chapitre167. 月も光もない夜に
文字数 9,828文字
「え、オレの?」
彼は驚いた表情で自分の顔を指さしながらも「ロマンだけど」と答えてくれた。
「ああ、そうだ……ロマン君だ」
記憶の中の抜け落ちていた部分に、その単語がぴったりと当てはまる。シェルが頷くと、コラル・ルミエール所属の少年、ロマンはどこか気味の悪そうな顔でこちらを見つめ返した。
「お前、シェルだよな?」
「うん。前に第45層で会ったよね、あれは……ひと月くらい前かな」
「お――おう。そんだけちゃんと覚えてて、なんでオレの名前だけ忘れて……」
彼は不満そうに唇を尖らせたが「まあ、いいや」と呟いて手のひらを打ち合わせた。ぱん、と乾いた音が通路に鳴り響く。
「ちょうど良かった。お前、上に向かう道って分かる? オレら、道に迷って困ってんだ」
「えぇと……」
彼はどう見てもひとりだが、オレら――と複数形で言った。
「他の人もどこかにいるの?」
「そうだよ、
「音?」
「おう。ガシャーンって何かが崩れる音とさ、人の声みたいなのが」
「ああ……ぼくの声かもしれない」
シェルは得心して頷く。
唱歌団に所属し、音楽を創り出すことに長けている彼らは、人一倍に耳が良いと聞く。無線機で上空と通話していたシェルの声を、はるか遠くから聞きつけたのかもしれなかった。
「仲間って何人くらい?」
「えっと、だいたい四十」
「そんなに大勢で取り残されてるの? あ、そうか……停電してるから、避難の案内が届かなかったのか」
いかに
そう、とロマンが腕を組む。
「入団したばっかの子供とかも一緒で、動こうにも動けなくてさ。あの……手伝ってもらうことってできる?」
「分かった。手伝うよ」
シェルが承諾すると、ロマンがほっとした表情を浮かべる。
仲間たちが待っているという地点に引き返しながら、ロマンは彼がここにいる経緯を話してくれた。
なるほど、とシェルは相槌を打つ。
「そうだよね。ラピシアって、もともと君たちが使い始めた表現だもの」
そう――始まりは彼らだった。
地上の新都ラピスと、存在を隠され使役されていた地下世界。ロマンたち、コラル・ルミエールの人々は、かつて対立した二つの集団を包含して「ラピス」と呼び、公用語の差を乗り越えるために、どちらの言語でもない第三の言語――
シェルが指摘すると「まぁな」と、どこか気まずそうにロマンが頷く。
「ただ、もう……そんなこと言ってる場合じゃないけど。だって今は、地上と地下の二つどころじゃないんだろ」
「うーん……そうかな」
シェルは首を傾げる。
「むしろ、七つの語圏が融合した今、どの語圏にも贔屓しない言葉って、ますます必要になってくる気がする。ロマン君たちの作ろうとしてる言葉が、そのままラピスの公用語になるかは分からないけど、新しい言葉を作る――っていうアイデア自体は、すごく大事なものだと思うな」
「そっ……か。正直、話が壮大に広がりすぎて、あんま想像できないんだけどさ……」
はるか遠くを見つめる表情で、ロマンが呟く。
「本当、リジェラたちと話せる言葉が作りたいって、オレはそれだけだったから」
「それだけ――って言うけど、身近な目標のために全力になれるのって、凄いと思うよ」
「おう、ありがと。でもさ……」
シェルの賞賛に彼は小さく肩をすくめて、それからふと振り返った。ペンライトの光のなかで、もともと色素の薄い頬が、さらに白く浮き上がる。
「……言葉が通じたら、何でも分かり合えると思ってたのは、それはそれで間違いだった」
「間違いって……」
ロマンはよく表情を変える少年だが、喜怒哀楽の表現はいつも素直だった。そんな彼の、あまり見覚えのない物憂げな表情に、シェルは思わず立ち止まる。
「何かあったの?」
「いや、分かんないんだけどさ……朝から、ルージュの様子がおかしくて。アックスと喧嘩したっぽいんだけど、あいつ、なんで怒らせたのか分かんないって言うし」
ルージュとアックス。
二人の名前を耳にして、シェルは改めて彼らのことを思い出す。名前さえ思い出してしまえば、いともたやすく記憶を紐解くことができた。歌声が変わってしまったことを周囲に言い出せない少女と、音楽に生きる意味を見出した青年。ルージュの声が変わってしまったと聞いたとき、アックスが大きく動揺していたのは覚えている。二人の間には、たしかに音楽家ならではの蟠りがあった。かつての歌声が取り戻せない以上、その軋轢は永遠に消えることはないのかもしれない。
「アックスって、ホント音楽のことしか考えてないような奴だからさ――オレが言うのもなんだけど、アイツ、視野狭いんだよ」
身内を語るとき特有と思われる、どこか軽口めいた口調でロマンが言う。
「だから、勢いで何か言っちゃってさ、それをルージュが悪いように取ったんじゃないかって……ルージュも気難しいからさぁ……そう思うんだけど。正直、今はリジェラたちより、あいつらの方が何考えてんのか分かんなくて」
「そっか……喧嘩中なんだ」
求められている答えではないと思いつつも、シェルは平坦に相槌を打つ。付き合いの浅い自分が、彼らに対して言えることは少ない。ただ、ひとつだけ胸に引っかかったものがあって「確認なんだけど」とシェルは人差し指を立ててみせた。
「あのさ――声が変わったり、それが受け入れられなくて音楽を辞めたとしても、それはそれとして、君たちは友達だよね」
「は? 当ったり前だろ」
「アックス君やルージュちゃんも、そう思ってる?」
「え……いや、そんな話、面と向かってしたことねぇけどさぁ」
真剣なトーンで問いかけると、初めは呆れたような表情をしていたロマンも、少し不安げな雰囲気を浮かべた。束の間、目元に浮かんだ陰りを吹き飛ばすように、少年は「でもさ」と明るく口調を切り替えた。
「普通に考えて、そうだろ。お前……オレたちのこと、何か誤解してない?」
「いや、誤解っていうか……否定してくれるだろうと思って、確認したんだ」
「なにそれ?」
ロマンが片方の眉をひそめる。
「ややこしいことすんなよな」
「うん、ごめん。分かってるつもり。君たちが、
「おう、そうだよ?」
「……でも」
考えを頭の中でまとめるうちに、自分の表情が歪んでいくのを自覚して、シェルはペンライトを持った腕を降ろした。ずっしりと重たい暗闇が、胸に抱えた後悔と混ざり合って、臓腑に落ちていくのを感じる。
「大切なものを無くしたときって、すごく心配性になるから。ぜんぶ疑いたくなるんだ。友達の言葉すら、聞き入れられなくなるくらいに」
ラピスの中央にいながら、世界の崖っぷちで佇んでいるような気がした、あの朝のシェルのように。希望の欠片はきっと落ちていたのに、それに気がつけないどころか、何より大切なものを手放してしまった。
ルージュとアックスは、あの日の自分ほど愚かではないだろうけれど――喪失の前に立ち竦むとき、ひどく不安症になるのは、きっとシェルだけではないだろう。
「だから、喧嘩しちゃうのは仕方ないと思うから……本当に大切なものを、手放さないようにだけ、見守っていたら良いんじゃないかな」
シェルが一般論めかして微笑むと、ロマンは何か考え込むように喉に指を当てた。それから彼は、少しあごを引いて、上目遣いにこちらをじっと見る。それが睨んでいるように見えて、シェルは思わず上半身を引いた。
「あの……あんまり知らないから、適当なこと言ってたらごめんね」
「いや、良いんだけど……」
彼はぱっと視線を逸らして、そばかすの浮かんだ頬を引っかきながら「あのさ」と心なしか低い口調で切り出した。
「お前もさ、なんかあったの?」
「――ぼく?」
「だって、他人事みたいに話してるけど、さっきから言ってるの、お前の実体験だろ」
自分に矛先を向けられると思っていなかったシェルは、虚を突かれて立ち尽くした。今度は明らかに睨んでいると分かる目で、ロマンがこちらを見据える。
「聞いてりゃ分かるんだよ――お前、アイツとっ――ロンガと、なんで一緒にいないんだよ。なんか、あったんだろ!」
ぐらり、と足下が揺れる。
彼の剣幕に
「――何だ?」
ロマンがぱっと後ろに振り向いた。
同時に、シェルも気がつく。
今度は、目眩や錯覚ではなくて、確実に地面が揺れていた。突き上げるような細かい振動だ。シェルは慌てて、手のひらから滑り落ちそうだったペンライトを握り直す。
遠い場所で、礫が落ちるパラパラという音がいくつも聞こえ始めた。音は幾重にも重なり合い、瞬く間に耳をつんざく轟音に変わる。
あ、とロマンが叫ぶ。
「あっち、皆が――」
その直後。
ペンライトで照らしていた向かいの通路が、巨大な手に捻られたかのようにぐにゃりと曲がった。視覚を疑うような光景の直後、一瞬にして通路が床ごと消え失せて、景色を飲み込んだ砂煙がこちらに迫ってくる。
ここも崩れる。
そう直感したシェルは少年の手を引いて、地面を蹴り真後ろに駆け出した。砂煙が二人を追い越して、霧の中のように視界が不鮮明になるが、勘だけを頼りに、とにかく直線で走り抜ける。何かを考える余裕がないまま走り続け、轟音が鳴り止んだ数十秒後、ようやくシェルたちは砂煙の幕を抜けた。
ぜえぜえとロマンが荒い息をしている。
シェルは額に浮かんだ汗を拭いながら振り返り、走ってきた方角をペンライトで照らした。雲のように広がった砂埃が、風に流されて次第に薄れていき、今しがた起きた崩壊の有様が鮮明になった。
思わず、喉が震えるのを感じる。
えぐり取られたように、居住区域の一部が消失していた。半ばまで削られた部屋の断面がずらりと並び、破断したパイプから水がこぼれているのが見える。ところどころ、残った鉄骨が鋭く突き出している。崩れた区域の広さは直径にして百メートルほど。下方向は、深く抉られすぎて底が見えていない。
落ち着け、と自分に言い聞かせながら、シェルは膝をついているロマンに振り返った。
「支えがなくなったから、上の階層も、いつ崩れるか分からない。このまま、逃げて――」
「――待って!」
掠れた叫びが遮る。
彼は地面に腰を付いたまま、震える人差し指を持ち上げて、まだ砂埃が舞っている方角を指さした。
「あっち……! コラルの仲間が」
「いや――戻るのは、流石に」
「手を離すなって言ったの、お前だろ!」
「でも」
反論しようとして、シェルはふと口を閉ざす。
崩れ落ちて見通せるようになった遠方の区画に、ぽつりと赤い非常灯が点いているのを見つけたのだ。つまり、まだ電気が通っているということになる。そちらに行けば、
「……分かった」
シェルは頷いて立ち上がり、走ったせいで着崩れた外套を羽織り直した。今にも泣きそうな顔をしている少年の前に、膝をついて尋ねる。
「ぼくも行こう。一緒に来てくれる?」
*
ルージュがはっと気がついたとき、天地は逆さまになっていた。
なぜこんな状況になっているのか考えて、とつぜん床が崩れ落ちたのだ――と、数秒後に思い出す。ルージュの身体は折り重なった瓦礫の隙間に埋まっていたが、リュックサックがクッションになってくれて、幸いにも怪我はしていないようだった。反転した体勢をもがきながら立て直し、ルージュはどうにか瓦礫の山から顔を出した。
けほ、と咳をする。
砂が口に入ったのか、舌にざらざらとした嫌な感覚があった。口元を拭いつつ、瓦礫に肘をついてどうにか立ち上がると、少し離れたところから、子供のか細い泣き声がした。
急いでポケットからペンライトを取り出し、声の聞こえるほうに向かう。転びそうになりながらも瓦礫の山を降りると、そこで初めて、ルージュは崩落のありさまを目にした。つい数分前まで、壁やソファが整然と並んでいたはずの空間が、跡形もなく削られている。背筋を震えが駆け上がり、ルージュは思わず、地面に膝をつきそうになった。
――だが。
また泣き声が聞こえて、我に返る。
泣いているのは、去る秋に
自分が動いて、助けなければ。
震える膝に力を込めて、ルージュは声の方角へ走り出した。踏み込んだ床が揺れて、ぎしりと嫌な音を立てて歪む。屈するな、止まるなと自分に言い聞かせながら、ルージュは砂埃で煙る暗闇のなかを駆け抜けた。
子供たちの服の裾や、靴の爪先を挟んでいる瓦礫を、力を込めて持ち上げる。小柄で非力なルージュにとっては、瓦礫をひとつどけるだけでも大仕事だった。比較的年長の子供に手伝ってもらい、どうにか全員を助け出す。疲れ果てて床に座り込もうとした途端、外れた天井のパネルが真横に落ちてきて、ルージュはびくりと肩を跳ねさせた。
ここも安全ではないのだ。
ルージュは疲れた身体に鞭を打って立ち上がる。早く、子供たちを連れて上の階層に戻り、他の団員たちと合流しなければいけない。
泣きじゃくる子供を立たせながら周囲を見回すと、崩れた壁を伝って上に向かえそうな場所を見つけた。寝台を引きずってきて足場に使い、ルージュ自身の身体も踏み台にさせて、どうにか天井によじ登らせる。
ぜえ、と息を吐いて、壁に手を付いた。
頭の芯がぐらぐら揺れているのを感じる。
ようやく一人を上に行かせただけで、全身が疲労に支配されてしまった。いつもなら、一旦休憩しよう――となるところだが、今はそうも言っていられない。ルージュはすぐに引き返して、他の子供を連れてきて登らせる。
非力だろうが小柄だろうが、この場に限ってはルージュが最年長なのだ。普段なら、無理をする前に頼っていた大人たち――アックスやリジェラはいない。歯を食いしばって膝に力を込め、幼い団員を肩車したまま立ち上がった。
ようやく最後の子供を上に登らせて、ほっと一息吐く。
そのとき。
疲労が溜まりに溜まった指先から、ペンライトがするりと抜け落ちた。慌てて手を伸ばすが届かず、ペンライトはコロコロと床を転がったかと思うと、崩れ落ちた床のはるか下まで落ちてしまった。
唯一の光源を手放してしまった。
一切の光がない、完全な闇の中にルージュは呆然と立ち尽くした。自分がまっすぐ立っているのか、それすら自信が持てなくなる。ずっと気力だけで突っ張っていた膝が折れて、ルージュは砂の積もった冷たい床にへたり込んだ。
何も見えない。
自分の所在すら見失うほどの暗闇。
だけど、せめて――声が出せれば。自分はここにいるよと伝えられれば、コラル・ルミエールの団員なら、音を手がかりにお互いを見つけられるはずなのに。
「――ぁ――っ、……」
だが、いくら喉に力を込めても、出てくるのは絞りかすのような音ばかりだった。
今朝からずっと、音の作り方を忘れてしまったように、喉が震えないのだ。変わってしまった声を呪い、誰にも聞かせたくないと祈った結果、ついに声の方からルージュを拒絶してきたのか。顔を火照らせてぼろぼろと涙をこぼしても、見えない膜が音を吸い込んでいるかのように、ルージュの喉からは何一つ音が生まれなかった。
窒息しそうなほど喉に息を詰めたせいで、頭がじんと痺れたように疼き出す。身体を折り曲げて咳き込みながら、ふとルージュは、遠い夕焼けの景色を思い出した。
『アタシは、音楽のために生きているんです』
記憶の中のルージュ自身が、誇らしげな表情で言って笑う。あれは、どういう文脈で発した言葉だったか――もう思い出せないけれど、その言葉は間違いなくルージュの本心であり、揺らぐことのない信念でもあった。
じゃあ……声の出なくなった、自分は。
生きている理由を、何に求めたら。
恐ろしいことに気がついてしまった――と思った。月の浮かばない夜よりもっと暗い、宇宙空間を思わせる黒のなかで、ルージュはひとつ瞬きをする。歌声で何かを表現するどころか、空気を震わせて音を作ることすら叶わない、今のルージュに、
ルージュ、と遠くで呼んでいる気がした。
よく知っているはずの、馴染み深い声。
なのに今は、まるで別の世界から聞こえてくるように、異物感しか感じられなかった。違う、実際のところ、既にルージュはもう、コラル・ルミエールの人々と同じ世界にはいないのかもしれない。唱歌団は歌うための場所だ。音楽を創出する才能を失ったのなら、もう、迎え入れてくれる余白はないだろう。
ルージュはふらりと立ち上がった。
周囲の様子はまるきり見えないけれど、多分ここから数歩も踏み出せば、暗い穴に落ちていける。
重力は、逆らうより従う方が簡単だ。光を生み出すより、さえぎって闇を作る方が簡単。這いつくばって明日を生きるより、ここで一歩足を滑らせてしまったほうが、もしかしたら楽になれるのでは――普段なら耳を傾けることもない、そんな甘ったるい誘惑が、疲労しきった脳に、針のように刺さった。
暗闇が手招きして、ルージュを呼んでいる気がした。
見えない糸に導かれるように、なかば無意識で片足を持ち上げた――そのとき。
「いた、ルージュ!」
ばん、と背後で大きな音がした。
同時に、視界の中央で光が弾けて、瓦礫や崩れた壁や、ルージュ自身の形状をくっきりと描く。真っ白にハレーションを起こした視界の中央で、輪郭のぼやけた人影が大股に歩いてきて、こちらに手を伸ばした。
「――だから!」
がっ、と遠慮のない力で肩をつかまれる。
「声を上げろ、と言ったでしょう!」
叩きつけるような声の圧が、ルージュを真正面から圧倒する。今にも吹き飛ばされそうになりながら、ルージュは力なくアックスの顔を見上げた。
彼は何をしに来たんだろう?
わざわざ助けに?
そうか、この人はまだ知らないのだった――ルージュが、声の出し方を忘れてしまったことを。言わなければ。守るべき音楽家としての価値が、もうルージュにはないことを。もう、コラル・ルミエールにはいられないことを――
「――ぃ――ぁ、ぅ」
「違う?」
アックスが顔をしかめて問いかえす。
「何が」
『声が――』
もう、出ないの。
一音一音、唇を必死に動かして、子音の勢いだけで告げる。音節をひとつ口にするたび、アックスの表情が強ばっていくのが分かった。下から照らされて白くなった喉元が、痙攣するように動く。
「それは……」
彼が、無表情で上半身を引いた。
そこから数秒の間、奇妙な沈黙があった。アックスはやけに頻繁な瞬きをしたり、視線を横に流したりした。なにか考えている様子だった。ルージュは緊張感に耐えられなくなって、ぎゅっと目を閉じる。まぶたの裏の暗闇を見つめると、そこにアックスが浮かび上がって、冷え切った氷のような目でルージュを見つめ返した。
『声が出せないなら、もう君のことを、守るべき音楽家だとは思えない』
頭の中で想像しただけなのに、心臓が刺されるように痛んだ。爪が食い込むほど強く、拳を握りしめる。アックスが本当にそう言ってきたら、本当に――このまま後ろに倒れ込んで、地の底まで落ちてしまおうと、ルージュは覚悟した。
「……そうか」
奇妙に平坦な声が、そう呟いた。
肩を掴んでいた手のひらから力が抜ける。
「ごめん」
想像よりはずっと柔らかい声が、そう言って謝った。ルージュがおそるおそる目を開けると、どこか気まずそうな表情がこちらを見下ろしている。
「声が出せないのに、さっきみたいに叱りつけたのは悪かった。いつから?」
『いつから――って』
ルージュが呆気に取られて聞き返すと「だから」ともどかしそうにアックスが眉をひそめる。
「声が出なくなったのは、いつの話。昨日の夜は普通に話していたでしょう」
「――ぇ、ぁ」
「ごめん、分からなかった。もう一度」
『……今朝から』
「そうか。何かの病気か――いや、環境が変わったストレスかな……ここで考えても仕方がないか。安全な場所まで避難できたら、打つ手を考えよう」
そう勝手に結論づけて、彼はルージュの腕を掴んで引いた。ルージュがその場で動けないでいると、怪訝そうに振り返って「どうしたの」と眉を寄せる。
「いつまで、そんな危ない場所に立っているつもり? 早く、みんなのところに戻らないと」
「……ぇ、も」
靴の中で、爪先をぐっと握りしめる。
みんな――というのは、当然ながらコラル・ルミエールの仲間たちのことだ。コラル・ルミエールとは歌声を合わせるための場所だ。アックスはルージュの喉が治ると信じて疑っていないように見えるけれど、将来ふたたび声の出し方を思い出せるのか、それは分からない。現状、歌い手として不完全な自分が、それでも彼らの輪の中に戻るなら――せめて同期のアックスには、最後に縋るための言葉を言ってほしかった。
意を決して、ルージュは顔を上げる。
「ぁ――ぅ、ぉ……」
『アックス、もしも』
「ぁ――……っ、ぉ――あっ……ぇ」
『アタシが二度と歌えなくなって』
「ぉぁ――ぅ――を、ぁ……ぇう……ぁ」
『コラル・ルミエールを辞めるって言ったら』
「ぉえ――ぁ、っ……ぅ――、っ……」
『それでも助けに来てくれた?』
途中から涙がぼろぼろとこぼれて、ただでさえ覚束ない発声が掠れていき、最後にはほとんど消えてしまった。握った手の甲で頬を拭いながら、それでも視線だけは揺らがせないように保っていると、アックスが真剣な表情で頷いた。
「当たり前でしょう」
『……そうなの?』
「そうなのって――なんだか僕は、ルージュに、血の通わない人間だとでも思われているのかな」
彼は溜息まじりに呟いて、それから「あのね」と視線をこちらに向けた。
「歌声は、たしかに君の価値だった。技術は失われてないにしても、君の声が変わったのは、率直に言えば今だって残念だし、そういう意味で僕は“
『じゃあ――』
「でも、君の価値が目減りしたとして、非常時に、仲間を見捨てるわけがない」
あまりにも当然のように、アックスはそう言い切った。一切ごまかすところがなく、深読みの余地もないシンプルな言葉が、ルージュの頭にまっすぐ飛び込んでくる。
「それだけのことでしょう」
――それだけのこと。
鈍器で殴られたように、頭の中央がぐらぐらと揺れていた。ペンライトの強い光に目を灼かれて、さっきまで暗闇の中で何を考えていたのか、自分が何に絶望していたのか、それが曖昧に滲んでゆく。
仲間を見捨てるわけがない。
いかにも常識的な答えだった。そうか、それで良かったのか――とルージュが納得しかけたとき、あ、とアックスが声を上げた。
掴んだ腕をぐっと引かれる。
それはルージュの体重ごと持って行く力強さで、おかしな方向に引っ張られた肩の関節が、軋むように痛んだ。バランスを崩したルージュの視界を、灰色の砂埃が飲み込んで埋め尽くす。
足下が崩れた。
二人の身体は、轟音のひびく暗闇へ、あっという間に吸い込まれた。