chapitre167. 月も光もない夜に

文字数 9,828文字

「あのさ……ごめん、名前もう一度教えてくれる?」
「え、オレの?」

 彼は驚いた表情で自分の顔を指さしながらも「ロマンだけど」と答えてくれた。

「ああ、そうだ……ロマン君だ」

 記憶の中の抜け落ちていた部分に、その単語がぴったりと当てはまる。シェルが頷くと、コラル・ルミエール所属の少年、ロマンはどこか気味の悪そうな顔でこちらを見つめ返した。

「お前、シェルだよな?」
「うん。前に第45層で会ったよね、あれは……ひと月くらい前かな」
「お――おう。そんだけちゃんと覚えてて、なんでオレの名前だけ忘れて……」

 彼は不満そうに唇を尖らせたが「まあ、いいや」と呟いて手のひらを打ち合わせた。ぱん、と乾いた音が通路に鳴り響く。

「ちょうど良かった。お前、上に向かう道って分かる? オレら、道に迷って困ってんだ」
「えぇと……」

 彼はどう見てもひとりだが、オレら――と複数形で言った。

「他の人もどこかにいるの?」
「そうだよ、唱歌団(コラル)の仲間。こっちから声がした気がして、もしかしたら誰かいるかもって、オレが探しに来たんだ」
「音?」
「おう。ガシャーンって何かが崩れる音とさ、人の声みたいなのが」
「ああ……ぼくの声かもしれない」

 シェルは得心して頷く。

 唱歌団に所属し、音楽を創り出すことに長けている彼らは、人一倍に耳が良いと聞く。無線機で上空と通話していたシェルの声を、はるか遠くから聞きつけたのかもしれなかった。

「仲間って何人くらい?」
「えっと、だいたい四十」
「そんなに大勢で取り残されてるの? あ、そうか……停電してるから、避難の案内が届かなかったのか」

 いかにELIZA(エリザ)が高度な管理AIであっても、通信網そのものが絶たれていたら、どうすることもできない。停電区域は、ELIZA(エリザ)にとっては巨大な盲点なのだ。

 そう、とロマンが腕を組む。

「入団したばっかの子供とかも一緒で、動こうにも動けなくてさ。あの……手伝ってもらうことってできる?」
「分かった。手伝うよ」

 シェルが承諾すると、ロマンがほっとした表情を浮かべる。ELIZA(エリザ)にアクセスできない状況で、どのくらい彼らの力になれるかは不明だが、ここで運良く知り合いと巡り会えておきながら、みすみす別れる理由もなかった。

 仲間たちが待っているという地点に引き返しながら、ロマンは彼がここにいる経緯を話してくれた。(いわ)く、今朝ラピシア緊急集会が開かれている裏で、彼らもまた自分たちの居室を離れ、かつて“春を待つ者(ハイバネイターズ)”と名乗っていた彼らとともに行動していたのだという。

 なるほど、とシェルは相槌を打つ。

「そうだよね。ラピシアって、もともと君たちが使い始めた表現だもの」

 そう――始まりは彼らだった。

 地上の新都ラピスと、存在を隠され使役されていた地下世界。ロマンたち、コラル・ルミエールの人々は、かつて対立した二つの集団を包含して「ラピス」と呼び、公用語の差を乗り越えるために、どちらの言語でもない第三の言語――ラピス公用語(ラピシア)を創り出そうとした。

 シェルが指摘すると「まぁな」と、どこか気まずそうにロマンが頷く。

「ただ、もう……そんなこと言ってる場合じゃないけど。だって今は、地上と地下の二つどころじゃないんだろ」
「うーん……そうかな」

 シェルは首を傾げる。

「むしろ、七つの語圏が融合した今、どの語圏にも贔屓しない言葉って、ますます必要になってくる気がする。ロマン君たちの作ろうとしてる言葉が、そのままラピスの公用語になるかは分からないけど、新しい言葉を作る――っていうアイデア自体は、すごく大事なものだと思うな」
「そっ……か。正直、話が壮大に広がりすぎて、あんま想像できないんだけどさ……」

 はるか遠くを見つめる表情で、ロマンが呟く。

「本当、リジェラたちと話せる言葉が作りたいって、オレはそれだけだったから」
「それだけ――って言うけど、身近な目標のために全力になれるのって、凄いと思うよ」
「おう、ありがと。でもさ……」

 シェルの賞賛に彼は小さく肩をすくめて、それからふと振り返った。ペンライトの光のなかで、もともと色素の薄い頬が、さらに白く浮き上がる。

「……言葉が通じたら、何でも分かり合えると思ってたのは、それはそれで間違いだった」
「間違いって……」

 ロマンはよく表情を変える少年だが、喜怒哀楽の表現はいつも素直だった。そんな彼の、あまり見覚えのない物憂げな表情に、シェルは思わず立ち止まる。

「何かあったの?」
「いや、分かんないんだけどさ……朝から、ルージュの様子がおかしくて。アックスと喧嘩したっぽいんだけど、あいつ、なんで怒らせたのか分かんないって言うし」

 ルージュとアックス。

 二人の名前を耳にして、シェルは改めて彼らのことを思い出す。名前さえ思い出してしまえば、いともたやすく記憶を紐解くことができた。歌声が変わってしまったことを周囲に言い出せない少女と、音楽に生きる意味を見出した青年。ルージュの声が変わってしまったと聞いたとき、アックスが大きく動揺していたのは覚えている。二人の間には、たしかに音楽家ならではの蟠りがあった。かつての歌声が取り戻せない以上、その軋轢は永遠に消えることはないのかもしれない。

「アックスって、ホント音楽のことしか考えてないような奴だからさ――オレが言うのもなんだけど、アイツ、視野狭いんだよ」

 身内を語るとき特有と思われる、どこか軽口めいた口調でロマンが言う。

「だから、勢いで何か言っちゃってさ、それをルージュが悪いように取ったんじゃないかって……ルージュも気難しいからさぁ……そう思うんだけど。正直、今はリジェラたちより、あいつらの方が何考えてんのか分かんなくて」
「そっか……喧嘩中なんだ」

 求められている答えではないと思いつつも、シェルは平坦に相槌を打つ。付き合いの浅い自分が、彼らに対して言えることは少ない。ただ、ひとつだけ胸に引っかかったものがあって「確認なんだけど」とシェルは人差し指を立ててみせた。

「あのさ――声が変わったり、それが受け入れられなくて音楽を辞めたとしても、それはそれとして、君たちは友達だよね」
「は? 当ったり前だろ」
「アックス君やルージュちゃんも、そう思ってる?」
「え……いや、そんな話、面と向かってしたことねぇけどさぁ」

 真剣なトーンで問いかけると、初めは呆れたような表情をしていたロマンも、少し不安げな雰囲気を浮かべた。束の間、目元に浮かんだ陰りを吹き飛ばすように、少年は「でもさ」と明るく口調を切り替えた。

「普通に考えて、そうだろ。お前……オレたちのこと、何か誤解してない?」
「いや、誤解っていうか……否定してくれるだろうと思って、確認したんだ」
「なにそれ?」

 ロマンが片方の眉をひそめる。

「ややこしいことすんなよな」
「うん、ごめん。分かってるつもり。君たちが、唱歌団(コラル)の同期である以前に、一緒に生きていく仲間だっていうのは」
「おう、そうだよ?」
「……でも」

 考えを頭の中でまとめるうちに、自分の表情が歪んでいくのを自覚して、シェルはペンライトを持った腕を降ろした。ずっしりと重たい暗闇が、胸に抱えた後悔と混ざり合って、臓腑に落ちていくのを感じる。

「大切なものを無くしたときって、すごく心配性になるから。ぜんぶ疑いたくなるんだ。友達の言葉すら、聞き入れられなくなるくらいに」

 ラピスの中央にいながら、世界の崖っぷちで佇んでいるような気がした、あの朝のシェルのように。希望の欠片はきっと落ちていたのに、それに気がつけないどころか、何より大切なものを手放してしまった。

 ルージュとアックスは、あの日の自分ほど愚かではないだろうけれど――喪失の前に立ち竦むとき、ひどく不安症になるのは、きっとシェルだけではないだろう。

「だから、喧嘩しちゃうのは仕方ないと思うから……本当に大切なものを、手放さないようにだけ、見守っていたら良いんじゃないかな」

 シェルが一般論めかして微笑むと、ロマンは何か考え込むように喉に指を当てた。それから彼は、少しあごを引いて、上目遣いにこちらをじっと見る。それが睨んでいるように見えて、シェルは思わず上半身を引いた。

「あの……あんまり知らないから、適当なこと言ってたらごめんね」
「いや、良いんだけど……」

 彼はぱっと視線を逸らして、そばかすの浮かんだ頬を引っかきながら「あのさ」と心なしか低い口調で切り出した。

「お前もさ、なんかあったの?」
「――ぼく?」
「だって、他人事みたいに話してるけど、さっきから言ってるの、お前の実体験だろ」

 自分に矛先を向けられると思っていなかったシェルは、虚を突かれて立ち尽くした。今度は明らかに睨んでいると分かる目で、ロマンがこちらを見据える。

「聞いてりゃ分かるんだよ――お前、アイツとっ――ロンガと、なんで一緒にいないんだよ。なんか、あったんだろ!」

 ぐらり、と足下が揺れる。

 彼の剣幕に気圧(けお)されて、よろめきつつ後ろに下がると、壁に背中をぶつけた。今はもうイヤリングを下げていない右耳が、ずきりと痛む。鋭い視線で磔にされたような錯覚に襲われながら、違う、とありもしない嘘を口に出そうとした――そのとき。

「――何だ?」

 ロマンがぱっと後ろに振り向いた。
 同時に、シェルも気がつく。

 今度は、目眩や錯覚ではなくて、確実に地面が揺れていた。突き上げるような細かい振動だ。シェルは慌てて、手のひらから滑り落ちそうだったペンライトを握り直す。

 遠い場所で、礫が落ちるパラパラという音がいくつも聞こえ始めた。音は幾重にも重なり合い、瞬く間に耳をつんざく轟音に変わる。

 あ、とロマンが叫ぶ。

「あっち、皆が――」

 その直後。

 ペンライトで照らしていた向かいの通路が、巨大な手に捻られたかのようにぐにゃりと曲がった。視覚を疑うような光景の直後、一瞬にして通路が床ごと消え失せて、景色を飲み込んだ砂煙がこちらに迫ってくる。

 ここも崩れる。

 そう直感したシェルは少年の手を引いて、地面を蹴り真後ろに駆け出した。砂煙が二人を追い越して、霧の中のように視界が不鮮明になるが、勘だけを頼りに、とにかく直線で走り抜ける。何かを考える余裕がないまま走り続け、轟音が鳴り止んだ数十秒後、ようやくシェルたちは砂煙の幕を抜けた。

 ぜえぜえとロマンが荒い息をしている。

 シェルは額に浮かんだ汗を拭いながら振り返り、走ってきた方角をペンライトで照らした。雲のように広がった砂埃が、風に流されて次第に薄れていき、今しがた起きた崩壊の有様が鮮明になった。

 思わず、喉が震えるのを感じる。

 えぐり取られたように、居住区域の一部が消失していた。半ばまで削られた部屋の断面がずらりと並び、破断したパイプから水がこぼれているのが見える。ところどころ、残った鉄骨が鋭く突き出している。崩れた区域の広さは直径にして百メートルほど。下方向は、深く抉られすぎて底が見えていない。

 落ち着け、と自分に言い聞かせながら、シェルは膝をついているロマンに振り返った。

「支えがなくなったから、上の階層も、いつ崩れるか分からない。このまま、逃げて――」
「――待って!」

 掠れた叫びが遮る。

 彼は地面に腰を付いたまま、震える人差し指を持ち上げて、まだ砂埃が舞っている方角を指さした。

「あっち……! コラルの仲間が」
「いや――戻るのは、流石に」
「手を離すなって言ったの、お前だろ!」
「でも」

 反論しようとして、シェルはふと口を閉ざす。

 崩れ落ちて見通せるようになった遠方の区画に、ぽつりと赤い非常灯が点いているのを見つけたのだ。つまり、まだ電気が通っているということになる。そちらに行けば、ELIZA(エリザ)システムを介してコアルームに助けを求められるかもしれない。ロマンが言っている、コラル・ルミエールの人々がいるという方角とも、おおむね一致していた。

「……分かった」

 シェルは頷いて立ち上がり、走ったせいで着崩れた外套を羽織り直した。今にも泣きそうな顔をしている少年の前に、膝をついて尋ねる。

「ぼくも行こう。一緒に来てくれる?」

 *

 ルージュがはっと気がついたとき、天地は逆さまになっていた。

 なぜこんな状況になっているのか考えて、とつぜん床が崩れ落ちたのだ――と、数秒後に思い出す。ルージュの身体は折り重なった瓦礫の隙間に埋まっていたが、リュックサックがクッションになってくれて、幸いにも怪我はしていないようだった。反転した体勢をもがきながら立て直し、ルージュはどうにか瓦礫の山から顔を出した。

 けほ、と咳をする。

 砂が口に入ったのか、舌にざらざらとした嫌な感覚があった。口元を拭いつつ、瓦礫に肘をついてどうにか立ち上がると、少し離れたところから、子供のか細い泣き声がした。

 急いでポケットからペンライトを取り出し、声の聞こえるほうに向かう。転びそうになりながらも瓦礫の山を降りると、そこで初めて、ルージュは崩落のありさまを目にした。つい数分前まで、壁やソファが整然と並んでいたはずの空間が、跡形もなく削られている。背筋を震えが駆け上がり、ルージュは思わず、地面に膝をつきそうになった。

 ――だが。

 また泣き声が聞こえて、我に返る。

 泣いているのは、去る秋に唱歌団(コラル)に入ったばかりの子供たちだった。年齢はばらついているが、最年長でも13歳。世間的には子供に分類されるルージュよりも、さらに幼い子供たちだ。

 自分が動いて、助けなければ。

 震える膝に力を込めて、ルージュは声の方角へ走り出した。踏み込んだ床が揺れて、ぎしりと嫌な音を立てて歪む。屈するな、止まるなと自分に言い聞かせながら、ルージュは砂埃で煙る暗闇のなかを駆け抜けた。

 子供たちの服の裾や、靴の爪先を挟んでいる瓦礫を、力を込めて持ち上げる。小柄で非力なルージュにとっては、瓦礫をひとつどけるだけでも大仕事だった。比較的年長の子供に手伝ってもらい、どうにか全員を助け出す。疲れ果てて床に座り込もうとした途端、外れた天井のパネルが真横に落ちてきて、ルージュはびくりと肩を跳ねさせた。

 ここも安全ではないのだ。

 ルージュは疲れた身体に鞭を打って立ち上がる。早く、子供たちを連れて上の階層に戻り、他の団員たちと合流しなければいけない。

 泣きじゃくる子供を立たせながら周囲を見回すと、崩れた壁を伝って上に向かえそうな場所を見つけた。寝台を引きずってきて足場に使い、ルージュ自身の身体も踏み台にさせて、どうにか天井によじ登らせる。

 ぜえ、と息を吐いて、壁に手を付いた。
 頭の芯がぐらぐら揺れているのを感じる。

 ようやく一人を上に行かせただけで、全身が疲労に支配されてしまった。いつもなら、一旦休憩しよう――となるところだが、今はそうも言っていられない。ルージュはすぐに引き返して、他の子供を連れてきて登らせる。

 非力だろうが小柄だろうが、この場に限ってはルージュが最年長なのだ。普段なら、無理をする前に頼っていた大人たち――アックスやリジェラはいない。歯を食いしばって膝に力を込め、幼い団員を肩車したまま立ち上がった。

 ようやく最後の子供を上に登らせて、ほっと一息吐く。

 そのとき。

 疲労が溜まりに溜まった指先から、ペンライトがするりと抜け落ちた。慌てて手を伸ばすが届かず、ペンライトはコロコロと床を転がったかと思うと、崩れ落ちた床のはるか下まで落ちてしまった。

 唯一の光源を手放してしまった。

 一切の光がない、完全な闇の中にルージュは呆然と立ち尽くした。自分がまっすぐ立っているのか、それすら自信が持てなくなる。ずっと気力だけで突っ張っていた膝が折れて、ルージュは砂の積もった冷たい床にへたり込んだ。

 何も見えない。
 自分の所在すら見失うほどの暗闇。

 だけど、せめて――声が出せれば。自分はここにいるよと伝えられれば、コラル・ルミエールの団員なら、音を手がかりにお互いを見つけられるはずなのに。

「――ぁ――っ、……」

 だが、いくら喉に力を込めても、出てくるのは絞りかすのような音ばかりだった。

 今朝からずっと、音の作り方を忘れてしまったように、喉が震えないのだ。変わってしまった声を呪い、誰にも聞かせたくないと祈った結果、ついに声の方からルージュを拒絶してきたのか。顔を火照らせてぼろぼろと涙をこぼしても、見えない膜が音を吸い込んでいるかのように、ルージュの喉からは何一つ音が生まれなかった。

 窒息しそうなほど喉に息を詰めたせいで、頭がじんと痺れたように疼き出す。身体を折り曲げて咳き込みながら、ふとルージュは、遠い夕焼けの景色を思い出した。

『アタシは、音楽のために生きているんです』

 記憶の中のルージュ自身が、誇らしげな表情で言って笑う。あれは、どういう文脈で発した言葉だったか――もう思い出せないけれど、その言葉は間違いなくルージュの本心であり、揺らぐことのない信念でもあった。

 じゃあ……声の出なくなった、自分は。
 生きている理由を、何に求めたら。

 恐ろしいことに気がついてしまった――と思った。月の浮かばない夜よりもっと暗い、宇宙空間を思わせる黒のなかで、ルージュはひとつ瞬きをする。歌声で何かを表現するどころか、空気を震わせて音を作ることすら叶わない、今のルージュに、唱歌団(コラル)に所属する――いや――生きるために地上に向かう意味が、本当にあるのか。

 ルージュ、と遠くで呼んでいる気がした。

 よく知っているはずの、馴染み深い声。

 なのに今は、まるで別の世界から聞こえてくるように、異物感しか感じられなかった。違う、実際のところ、既にルージュはもう、コラル・ルミエールの人々と同じ世界にはいないのかもしれない。唱歌団は歌うための場所だ。音楽を創出する才能を失ったのなら、もう、迎え入れてくれる余白はないだろう。

 ルージュはふらりと立ち上がった。

 周囲の様子はまるきり見えないけれど、多分ここから数歩も踏み出せば、暗い穴に落ちていける。

 重力は、逆らうより従う方が簡単だ。光を生み出すより、さえぎって闇を作る方が簡単。這いつくばって明日を生きるより、ここで一歩足を滑らせてしまったほうが、もしかしたら楽になれるのでは――普段なら耳を傾けることもない、そんな甘ったるい誘惑が、疲労しきった脳に、針のように刺さった。

 暗闇が手招きして、ルージュを呼んでいる気がした。

 見えない糸に導かれるように、なかば無意識で片足を持ち上げた――そのとき。

「いた、ルージュ!」

 ばん、と背後で大きな音がした。

 同時に、視界の中央で光が弾けて、瓦礫や崩れた壁や、ルージュ自身の形状をくっきりと描く。真っ白にハレーションを起こした視界の中央で、輪郭のぼやけた人影が大股に歩いてきて、こちらに手を伸ばした。

「――だから!」

 がっ、と遠慮のない力で肩をつかまれる。

「声を上げろ、と言ったでしょう!」

 叩きつけるような声の圧が、ルージュを真正面から圧倒する。今にも吹き飛ばされそうになりながら、ルージュは力なくアックスの顔を見上げた。

 彼は何をしに来たんだろう?
 わざわざ助けに?

 そうか、この人はまだ知らないのだった――ルージュが、声の出し方を忘れてしまったことを。言わなければ。守るべき音楽家としての価値が、もうルージュにはないことを。もう、コラル・ルミエールにはいられないことを――

「――ぃ――ぁ、ぅ」
「違う?」

 アックスが顔をしかめて問いかえす。

「何が」
『声が――』

 もう、出ないの。

 一音一音、唇を必死に動かして、子音の勢いだけで告げる。音節をひとつ口にするたび、アックスの表情が強ばっていくのが分かった。下から照らされて白くなった喉元が、痙攣するように動く。

「それは……」

 彼が、無表情で上半身を引いた。

 そこから数秒の間、奇妙な沈黙があった。アックスはやけに頻繁な瞬きをしたり、視線を横に流したりした。なにか考えている様子だった。ルージュは緊張感に耐えられなくなって、ぎゅっと目を閉じる。まぶたの裏の暗闇を見つめると、そこにアックスが浮かび上がって、冷え切った氷のような目でルージュを見つめ返した。

『声が出せないなら、もう君のことを、守るべき音楽家だとは思えない』

 頭の中で想像しただけなのに、心臓が刺されるように痛んだ。爪が食い込むほど強く、拳を握りしめる。アックスが本当にそう言ってきたら、本当に――このまま後ろに倒れ込んで、地の底まで落ちてしまおうと、ルージュは覚悟した。

「……そうか」

 奇妙に平坦な声が、そう呟いた。
 肩を掴んでいた手のひらから力が抜ける。

「ごめん」

 想像よりはずっと柔らかい声が、そう言って謝った。ルージュがおそるおそる目を開けると、どこか気まずそうな表情がこちらを見下ろしている。

「声が出せないのに、さっきみたいに叱りつけたのは悪かった。いつから?」
『いつから――って』

 ルージュが呆気に取られて聞き返すと「だから」ともどかしそうにアックスが眉をひそめる。

「声が出なくなったのは、いつの話。昨日の夜は普通に話していたでしょう」
「――ぇ、ぁ」
「ごめん、分からなかった。もう一度」
『……今朝から』
「そうか。何かの病気か――いや、環境が変わったストレスかな……ここで考えても仕方がないか。安全な場所まで避難できたら、打つ手を考えよう」

 そう勝手に結論づけて、彼はルージュの腕を掴んで引いた。ルージュがその場で動けないでいると、怪訝そうに振り返って「どうしたの」と眉を寄せる。

「いつまで、そんな危ない場所に立っているつもり? 早く、みんなのところに戻らないと」
「……ぇ、も」

 靴の中で、爪先をぐっと握りしめる。

 みんな――というのは、当然ながらコラル・ルミエールの仲間たちのことだ。コラル・ルミエールとは歌声を合わせるための場所だ。アックスはルージュの喉が治ると信じて疑っていないように見えるけれど、将来ふたたび声の出し方を思い出せるのか、それは分からない。現状、歌い手として不完全な自分が、それでも彼らの輪の中に戻るなら――せめて同期のアックスには、最後に縋るための言葉を言ってほしかった。

 意を決して、ルージュは顔を上げる。

「ぁ――ぅ、ぉ……」
『アックス、もしも』

「ぁ――……っ、ぉ――あっ……ぇ」
『アタシが二度と歌えなくなって』

「ぉぁ――ぅ――を、ぁ……ぇう……ぁ」
『コラル・ルミエールを辞めるって言ったら』

「ぉえ――ぁ、っ……ぅ――、っ……」
『それでも助けに来てくれた?』

 途中から涙がぼろぼろとこぼれて、ただでさえ覚束ない発声が掠れていき、最後にはほとんど消えてしまった。握った手の甲で頬を拭いながら、それでも視線だけは揺らがせないように保っていると、アックスが真剣な表情で頷いた。

「当たり前でしょう」
『……そうなの?』
「そうなのって――なんだか僕は、ルージュに、血の通わない人間だとでも思われているのかな」

 彼は溜息まじりに呟いて、それから「あのね」と視線をこちらに向けた。

「歌声は、たしかに君の価値だった。技術は失われてないにしても、君の声が変わったのは、率直に言えば今だって残念だし、そういう意味で僕は“春を待つ者(ハイバネイターズ)”の人たちを許してはいないよ」
『じゃあ――』
「でも、君の価値が目減りしたとして、非常時に、仲間を見捨てるわけがない」

 あまりにも当然のように、アックスはそう言い切った。一切ごまかすところがなく、深読みの余地もないシンプルな言葉が、ルージュの頭にまっすぐ飛び込んでくる。

「それだけのことでしょう」

 ――それだけのこと。

 鈍器で殴られたように、頭の中央がぐらぐらと揺れていた。ペンライトの強い光に目を灼かれて、さっきまで暗闇の中で何を考えていたのか、自分が何に絶望していたのか、それが曖昧に滲んでゆく。

 仲間を見捨てるわけがない。

 いかにも常識的な答えだった。そうか、それで良かったのか――とルージュが納得しかけたとき、あ、とアックスが声を上げた。

 掴んだ腕をぐっと引かれる。

 それはルージュの体重ごと持って行く力強さで、おかしな方向に引っ張られた肩の関節が、軋むように痛んだ。バランスを崩したルージュの視界を、灰色の砂埃が飲み込んで埋め尽くす。

 足下が崩れた。

 二人の身体は、轟音のひびく暗闇へ、あっという間に吸い込まれた。
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登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

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