chapitre157. 暗闇の向こう
文字数 5,787文字
――新都ラピス ハイバネイト・シティ第15層
昇降装置の扉が開き、カノンたちは暗い通路に降り立った。先に着いていた構成員たちが振り返って、
「発電棟は……えぇと、あ、ここですね」
現在地と目的地がそれぞれ違う色でハイライトされる。構成員のひとりが
「歩いて二十分ほどですね」
幾分ほっとした顔で構成員が言う。
カノンたちは最下層からデータボードを運んできたので、それぞれ十キロほどの荷物を背負っている。MDP構成員のなかでも体力のない者は、既にほとんど地上に離脱したため、この一行には含まれていない。とはいえ、大荷物を担いでの長距離移動は避けたいというのが本音だろう。
体力を無駄に削らずに済むのであれば、それに越したことはない。一行の最後尾を歩きながら、カノンは密かに安堵したのだが、幾分もせずに見込みの甘さに気がついた。
「こっちも、駄目だ」
水音を立てながらアルシュが道を引き返してくる。浸水したローファーを脱いで、濡れたスラックスの裾を捲りながら溜息を吐いた。
揺れの影響で通れない道が増えている。
壁が大きく崩れて道を塞いでいたり、床が崩落していたり、あるいは浸水していたりと、一行は次々に回り道を強いられた。昇降装置を降りてから、もう一時間以上経過しているが、発電棟との直線距離はほとんど変動していなかった。
「この際だ。少々服が濡れるくらいのことは許容した方が」
「だが、データボードは精密機器だ」
「そうだ。破損してしまってはライブラリを持ち出した意味がない」
「それに汚水だぞ。水浴びとは話が違う、衛生的にもできれば避けたい」
「しかし――」
さて、どうしたものか。
議論を耳の端で聞きながら、カノンが考えあぐねて腕を組むと、ふと、会話の輪から外れて腰を下ろしているアルシュの姿が目に入った。
「あんたは加わらないのか」
MDPに関しては部外者を貫いているカノンと違って、彼女が議論に率先して加わらないのは珍しい。近づいて尋ねると、アルシュは頬杖をついて俯いた姿勢のまま、視線だけを持ち上げた。
「……少し、疲れて」
「データボードが重いなら、半分くらいなら、代わってやっても良いが」
「いや――そこまででは」
彼女はひとつ息を吐いて、両足を通路に投げ出した。
「ちょっと休めば、歩ける」
「あぁそう……」
通路が暗いので分かりづらいが、いつになく顔色が悪いように思える。無理に強がっている気もするが、そこまで追及するほど、カノン自身の体力にも余裕がなかった。曖昧な相槌とともに視線を逸らした、そのとき。
「――ん?」
遠くで水音が聞こえた。
それが、水浸しの通路を誰かが歩いている音に聞こえて、思わず背筋に力が入る。
カノンは静かに視線を巡らせて、集っている仲間たちの人数を数える。議論をしている十数名を中心に、データボードを持って最下層を出てきたメンバーは、全員が近くにいた。
また、音がする。
第三者がいるとしたら、放っておくのは問題がある。本来なら無人区域のはずだが、居住者が迷い込んでいる可能性がないとも言い切れない。あるいは、かつての“
特に後者の場合、MDP構成員は必ずしも戦闘に長けているとはいえないため、出くわしてしまうと厄介だ。念のため見てきたほうが良いだろう――と判断し、カノンはリュックサックを床に置いて、ホルスターにしまった拳銃を手で確かめる。
「カノン君?」
そのまま、人目を忍んで場を離れようとしたが、アルシュに見咎められた。
「そっちの道は、もう見てきたけど」
「ああ、まあ――すぐ戻るよ。荷物を見といてくれるかい」
「えぇ? ちょっと――」
なおも追及しようとする彼女に背を向けて、カノンは音の聞こえた方角へ歩いて行った。途中から通路が一段下がり、太腿ほどまで水位が上がる。膝丈の耐水ブーツを履いているが、こうなってしまうともう意味がない。服が肌に張りつく不快感に眉をひそめながら、カノンは一旦立ち止まって耳を澄ました。
パシャリ、と水音。
ひとつではない、連続した音だ。ちょうど人が歩く程度のリズムで、周期的に繰り返している。やはり人がいるようだ――と確信し、カノンは音を立てないように気をつけながら、そちらの方角へ近づいていった。
やがて、声が聞こえ始める。
会話をしているということは、つまり単独ではない。拳銃を抜き、通路の暗闇に身を潜めて、カノンはさらに距離を詰めた。最初は「人の声である」以上の情報が汲み取れなかったが、次第に、意味を成した文章として聞き取れるようになった。
『――違う』
『こちらではない。戻ろう』
そんな言葉が断片的に聞こえた。
カノンたちと同じ言語ではないが、理解できる。彼らは地底の公用語で話していた。すると相手は二択に絞られる。すなわち“
『誰だ!』
鋭い叫び。
続いて、銃声。
すぐ右手で水柱が上がり、吹き上がった水滴が音を立てて水面に落ちる。
強制的に思考を中断させられたカノンは、物陰に身を潜めながら音の方角を伺った。注意を払っていなかった方角の暗闇に、目を凝らせばたしかに、人のようなシルエットが見える。彼が、威嚇として水面に撃ったようだ。不用意に出すぎたようだが、見つかってしまったからには仕方がない。
『そちらこそ、名乗って頂きたい』
会話が成立する相手であることを祈りながら、カノンは声を張った。
『“
『冬眠者?』
少し高い男の声が、おうむ返しに応じる。
『何だそれは……違う』
『なるほど、では』
理性的な応答が返ってきたことに安堵しつつも、カノンは拳銃を握り直した。地底の公用語を用いて話しながら、“
『あんたたちは――フィラデルフィア語圏から来た人間、ということだな』
問いかけると、数秒の沈黙の末に『そうとも呼ばれている』という答えが返ってきた。七語圏が融合した経緯について、正確に認識している相手のようだ。ひとまず敵ではないが、さて、どうすべきか。カノンが心理的な距離感を測りかねていると、向こうから問いかけられた。
『お前は誰だ』
『ああ……俺は』
わざわざ嘘をつく利点もないだろうと考えて、カノンは正直に話す。
『名乗るのが遅れたが――俺は、ラ・ロシェル語圏の者だ。発電棟の様子を確かめるため、ここにいる』
『なんだ、そうなのか……』
少々気の抜けた声が、応じる。
『で、あれば――我々と同じ目的だ。そちらは一人なのか? 崩壊の危険があるのだから、多人数で警戒した方が良いだろう。合流しないか』
「合流ねぇ……」
カノンは物陰に身を隠したまま、相手には聞こえない声量で呟く。
先んじて牽制してきた血気盛んさと反して、わりあい素直な相手にも見えた。声のトーンから察するに、まだ若いのかもしれない。こちらに危害を加えようという雰囲気は感じとれなかった。
とはいえ、フィラデルフィア語圏の人々とは、ほんの数十時間前まで敵対していたばかりだ。
『提案はありがたいが、辞めた方が良い』
やはり安易に与するのは危険だと考え、カノンは当たり障りのない理由を付けて断ろうとする。
『違う語圏から来た人間は、お互いに未知の感染症を持っている危険性がある。こちらも調査はしているが、あまり不用意に近づかない方が――』
『感染症だと?』
不思議そうな声が問いかえす。
『だが、我々は何ともないぞ。そちらの語圏に滞在していた少年も、健康そのもので』
『少年?』
ラ・ロシェル語圏に滞在していた少年――その形容に当てはまるのは、ひとりしかいない。だとすると彼らの正体も、紐を引くように自然と明らかになる。
『ってことは……あんたら、ラピシア緊急集会に参加していた、ティア君に説得された連中か』
『なに――彼を知っているのか?』
言うなり、彼はざぶざぶと音を立てながら水没した通路を引き返す。途中で立ち止まってこちらに視線をよこし、来い、と言わんばかりにあごをしゃくるので、カノンは一瞬迷ったものの着いていくことに決めた。
道を忘れないよう気をつけて歩くこと、数分。
「ティア君かい」
大勢の大人たちに囲まれて、
「……カノン、さん」
「その――無事なようで良かったよ」
掛ける言葉に迷い、建前じみていると思いながらもカノンはそう切り出す。ティアは頬にガーゼを貼っていて、片腕はギプスに覆われているが、幸いなことに元気そうだ。
「先の会議でも、何というか……助けられた。大役を任せてしまって悪かったよ」
「あっ――いえ」
なかば呆然としていた彼は、はっと気がついたように背筋を伸ばした。座っていた荷台から飛び降りて、きっぱりと首を振ってみせる。
「僕の故郷の人ですから。いちばん近しい立場である、僕が説得するのは当たり前のことです」
「まあ、たしかに……」
その通りかもしれないが。
いつものことながら、まだ11歳という年齢に反してあまりにも沈着すぎる少年だ。落ち着いている度合いだけで言えば、ここにいる大半の大人にすら勝るのではないか。とはいえ、もう過ぎた話をしていても始まらないので「それで」とカノンは続きを切り出した。
「ティア君たちも発電棟の様子を見に?」
「はい。カノンさんもですか」
「ああ、まぁ何というか――」
どう説明するか悩んで言葉に詰まったとき、通路の遠方で、カノンの名前を呼ぶ声が聞こえた。通路の壁や水面に跳ね返ってエコーが掛かった声に、カノンよりも早くティアが反応して、はっと顔色を変える。
「え――この声」
「ああ……そうだった」
あくまで周囲を警戒するためだけに、すぐ戻るつもりで出てきたのだ。そろそろ出発するから――と呼びに来たのだろう。忘れていたな、と小さく嘆息すると、ティアが血相を変えて詰め寄ってきた。
「アルシュさんといるんですか!?」
「まあ――そうだよ」
誤魔化せないと踏んで、肯定する。
「アルシュというか、MDPの人と一緒に地下から出てきた。目的はティア君たちと同じで、発電棟の様子見だね」
「そう、だったんですか」
「そうだよ」
ひとつ頷いて、カノンは部屋の扉に手を掛けた。
「さて、そういうわけで……悪いけど、俺は戻らないといけない」
「ま、待ってください!」
シャツの背を掴んで引き止められる。
振り返ると、ティアが今にも泣きそうな顔でこちらを見上げていた。
「お願いです、僕らにも、それを……手伝わせてください」
「だが……」
カノンは言い淀む。
そうティアが言い出すのは読めていた。見たところフィラデルフィア語圏の人々には敵愾心は感じられず、使える人手が増えるのは単純にメリットだ。だがアルシュにとって、ティアがトラウマの種に近い存在であることも理解していた。そんなふたりを会わせてしまって良いのか、という懸念が払拭できず「いや」とカノンは彼を室内に押し戻そうとする。
「気持ちは分かるが、率直に言ってリスクが大きい」
「で――でも、いまは非常時です。少しでも多人数で行動したほうが安全じゃないですか」
「それはそうだが……」
返す言葉に困り、カノンが眉をひそめたとき。
不意に、視界の片隅が明るくなった。
「あ、見つけた!」
同時に、遠くからアルシュの声が飛んできて、押し問答をしていたふたりは凍りつく。ペンライトを片手に持ったアルシュが、浸水した通路を大股で横切ってこちらに歩いてくる。
「もう、勝手に遠くに行かないで、よ――」
呆れたような声が、次第にペースダウンする。アルシュはこちらまで数メートルといったところで立ち止まり、ゆっくりと目を見開いた。指先から滑り落ちたペンライトが水面に落ち、血の気の失せた頬を下から照らし出す。
「ティア……」
掠れた声でアルシュが呟いた。
名前を呼ばれて、ティアがびくりと跳ねる。
「どうして、ここに」
「その、停電の復旧が遅かったので」
緊張した口調でティアが答えた。
「もしかしたら発電棟の問題かなと思って、その、僕の勝手な行動なんですけど……様子を見に来たんです」
「……そう」
「あのっ――アルシュさんたちも、同じ目的だって聞きました」
服の裾をぎゅっとつかんで、ティアが張り詰めた顔を上げる。
「協力、させてください」
しばらく沈黙が続いた。
肩を緊張で震わせているティアを、アルシュは感情の抜け落ちた表情で見ていた。目を大きく見開いて、言葉を発することを忘れてしまったように応答をしない。カノンは水中に落ちたペンライトを拾い上げながら「どうする」とアルシュに声を掛けた。
「……どう、って」
「これは
現在の彼女が置かれた立場を強調して言い直すと、そっか、と小さく呟いてアルシュが俯く。
「うん、そうだった……」
「あんたはこれを受けるのか」
「え――えっと」
渡されたペンライトを持ち直して、アルシュが部屋の前までやってくる。ティアの肩ごしに部屋の中を見渡して、固唾を呑んで見守っていたフィラデルフィア語圏の人々の、ひとりひとりと視線を合わせた。
「うん、分かった。協力してもらおう――カノン君も、良いよね?」
「もともと、問題があるとしたら、あんただけだ。あんたがそれで良いなら、俺には何の異論もない」
「良いよ」
彼女ははっきりと頷いて、頭ひとつほど下にあるティアの顔にじっと視線を合わせた。ティアが少し怯みながらも、琥珀色の目でしっかりとアルシュを見つめ返す。
「いい加減、メルのことで振り回されるのは、私も辞めたかったところだから――共闘しよう、ティア」
「……ありがとうございます」
「こっちの台詞だよ。人手が多い方が、何かと助かるもの」
声色を明るく切り替えて、アルシュが笑ってみせた。