僚という雰囲気だった。服装はどちらもスーツに似ていて、でも少し違って。そして――ラピス、という名詞。
「ラピス?」
洗面台から顔を上げて、エリザは呟いた。
鏡の向こうで、白銀色の瞳が不思議そうに見つめ返している。
ラピス――という名前は、記憶のどこを探しても見つからなかった。ラムやカシェというのはフランス語の名詞だが、ラピス、というのは聞いたことがない。自分自身が知らない固有名詞を、果たして夢のなかで耳にすることがあるのだろうか。
少し引っかかったが、夢は夢でしかない。
それよりも、他のメンバーが起きてくる前に朝食の支度をしないといけなかった。与えられた役割をこなせないと、誰かが――大抵はサティとニコライが不機嫌になり、誰かが――大抵はルーカスがおかしな庇い方をして、マリアがそれに嫉妬心を誘発され、アマンダにあとで睨まれる。そのせいでプロジェクトの進行が遅れると、ジゼルが舌打ちをする。ドミノが倒れるように雰囲気が悪くなっていくのは、未来視の目を使わなくたって分かるのだ。
考えるのを止めてさっさと顔を拭き、エリザは調理室に向かった。
だが、加工食品を温めて食器を取り出しながらも、ラピスという単語が、頭のどこかでくるくると回り続けていた。今朝のあれは、ただの夢だと捉えるにはやけに明瞭で、筋の通った展開だった。しかも、目覚めてから既に数十分が経ったのに、いまだに夢の中身をしっかりと覚えている。
まるで映画を見たような。
誰かに、無理やり見せられたような――
「……見せる?」
そこで気がついて、エリザは思わず自分の目元に触れた。
白銀のなかに虹色が散った、変わった色合いの瞳。幼少期は青かったのに、いつの間にか変色していたこの瞳には未来視の力があるが、エリザがそれを望んだわけではない。気がついたら手に入れていた、未来の景色を見せる謎めいた力。
じゃあ、もしかして、あれは。
エリザの意志とは無関係に紡がれた、あのワンシーンは。
「未来の、私……?」
思わず唾を飲み込んで、エリザはそう呟く。
***
あの夢を見てから、しばらく不思議な心地が抜けなかった。
無機質な地下居住施設にいるのに、あの黄昏が記憶から離れない。歯に衣着せないながらも親しげに話し合っていた、ラムとカシェの声がどこかで聞こえたような気がして、思わず振り返ってしまうことが一日に何度もあった。
――あれが本当に、未来の私なら。
そんな仮定を考える。どんな奇跡が起きたら、この雪に閉ざされた暗い世界から、あの美しい黄昏の街に移動できるのか――もちろん、それは分からないが。でも理屈が分からないのは未来視の目だって同じだ。理論で測れないことが起きうる世界なら、あの世界にエリザが転生する未来だって、あり得ないとは言えない。
「……もし」
調理室の鏡と向かい合って、エリザはごくりと唾を飲み込んだ。
「あれが、私なら……」
あの黄昏の街に映し出された光景は、何もかも今のエリザとは違っていた。薄手のワンピースで外を歩けるなんて、今の気候では考えられない。それに、ハイバネイト・プロジェクトに生活を拘束されていない様子で、何より――大切にしたい人たちがいる。
そんな日々が、未来に待っているのなら。
「だったら、どうしよう……」
どういうわけか火照り始めた頬を押さえて、エリザは呟く。心臓がどくどくと動いている感覚は慣れなくて、やけに熱く感じられる息を何度も吸って吐いた。
そんな、妙に浮ついた日が続いたあとだった。
とくに予定はなかったところ、エリザはジゼルに呼び出された。ジゼルはハイバネイト・プロジェクトで最年長の女性であり、環境学を専門とする研究者でもある。かつてプロジェクトリーダーのニコライと個人的な関係にあったとも聞くが、今の彼女を見ていると、とても他者を必要とするタイプの人間には見えない。ほとんど笑顔を見せず、他のプロジェクトメンバーとも他人行儀で、自分の研究室にずっと閉じこもっている。
しかしエリザは、彼女のことは嫌いではなかった。
彼女は優しくはないが、酷いことはしてこないし、こちらを困らせることも言わない。研究ひと筋に心血を注いでいる彼女は、エリザが持っている未来視の目のみを必要としていて、それ単体に値段を付けてくれる。どうせ優しく扱われることはないのだから、ジゼルの冷淡さはかえって救いだった。
「――失礼します」
ノックをして、エリザはジゼルの研究室に入る。
白い無機質な部屋が、エリザを出迎えた。正方形の部屋はかなり広いが、所狭しと並んだメタルラックが大半の面積を占めている。どれも同じ型番、同じサイズのメタルラックに、これまた同じ灰色の書類ファイルがいくつも整列している。整然と立ち並ぶそれらの隙間を抜けると、壁一面のパネルの前に座っていたジゼルが、くるりと振り向いた。
「来たか」
それだけ言って、彼女は手元のファイルをめくる。
丸くて背もたれのない椅子にエリザが腰を下ろすと、ジゼルはファイルのなかから二枚の紙切れを取り出して、こちらに差し出した。エリザは渡された紙をじっと見る。紙はいずれも細長く、紙幣より一回り小さいくらいのサイズだ。光沢のある表面に印刷されている文字は英語だが、見慣れない単語だった。
えっと、とエリザは首をひねる。
「これは……」
「
「分かりました」
「よし」
ジゼルが頷いて「じゃあ」と一方の籤を指さした。
「この番号。569142――当たりか外れか。当たりなら何等か、見ろ」
「はい」
素直に首肯し、エリザは目を少し細めた。
白銀色に染まったこの瞳は、未来を見通すことができる。しかし「未来が見える」とひとくちに言っても、その実態は複雑だ。たとえば、地球が太陽に呑み込まれて焼失する瞬間まで見えるかというと、そこまででもない。また、次にサティに連れられて交渉に出かける日がいつかとか、その帰りに例の廃屋に連れ込まれるかどうかとか、そういう未来は、どうも見えないようだった。
椅子に座ったまま、エリザは心を静めていく。
周囲に溢れているさまざまな情報を意図的に無視して、握りしめた籤と、569142という番号に意識を集中させていく。思考のすべてを一点に集めて、目の前に座るジゼルや、ずらりと並んだメタルラックや、今ここにいるエリザ自身さえ忘れたとき――
視界が白く濁る。
次の瞬間、エリザは知らない街角に立っていた。どこかのメトロの駅のようだ。乗客もまばらな改札の隣に、前世紀から持ってきたように寂れた小さな売店がある。茶色いレンガの壁はひび割れて、窓の磨りガラスはひどく汚れていた。そして――エリザの手の中に、先ほど受け取った籤がある。違うのは、紙の表面に赤いペンで「五等」と書かれているのと、数枚のコインを握りしめていたところだった。
エリザは目を開ける。
「569142は、当たり」
じっとこちらを見ているジゼルが、小さく頷いた。
それから「等級は」と無表情のまま尋ねる。
「五等です。賞金は五ドル」
「よし。じゃあ、こちらの籤は」
そう言って、ジゼルが他方の籤を指さす。こちらは抽選の方式が違うのか、六桁の番号ではなく、二つのアルファベットと五桁の番号の組み合わせだった。
PW・94320という番号を頭に叩き込んで、エリザはふたたび目を細めた。そして集中力を研ぎ澄まし、自分自身が透明になったような感覚のなかで、ひたすらに籤の番号をリフレインする。
PW――94320――ピー・ダブル・9、4、3、2、そしてゼロ。ピー、ダブル。ナイン、フォー、スリー、ツー、ゼロ……
しかし。
いつになっても、未来は見えてこなかった。酷使しすぎた頭がじわじわと痛み始め、疲労から来る激しい動悸に集中力が乱されていく。ついに根負けしたエリザが目を開けたとき、全身は冷や汗に覆われていた。心臓を押さえて荒い息を吐くエリザを、ジゼルの冷淡な目が静かに見つめている。
「どうだ」
「……その」
未来視の目が使えなかった。
それはすなわち、エリザという存在の無価値さを意味する。役に立たないと知られれば、明日にも吹雪のなかに放り出されるかもしれない。恐怖で言い淀んだエリザに、ジゼルは「正直に言え」と硬い口調で言った。
「正直なことを言うのがお前の仕事だ。見えたものに意味を見出すのは、私のすることだ。お前はただ、ありのまま、嘘さえ吐かなければ良い」
「あの……見え、ませんでした」
「見えなかった?」
ジゼルが片方の眉を吊り上げる。
「それは確かか」
「……っ、はい」
肩をぎゅっと縮めながらも、エリザはどうにかこうにか首肯してみせる。
「あのっ……その、役に立てなくてごめんなさ――」
「いや。違う」
半泣きで謝ろうとしたところで、ジゼルが小さく首を振った。
「これは対照実験だ。お前がこれを予知できないのは、私の仮説に沿っている」
「えっ、あの、実験って……?」
「この、お前が見えたほうの籤は、売り始める前から当選番号が決まっている。だが、お前が見えなかった方の籤は、ぜんぶの籤を売り終わってから当たりの番号を決めるそうだ。この意味が分かるか」
「……え、えっと」
「まあ、分からないだろうな」
そう言いつつも、ジゼルはつらつらと言葉を並べ始める。エリザに聞かせて理解させるための言葉というより、彼女自身が考えをまとめるための言葉なのだろう。
「お前の未来予測は、たしかに超現実的な能力ではある。しかしながら、未来予測そのものは人間の知性によって既に可能だ。気象予報や災害予測――所謂シミュレーションだな。シミュレーションとは、ある環境にある作用を与えたとき、結果として何が起きるかを、偏微分方程式を時間方向に解くことで得られるものだ」
そこで「だが」と言い、ジゼルは足を組み替えた。
「ならば、宇宙のありとあらゆる粒子の座標と運動量が分かっていれば、未来はすべて決定できるのではないか、という可能性を論じた学者がいた。もう数世紀は前のことだが。もし彼の仮説が正しければ、お前が今日の夜に何を食べるかも、私がこれから何を言うかも、すべて既に決まっていることになる。人間の自由意志などというものは、所詮、脳のシナプスに流れる電流の生産物でしかないのだからな」
エリザは黙って彼女の話を聞いている。
ジゼルの話はよく分からなかった。ただ、彼女が言っているように、人間の取る行動がすべて事前に決まっていると言うのなら、それはとても空しいような気がした。エリザの不安を感じ取ったのか、ジゼルは「安心しろ」と言ってわずかに表情を緩める。
「不確定性原理によって、とうの昔に否定された発想だ。マクロの剛体と異なり、量子は「そこにある」と確実に定義できるものではない。そして非線形問題には初期値鋭敏性がつきものであることから、決定論的未来予測は不可能だ――という結論に、人類はすでに、とっくの昔に到達している」
「……はぁ」
「そして、お前の能力も」
曖昧な相槌を打ったエリザに、ジゼルは痩せた指をまっすぐ突きつけた。
「この制約を逃れないのではないか、というのが、私の仮説だ。超自然的能力であること自体は疑いようもないが――その特異性はひとえに、観測機器を用いなくても初期値を取得できる点と、量子コンピュータを使わなくても時間発展解を計算できる点に限られている。言い換えれば、この世界でもっとも優れたシミュレータ。それがお前だ。二枚目の籤が当たるかどうか予測できなかったのは、まだ当選番号が決まっていないからだな」
「当選番号……は、人が決めるんですか」
「無作為性が保障されるよう、回転盤にダーツを打つような手法で決めると聞くな。まあ……今時、ご丁寧に法律を守っているか知らないが――回転盤を回すのも、ダーツを打つのも、不正に番号を決めるのも人間だな。つまり人間に依拠する。そう、結論はそこだ」
ファイルをペンのノック部分で叩いて、ジゼルが顔を上げた。
「お前には、人間の行く末は見えない」
その言葉は、白いラボラトリにやけに響いた。
エリザはスカートの上でぎゅっと手を握りしめて、小さく俯く。
「……そう、なんですね」
「より正確には……量子論的不確定性から生じるカオス、その振動解の行く末までは決定できないといったところか。だから――まあ、気候変動の予測へ応用するにしても、その点は留意しておかねば足下を掬われる、ということだな」
ひとつ息を吐いて、ジゼルは背を向ける。
話はそれで終わりらしかった。硬そうなシャツに包まれた、鋭利な印象の背中が、エリザを拒絶するようにこちらを向いている。何か書き物をしている様子だった。あまり邪魔をすれば怒られるのだが、どうしても彼女に、ひとつ尋ねたいことがあった。
「あの……ジゼルさん」
意を決して話しかけると「なんだ」と言って彼女がふたたび椅子を回す。彼女の仮説が立証されたからなのか、ジゼルの機嫌は悪くないようだ。良かった、とひとまずエリザは胸をなで下ろす。
「そっちから話しかけてくるなんて珍しい」
「えっと、その、聞きたいことがあって――」
数日前に見た夢のことを思い出しながら、エリザは口を開いた。
「ラピス、って……知っていますか」
「ラピス?」
ジゼルは少し首を傾げてから「ああ」と唇を開いた。
「ラピスラズリのことか。綺麗な青色をした鉱石だ。お前のような子どもには縁がないものだろうが――」
「いえっ、その……地名、だと思うんですけど」
「それは耳にしたことがないな」
ジゼルはばっさりと切り捨てて、水気のない眉間に深いしわを刻んだ。彼女が身に纏っている雰囲気に、氷雨のような冷たさが混じる。
「あまり、お喋りに付き合っている余裕はない。他の奴に聞け」
「……はい。ごめんなさい」
ひとつ頭を下げて、エリザは足早に研究室を出る。
***
エリザは自分の部屋に戻って、椅子に座った。
目覚まし時計以外は乗っていない木製のデスクに肘を突き、ジゼルが言っていたことについて考える。詳しい説明は分からなかったが、結論としては「人間の未来は見えない」らしい。見えない理由は「不確定性」と言っていた……つまり、人間は何をしでかすか計り知れない、みたいな意味だろうか。
「それは、そうよね」
エリザは呟いた。
未来視の目を持っているエリザ自身だって、自分の未来は見えない。どの服を着るか、どちらの足から先に踏み出すか、決めることはできるけど、それは予知ではない。エリザが「こうしよう」と決めた、その意志によって初めて決まる未来だ。
だから――
大人になった自分の姿を見たような、あの夢は、やっぱりただの夢だったのだろう。だって人間の未来は見えないのだから。どれだけ鮮明な景色に思えたって、あれは、エリザの脳が作りだした虚構でしかなかった。
決して手の届かない世界だったのだ。
「……っ」
そう理解した瞬間、目から涙がぼろりとこぼれた。頭のなかで何かが爆発したみたいに、内側から押し出すものがあって、エリザは熱く火照った頬にいくつも涙を伝わせる。震える身体をまっすぐに保っていられなくなり、嗚咽しながらデスクに顔を伏せた。
どこかで、期待していた。
あれが自分の未来であれば良かったのに、と。吹雪に閉ざされた世界じゃなくて、藍色の空が見下ろす街で。薄手のワンピースで外を歩けたなら。口調は厳しいけど優しそうな友達がいて、どこか頼りないけど実直そうな恋人がいたなら。
そして――
『元気そうだった?』
夢のなかでラムに、彼と――おそらくはエリザの間に生まれた娘について尋ねたときの、あの優しい感覚。血の繋がった娘を愛する、もしかしたらありふれた、しかしながら絶対に手に入らない感情が、エリザ自身のものだったなら!
どんなに、幸せだっただろう。
だけどそれは手に入らないのだ。ハイバネイト・プロジェクトに飼われている限り、友人も恋人も、そしてもちろん娘にも、出会える日は来ないだろう。プロジェクトを抜け出せば多少は自由になるかもしれないが、お金は一銭も持っていない。友人や恋人になってくれるかもしれない相手に出会う前に、路頭に迷って死ぬに決まっている。どんな道を選んだって、あの未来に辿りつけないのは、未来視の目なんて使うまでもなく分かっていた。
否、子どもを持つための身体の交わりという意味なら、エリザにだって経験はある。
だけど。
――だけど。
「違う……」
掠れた声で呟いて、エリザはワンピースの袖をまくる。二の腕の内側に、歪な形をした痣ができていた。太腿の裏側にも同じものがある。強引に身体を掴んで引っ張られるから、よく、こういうものができる。赤黒い痣を人差し指で押すと、じわりと痛みが広がる。実際にされるときよりずっと軽い痛みなのに、それは酷く苦痛に感じられた。
『サティに
誰かの言葉を思い出して、そうだ、とエリザは顔を上げた。
「あんなのは、違う……!」
あれは
理解した瞬間、腹の底が抉られるような痛みに襲われた。
どうして今まで受け入れていたのだろう。避けられない災害のように思えた
「……えぅ、っ」
口の中に嫌な味が広がる。
風邪を引いたときよりもずっと酷い悪寒に襲われて、エリザはがたがたと震えながら自分の二の腕に爪を立てた。勝手に利用されている、良いように使われている、どうしてそれを、今まで怒らずにいられたのだろう。
それを「乱暴」だと言って、助けてあげるよと甘く囁いたルーカスだって、同じだ。勝手に知らない店に連れ込んで、こちらの言い分も聞かずに顔を近づけて。今になって思えば、あの時とつぜん体調が悪くなったのは、ジュースに何かが混ぜられていたのだろう。その後にやろうとしたことは、多分、サティと大差ない。
「……気持ち悪い」
ガタンと椅子を蹴って立ち上がる。
全身の筋肉が強ばっていた。身体中が痒い。皮膚がぷちぷちと音を立てて波打っているような感覚に襲われる。身体が内側から押されて膨らみ、今にも爆発しそうだった。痛む頭にぎりぎりと爪を立て、エリザはこぼれそうなほど目を見開いた。
「気持ち悪い、気持ち悪いっ、嫌だ、やだ、嫌ぁあああああっ……」
頭のなかから出てくるものが、そのまま悲鳴になった。
叫ぶ声は、しかし、フェードアウトしていく。噴火のように吹き出した嫌悪感をすべて悲鳴に変えてしまうと、それ以上は何をするにも億劫になって、エリザは後ろにあるベッドに倒れ込んだ。放り出したままの毛布を爪先で引き寄せると、急に身体が重たくなった。
「あぁあ……」
声にならない声を吐き出す。
寝転がったまま時計を見ると、午前十一時だった。そろそろ食事の支度をしないといけないが、全身から活力が抜け落ちてしまって、とても起き上がれる気がしない。厚手の毛布を頭から被って、エリザは自分を暗闇に追いやる。向きを整えないまま被ったせいで、爪先が毛布の外に出るが、もう、それを被りなおすのすら面倒だった。
もう、いい。
全部なんでもいい。
どれだけ叫んだって未来は変えられない。サティが今さら自分のやったことを反省するわけがない。ルーカスが態度を改めるわけがない。高性能なシミュレータとして飼われ、雑用係として扱われている日々は変わらない。
そうだ、変わらないんだから。
エリザが食事の支度をしなかったせいでプロジェクトメンバーの雰囲気が悪くなったって、だから何だ。ちょっと足掻いたところで未来は変わらない。どうせ最悪な明日しか待っていないのだ。何をしてもしなくても同じだ。なら、少しでも楽なほうに転げ落ちたところで、誰に咎められる筋合いもない。
「……そうよ」
寝台の上で、エリザは目をぎゅっと閉じる。
「どうでも良いんだ、もう、ぜんぶ――」
自分に言い聞かせるように呟いた、その時だった。
コンコン、とノックの音がした。
「エリザ?」
扉の向こうで、篭もった声がする。
「さっき、なんだか、すごい悲鳴みたいな……大丈夫?」
「……ユーウェン、さん」
小声で、エリザは彼の名前を呟く。
分厚い扉どころか、被っているブランケットすら通り抜けないような、ごく小さい声のつもりだった。だけど彼には聞こえていたのか、あるいは返事がないのを不思議に思ったのか、少し切羽詰まった声で「開けてもいい?」と尋ねてきた。
「平気なら、平気って教えて欲しいな、心配だから。それか、僕じゃ問題なら、マリアさんかアマンダさん辺りを呼ぶけど――」
「……っ!」
ほとんど反射的に、全身が硬直する。
どちらも、嫌いな名前だった。
「……嫌……っ」
「何か、あったの?」
絞り出した悲鳴は、今度こそ彼に聞かれたらしかった。一瞬のためらうような沈黙の後に、ガチャリ、とドアノブが捻られた音がする。施錠を忘れていた扉の向こうから、細い扇形の光が差しこんだ。
「……ごめん。ちょっと入るね」
そんな言葉と一緒に、硬い靴音が近づいてくる。コツンコツンという音が、頭蓋骨のなかでいやに響き渡って、ずきずきとした痛みに変わった。三メートルくらい向こうで立ち止まったユーウェンが「体調が悪いの」と尋ねるから、エリザはブランケットから顔だけを出して、小刻みに首を振ってみせる。
「平気ですから」
「いや……でも、顔色、酷いよ……!」
ユーウェンが血相を変えて、どうしよう、と独り言のようなものを言う。
「体温計とか薬とか、どこかにないか、ニコライ先生あたりに聞いてこようか。それか、治療室に行ったほうが――」
「――……いで」
「え?」
意表を突かれたらしい声が、素っ頓狂に応じる。
垂れ下がった髪の毛の隙間から、エリザはユーウェンを睨んだ。
「来ないで、くださいっ……!」
――この人だって。
一見、親切で良い人に見えるけど、そう見えるだけかもしれない。良い人のフリをするのなんて、きっと簡単なことだ。むしろ悪い人のほうが、何が悪いことなのか知っているから、良い人みたいに振る舞うことができるのだ。サティが交渉先の相手の前で好青年を演じているように。あるいはルーカスがマリアを上手く転がしているように、賢く器用に、内側に潜む悪を覆い隠せるのだ。
「……帰って下さい」
ギリギリと音が立ちそうなほど、エリザは強くブランケットを握りしめる。ユーウェンは後頭部に片手をやって、途方に暮れたような声で「ええと」と呟いた。
「その――ごめんね、勝手に部屋に入って。もし何か助けが必要だったら、内線とかでも良いから呼んで。今日は僕は、ずっとラボにいるつもりだから」
「……」
エリザは返事をしなかった。
「じゃあ、また」
そう言って、ユーウェンはその場で踵を返す。立ち去る彼から背を向けるようにエリザが寝返りを打った、その時だった。
カサッと軽い音を立てて、何かが落ちた。
「――あれ?」
ユーウェンも気がついたらしく、立ち止まって振り返る。エリザは億劫に思いながらも、ふたたび寝返りを打って起き上がり、落ちたものを拾おうとした。だが、寝台に寝転がっているエリザよりも、ユーウェンの方が先に屈み込んで
「何か、落ちたけど」
「あ……!」
彼が床から拾い上げたものが、視界の片隅に映りこむ。
それは、空になった
全身の血液が凍りつく。
エリザはブランケットをはね除けて跳び上がり、無我夢中で手を伸ばした。ユーウェンの手から強引にそれを引ったくり、手のひらのなかに閉じ込める。いつもちゃんと、目に付かないよう紙に包んで捨てているはずだったのに、どうして今、こんな最悪のタイミングで。エリザは薬剤のフィルムを握りしめて、そのこぶしを、身体を縮めてさらに隠す。
エリザ、と名前を呼ばれた。
明らかに血の気が失せた顔をしていると、そう分かる声だった。
「ごめん、ちょっと見えたんだけど、この薬は、君が使うようなものじゃ――」
「……っ」
「エリザ。まさか君は――」
「止めてっ……!」
今まで出したことがないほどの大声で、エリザは叫んだ。
「私っ、知りません、こんなの! 出てって、出てってください! もう……!」
ユーウェンを拒絶する言葉を、エリザは思いつくまま吐き出した。途中からもう、自分が何を言っているのか、よく分からなくなった。ただ彼をここから遠ざけたくて、もう踏み込んでほしくなくて、ただただ叩きつけるように叫んだ。
喉が痛くなって、エリザは我に返る。
気がつくと、もうユーウェンは部屋にいなかった。扉も閉められていて、居室は暗闇と静寂に満たされている。エリザはぜえぜえと荒い息を吐きながら、上がりすぎた体温をさらに閉じ込めるように、ブランケットを全身に巻き付けた。
寝返りを打つと、身体の下で小さいものが潰れるような感覚がした。
重たい腕を動かして、身体とベッドの間に挟まっていたものを引っ張り出す。
それはプラスチックの包装に包まれたマカロンだった。ベッドの上に置いたままだったのを忘れていて、身体の側面で押し潰してしまったようだ。マカロンのつるりとした表面には大きなひびが入り、間に挟まれたペーストがあふれ出ている。見るも無惨に潰れたマカロンを見ていると、また、ぼろりと涙がこぼれ落ちた。
うまく動かない指先で、エリザはマカロンの包装を開ける。
潰してしまったけど、せっかく貰ったものだから、食べないとダメな気がした。割れたマカロンの欠片をつまみ上げて、寝転がったまま口に運ぶ。じゃりじゃりした砂糖の舌触りを感じるが、味はほとんど分からなかった。ただ、疲れるほど甘ったるいと思っただけだった。
口の中身を飲み下し、エリザは眠りに落ちていく。