chapitre173. 濁流の先へ
文字数 8,255文字
――ハイバネイト・シティ
灯りの消えた狭い通路。
轟々という音がどこからか響いている。
濡れたタイルの床を、アルシュはペンライト片手に進む。視界を左右に横切った巨大な配管を、床に身体を滑らせるようにして通り抜ける。垂れ下がった髪がタイルの隙間を掠めて、ぬるりとした濁りが付着した。生理的な嫌悪感と、色々なものが混ざり合った不快な匂いに、アルシュは眉をしかめながらも立ち上がる。
「その奥だ」
後方からカノンの声が聞こえた。
「地図の通りなら、左手の壁にあるはずなんだが」
「えっと……ああ、これかな」
ところどころ黒ずんだ壁の一部に、周囲と質感の異なる長方形がある。ペンライトで照らしてよく観察すると、辺のひとつに蝶番が付いていて、高さ一メートルほどの通用口らしいことが分かった。
刻まれた溝に手を掛けて、引く。
錆び付いた感触とともに扉が開き、真っ暗な空間が姿を現した。同時に、先程から聞こえていた轟々という音が、とつぜん近づいて聞こえるようになる。
アルシュは腰を屈めて、向こう側の様子を伺う。
暗い空間に密閉された空気はどんよりと重たく、そして冷たかった。結露した水滴が、目の前でぽたりと落ちる。足下には梯子が掛かっていた。アルシュは慎重に金属のパイプを掴み、身体をゆっくり反転させて数メートル下まで降りる。
その眼前には、大量の水が勢いよく流れていく水路があった。
ふぅ、とアルシュは小さく息を吐く。
「これか……」
北東を目指して移動すること二時間、ついにアルシュたちは目的地へ辿りついた。排水路はハイバネイト・シティ内を縦横無尽に走り回っている。
「水量が少ないなら、歩いて移動できる……などと甘いことを考えたが」
カノンが膝で身体を支えながら、梯子を降りてきて言った。
「この様子じゃ、まず無理だ」
「そうだね……」
アルシュは頷く。
幅が十メートルはありそうな水路を、目にも止まらない速度で大量の水が流れていく。水路の壁を叩きつける濁水が、半円形をした天井からコンクリートの床まで、空間の全てを小さく揺らしていた。水というものには質量があるのだ――と改めて感じさせる光景だった。
水路の際まで立ち寄って、アルシュはその流れを見下ろした。自然に膝が震えだして、平衡感覚が麻痺していくのを感じながら、後ろに一歩下がる。
「はぁぁ……飛び込むのか、ここに」
自然と声が震え出す。
「辞めておくなら、今のうちだよ」
怪我をした足を放り出して座りながら、カノンが目を細めて言った。彼はバッテリ残量が僅かになった
「ここから……ポンプ場を二カ所経由して、計算通りなら、十数分で海中の排水口まで辿りつく。だが、地図に描いてあるものが全てとは限らないし、途中で力尽きない保証もない」
「それでも、カノン君は行くんでしょ」
「俺には他に手段がない。どれだけ危険だとしても、この一手に賭けるしかない」
カノンは冷淡にすら感じる口調で言い切って「だが」とアルシュを見上げた。
「あんたは違うだろう」
「そうかな……」
彼の二メートルほど隣に腰を下ろしながら、アルシュは首を傾げる。水路に飛び込むのは、たしかに無謀な賭けだ。どのくらい成功の可能性があるのかも不明で、しかも海中に放り出されたところで、今の季節は一月の末。冬の早朝の、おそらくは摂氏ゼロ度に近い海で、体温を奪われて力尽きる未来だって考えられる。
だけど。
アルシュがひとりで地上を目指したところで、停電区域がどんどん広がっている地下施設を、何十階層も登っていけるだろうか。どこかで瓦礫に挟まれて、人知れず死んでいく可能性が高い。ハイバネイト・シティの高層部を占める居住区域は、あらゆる地点で崩落が起き、もはやかつての面影を残していない。少なくとも、建造物としての形を保っているだけ、排水路の方がまだ堅牢とさえ言える。
「……賭けなんだよ、全部」
振動する壁に背中を押し付けて、アルシュは目を閉じる。
「どの道が正解に繋がってるかなんて、結局、行ってみなきゃ分かんないじゃん。でも――少なくとも、一人よりは二人のほうが安全だと思う。だから私は、こっちに来た」
「あぁ……そう。あんたが、したいようにすれば良い」
「うん」
アルシュの頷きと前後して、バッテリが切れたのか、
「あはは……どのみち、時間切れか」
はぁ、と溜息を吐いて、アルシュは膝を抱き寄せる。水音に揺れる暗闇のなかで、自分の体温がまだここにあることを確かめる。自分の心臓が、まだ動いていることを確かめる。
「ねえ……怖いね」
真横の気配に話しかける。
胸の内を言葉にすることで、巨大な恐怖に耐えようとした。
「私たち、まだ全然死んでないのに、こんなに元気なのに、次の朝日を見られるか分かんないんだ」
「そうだねぇ……」
「……死にたくないな」
濡れた膝に顔を押し付けて、呟く。
「ロンガとシェル君と約束したし、ティア君のためにも、フルルとか、MDPで頑張ってくれてる皆のためにも――」
目蓋の裏の暗闇に、いくつもの顔が浮かび上がった。アルシュが生きて無事でいることを望んでくれる人たち。記憶のなかを少し振り返れば、いつだって、アルシュがそこにいることを喜んでくれる人がいた。
「……メルのためにも」
死んでしまった友人も、そこにいる。
アルシュが指折りながら大切な名前たちを数えていると、横でカノンが微笑む気配があった。
「ずいぶんとまた、多くの人を待たせているんだねぇ、あんたは」
「あはは……他人に頼りすぎかな」
「良いんじゃないの。生きなければならない理由に、誰かの名前があるのは羨ましいことだ」
「それはどうかなぁ」
アルシュは肩をすくめる。
「シェル君を見てると、私には特別な人がいなくて良かったな――って思うよ」
「ああ……それは確かに」
「でしょ? って――あ」
そこで、他ならぬカノンも、特定の誰かのために行動していた時期があったことを思い出して、アルシュは思わず口元に笑みを浮かべた。
「カノン君も似たようなものか」
「……かもしれないが」
やけに長い沈黙を挟んで、彼が空気の塊を吐き出す音が聞こえた。
「あんた、その話題好きだね」
「片想いの相手にあれだけ尽くせる姿を見たら、誰でも突っつきたくなるでしょ。この機会だからさ、どこがどんな風に好きだったとか語っても良いんだよ?」
「ずいぶん無遠慮に踏み込んでくれるもんだ。以前は、もう少し丁重に扱っていただいた記憶があるんだが」
「こんなときに遠慮してても仕方ないしさ」
喋っているうちに、頭の芯がぼんやりと痺れてきた。死を目前にした恐怖感を、アルシュの脳が高揚感と勘違いし始めたのかもしれない。カノンのいる方角に身を乗り出して「ねぇ」と呼びかける声は、自分でも驚くほど明るかった。
「教えてよ。もしかしたらこれで最後かもよ?」
「……交換条件で、あんたが俺のどこを見て、あの子を好きだと気付いたのか教えてくれるなら、考えてやっても良い。今後の身の振り方の参考にするから」
「まず、声のトーン」
アルシュは即答する。
「視線の偏り、名前を出したときに表情が緩む。突き詰めれば、全部そうだと思う。そもそも行動指針そのものが全部ロンガに関わってて、それで気がつかないわけが――」
「分かった――分かったから!」
いつになく余裕のない、彼にしては珍しいほど大きい声量で遮られる。深々とした溜息に混ざって、言葉になっていない唸りが聞こえた。
「俺が、何もかも至らなかったのは分かった。そのくらいにしてくれるか」
「あ――うん」
カノンの声は、完全に追い詰められた人間のそれで、アルシュは流石に罪悪感を覚えて小さく頭を下げた。ひんやりとした空気に冷やされて、高揚していた胸がじわじわと平熱に戻る。
「ごめんなさい、調子乗りました」
「いや……」
彼は黙り込む。
それからややあって「目に惹かれた」とぽつりと言った。間に挟まれた沈黙が長かったので、アルシュは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「目?」
「図書館で……ラピスの史書か何かを読んでいて、それがやけに楽しそうな目をしていた」
「――ああ」
ロンガのことを言っているのだ――とようやく理解して、アルシュは膝を打つ。アルシュの旧友である彼女は読書が好きで、寝室のベッドでもよく借りてきた本を読んでいた。講義の教科書になるようなお堅い本から、誰が使うのか分からない実用書まで、実にさまざまな本に手を出していた。
たしかに、と相槌を打つ。
「楽しそうに読むよね」
「ああ……ただ俺は、最初はむしろ、あんなものを読んで何になる――と半分馬鹿にしていたんだが」
「え?」
アルシュは驚いて、思わず背筋を正す。
「カノン君って、わりと優等生だった記憶があるんだけど」
文書資料の価値を否定するような言動は、成績優秀な彼のイメージと矛盾する。だが彼は臆面もなく「だからこそだ」と緩やかに首を振った。
「今のあんたなら分かるだろう。統一機関の講義で聞かされていた話が、どれだけ真実とかけ離れていたか」
「ああ……うん、そうだね。地下の施設のことも、ラピスができる前の世界のことも、何も知らされてなかった」
「そうだ」
彼が頷いた。
「当然、本に書かれていたことだって、全て真実であるわけがない。なのに楽しそうに目を煌めかせているのが、まあ何というか――滑稽で」
「滑稽で?」
「どうにも気になった。目を惹かれた」
これ以上話すことはない――というように、カノンは投げやりな口調で言って、手のひらをひとつ打ち合わせた。流水の轟音に重なって、乾いた音が鳴り響く。アルシュは膝を抱え直しながら「ふぅん」と相槌を打った。
「ねえ、カノン君」
「何」
「
夜よりも暗い空間を見つめて、アルシュは呟く。
カノンがロンガに抱いていたもの――恋愛感情は、かつてラピスによって抑圧されていた感情のひとつだ。出生管理施設が焼失した以上、従来に比べて子供の出生数は激減するだろう。D・フライヤの気紛れで、分枝世界からロンガが生命工学を持ち帰ってくれるかもしれないと聞いたが、どのみち今すぐ解決する話ではない。
「
「さぁね」
カノンの返事は素っ気なかった。
「まあ、でも……仮に、抑圧されなくなったところで、人々が揃って恋をし始めるなら……俺は、あまり嬉しくない」
「え、なんで?」
「そりゃあ」
隣で肩をすくめる気配があった。
「ただ、
「いや……恋って、そもそも、そういうものじゃないの。生殖本能ありきなんじゃ――」
「そんな茶番であってほしくない」
「……分かったよ」
小さく肩をすくめる。
カノンが固い口調で言って譲らないので、アルシュはそれ以上の追及は止めておいた。正直なところ、アルシュ自身が体験したことのない恋という感情が、何に由来しているかなど、さして興味はなかった。
聞きたかったのは、もっと単純な質問だ。
「あのさ――」
小さく咳払いをして、問いかける。
「ロンガのこと、好きになって良かった?」
「もちろん」
返答は、いつになく明快だった。
歯切れの良い声の響きは心地よくて、水路脇の淀んだ空気すら一時的に吹き飛ばす。星空を見上げるようにあごを持ち上げると、後頭部がコツリと壁に当たった。
「そっか……」
冷たさに身を委ねて、アルシュは目を閉じる。
「恋をして、良かったと思える人たちが……もうちょっと堂々と、恋してますって言える世界になったら良いね」
「ずいぶん
「他人事だからね」
特定の誰かに、友愛以上の感情を捧ぐ予定はない。だからアルシュは他人事だと答えたのだが、「そうじゃなくて」と遮られた。カノンが首を振る気配が、背中を預けた壁ごしに伝わってくる。
「あんたが、そういう世界にするんだろう?」
「あぁ……そっちの意味か」
もしも、ここから無事に脱出できたらね――などという仮定を今さら持ち出すのも、野暮に思えて「そうだね」とアルシュは口元を持ち上げた。
もうすぐ、ラピシアに朝が来る。
新しい日が、また始まる。
推定五十二万のラピス市民が、これからどんな世界を築いていくのかは分からない。だけど、良かったと思えることが、穏やかに胸のうちに降り積もるような世界であってほしい。
たとえば恋をするように。
知らない場所へ旅をするように、温かい料理を楽しむように、未知を求めて書を辿るように、明日を夢見て眠るように。そんな無数に広がる可能性のなかから、ひとつひとつ未来を選んでいけるような世界の中を、アルシュ自身もまた、生きていきたいと感じた。
「よし……」
膝に力を込めて、立ち上がる。
「そろそろ、行こうかな」
「――早いな」
少し驚いたような声が言う。
「もう覚悟を決めたのか。さっきまで、ずいぶん怖がっていたのに」
「うん……ここも、いつまで無事か分かんないし」
アルシュは暗闇のなかで、水路を見下ろす。暗闇に目が慣れて、うっすら様子が見えるようになってきた。水位がかなり上がっているのが分かる。排水路のキャパシティは飽和寸前だろう。叩きつける水勢はますます増して、跳ねた水滴がいくつか柵を跳び越え、アルシュの足下に飛んできていた。
「――それに」
ローファーを脱いで、コンクリートに裸足で降りる。ざらついた感触と冷たさが、直接肌に伝わってきた。
「やっぱり私は生き残りたいって、確信できたから。だから、もう悔いは無い」
「そう……」
「カノン君は、まだ残る?」
「いや、行こう。肩を借りて良いか」
「うん」
彼の右側に回り込み、立ち上がるのを支える。そのまま柵の手前まで歩いて行き、二人は並んで水路を見下ろした。
「今のうちに相談しておこう、アルシュ」
カノンが隣で言った。
「どこかで片方が力尽きかけたら、どうする」
「助けられる限り、助ける……かな」
渦巻く水面を見下ろしながら、答える。
「それでダメだったとしても、あるいは助けようとして逆に力尽きても、お互い恨まないってことで。どう?」
「分かった。良いだろう」
「海に出たらどうする?」
「ハイデラバードに向かおう。比較的近いはずだ」
「ん、分かった。方角は南西かな?」
「おそらく、そうだ。あるいは、
「……うん」
頷いて、アルシュは深呼吸をした。
冷静に会話を交わしてはいるが、少し気を緩めれば叫び出しそうだった。身体中の皮膚がざわざわとして、内臓が絞られたように痛い。
身体の置き場が定まらない感覚に耐えかねて、アルシュは隣に手を伸ばし、指先の触れた手首をそのまま掴む。手首の腱が小さく動く感触があったが、カノンは何も言わなかった。
位相のずれた鼓動と。
少し高い体温が、そこにある。
「……ごめん」
自分とは違う生命を感じながら、アルシュは静かに息を吐いた。
「やっぱ、怖くて」
「そうだろうね」
彼は平坦に呟いた。
今までにも、何度か死の危機に瀕したことがある。一度、このまま死んでしまって良いと思ったときがあるが、その時もやはり恐怖はあった。だが、今まで訪れたどんな窮地より、激しく生々しい恐怖が全身に満ちていた。
目を強く閉じて、そして開く。
「カノン君」
手首を握ったまま、暗闇のなかでぼんやりと浮かぶ横顔を見上げる。彼の表情はおろか、目鼻立ちすらほとんど見えない。
「……貴方も怖い?」
「俺かい」
ふ、と息を吐く。
視線がこちらを捉えた気がした。
「そりゃ……怖いよ」
「なら良かった」
アルシュが微笑むと、何言ってるんだ、と呆れたような声でカノンが呟く。
怖いのは、生きたいからだ。
いざという時に死んでも良いと思っているような相手では、一緒に水路に飛び込む気にはなれない。彼の中に生きたい意志があることを、最後に確認しておきたかったのだ。
「行こっか」
柵を乗り越える。
爪先に冷たい水が掛かる。
握った手首を離して、大きく息を吸い込む。叩きつける轟音のなかで目を閉じて、アルシュはコンクリートの床を蹴った。
流水が足を掬う。
激しい流れがあっという間にアルシュの身体を捕まえて、凄まじい速度で押し流す。激しく波打つ水面に顔を出して、しがみつくように息を吸う。激流のなかで身体は何十回となく回転し、平衡感覚をぐちゃぐちゃに乱される。それでも浮力の方向を捉えて、ほんの少しの空気を捕まえては、また水底の方に落ちていく。
苦しい――という感覚はなかった。
恐怖さえ感じなかった。
ただ、息をしなければ――という本能があり、それ以外のあらゆる事象は頭から消えていた。
不意に、身体の側面に衝撃。
身体が何かに引っかかっている。
激流のなか、アルシュは痛みに身悶えながらも、手探りで衝撃の原因を探る。どうにか水面近くまで浮上すると、水路の壁に赤いランプがあって、金属の柵が水路を塞いでいるのが分かった。柵の目は粗く、隙間に身を滑らせれば、どうにか通り抜けられないこともない。
だが、そこで同行者の存在を思い出す。
彼は無理だ。
おそらくここを通れない。
助けられる限り、お互いを助けよう――と約束したのだ。だとしたら、何とかここを通れるようにしないと。乏しい明かりの中で目を凝らすと、両端が取り外せる構造になっているのが分かった。
腕を伸ばす。
握って力を込めると、ネジのように回転して緩んだ。流れてきた瓦礫が側頭部にぶつかり、激しい痛みが思考ごと真っ白に吹き飛ばす。視界が暗転しかけるが、アルシュは濡れて滑る柵を必死に握りしめて、左右の隅のひとつを外した。
もう片方。
身体中を押し流す濁水に耐えながら移動して、もう片方の固定箇所に手を伸ばした。だが、そこで巨大な波が押し寄せて、アルシュの身体を水底まで沈める。不意を突かれて水を飲み込んでしまい、全身を支配する息苦しさに意識が遠ざかった。
柵と水流に挟まれて、身動きが取れない。
何も見えない暗闇。
ほとんど動かない指先。
その手首を、誰かが掴む。激しい水勢に負けない力で引き寄せられたかと思うと、身体を堰き止めていた力が嘘のように消え失せて、アルシュの身体は再び激しい流れとともに運ばれていった。飽和した暗闇の向こうに、力強く頼もしい何かがある。体力が尽きたアルシュは、その体温に身を委ねて目を閉じた。
世界が曖昧になっていく。
「――アルシュ」
その向こうで、誰かが名前を呼んでいる。
ほのかに暖かい闇のなかに、かつての自分がいた。統一機関の研修生で、平均よりは多少成績が良く、幹部候補生に選ばれることを目指していたアルシュが、夜明け前の渡り廊下を駆けていった。
向こうに、彼がいる。
幹部候補生に選ばれるほど優秀なのに、それを鼻に掛けなくて、誰にでも分け隔てなく優しくて、一緒にいると安心するような――アルシュの自慢の
「そんなにびしょ濡れで、どうしたの?」
「……メル」
彼は花冠と、麻のひとつなぎの服を着ている。
それは死者の正装だ。
二年前の葬送の日、アルシュは彼と同じ服を纏って、小さな木の船に乗り込んだ。死者の付き添い人である
だけど、生きることを選んだ。
「ごめんね」
アルシュを包んでくれる穏やかな海のようだった彼は、もういない。水に濡れたカットソーの胸元で手を握って、アルシュは友人の記憶を見上げた。
「私は、明日へ行く」
青色の瞳が、静かに緩む。
窓の向こうの夜空に光が差す。朝日に溶けるように、彼の姿は、懐かしい景色と一緒になって消えていった。