chapitre54. リジェラ
文字数 4,850文字
もう遠い記憶になってしまった2年前、ティアと出会ったときにかけた言葉を、半ば祈るような思いでリジェラに言ってみる。伏せられていたエメラルド色の瞳に光が反射して、リジェラは乾いた唇を小さく、しかしはっきりと動かした。
『私はリジェラ。良かった、言葉の分かる人もいるのね』
今まで意味のある返事をしなかったリジェラの口から、初めて意味のある言葉が紡がれた。いや、今までもきっと、彼女は自分の言葉で喋っていたのだろう。それをロンガが理解できなかっただけで。
リジェラはゆっくりと上半身を起こした。取り囲んでいた人垣が、一斉に一歩下がる。彼らほどではないがロンガも少し身を引いて、改めてリジェラを観察した。体格が細いので幼く思えるが、顔立ちをよく見ると意外に成熟している。実年齢はロンガより年上かもしれない。そして雪のように白い肌と、ベージュ色の乾いた髪の毛。
吹き付けた風にリジェラが身体を震わせたので、ロンガは外套を貸してやった。『ありがとう』と、確かそういう意味だったはずの言葉を彼女が呟く。
「ロンガ、どういうこと」
隣に膝をついたアルシュが耳元に口を近づけて、小声で聞いてきた。
「彼女はティア・フィラデルフィアと同じ言葉を使っているの?」
「みたいだ。とりあえず会話が通じそう、というだけだが。名前はリジェラで間違いないらしい」
「なら、都合が良い」
アルシュは外套の裾を払って立ち上がった。背後のフルルに呼びかける。
「この子、MDPの本部に連れて行こう。手伝って」
「了解です」
輪の外にいたフルルがさっとこちらに来て、「軽いですね」と呟きながらリジェラを背負った。リジェラは強ばった顔をしたが、抵抗する体力はないのかフルルにされるがままだ。今にも歩き出そうとするMDPの2人に、ロンガは「待って」と呼びかける。
「連れて行ってどうするんだ?」
図らずも非難めいてしまったロンガの問いかけに、アルシュが片目を細めた。
「彼女を連れて行って、それでどうこうするという問題じゃない。連れて行く以外にできることがない。それともこのまま、地下に返すべきだって言うの?」
「でも――“地底の民”から見れば、味方を人質に取られたように見えないか」
「それは私だって分かってる。でも、もとから非対称な関係性で、ファーストコンタクトが一方的になってしまうのは仕方ないことだよ」
彼女は小さく肩をすくめた。
「だから行動で示そう。私たちはリジェラに危害を加えるつもりはないのだ、と」
「分かった」
アルシュの言葉ぶりに、少なくとも力の及ぶ限りにおいてはリジェラを対等に扱おうとする姿勢を垣間見て、ロンガは少し安堵した。
ひとりで問題ないとフルルが言うので、リジェラの保護は彼女に任せることになった。フルルはこのままMDPの拠点まで向かうと言い、リジェラを背負って路地の向こうへ消えた。
残されたロンガたちは、リジェラがいったいどういう経緯でラ・ロシェルにやってきたのか、まずそれを整理することにした。先ほど、フルルに引きずられて無理やり輪の外に連れ出された青年は、今は落ち着いたのかうずくまって肩を落としていた。リジェラに掴みかかっていたときは気づかなかったが、むしろ細身で小柄なほうだった。
隣に座っていたリヤンが「バレンシアに友だちがいるらしいんです」と顔を上げて言った。彼から聞き出したのだろう。
「それでか」
「火事なら大丈夫だよって言ったら、良かった、って」
リヤンが小さく微笑んだ。
一昨日の夜バレンシアにて、収穫祭の最後の催しとして行われた、捧げ物を焚き上げるための習わしである浄火が爆破された。迅速に消火されて大事には至らなかったものの、“ハイバネイターズ”の影響力をラピス中に知らしめるには十分すぎる事件だった。当事者だったロンガたちに説明されて、ようやく彼は肩の力が抜けたようだ。
「……すんません」
先ほどまで激昂していた彼は、今はすっかり落ち込んでいた。立てた膝に顔を俯けて、小さく謝罪の言葉を呟く。成り行きを見守っていた周囲の人垣から1人が歩み出て、こちらにやってくる。ロンガたちが最初に話しかけた、温厚そうな青年だった。
「あの、さっきはありがとうございました」
青年がこちらにまっすぐ向き直って、大柄な身体を折って謝罪した。いえ、とアルシュが外向きの口調で応じる。
「お構いなく。ですが、もし宜しければ事情を教えて下さい。彼女――リジェラはどこからやってきたのですか?」
「あぁ、勿論ご協力しますよ。あの人は――」
「ねーぇ」
青年の身体をずいと横に押しのけて、後ろから小柄な少女が顔を出した。まだ十代半ばと思われる顔に、どこか挑戦的な笑みを浮かべている。
「教えても良いですけど。そしたら、あの子をアタシたちがお世話しても良いですか?」
「貴女たちが?」
突然割って入ってきた少女にアルシュは目を見開く。
「ええと、そうですね。何も聞かずに了承はできませんね」
「だったら
「ルージュ。わがまま言わないで」
少女が可愛らしい顔を薄笑いの形にゆがめると、先ほど横にどけられた青年が後ろからその肩を掴む。ルージュと呼ばれた少女は振り返り、青年の胸板を抗議するように叩いた。その頭は青年の肩にも届いていないほど体格に差があるのに、青年は少女に睨まれてたじろいだ。何というか押しに弱い性格らしい。
彼らの押し問答を見せられて、アルシュが困惑の表情を浮かべている。見かねてロンガは割って入った。
「アルシュ、ちょっといいか。――貴女、ルージュと言いました? ひとつ聞きたいんだけども」
「お姉さんは誰ですか?」
「ロンガ・バレンシアです。リジェラの世話をしたいと言いましたが、リジェラの面倒を見るだけの環境が用意できるんですか」
「別にお姉さんのお名前を聞きたかったわけじゃないんですけどぉ……」
つまらなそうに唇を尖らせるルージュに変わって、後ろの青年が「あの」と控えめに話し始めた。
「状況は分かりませんけど、うちならひとり増えても平気くらいの余裕はあります。――コラル・ルミエールをご存じですか? あ、僕アックスって言うんですけど、僕たちはそこの所属です」
「
ロンガが聞き返すと、アックスと名乗った青年は顎を小さく動かして頷いた。その顔に心なしか、恥じ入るような表情が浮かんでいるのは何故だろうか。
「アルシュは知っているか?」
「……逆に聞きたいけど、ロンガは知らないの?」
振り返って尋ねると、アルシュは少し呆れた顔をした。
「この街に住んでれば一度くらいコンサートを聴きに行くものだと思ってたけど。ラピスには他にも
「へえ、選抜があるのか」
生まれ持った「役割」によって全てが決まるラピスで、それは珍しいことだった。得心して頷いたロンガの背後で、離れた場所に膝をついていたリヤンが「それでですか」と明るい声で言った。今まで発言しなかった彼女は、振り返ったロンガたちの視線を受けて「あ、すみません」と慌てたように両手を振ってみせた。外套のフードからのぞく頬が少し紅潮している。
「でも、すごく綺麗な声だなって思ったんです。お兄さんも、ルージュさんも、この子も。なんか透き通ってて、でも芯があって」
「そういえば最初に言ってたな」
「うん。あ、あたし、バレンシアから来たばっかりなんですけど、電気が来てたころは録音を聴いてましたっ。もしかしてコラル・ルミエールの生演奏が聴けちゃうんですか? わわ、どうしよう」
リヤンは両手で頬を抑えて目をきらめかせた。まだリヤンがバレンシアにいた頃、自分が大切なことを知らされないまま生きているとは夢にも思っていなかった時期の彼女を思わせる素直で明るい反応に、少し場が和らいだ。
アックスが苦笑する。
「そこまで言ってくれると僕らも嬉しいけど――」
「でも残念だったな」
語尾に重ねて、少年の声が割り込んだ。少し咳き込んでから顔を上げたのは、先ほどまでリジェラともみ合っていた少年だった。そばかすの目立つ鼻を鳴らして、神経質そうな顔を背ける。
「今は演奏、止めちゃったから」
「どうして――」
「なんでって、もう聴く奴がいないからだよ! あんただって」
そう言って少年はアルシュを指さした。
「さっきは随分褒めてくれたけどさ、この2年、コラル・ルミエールのこと一度でも思い出したかよ。
「……それは」
「ロマン、あまりこの人たちを困らせないでくれ」
図星だったのだろう、言い淀んだアルシュに代わってアックスが遮った。ロマンという名前らしい少年は唇を尖らせる。隣に膝をついていたリヤンは黙って目を伏せていた。好意のつもりで言ったことが逆にロマンを怒らせてしまう結果になり、リヤンは悲しんだだろうか。
どうもすみません、と誰に向けたのか定かでない謝罪の言葉と共に、アックスが頭を下げる。ルージュとロマン、子どもから大人になる年齢特有の気難しさを持つ2人に、アックスという青年はすっかり振り回されているようだった。彼は柔和な顔立ちに拭いきれない疲れをにじませつつも、「良ければ」と切り出す。
「もしお時間があれば、僕らの教堂で話しませんか。ここでは寒いですし」
たしかに青年の言うとおり、日が傾きかけて気温がさらに下がり始めていた。吹き付ける寒風のためか、先ほどまでロンガたちを取り囲んでいた野次馬はほとんど解散していた。思ったより長丁場になりそうだから、室内で話をしようという提案は魅力的に思えた。
それは有り難いです、とロンガは頷いた。振り向いてアルシュたちに確認する。
「良いと思うけれど、どうだ? アルシュ、リヤン」
「あ、ええと……ごめん、そうしたらこの話は、ロンガとリヤンに任せてもいい? もうすぐ夕刻だから、私は本部に戻っておきたくて」
「――そうか。確かにそうだよな」
絶妙に言葉をごまかしつつ言った、アルシュの真意をロンガは察する。
もうすぐ夕刻になる。それは、先日ティアが届けてくれた情報が正しければ、フィラデルフィアに催涙ガスが撒かれる時間だ。そこで何かトラブルがあったとして、離れた街にいるアルシュが即座に対応できるわけではない。とはいえ、計画の総責任者を名乗るアルシュが、計画の実行されるそのタイミングで全く違う仕事をしているのはあまり良くないだろう。
アルシュは外套を
「
「分かった」
ロンガたちはMDPに加入したわけではないが、今に限ってはそのつもりで動いて欲しい。アルシュの言葉はそういう意味だ。それにずっしりとした重みを感じながらも、しっかりとロンガは応えた。隣でリヤンが頷く。暗くなり始めた路地に駆け出すアルシュを数秒見送って、ロンガはアックスと、こちらに
「マダム・アルシュの代わりにお話を聞きます。MDPのロンガ・バレンシアです、こちらはリヤン」
「リヤン・バレンシアです。――先ほどは配慮が足りなくてごめんなさい。お話は全てMDPにつなげます、ですから、私たちに教えて下さい。あなたたちのこと、それから先ほどの事件について」