chapitre116. 喪失のあと
文字数 7,609文字
自分は生きているのだ、と気がついた。
数日前。
自分は生き残ったのだ、と気がついた。
昨日。
自分は助けられたのだ、と気がついた。
繰り返す明暗を数えるだけの意識が、ようやく形を取り戻し、腕に繋がれた管をはっきりと知覚できるようになってきた頃。ここ数日で顔を覚えた、包帯を取り替えてくれる男性が、君を探している人がいるのだが、と教えてくれた。
――創都345年1月12日 午前11時23分
――新都ラピス ヴォルシスキー郊外
岩陰から出ると、鋭い風が吹き付けて髪がはためいた。
反射的に右耳を抑えた手が空振り、シェルは小さく溜息をついた。あのイヤリングはもう付けていないのだから、風に飛ばされてしまう心配をする必要はないのに。
細めた視界の向こうに浮かび上がった彼女の顔と、少しの間だけ見つめ合った。自分のせいで時間転送装置に飲み込まれてしまった最愛の友人は、今はどこにいて、何を思っているのだろう。同じラピスの中にいながらにして出会えなかった時とは違って、今の自分はどこにでも探しに行けるけど、おそらく彼女には届かない。
唯一希望があるとしたら、彼女が自力で
だけど――諦めてしまうくらいなら、信じて待ち続ける方が、いくらか誠実だと思うのだ。まあ、彼女がシェルの隣に戻ってきたいと願うこと、それ自体がシェルの希望的観測で、頼りない相方に愛想を尽かしてしまった可能性も否めないのだけど。
「でも、待つ」
目をきつく閉じて、それから開いた。
開けていた外套の前を閉じて、風の吹いてきた方向に顔を向ける。一部の骨組みと壁を残して黒く焼け落ちているのは、かつての出生管理施設だ。かすかな焦げ臭さがまだ、風のどこかに残っているようにも感じられる。
草の踏みしめられた小径を外れ、枯れ草に覆われた丘を登って、その近くまで寄ってみる。
周囲にはロープが巡らされており、近づくことはできない。ある意味ではシェルの故郷と呼べる建物は、焼け落ちてしまえば意外と小さいものだった。
ふと思いついて、両手の指を組んでみる。
それは、自分の時間を使い終えた
十数秒間、待って目を開ける。
今日の目的地はここではないが、気持ちに整理を付けるための寄り道だった。
次の一歩を踏み出すためには、あるものとないものの区別を付けないといけない。だからこそ、損失を揺るぎない真実として受け入れるために、配電系統を通じた映像だけでなく、自分の目で見ておきたかったのだ。
ヴォルシスキー出生管理施設は、一切の疑う余地すらなく、完全に焼失していた。
それだけ確認して、来た道を引き返す。
すると、ちょうど二人連れが下から登ってくるのが見えた。このまま進むと急になっている場所ですれ違いそうだったので、シェルは途中で立ち止まり、二人連れを先に行かせることにした。
まだ若い少女たちだった。
小柄な方が先に登ってくるのだが、砂の地面に足を滑らせて転びそうになる。シェルが手を貸すと、彼女は申し訳なさそうに眉を寄せながら、どうにか枝に手をかけて身体を支えた。
「すみません。ありがとうございます」
「気をつけて、リヤン」
「……リヤン?」
後ろを歩く方の少女が呼びかけた名前を聞いて、シェルは首を捻る。
どこかで聞いたような名前だ。
でも思い出せないな、とシェルが唇を尖らせると、リヤンと呼ばれた彼女は不思議そうな表情を浮かべてこちらを見た。
「以前にどこかで会いましたっけ?」
「いや、ぼくの勘違いです。ごめんね」
もう一人の少女が登ってくるのを待ってから、シェルは靴底で土を削るように坂を滑り降り、本来のルートである小径に戻った。
行き先は、
支部の入り口にいた、銀の笛を下げた構成員に声をかけて、ティアへの面会を申し出る。事前に話を通していなかったので渋られたが、シェルと知り合いであることをティア自身が証言してくれたようで、どうにか許可が下りた。
別棟の階段を登り、病室の扉を開ける。
南向きの窓から差しこむ陽光が、空気を白く包み込む。静かで少し埃っぽい部屋には、簡素な木製のベッドが置かれていた。
「――ティア君」
頭に包帯を巻かれた彼は、まだ起き上がれないのか、視線だけをシェルに向けた。腫れた目元に一筋の涙を伝わせながら、ティアは力なく笑う。
「……見つかっちゃいましたね」
「何言ってるの」
立て付けの悪い引き戸を後ろ手に閉めて、大股で寝台に向かった。肩掛け鞄を床に置いて、椅子を引き寄せて座る。ティアの小さい手を握ろうとしたが、包帯を巻かれているのに気がついたので、手を添えるだけに留めた。
「身体は大丈夫?」
「え――あ、はい。時間はかかるけど治癒するって、言われてます」
「そっか、良かった」
シェルが微笑んでみせると、ティアは戸惑ったように視線を惑わせた。あの、と唇が曖昧に動く。
「咎めに来たんじゃないんですか」
「ええ? 違うよ。ぼく、怒ってる風に見える?」
「見えないです」
ティアは固定された首を、動かしづらそうに小刻みに振ってみせる。
「でも、僕は交渉に失敗して、せっかく掴んだ可能性が、全部なくなっちゃって――」
「ううん、ぼくも様子は見てたよ。あれはティア君たちのせいじゃない」
あの日コアルームで見た映像を、シェルは眉をしかめながら思い出す。
当時の状況は想像するしかない。
だが、おそらくは――
交渉役の手腕どうこう以前の問題だ。あえて責任の所在を問うならば、彼らに警戒させない手法を選べなかった“
唯一言えるのは、ティアに責任は一切ないということだ。
「責めに来たんじゃないよ」
そんな権利は誰も持っていない。
「ぼくたち大人のせいで、ティア君を危ない目に遭わせてしまってごめんなさい。まず、それを言いに来たんだ」
「そんな! 頭を下げないでください。シェルさんのせいじゃないです」
「ううん、ぼくは彼らを止めなかった。潜む危険性に気がつけなかった。それは間違いなくぼくの過失だし、それに――」
一瞬だけ言い淀んだが、小さく首を振る。
「謝れるの、もう、ぼく位しかいないんだよ」
「……どういう、意味ですか」
「ぼくらはコアルームで、出生管理施設が燃えるのを見てた」
ただでさえ傷ついているティアに、真実を突きつけるのは酷かもしれないが、それを伏せてしまうと話が進まない。
シェルは拳を固く握って、ぼやけた記憶を言葉で紡いでいく。銃声と血の匂い、非常灯の照らす通路、最期まで未来を見つめていた人の瞳。全てを話し終えると、堪えるつもりだった涙が一粒だけ膝に落ちた。
ティアは充血した目を天井に向けて、それじゃあ、と呟いた。
「“
「指揮系統が消えてしまって、現状は動けない。ただ、銃規制が少し変えられたみたいで、中間層の脅威は薄れた。あと、少数だけど、地上からの移民と交流している人もいるみたいだね」
「そうですか……」
ティアは口の端を左右に引き締めた。
「良い方に、変わったんですね」
「事実上、総権が不可侵になったことで、
「――こんな結論、出したくなかったです」
「ぼくもだ。ずるいよね」
「ずるい、ですね……」
震える唇に、ほんの少しだけ笑顔を乗せて、ティアは窓に目をやった。地底で死んでしまった人たちの渇望した光が、当たり前のように部屋を照らしている。
「サジェスさんが、自分を犠牲にする計画を取り下げてくれたとき、僕、思ったんです。罪の重さにどう向き合えば良いのか、サジェスさんを見ていれば、僕も学べるんじゃないかなって」
「――うん」
「なのに……死んでしまったんですね」
ごめんなさい、と呟いてティアは毛布で顔を隠した。声を上げて泣いたって誰も馬鹿にしない年齢なのに、必死に嗚咽を殺そうとして、それでも抑えきれない声が小さく零れている。小さい背を丸めるティアがあまりに痛々しくて、思わず目を逸らした。
年齢に不相応なほどの賢さを備えているにしても、まだ11歳の子供なのだ。ただ、普通より早く大人にならなければいけない境遇にあっただけで、笑ったり泣いたりする機会まで奪われる道理はないはずだ。
「ぼく、今日は帰るね」
自分がここにいたら気を遣わせてしまうだろう、そう思ってシェルは立ち上がった。え、と毛布の中から戸惑うような声が聞こえる。
「何か用事があったんじゃ、ないんですか」
「うん、実はあるけど……また来るよ」
「いえ」
包帯を巻かれた手が伸びてきて、シェルの外套の裾を掴む。
「今、聞かせてください」
まだ掠れているが、しっかりと芯のある声が毛布の中から言う。そう言われると帰ることもできず、椅子に座り直しながら「本当に良いの」と問いかけた。
「あのさ、こんなことを言うのは恥ずかしいけど――ぼくは、現実を受け入れられるまで何日か掛かった。無理しなくて良いんだよ、待つから」
「でも今、ラピスが何か大変な事態になってるのは分かります。MDPの人は、僕には見せないように、気を遣ってくれてるんですけど。何かあったんですよね?」
「あぁ……うん」
「教えてください」
指が部分的に包帯で拘束された、不自由な手で毛布をどけようとしているので、シェルは彼を手伝う。涙に濡れた琥珀色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
「僕に何か、お手伝いできることがあるなら、今度こそ役に立ちたいんです」
「――そっか」
彼のまなざしに思いがけず胸を打たれて、シェルは小さく俯く。
ティアに年齢相応の振る舞いを期待するのも、ある意味で自分本位な発想だった。彼は自分自身の意志で悲しみに打ち勝ち、ラピスに貢献しようとしている。
「ぼくが思うよりずっと、ティア君は大人だね」
「えっと……突然、何ですか?」
心に浮かんだ言葉をそのまま口に出すと、ティアは少し呆れたような表情を浮かべた。何でもない、と首を振って、シェルは自分がここに来たもう一つの目的を口に出す。
「2年前、ティア君はもう一つのラピスから
時系列を追って話す。それぞれ公用語の異なる7つの並行世界が、ほぼラピス全域に渡って混ざり合い、その結果として人口は激増した。ハイバネイト・シティ居住区域のキャパシティは今のところ越えていないため、生活上の問題は少ないが、事態を飲み込みきれない人々の混乱が激しい。
一旦言葉を切って、だからね、と視線を向ける。
「その
「勿論です。でも、僕に何かできるでしょうか」
「例えば、ティア君の生まれたラピスから来た人にとっては、ティア君の存在それ自体が異世界遷移の証拠になる」
数日前にラ・ロシェルで出会った、別世界にある統一機関の出身であるという青年は、ティアの名前を知っていた。彼はビヨンドあるいはD・フライヤの存在について、懐疑的を越えて頑固なまでに認めようとしなかったが、ティアの姿を実際に見ればまた話は違うだろう。
「大切なのは、言語を異にする世界が混ざり合ったと理解してもらうことなんだ。今、ほとんどの人は、自分たちのラピスが侵略されたと思ってる。言葉の通じない、得体の知れない相手が、どこからか沸いてきたと思ってる」
「でも、そうじゃないんですよね」
「うん。言わば天災のようなものなんだ」
言いながら、本当にそうなのかな、とシェルは心の中でだけ首を傾げた。
「天災、ですか」
寝台の上に上半身を起こしたティアが、考え込むようにあごに手を当てた。
「あの……むしろ、天恵なのではないでしょうか」
「どういうこと?」
「だって、考えてください。単純計算で、ラピスの人口が7倍になったんですよね」
「うん。実際はもう少し少ないって聞いたけどね」
何気なく相槌を打ってから、そうか、と雷に打たれたような衝撃が走る。多すぎる市民と混濁する公用語にどう対処するかばかり気にしていて、根本的な視点が抜け落ちていた。
多くの人がいるということは、それだけで可能性の幅を広げる。シェルたちの本来いた世界ではいなかった人材が見つかるかもしれない。解けなかった問題に答えが見つかるかもしれない。
「ビヨンドは、それを狙って……?」
「いえ、それは分からないですけど」
ティアは小さく首を傾げる。
「本来なら交わらないはずの並行世界が、合流した。それはつまり、7つの世界はどれも、かなり似た未来に近づきつつあったんではないでしょうか」
「似た未来って、もしかして――」
「はい、滅亡です」
「なるほどね……」
シェルは唸って足を組んだ。
「同じ未来につながる並行世界は、五次元空間上で
「そうですね。そこにビヨンドの作為があったかどうかまでは分かりませんけど、ともかく僕らから見れば、天恵と呼べるように思います」
「じゃあ、せっかく掴んだ恵みだ。七世界もろとも倒れないように、頑張らないとね」
「そうですね」
ふわりとティアが微笑んだ。
そのとき背後で何か物音がしたかと思うと、病室の扉が開けられ、華やかな声が聞こえた。シェルが振り向くと、若い少女の二人連れが通路に立っていて、驚いたように目を見開いていた。
あれ、と瞬きをする。
「君たち、さっきの。あれ、ティア君の知り合いなの?」
「貴方は? MDPの構成員ではないですよね」
「――あの」
困惑して見つめ合った三人に、ティアが苦笑交じりに声をかけた。
「僕がご紹介します。お二人も、良かったら中にどうぞ」
*
ティアに二人を紹介してもらい、なるほどね、とシェルは頷いた。
「リヤンちゃんは、あの――バレンシアの子たちと、同じ宿舎だったんだ。だから名前を聞いたことがあるんだな」
「えっ、皆に会ったんですか!」
小柄な方の少女、リヤンは弾かれたように顔を上げて、丸い頬を紅潮させた。
「そのぉ……元気そうでしたか?」
「えっと、あんまり……分からないけど」
正確には、彼らのことを覚えないようにあえて心を閉ざしていた、なのだが。
「お互いをすごく大事にしてる人たちなんだな、って思った。あと、良い人だなって。ごめん、答えになってないよね」
「いえ。相変わらずみたいで良かったです」
リヤンが微笑んだのとは対照的に、やや鋭い表情のフルルという少女は「それで」とシェルに視線を向けた。
「貴方の所属はどこですか」
「所属? ええと、何て言ったら良いのかな」
「シェルさんは、ロンガさんの
ティアが代わりに紹介してくれる。旧友が今はそう名乗っていることを思い出しながら、シェルは頷いて見せた。
「2年前までは、彼女と同じで開発部所属の研修生だった。今は、そうだね……“
「分かりました、すみません」
フルルが苦笑して見せた。
「まだ、統一機関にいた頃の感覚が抜けてなくて、つい」
「ああ――フルルちゃんも研修生だったのか」
「はい、私は軍部です」
彼女はきっちりとした所作で頷き、それからふと首を傾げた。
「マダム・ロンガの
「ああ……そうだね。彼女にあげたんだ、あれ」
答える声の調子が自然と暗くなる。
「何か、あったのですか」
フルルが険しい顔で問いかけ、青白い顔のリヤンが祈るような表情で見ている。ティアは戸惑うようなまなざしをこちらに向けている。
そうか、と今更のように思い至る。
友人と別れてから2年間、彼女の見ている世界が広がったということは、世界の方も彼女を知っているのだ。彼女がいなくなったことを悲しむ人間が、ラピス中にいる。自分はこれから、貴方の
胃が軋むように痛んだ。
だが、黙っているわけには行かない。
「いなくなっちゃったのかも、しれないんだ」
正直にそう告げると、リヤンが胸元で手をきつく握りしめた。