chapitre8. 忘却の終わり、そしてはじまり
文字数 7,575文字
ムシュ・ラムの声を聞いた瞬間、リュンヌの視界がぐらりと揺らいだ。
天と地の区別がつかなくなり、部屋の壁が視界の中で一回転した。リュンヌは身体の平衡を保てなくなって倒れ、硬い床に背中を強かに打ち付ける。一瞬ののち、背中に鈍い痛みが広がった。上半身に叩きつけられる衝撃が、肺から空気を追い出す。喉に異物を詰められたように息が出来なかった。
経験したことがないほどの苦しみは、しかし、床に倒れた所為ではなかった。
頭が割れるように痛み、視界がチカチカと明滅する。物理的に存在しているリュンヌの身体の枠を越えて、何かが溢れ出そうとしていた。眼球を後ろから押されるような圧迫感に、彼女は思わず両手で顔を覆う。
遮断されて暗くなった視界に、記憶の映像が映し出されようとしていた。
図書館にいつもいた、あの女性。
彼女こそ、エリザと呼ばれていた人そのもの。
言葉の意味や文法のような些細なことではない、もっと大事なことを彼女は教えてくれたのだ。
それは――
――この世界が忘れている、神話だった。
新都ラピスが「新しい都」という名前を冠するように、この土地にはかつて、今とは全く異なる秩序を持つ文明があったのだ。空を架ける機械仕掛けの鳥、景色をそのまま閉じ込めた箱、色とりどりの服をまとい笑い合う人たち。まるで見てきたかのようにそれを語って聞かせた、エリザという女性の話はそれ自体が物語だった。
ルナ、と誰かがリュンヌの名前を呼ぶ。
いつも聞いていたその声に、その呼び方。不思議なことに、その瞬間から肉体的な苦痛が薄れていった。繰り返し呼びかけるその声は、次第に遠くなっていく。厚い壁の向こう側に声が消え、リュンヌは記憶の世界に没頭していった。
*
ムシュ・ラムの声を聞いた瞬間、リュンヌの身体が床に崩れ落ちた。
エリザという名前。
それこそが、リュンヌの記憶を呼び出すための『鍵』なのだ。
リュンヌが最も忘れなければならなかった、図書館にいた彼女の名前。
それが、エリザ。
十年間ソレイユが隠し通した、たったひとつの名前が、閉鎖された扉に風穴を開けた。
言葉をトリガーとした記憶の操作は、新都の先鋭技術のひとつだ。十年前、開発部の幹部たちは、まさに成熟しつつあった記憶操作の技術をソレイユとリュンヌに施し、エリザに関する彼らの記憶を消し去った。
なぜ記憶を奪われたのか?
単純だ。
エリザによって二人にもたらされた知識が、新都ラピスにとって都合が悪かったから。
だが、未成熟だった記憶操作は完璧とはいかなかった。閉ざされたはずのエリザの記憶を、ソレイユは数週間もしないうちに取り戻し、当時から直属の指導役であったムシュ・ラムに抗議した。
今よりも若かったムシュ・ラムは、それを受けてソレイユにとある交渉を持ちかけた。ソレイユに少しの特権と知識を与え、リュンヌの安全を約束する代わりに、リュンヌの記憶を封印されたまま保つことに協力する。それがムシュ・ラムの提示した条件だった。
どう考えても、ソレイユ側にとって分が悪い取引だ。
そもそも彼は取引などするつもりはなく、非人道的な行為をした統一機関側を弾劾したかったのだ。それに、安全を約束するなどということは今さら保障するまでもない、ラピス市民には当たり前に与えられている権利だったからだ。
当然ソレイユは反発した。
今より幼かったが故に、今より無鉄砲な反発を試みた。だが、ひとつ誤算があった。
リュンヌの立場は、ソレイユが考えるよりずっと危うかったのだ。
ソレイユは崩れ落ちたリュンヌを支えようと即座に手を伸ばしたが、一瞬間に合わず、彼女の身体が床に叩きつけられた。喉元を抑え、苦悶の表情を浮かべているリュンヌを、せめて支える。彼女はソレイユに縋るように身体を丸め、添えた彼の手を跡が残るほどきつく握りしめた。ソレイユの指先にリュンヌの爪が突き立てられ、爪が半ばまで剥がれて血が流れた。
爪が剥がれるときの痛みは痛覚の中でも非常に辛いものであるという。歯を食いしばっても足りないほどの痛みが指先を苛む。
それでもリュンヌの手を離すつもりはなかった。
「……君は、ぼくよりずっと苦しいのだから」
自分に言い聞かせるように呟く。
血は手首を流れ落ち、床にいくつかの痕を残した。
「今日まで長かっただろう。ソレイユ・バレンシア」
ムシュ・ラムがぽつりと呟いた。リュンヌが目の前で倒れたというのに微塵の焦りも見せず、二人を冷徹な目で眺めている。
――感傷的な世間話に応じる理由などない。
そう思いつつも、ソレイユは、今日までの年月に思いを馳せずにいられなかった。リュンヌと出会ってから経過した十数年間が脳裏に流れていく。
「リュンヌに対し嘘をつけということがどれほど苦しいか、貴方に分かりますか」
「分からない」
意外なほど彼は素直な返事を返した。だが、と眉根を寄せる。
「何かを秘匿する苦しみは知っているつもりだ。――愛する人を裏切る苦しみも」
「ぼくは裏切ったのではない!」
ソレイユは思わず激しい声で叫んでしまった。
静まりかえった部屋に、ソレイユの声が跳ね返る。
丁寧さを保っていた口調が崩れたが、それを聞いてもムシュ・ラムは表情を変えず、むしろ哀れむような視線で彼を見た。はあ、と息を吐いてソレイユは非礼を詫びる。
「……失礼しました」
「構わない。それより、早く彼女を安心させてやれ」
ムシュ・ラムが言う。リュンヌに、愛称で呼びかけろとそう言っているのだ。
ソレイユがリュンヌを呼ぶ、ルナという名前はただの愛称ではない。
エリザという名前が、リュンヌの記憶を再構成する『鍵』だったように、ルナという名前は彼女の記憶を封印し直すための『鍵』だった。
ムシュ・ラムの率いる技術者たちは、ソレイユに施した記憶操作が失敗したことを知るや否や、リュンヌの最も傍にいる存在であるソレイユに『鍵』を持たせることを提案した。常に彼女の様子を見て、もしも何かのきっかけで記憶の封印が外れかけたときには、すかさず『鍵』を使って封印をかけなおすこと。それが、彼らの提案した取引だった。
記憶の封印が外れかける瞬間を見分けるのは、よく彼女を観察しているソレイユにとっては造作もないことだった。
何かが喉に引っ掛かったような表情。
不快そうにしかめる眉。彼女がそういうシグナルを示したとき、ソレイユはさりげなく、いつも通りの笑顔で彼女を呼ぶのだ。
『ルナ。そういえば今朝ね、部屋に……』
『ねえルナ、ご飯食べに行こうよ』
『ここ分かんなかったんだ。ルナは分かる?』
罪悪感は笑顔の後ろにひた隠して、彼女の名前を呼ぶ。
その瞬間、彼女の表情がふわりと和らぐのが分かって、ほんの少しだけ彼を救う。記憶を奪い直すことと引き換えに、彼女の心の安寧を保つ。まるで彼女に呪いを掛けているようだった。
そんなことを十年間繰り返した。
「どうした? 早く呼びかけてやらないのか」
ソレイユは暗い目をムシュ・ラムに向けた。
「もう記憶は解放されてしまったのだから。無意味でしょう」
「そんなことはない。分かっているだろう? 君が彼女に愛称で呼びかけるとき、少なからず彼女は安心を得ていたはずだ」
「……それは、きっと、そうなのでしょうね」
だからこそ、ソレイユは躊躇った。
ルナと呼ぶことによって彼女に与えていた安心は、偽りでしかないからだ。
「貴方は、この期に及んでまだ、彼女に呪いをかけ直せと命じるのですか?」
「別に命令ではないさ。それに今さら彼女の記憶に触れさせるつもりもない。ただ、ソレイユ・バレンシア……私は思っただけだ。愛する人を安心させられる可能性があるのなら、愛称で呼びかけるくらい造作もないと」
「それは貴方のことでしょう?」
ソレイユはふっと息を吐いた。
「貴方の愛には興味はないが、私に押しつけないで頂きたい」
自分の2倍以上の年月を生きていて、底知れぬ恐ろしさを持つこの大人が、ただの同い年の友人のように思える瞬間が稀にだがある。
「愛なんて……ラピスが真っ先に投げ捨てた感情なのに」
「悪いが、これほど長く生きてしまうと、全く矛盾がない人間ではいられないのだ」
吐き出すような笑いと共に、ムシュ・ラムが言い訳をした。彼が肩を竦めた雰囲気を、背中越しに感じ取る。彼は恐ろしい人物のようで、やはりどこか、人間味があるのだ。
その、ムシュ・ラムの所作に体温を感じ取って、ソレイユの胸に十年間たまり続けた罪悪感がほんの少し、安らぐような気がした。
愛すべき幼馴染の耳元に口を寄せて、囁いた。
「お休み。ルナ」
数秒ののち、ソレイユの手に食い込んでいた指先から力が抜けて、だらりと床に垂れた。血塗れになったソレイユの指先を見て、「使うか」とムシュ・ラムがどこかにしまってあったらしい包帯を示した。ソレイユは黙って受け取り、指に包帯を巻く。
ムシュ・ラムは、ティアを肩に担いで立ち上がった。
「部屋は用意してある。それから、明日は葬送だ。……この少年によって殺された研修生の、な。支度するように」
包帯のせいで思うように手が動かず、放り投げられた鍵の束を受け取り損ねて、高い音が壁に跳ね返った。用は済んだ、とばかりにムシュ・ラムが背を向ける。
ランタンの灯りが遠くなっていく。
ソレイユは十年間、リュンヌの記憶が開放される日を待っていた。だというのに、あまりにも呆気なくそれは終わり、ソレイユに残されたのは長年リュンヌを騙し続けたという結果だけだった。結局、新都という巨大な組織の中でソレイユはあまりにも無力で、嘘を吐かなければリュンヌの命すら守れない。
身体が鉛になったように重かった。
虚脱感が身体を包み込む。そんな感覚のなかで、頭の何処かが叫んでいた。
――これで終わらせてしまっては駄目だ。
そうだ、自分も、愛する友人も、ムシュ・ラムもみんな、新都の秩序を保つために部品となって働いている。リュンヌは新都にとって不都合なことを知ったがために大切な思い出を奪われた。ソレイユはそんな彼女に対して、本音で話す権利を奪われた。
ソレイユは髪を翻して振り返る。
遠ざかりつつある、痩せこけた背中が見えた。
自分だって愛する人を奪われているのに、どうしてこんなことに加担する?
「……いつまで、こんなことをするんです?」
ぽつりと、ソレイユの口から言葉がこぼれ落ちた。
決して大声ではなかったそれを聞き留めて、ムシュ・ラムが彼に視線をよこす。
「やはり私は納得できません。奪われていたものを返されて、返したのだから明日からはいつも通りだと、そんなことがまかり通るでしょうか。……いえ、もっと大きな問題です。一体何のために、私たちは生かされているのですか?」
「時にはコントロールされ、新都のために生きる。それが君たちの役割だ」
「外側から与えられた義務ではなく、主体的に選択する目的のことです」
「そんなものはないさ」
ムシュ・ラムは苦笑する。
「私たちは皆、新都の秩序を担うために役割を持って生み出されたのだから。生命は管理されているひとつの末端装置だ。そもそも主体など存在しない……分からないのか?」
「そうだとしても!」
それに続く言葉を言うべきか、ソレイユは一瞬悩んだ。
だが、口に出さなければ何事も伝わらないのだ。いや、話せばわかり合えるというのは、子供でも信じない理想論かもしれない。それでも、今言わなければきっと後悔する。
十年間かけて、懐疑から確信に変わったひとつのことを。
「……リュンヌには本当は役割なんてなかった。彼女は何にも縛られない人間として生きられるはずだったんでしょう?」
その言葉を受けて、ムシュ・ラムの表情が険しくなるのが逆光の中でも分かった。
手応えを感じて、ソレイユは慎重に次の言葉を選ぶ。
「ラピスでは、確かに人間は役割を持って生み出されます。統一機関の管理する出生施設で、新都にとって都合の良いように設計されて生まれます」
新都ラピスに住む人間ならば、誰もが知っていることだ。
人々は生まれた瞬間から、正確には生まれる前、ひとつの細胞になった段階ですでに役割は決められている。鉱山で働く者は強靱な肉体を、運送に携わる者は敏捷な判断力を、研修生のように頭脳労働者になる者は高い知能やコミュニケーション能力を予め持つよう、遺伝子の段階から設計されてはじめて人間になる。
人があって役割を与えられるのではない。役割に沿って人が作られるのだ。
ソレイユも、プランに沿って作られた人間でしかない。
それは分かっていて、今さら哀しむようなことでもなくて、
だけど。
「……でもムシュ・ラム、ルナはソヴァージュなのでしょう?」
ラピスの人間の多くは設計品だ。
しかし、正規の手段に則らず出生した人間が少数ながら存在する。施設ではなく人間の身体のなかで育てられた、
ソレイユの言葉を聞いたムシュ・ラムは、長い息を吐いた。
「――だったら何だというのか?」
遠回しな肯定の言葉を受けて、やはり正しかったのだ、とソレイユは確信する。
違和感はあった。統一機関の研修生にも関わらず非社交的な性格、努力している割に平均程度の成績。研修生として設計されたにしては変なのだ。唯一、記憶力は非常に優れているが、思い返してみれば彼女が抜群の記憶力を発揮しはじめたのは記憶を奪われた後だ。先天的な能力ではない。
それに二人は――どこか、風貌が似ている。
様々なできごとを経て、ソレイユは確信に至った。
リュンヌは、ムシュ・ラムの娘なのだ。
そう考えれば、彼がリュンヌの安全を取引材料にしたことも理解できる。
本来であれば新都に存在するべきでないソヴァージュの人間が、まっとうな生活を営むことは難しい。ソヴァージュであることが知られればそれだけで差別の対象になり、先天的な能力と、後天的に与えられた役割が咬み合わず苦労することも多い。ましてや統一機関の研修生のように、高い能力を要求される役割ならば尚更だ。
ムシュ・ラムは様々な手を駆使して、自分の娘であるリュンヌを監視下に置くために彼女を研修生の枠にねじ込み、彼女がソヴァージュであることを隠し通そうとしたのだろう。
それが並大抵の苦労でないことは、ソレイユにも想像できた。
彼のおかげでリュンヌは研修生として生活できるのだから、その点はムシュ・ラムに感謝している。いくら感謝してもし足りないほどだ。それでもリュンヌが、安全な生活という最低限の保障を条件に、本来ありもしない役割を押しつけられていることが、どうしても許せなかった。
ソレイユははっきりと言った。
「彼女を役割から解放してほしい。ましてや幹部候補生に選べばますます自由は奪われる。鳥かごの中に閉じ込めるようなものです」
ムシュ・ラムはそれを聞いて哀れむような笑いを浮かべた。
馬鹿げたことを、というつぶやきが聞こえる。
「共同体において役割のない人間など存在しない。社会の恩恵を受けているぶん、貢献という形で返してもらわなければ。仮にソヴァージュであるとしてそれに何の意味もない。役割が明示的に与えられるかどうかの差だけだろう」
「人は共同体のためにあるのではないでしょう」
「
ムシュ・ラムはソレイユの反駁に対し鼻で笑った。
「新都では役割とは即ち存在価値だ。居場所を与えられただけ有り難いと思うべきだ」
それが、他でもない自分の娘に向ける言葉なのか。ソレイユは唖然としてしまい二の句が継げなかった。ランタンの光が揺らめくのと対照的に、ムシュ・ラムの表情は微塵も動かなかった。
多くの新都の人間と同様に、ソレイユには両親がいない。
原始的な生殖によって生じる、親子という絆について知っている内容は、かつてエリザが語ってくれたことだけだ。
彼女もまた、誰かの娘であり、反発しながらも愛されて育ったのだ。ときに笑顔で、ときにしかめ面で語られる家族という場所は、一筋縄ではいかない複雑な関係性だが、それでも暖かいものであるらしい。ゆえに、ムシュ・ラムが
だが今の彼の発言に窺えたのは、冷徹な組織人の姿だった。
心臓が冷たくなっていくのを感じながら、それでもソレイユは反論を試みる。
「ラピスの、それも中枢にいる貴方に倫理を求めるのは間違っているのかもしれません。けれど、もう少し誠実さ、優しさ、いえ、父親としての愛を――」
「いい加減にしてくれ」
苛立ったように溜め息を吐いて、ムシュ・ラムがソレイユに歩み寄った。横たわるリュンヌを支えるために膝を突いた姿勢のソレイユを、険しい表情が見下ろす。ソレイユの言葉を遮るように、深い皺が刻まれた手が伸びてくる。骨が浮き出た指がソレイユの顎を掴んで持ち上げた。
細められたまぶたの奥から、鋭い視線がソレイユに向けられている。
「便宜を図ってきたつもりだ。お前達には」
「塔の上では外れ籤のことを便宜と呼ぶのですか」
しばらく睨み合っていたが、ムシュ・ラムの方から溜息をついて顔を逸らした。
乱暴に掴まれていた顔をソレイユは抑える。細い指からは想像できないような力が、脈打つような痛みを残していた。
「私を憎むのは好きにするが良い。但し役割は果たして貰う。それが、新都に生を受けた対価なのだからな」
彼はそう吐き捨てて部屋を出て行った。重たい音を立てて扉が閉まると、部屋を照らし出すのは月明かりだけになった。静まりかえった部屋で、ソレイユは友人を背負って立ち上がる。意識を失った彼女の身体は重たく、彼は少しよろめいた。
「ルナ、ぼくは諦めない。永遠に君の味方だ」
聞こえないと分かっていながら、ソレイユはそう呟いた。