chapitre112. 白昼の騒動
文字数 7,115文字
崩れた塀に呆然ともたれかかっていた青年を見つけて、シェルは手を振ってみた。彼はシェルに気がつくや否や、脱力した膝を抱えてガタガタと震えだした。ここまでに何人か似たような相手に話しかけて、砕屑から顔を守るように伝えようとした。身振り手振りで通じた相手もいたが、ひとりは異常事態をシェルが引き起こしたと勘違いしたのか、血相を変えて追いかけてきた。
どうにか逃げおおせて、その矢先だった。
こんにちは、と今度は異言語で話しかけてみると、彼の目が少しこちらを向いた。これは通じる相手かなと踏んで、彼の隣に膝をついてみる。
「顔を覆った方が良いよ。ここは細かい砂が落ちていて、目や喉を痛めてしまうから」
「ああ……どうも。君、ラ・ロシェルの人かい」
「うーん……説明がちょっと難しいんだよね」
シェルは唇を尖らせて、あ、と思いついた。
公用語を異にする平行世界がある。だが、それは2年前から分かっていたことだ。新たに分かったのは、どうやら自分たちの世界とティアの世界の2つきりではなかったということだ。ラピス公用語と、シェルたちが呼ぶところの異言語、そのどちらも通じない相手がいることからして――幾つもの世界が
だが逆に考えれば、異言語が通じる彼は、ティアと同じ世界からやってきたと考えられる。超次元的存在ビヨンド、あるいはD・フライヤについて最初に教えてくれたのはティアだった。彼のいた世界におけるビヨンドは、少なくとも
「ビヨンド――って、知ってるかな」
「えぇ?」
彼はぎょっとした表情になって、腰を下ろしたまま後ずさりした。
「君、あれか。水晶に神秘的な力があるとか、本気で信じてるわけかい」
「ああ……その反応は知ってるね」
シェルが冷静に頷くと、彼は今にも逃げ出しそうな表情になる。その肩をぐっと掴み、聞いて、とまっすぐ目をのぞき込んだ。
「ぼくはオカルトの話をしてるわけじゃない」
「そりゃ、自分が狂信者だなんて言わないだろうね。放してくれ」
「そう……困ったなぁ」
一切の遠慮をしない、迷惑そうな視線がこちらに向けられている。シェルは肩をすくめて、彼の眼前に一本指を立ててみせた。
「ビヨンドの干渉によって、複数の世界が混ざり合った。ぼくと君は違う世界からやってきた人間。ぼくはそう仮説を立てているけど、君が言うとおり、とんでもない思い違いかもしれない。だからさ、ぼくが間違ってるって言うなら、その証拠を見せてよ」
「君に従う理屈なんてないだろう」
「そうは言うけど、ここにいたって危険でしょう。一緒に行こうよ。ビヨンドを信仰していた人が、どんな集団だったのかは知らないけどさ」
「……しらばっくれるなら教えてやる」
彼はシェルの胸元を掴んで、鋭い視線で睨みつけた。
「君たち、信仰者は統一機関に牙を剥いたんだ。おかげで俺たちの居場所は奪われた」
「俺たちの――って、君は統一機関に所属してるの」
「いつまでその、薄っぺらい嘘を吐くつもりなんだい。統一機関は瓦解しただろう」
「ああ、そうなの。ぼくらの世界でもだよ」
シェルが微笑んでみせると、話が通じない相手を見るとき特有の、うんざりしたような視線が向けられた。使っている言葉が異なっても、表情や雰囲気は似たようなものになるようだ。
「とにかく、統一機関の人間なら話が早いな」
独り言を呟くと、青年は眉をひそめた。また何か言われる前に、とシェルは間髪入れずに問いかける。
「ティア・フィラデルフィアという少年を知ってる?」
ものは試しと聞いてみると、彼は両眉を大きく上げて、空気を求めるように口を動かした。なぜ君が、と掠れた声が問いかける。
「なぜ、そんな――野暮ったい話し方のくせに、
生まれてからずっと異言語を使ってきた人間にとっては、シェルの喋り方は洗練されていないように聞こえるらしい。これでも結構な練習をしたんだけどな、と内心で肩をすくめつつ、呆然としている彼にも伝わるよう、簡潔な言葉で告げた。
「彼は2年前の9月にぼくらの世界にやってきた。そちらから見れば、突然消えたことになるのかな」
「……信じないぞ」
「ええと、あと、銃を持ってた。あれ、見たことない銃だったな。柱を、こうやって」
シェルは両手の指で丸を作って、塀に押し付けてみせる。
「くり抜くように壊してた。あんな子供まで銃を持ってるなんて、平常時とは思えない。そちらで何かパニックが起きてたんじゃないの――」
彼を説得するに足る情報を出すために、矢継ぎ早に喋っていると、青年が舌打ちをして布越しにシェルの口を押さえた。
「分かったよ、分かったからそのくらいにしてくれるかい。全く、機密情報をペラペラと」
「信じてくれた?」
「誰が信じるものか」
青年はこれ見よがしに溜息を吐いて、泥に覆われた地面から立ち上がった。
「君はお節介な嘘つきだが、安全が確保されるまでは利用してやる」
「どうも。ぼくはシェルだ、よろしくね」
「……ブラスだ」
無愛想な表情だが、意外にもあっさりと名前を教えてくれたので「それ偽名?」と聞き返すと、ブラスと名乗った青年は苦い表情になって顔を背けた。
*
アルシュが各都市の
『えっと――言語の件、確認してもらえた?』
「うん。シェル君の言う通りみたい」
アルシュは応えてから、確認するためカノンに視線を向けた。詳細な言語解析を進めていた彼は、アルシュの視線を受けて小さく頷き、パネルにいくつも浮かんだウィンドウのひとつを示してみせる。
「俺たちの言語を合わせて――7つと解析では出ている。場所によって偏っていることもあるが、ほぼ確定だね」
アルシュは目眩を覚えて額を抑えた。
片手の指では数えられないその数は、多いことは間違いないのだが、7つもの言語が混ざり合ったときに何が起きるのか、全く想像ができなかった。地上と地下の対立も、きっかけとなった要因こそ違うが、公用語の違いは大きな壁だった。たった2つの言語でさえそうなのに、7つなんて。
『7つかぁ……』
どこか危機感の欠落した、ぼんやりとした声でシェルが答える。
『それって七都の数と同じだね。ラピスの祖の数とも、同じ。部屋の柱の数とも同じ……どういうことだろう』
「あれこれ考えるのは良いけどさ」
カノンがふっと息を吐いて笑った。
「あんた、今、安全なのかい。どこにいる」
『それなりに。えっとね、みんな統一機関の建物に集まってきてて、ぼくもそこにいる。地下に誘導していい?』
「道は分かるの?」
『……来た道を戻るだけだから』
答える前に、僅かだが間があった。
アルシュは眉をひそめる。そもそも彼はなぜラ・ロシェルにいるのだろうか。地上を目指すとは聞いていたが、泥に覆われているラ・ロシェルをわざわざ目的地に据える意味が分からない。一緒にいたはずのロンガと別れている様子も含め、彼の行動はかなり謎めいていた。
諸々の疑問を胸の奥に押し込めて、アルシュは「分かった」とマイクに向けて言った。
「でも、少し待っていて。昇降装置を動かせないか試してみる」
通信を切り、椅子にもたれているエリザの手を認証パネルに当てさせて、昇降装置のシステムに介入できないか試みる。いくつかの細かいルールを書き換えることには成功したが、すぐに壁に突き当たった。
「声紋認証との二段構えか」
エラーメッセージを見たカノンが呟く。
「エリザの意識がない以上、どうしようもないね」
「そんな――」
思わず懇願するような目をしたアルシュだが、カノンは「無理なもんは無理だ」と左右に首を振った。別の手段はないのかとしばらくシステム内を探索したが、突破口は得られなかった。がっくりと肩を落としたアルシュに、カノンが労るように視線を向ける。
「四世紀走り続けた、安定したシステムだ。そう簡単に破れないでしょう」
「そうかもしれないけど……」
正論で諦めてしまいたくなかった。アルシュはエリザの痩せた手首を掴み直して、認証パネルに押し当てる。
そのとき。
「……何をしているの?」
背後から氷のように冷たい女性の声が響いて、アルシュは凍りついた。振り返ると、アルシュと来訪者の間を遮るように移動したカノンが「あんたは」と乾燥した声で呟いた。自分を庇って立つ彼の陰から扉のほうを伺って、来訪者の顔を認識した瞬間、アルシュは思わず息を呑む。
「なぜ貴女が、ここに――」
その人、マダム・カシェ・ハイデラバードは、胸まで届くほど長く伸びた前髪越しに、射抜くような視線でアルシュたちを――正確には、椅子に座らせているエリザを見つめていた。カシェは手を背後に回し、最小限の動きで拳銃を取り出す。
「もう一度聞くわ。エリザに
一切の躊躇いなく向けられた銃口に、喉元が引きつる。彼女に応じて、すかさずカノンが拳銃を向けたので、アルシュは小声で「気をつけてよ」と囁いた。
「銃規制は書き換えた。忘れないで」
かつてハイバネイト・シティでは、認可銃と呼ばれるシステムに登録済みの銃であれば、撃っても管理AIである
アルシュの警告を受けて、カノンは「分かってる」とほとんど子音だけで告げた。それから口調を作り替えて、頬を持ち上げる。
「申し訳ない、マダム・カシェ。エリザを目覚めさせる方法が分かりそうなんでね、少しお借りしていたんだよ」
カノンがちらりと視線をよこす。
呆気にとられていたアルシュは、はっと気がついて「そうです」と同意した。
「エリザ――さんの意識を取り戻したいんです」
「そう。
落ち着いた声の調子を崩さないカノンを、アルシュは内心焦りながら見守った。相手はただの市民ではない、あの政治部の重鎮だったマダム・カシェだ。見え透いた嘘が、そうそう通用するとは思えない。
案の定カシェは目を細めて「本当かしら」と呟いた。
しかし彼女の反応に、アルシュは僅かだが違和感を覚えた。滅多に人前に姿を現さなかったカシェについて、同じ部門の所属だったとは言え、アルシュが知っていることは少ない。だが風の噂に伝え聞くのは、自分に逆らう者や害をなす者には一切容赦をしない、苛烈な人間だったということだ。
その評判に比べると――今の彼女はどこか、牙が抜けたように思える。
まあ良いわ、とでも言いたげに肩をすくめて、カシェは銃を下ろした。操作盤の前に立ち尽くしていたアルシュの方角にまっすぐ歩いてくる。もつれる足で場所を譲ると、カシェはしばらくの間じっとパネルを見つめていた。
関節の浮き上がった指をパネルに置いて、コマンドを立て続けに打ち込む。いくつものウィンドウが立ち上がっては消え、一部では描画が追いつかなくなったのか表示が崩れる。人の目では認識できないほどの速度と密度で画像が切り替わり、際限なく情報量が増えて飽和したが、カシェがキーを押し下げた瞬間に全て消えた。
たったひとつ残ったウィンドウには、昇降装置が使用できる権限を、もっとも緩い設定の「無制限」に設定したと表示された。声紋認証が必要なはずの処理を、その仕組みは全く分からないが、非正規なルートで突破したことになる。
「こりゃあ凄い」
カノンが珍しく素直な賞賛を口にする。
「だが、マダム・カシェ。なぜあんたは、こんな真似ができる……システムの仕様を知っていたんですか」
「いいえ。だって、
「見える……ですか?」
アルシュは顔をしかめて、陰になったカシェの表情を見つめる。ほつれた金色の髪が揺れて、その隙間に見慣れないものを見た。だがアルシュが声を発する前に、カノンがエリザの身体を抱えて立ち上がった。
冷え切った沈黙のなか、3人で通路を歩き、エリザがいつも眠っている部屋まで戻る。
エリザのベッドに彼女の身体を横たえると、カシェは小さく息を吐いてその隣に腰を下ろした。エリザの表情に視線を注いだまま動かないカシェを、アルシュがじっと見つめていると、カノンに小さく腕を引かれた。
「戻ろう。俺たちは邪魔だろう」
「……そうだね」
頷き返して、コアルームに戻る。また誰かが入ってくることがないよう、扉を物理鍵で施錠する。地上にいるシェルに連絡して、昇降装置を利用してもらうように頼んでから、アルシュは息を吐いて椅子に腰掛けた。
「どうしてマダム・カシェが、こんなところにいたの」
「ハイバネイト・シティの、先々代の総権所持者が彼女だ。2年前に先代に総権を奪われ、以降は厳重に隔離されていたはずだけど……おそらくは非常時モードになったときにでも、施錠が解除されたんだろうね」
「そうか……地下にいたんだ、最初から」
緊張のあまり、まだ心臓が高鳴っていた。
アルシュがMDPを立ち上げてから2年間、カシェの居場所は全く掴めなかった。統一機関の崩壊と彼女の失踪は、時期が重なっていた。何らかの形でカシェが関与しているだろうと踏んでいたものの、その詳細な有様は分からずじまいだった。
「マダム・カシェひとりに統一機関がかなり依存していたのも、つまり、地下の労働力を彼女が牛耳っていたから、ということになるのかな」
「俺にはその視座はなかったけど、まあ、そうだろうね」
「
かつての威厳を感じさせないカシェの姿を思い出して、問いかける。
「言ったら悪いけど……あの程度の嘘が通用する相手じゃないと思ってた」
「ああ、まあ――疲れちまったんだろうね。眠っている友人を追い続けた挙げ句に、彼女の姿を拝むことすらできなくなったから」
「友人って」
「エリザとマダム・カシェ、そしてエリザに臓腑を提供したムシュ・ラムは、若い頃は友人だった。ほら、ちょうど同じくらいの年代だろう」
「若い頃か……」
アルシュから見て世代ひとつぶんほど年上の彼らにも、当然のことだが、若者だった時期があるのだ。あまり想像できないな、とアルシュが素直に呟くとカノンは苦笑した。
「政治部の重鎮――という響きが強すぎて、ひとりの人間だとはなかなか捉えがたいものがあるかい」
「そんな感じ、かな。それとさ」
カシェの顔を見たときに覚えた違和感の正体を、アルシュは口に出す。
「マダム・カシェの瞳……銀色に見えた。ロンガや、エリザと同じ色」
「ああ、あんたの言うとおり、彼女はD・フライヤから未来視の目を授かっている。そうか……だから、セキュリティを突破できたのかもしれないな」
カノンがひとりで納得してしまうので、どういうこと、とアルシュは問いかけた。
「そこに何の関係があるの」
「憶測だけどね、システムというのは所詮、言われたとおりにしか動かない代物だろう。不確実性が薄いぶん、未来視と相性が良いのかもしれないね。勿論、あの人自身の頭の良さもあるだろうが」
そこまで言って、カノンは少し目を細めた。
「……あの子に聞くのが一番早いんだろうけど」
明らかに名前を口に出すのを避けている、その指し示す人物の顔が脳裏をよぎったが、アルシュは首を振って「その話は止めよう」と言った。
「考えるのは後にしよう。今、コアルームにいる私たちにしか、できないことがきっとある」
「そうだね。言語解析は終わったよ」
「地上にアナウンスを流せる?」
「スピーカーはかなりやられてるが、まあ、やってみよう」
アルシュは頷き、中断していたMDPへの連絡作業を再開した。思考のほとんどを作業に割きながらも、心の片隅に叫んでいる自分がいて、時間が経つほどその声は無視できなくなっていった。それは2年前に
エリザという友人を失ったカシェが心の均衡を欠いたように、今度こそ耐えられないかもしれない。友人がいなくなってしまったかもしれないこと自体よりも、それを聞いたときに正気を保っていられるかどうかが怖くて、アルシュは自分の感情から目を逸らしつづけた。