深雪を超えて/地上
文字数 9,026文字
土地の大部分は丘陵の斜面であり、比較的傾斜が緩やかな部分を階段状に均して農作に用いている。従って畑以外のもの、すなわち市民が日常生活を送る「宿舎」や、あるいは役所、農具置き場といった諸々は、いずれも斜面に張り付くように立てられていた。各地を結ぶ山道は自然と急な坂道になり、夏は茂った下生えに、冬は深い雪に阻まれて、バレンシア住民の足取りをゆっくりとしたものにさせていた。
今年は、なかでも降雪量が多い。
道はどこも雪にすっぽりと隠され、白い雪が木立の輪郭を滑らかに繋いでいる。頻繁に人が行き来する道は、住民の血が滲むような努力によって雪掻きがされるものの、数日経てばふたたび雪に埋もれてしまう。
山中に、膝丈のブーツを履いた若い男が一人。彼は一歩踏みしめるごとに深い穴を穿ちながら、白に埋もれつつある道を「そろそろ雪掻きしねぇとな」と呟いて上っていった。彼が上っていく先に、雪の重みで押し潰されそうな古びた小屋がある。見た目にはすぐ近いのだが、悪路のせいでなかなか辿りつかない。ようやく坂を上り終えると、彼は盛大にため息を吐いて濁らせながら、立て付けの悪い扉を開けた。
「――よう、終わりそうか?」
彼はそう言って倉庫のなかに声を掛ける。
「ぜんぜん手伝えてなくて悪ぃな。今日も集まりに呼ばれててよ……って言っても、なんか訳分かんねぇ話ばっかりしてるんだけどな。俺がいても意味ねぇから帰してくれ、って、何回も頼んだんだけどなぁ……一人で大変だったろ?」
「……っ、いえ」
積み上げた薪の隙間で蹲っていた女が、慌てたようにかぶりを振る。彼女はこの男と、他の同居人たちに頼まれ、燃料となる薪を割っていた。あまり斧を使い慣れていない彼女にとっては、一人での薪割りはかなりの大仕事だった。しかし彼女は、そこで「手伝ってくれないせいで大変だった」と答えられる性格ではなかった。
「これくらいは、全然」
血豆が滲んだ手を握って、彼女は首を振る。
「大丈夫です。色々助けてもらってますから――」
「――お前さぁ」
男が呆れた顔をして遮った。
「いつも言ってんだろ。いい加減に、その改まった態度、止めろよな」
「あ――ああ、うん。ごめん」
そうだった、と彼女は思い返した。バレンシアにも、目上の人間や関わり合いの薄い相手に丁寧な言葉を使う慣習はあるが、その範囲が他都市と比べて狭いのである。彼女はこの秋に他都市からやってきたばかりであり、以前は序列が明瞭な集団のなかにいたものだから、つい、同い年である彼に対しても丁寧に喋りそうになってしまう。
「えっと……」
彼女はひとつ咳払いをした。
「色々助けてもらってるから、このくらいは大丈夫。……これで良いか?」
「おう、そんな感じで頼む。なんつぅのかなぁ……そうやって距離を開けられると、ムズムズするっていうか」
「……むず痒い?」
「ああ、それだ。なんか顔が痒くなるんだよ」
顔が痒くなるのは霜焼けのせいでは、と思いつつ、彼女はそれを口に出さなかった。冗談めいた切り返しができるほど口達者ではない。代わりに「ごめん」と応じて、傍らに積み上げた薪の山を指さした。
「このくらいで足りるだろうか」
「あぁ……うん――まあ、正直足りねぇけど」
男は肩をすくめる。彼女が割ってくれたという薪は、量が少ないうえに綺麗に割れていないものも多かった。彼女がバレンシアに来る前に何をしていたか、彼は知らないのだが、どうも彼女は生活力に欠けており、時折学舎の子どもよりも頼りなかった。ただ、短い昼はすでに終わろうとしており、これ以上倉庫に留まっていては帰るのも危険になる。
そう考えて男は壁ぎわの
「とりあえず数日分は足りるから、これ持って帰ろう」
「分かった。……手際が悪くて、すまない」
「まあ、たくさん割ってるうちに嫌でも上手くなるだろ」
蔓を編んで縄を掛けただけの簡素な橇に、二人は薪を積んでいく。単調な作業の間を埋めるように、女は「そういえば」と呟いて、男のほうにちらと視線を投げた。
「今日は結局、何の集まりに出ていたんだ?」
「さあ? まあ、冬越しの相談なんだけどな、なんか今年はやけに切羽詰まってる」
「切羽詰まるって、どうしてだ」
「どうしてっつぅか……暖を取るために薪を割るってのが、そもそも異常事態なんだよ。この辺の木は例年なら木材に加工してて、燃料にはしねぇんだ。せっかくの良質な木材を燃すなんて、って工房の奴らも怒ってるけどな、凍死しちまうから仕方ねぇ」
「へえ……じゃあ普通は違う方法で暖を取るのか。何を使うんだ、ガスか? それともハロゲンヒータとか?」
「何だそれ。違ぇよ、練炭だよ練炭」
「練炭? あ、ああ……炭か。そうか、炭で暖を取るのか」
「それも知らねぇのな……お前、ホントにどっから来たんだよ?」
男が軽い口調で問うと、女は口元まで覆ったマフラーをきつく巻き直して「ごめん、言えない」とだけ応じた。彼女が出自を語ろうとしないのは重々承知の上だったため、彼はそれ以上なにも追及せず、手袋越しに手を擦って「まあ」と呟いた。
「理由はわかんないんだけど、とにかく
「え――」
薪を積み終えた男が言うと、立ち上がりかけた女はぴたりと動きを止める。
「……統一機関に?」
「おう、そうだよ……まさか、それも知らねぇか?」
冗談めかした笑いに、彼女は「いや」と短く答えて、倉庫の扉を開けた。外は雪がちらつき始めており、景色の薄灰色がだんだん濃色に移りかわるさなかだった。睫毛をかすめた雪に、彼女は青色の瞳を瞬かせて呟いた。
「……それは、知ってる」
***
――統一機関に行けば何とかなるだろう。
バレンシアから雪中を強行してラ・ロシェルを目指した彼女、グラシエはそう思っていたようだ。統一機関はラピスの最高権力府にして万物の元締め。少なくともラピス市民は統一機関を全知全能のように認識しており、ゆえに、統一機関に問えばあらゆる事象に正解が得られるはずだと、そう信じていたのである。
「……まず、先に申し上げます」
期待と不安が入り混じるグラシエの視線に、穴が開きそうなほどの胃痛を覚えながら、アルシュは硬い口調で言った。
「何が起きているのか、それは私たち統一機関の人間にも分かっていません。上のほうの職員はまた違うようですが――」
職員であるエストの顔を思い出して、アルシュは目を細める。
「しかし、少なくとも抜本的な解決策は持っていないようです。解決策があれば、とっくに実行されているはずですから。私たちから申し上げられるのは、原因不明ではありますが、とにかく生活基盤の配布が滞っていること。何が滞っているかと問われれば、
言いながら、アルシュは俯く。
自分の言った言葉が重たくて、とても首の角度をまっすぐに保っていられなかった。数えてみれば、あまりに多くのものが欠落している。数ヶ月前の平穏と比べて、目減りせずに保たれているものは存在しないのでは、と思えるほどだ。
しかし――この認識すら、まだ甘かったのだ。
「ただ、今まで明るみに出ていなかった問題が、一つありました。グラシエさん、貴女が来たことによって、初めて我々は気がついたんです。滞っていたのは、目に見えるものだけではなかった……」
頭痛を堪え、アルシュは視線を持ち上げた。
「――情報さえ、滞っていたんですね」
「電気が滞っていたなら、そういうこともあるのでしょうね……」
グラシエの寝台を挟んだ向こうで、フルルが苦々しく言葉を差し挟んだ。
「どれだけ困窮していても、情報が来なければなかったことになる。そうやって顕在化せずにいる問題が、七都のどこにも潜んでいるのかもしれません。伝報局は何をやっていたんだ、と少し思ってしまいますが……」
「……そういえば、情報が来ない、とは言っていた」
去った秋を思い出してアルシュは呟いた。
「ラ・ロシェルの伝報局の人が、最近はめっきり便りが来ない、だから自分がここにいる意味はないって……言ってた。どこの都市も困窮の対処に必死で、他の都市に情報を出してる余裕がないんだな、って、勝手に解釈してたけど――あれは、違ったのかも」
胃がずしりと重い。
あの時、もっと突き詰めて考えておくべきだった、と今になって思う。冬が深まる前に事態が発覚していれば、グラシエたちに雪中の旅を強いることもなかった。だが後悔していても始まらないので、アルシュは「ともかく」と首を振った。
「何が起きているのかを、ラ・ロシェルとバレンシアで共有する必要があるでしょう。こちらから支援するにしても、あるいは――しないとしても、現状を把握できないとどうにもなりません」
「そ……そんなこと、言われても」
蒼白になって話を聞いていたグラシエが、ようやくといった様子で口を開いた。
「わたし、は……統一機関にいけば全部分かるって、思って……来たんですよ」
「それは――」
「だってっ……今までそうだったじゃないですか!」
ブランケットを握りしめて、グラシエは寝台で腰を浮かせた。
「何が正しいかは全部統一機関が知ってる、それを信頼して我々は末端で働く、そういう約束じゃないんですか!? ここに来れば何とかなるって、皆思ってて、だからっ、わたしたちは、命懸けであなたたちを訪ねたのに――」
「――ごめんなさい」
病状も顧みず立ち上がろうとするグラシエの肩に手を掛けて、アルシュは彼女を押し返す。霜焼けで荒れたグラシエの頬に、つう、と粘性の低い涙が流れた。彼女の頬を染めた興奮が絶望に塗り変わっていくのを見つめて、アルシュは率直に告げる。
「その期待には、お応えできません」
「そんなっ……じゃあ、わたしたちは、何のために――」
言葉が嗚咽に変わる。
グラシエが本格的に泣き出してしまったので、数人の研修生だけを部屋に残し、アルシュたちはいったん外に出た。冷え込んだ廊下をしばらく歩き、大きな窓のある休憩室に向かう。窓の外にある空は、まだ昼前だというのに淀んだ灰色をしており、雪の塊が斜めに落ちていた。本当に今年は雪が深い、とアルシュはため息を吐く。平地のラ・ロシェルでこの有様では、山中のバレンシアはもっと大変だろう。
ひとつ唾を飲み込み、アルシュは仲間たちのほうに振り返った。
「……もう、手段を選んでいる場合じゃないと思うんです」
グラシエの統一機関に対する期待は、すでに九割がた裏切ったと言って良いだろう。残り一割にどうにか報いるため、出せる限りを尽くしてバレンシアへの支援を行わなければ、とアルシュは考えていた。
「グラシエさんの証言次第ではありますが、あの様子からして、相当厳しい冬越しになっているのは間違いないように思います。一刻も早く、統一機関の備蓄を全市民向けに開放すべきではないでしょうか」
「バレンシア一都に対して? 他にも六つの都市があるのですよ」
「もちろん使い切るって話じゃないよ」
フルルの反駁に、アルシュは首を振った。
「それに、情報が来てないって分かった今、他都市の状況も気に掛かる。だけど、少なくともバレンシアの問題は、私たちにとって可視化された。これを捨て置く選択肢はないでしょう」
「ええ……支援が必要なのは然りです。ただし適切な範囲で、ですが」
「……適切な、か」
アルシュの呟きに「何ですか」とフルルが眉をひそめた。
「節度を持って支援を行うのは当然のことでしょう。情に絆されて、何もかも使い果たす訳にはいきません」
「そうなんだけど、それは、あくまで理念の話だよね。私たちはもっと具体的に、定量的に、適切な支援っていうのがどこまでを指すのか考えないといけない」
「それは……そうですね。適切とか、常識的とか……そういう表現は、あまり使わないようにしましょうか。適切さが必要なのは、言うまでもないことですし……曖昧な表現は、責任の所在まで曖昧にしてしまいますから」
フルルが言い、周囲に集まった研修生たちも同調するように頷いた。
その後、十名弱の研修生たちがそれぞれに意見を出し合った。バレンシアのみに支援を行うことには数名が反対した。彼らの主張は、統一機関は七都に対し平等を保障する義務があるのに、バレンシア一都にのみ支援を行うのは贔屓ではないか、というものだった。
これについて、二つの立場から反論が試みられた。
まず、バレンシアはラピス七都のうちハイデラバードに並んで最小の都市であり、非常時のための
そして、口には出せないが、アルシュは第三の反論を持っていた。
周知のとおりバレンシアは小さな街である。支援に必要な物資の量は、他都市と比較すれば少ない。ゆえに挑戦的施策を試験的に実行するなら最適の対象では、とも思えた。ただ、街そのものを試金石とする発想に、考えたアルシュ自身も背筋がひやりとするのを感じたので、表立っては主張できなかったのだが。
研修生たちは三十分ほど意見を交わし、雪が溶ける春先までを目安に物資支援をしよう――という結論に辿りついた。
一同を見回して「良いですね?」と念を押しつつ、アルシュは小さくため息を吐く。グラシエを助けた時点で支援する以外の選択肢はほぼ潰えていたため、既定路線をいたずらに歩み、時間を浪費したとも言える。とはいえ、全員が意見を出したうえで合意するのは、たとえ遠回りになるとしても重要なことだ。無意味ではなかった、と自分自身に言い聞かせて、アルシュは次に進む。
続いて、支援の具体的な内容を決める段になった。バレンシアの人口や過去における物資の消費量、あるいは統一機関の備蓄量といったデータを参照して、どの程度の支援が「適切」の範疇となるか議論していると、フルルが「あの、ちょっと良いですか」と声を上げて、議論を中断させた。
視線がフルルに集まる。
彼女はひとつ咳払いをして、心なしか畏まった表情で言った。
「支援内容を決めるために、供給側と需要側の現状を擦り合わせる必要があるのは勿論です。ただ、別角度からの制約として、運搬の問題があります。運搬コストは、バレンシアの遠さと物資量を掛け合わせると、下手をしたら支援物資自体のコストを超えるかもしれません」
「運搬か……」
その視座は欠けていたな、とアルシュは顔をしかめた。
「たしか、軍部には
「あるにはありますけど……」
アルシュの問いに、軍部所属のフルルは難しく顔をしかめた。
「輸送向けの航空機といっても最大荷重はたかだか二トンです。バレンシアの人口はたしかに少ないですが、そうは言っても二千人。食糧だけでもどれだけ必要か、という話です。一日百グラムの穀類で我慢したって、二千人いれば二百キロ、一冬で数十トン――何十往復もしているほどの燃料はまず無いでしょう」
「意外と運べないんですね……って、あれ?」
相槌を打ったレゾンという名の少年が、ふと首を傾げた。
「じゃあ、今までって、どうやって物資の分配をやってたんですか?」
「あ、それは……秋のうちに冬支度を済ませてたんだよ」
いつだか情報室で見たデータを思い返して、アルシュはレゾン少年の問いに答えた。
「雪さえなければ馬車が使えるから。冬季にどれくらい食糧や燃料を消費しそうか、過去の統計から算出してる部門が政治部にあって。そこに、さらに七都から報された現状を加味して、雪が深まる前に運搬を済ませてたらしい」
「へえぇ……想定外の不足とか、無かったんでしょうか」
「あるにはあっただろうけどね。気候予測や人口変動と組み合わせたり、冬越しが厳しかった年があれば、次の年は多めに物資を分配したりして、そこまで酷い事態にはなってなかったみたい」
「つまり、どちらにせよ七都の情報共有ありきってことですね……」
フルルが目を瞑って呟いた。
アルシュも無言で頷く。物理的に離れた都市と都市は、ケーブルを光速で駆け抜ける情報によって繋がり、同一の「ラピス」という社会を成していたのだ。たとえ直接訪れることができなくても、現地の人間が情報を送ってくれるから、その時々で必要な支援を行うことが可能になっていた。
「グラシエさんに聞けば、現状はきっと分かる……けど」
誰かが呟き、そこで言葉を切った。
口に出して言わずとも「でも」の続きを研修生たちは共有していた。グラシエがいかに正確で緻密な情報を持ってきたとしても、それはすでに数日前の情報だ。時が経てば経つほど情報は古くなり、現実のバレンシアと乖離していく。そして、不正確な情報には、まったく何の価値もない。
「つまり――」
アルシュは目を細め、白く染まる屋外を見遣った。
「通信網を回復させないと、話が始まらないのか……」
「でも、はっきり言って無理ですよ。どうして通信が滞っているのか、原因は色々考えられますけど、全部検討してたら、それこそ春が先に来てしまいます。通信ケーブルが破断なんてしてたら、研修生の手に負える事態ではありません」
「じゃあ細かい計算は抜きにして、とりあえず物資だけ送ってみます?」
「不要なものを押し付けられたら困るのは向こうですよ。山中の狭い街です、保存場所だって限られているでしょうし」
「穀類なら、不要と言うことはないのでは?」
「いや、先に燃料でしょう。挽いて練るにせよ、茹でてふやかすにせよ、加熱しなければ食べられないんですから」
「それ以前に、事前通達なしに送りつけて、受け取ってもらえるかどうか。せめて一報送らなければ、こちらが無駄足を踏むだけになりかねません」
「だからといって、まさか使者を出すわけにも行かないでしょう。この気候では、それは死ねと言うのと同義です。……マダム・グラシエの前では言えませんが」
反論に反論を重ねる、終着点のない議論が延々と続く。
なぜ議論が終わらないのかと言えば、誰もが認める正解が存在しないからだ。どこかで何かを諦めないといけないが、どこに線を引くかはきわめて恣意的だ。ゆえに個人間で意見がすれ違う。閉じた円環をぐるぐると回り続ける議論に疲弊して、アルシュは腕を組んだ。
思い返せば、問題の本質はずっと同じなのだ。
現在のラピスは、非常に根源的な部分で何らかの致命的なエラーが生じている。色も形も分からない、概念としての「欠落」が社会秩序を巡り巡った結果として、目に見える恐慌が引き起こされている。問題の顕在化している部分と、その原因は広く乖離しており、両者をつなぐ情報が存在しない。分からないから解決できない、という壁の前でずっと立ち止まっている、それが秋以降のアルシュであり、他の研修生や職員だった。
壁はあまりに高く、アルシュの視界を絶対的なまでに覆い隠している。
――翼があれば、壁を越えて飛んで行けるのに。
無意味な愁いが脳裏をかすめた。壁といっても情報の隔壁であって、実体はない。翼があれば良いのに――などという考えは、空想的な現実逃避でしかないのだ。無駄なことに思考のリソースを割いている自分を叱責して、しかし――ふと、思い出した。
翼があれば良いのに、と思ったのは初めてではない。
あれは、まだ夏の匂いが残る初秋のことだった。少し色褪せた青空を背景に、アルシュは当時のことを思い出す。突然の襲撃に
「そうか――」
音を立てて打ち付けた衝撃に、アルシュは思わず立ち上がった。
事態はあの時とは違う。
しかし、阻んでいるものの本質は同じ。深い積雪と、高い塔。人間の足では超えられない物理的な距離が、両者を隔て、交わしたい言葉を切り分けている。だが、人間では通えない道ならば、そこを歩める者に――翼ある者に、言葉を託せばいい。
「マダム・アルシュ?」
いきなり立ち上がったアルシュを、フルルが怪訝に見遣った。
「どうされたんです」
「うん。色々話したけど、やっぱり私は、バレンシアと連絡がつかないことには前進できないと思った。皆もそう思ってるでしょう。姿も見えない困窮では救えない。何があったか、何が必要か。いくら私たちが推測したって、その精度には限度がある」
「――分かってますけど! だからって諦めるんですか」
「違う」
薙ぐように否定して、アルシュは一同を見回した。
「
「……ポルティ?」
「うん。知っている人はいる?」
アルシュが研修生たちに尋ねると、
「あの――」
緊張のためか強ばった顔で、レゾン少年が手を上げた。
「ラピス黎明期、まだ七都の連絡網が整備されてなかった頃に、鳥の帰巣本能を利用して作られたっていう情報交換システムが、たしかそんな名前だったような」
「そう。流石だね」
アルシュが褒めると、勤勉な少年は照れたように頬を引っかきつつ尋ねる。
「えっと……あれって、とっくに廃れたんじゃないんですか?」
「使われなくなって久しいんだけど、まだ
「……それって……!」
はっと誰かが息を呑んだ。
それを皮切りに、終わりのない議論で疲弊した研修生たちの瞳に光明が灯っていった。窓の外は相変わらず冷え切って暗いが、部屋の気温は心なしか上がり、か細い照明は光度を増したように思えた。希望が光の渦となって彼らを包み、そして自分を包んだのを感じながら、アルシュは身体の芯にぐっと力を込めた。
――もう一度。
届かなかった言葉を、借りた翼で届けてみせる。