chapitre113. 暗く冷たい道
文字数 8,465文字
――新都ラピス
山並みの向こうに太陽が落ち、にわかに気温が下がり始めた。普段なら作業を切り上げる時間帯だが、今日ばかりはそうも言っていられなかった。雪のちらつき始めたスーチェン市街に、マフラーを巻きながら飛び出すと、後ろから声をかけられた。
「待って、端末忘れてる」
「あ、ごめんなさい!」
MDPスーチェン支部に在住している臨時構成員、リヤンは足首を捻りそうになりながら身体を反転させて室内に戻る。
白い息を吐きながら走り、数分ほどで騒々しい広場に辿りつく。周囲を見回すと、友人のフルルと目が合い、リヤンは安堵の息を吐いた。フルルの他にも何人かの構成員が広場で待っていて、どうだった、と開口一番に問われる。
リヤンは頭上でマルを作って見せた。
「地下への誘導、オッケーです!」
「良し、来た」
「経路は?」
「えっと、地図を描いてもらいました」
預かってきた紙を広げて、四方からのぞき込む。スーチェンの地図に赤ペンで書き込まれた経路を見て、フルルが渋い顔をした。
「少し、遠いですね。一時間弱はかかりそうです」
「言葉もろくに通じない連中相手に、一時間か……」
ひとりの構成員が溜息交じりに言って、人々の密集した広場をちらりと見る。リヤンも彼の視線を追いかけた。
今日の朝、遷移性の
“
広場から聞こえてくる、耳を苛む喧噪にリヤンが顔をしかめると「あの」とそれまで黙っていた少年が声を上げた。
「こっちの入り口の方が、近いんじゃないでしょうか」
そう言って彼は地図の一点を指し示す。
「……確かに、そうだけど」
リヤンは呟く。
何とも言いがたい沈黙が広がった。近場の入り口ではなく、わざわざ遠回りの経路を指示されている理由が、誰の目にも明らかだったからだ。
「レゾンの言うとおりです。でも……ハイデラバードを通るのはやっぱり危険だと思います」
フルルの言葉に、リヤンも頷く。
ラピス七都のひとつ、ハイデラバードには七都で唯一MDP支部がない。水晶信仰を軸にした強い排他的性質で知られる街で、ここ2年間の非常事態にあってその気質は緩むどころか強化され、他者の干渉を拒みつづけていた。
意見した少年、レゾンは負けずに視線を持ち上げた。
「街境を少し掠めるだけです」
「向こうから見れば侵略だ。何をしてくるか分かったものじゃない」
「そうだ。これだけの人数を抱えて無茶ができるものか」
構成員たちが一斉に指摘する。言葉にこそ出さないもののリヤンも同意見だった。大人たちに厳しい調子で反論されて、レゾンはぐっと唇を噛んだものの、強い口調で「ですが」と切り返した。
「何があるか分からないのは、地下だって同じです。それに数万人を率いて一時間も移動をするのだって、無茶には変わりありません」
「そうかもしれないが――」
結局、どちらのリスクを取るかという問題に帰着する。レゾンの肩を持つ者も現れ、場が拮抗してしまって、結論が出せない状態になってしまった。
「……あの」
静まりかえった湖面に石を投げるような気分で、リヤンは緊張しつつも口を開く。
「ハイデラバードにも、きっと……いっぱい、人が来てます。もともと私たちの世界にいた人たちは、確かに攻撃的かもしれませんけど、他の人は分からないですよね」
「そうですよ!」
レゾンがぱっと顔を上げた。
「それに、ハイデラバードだってきっと混乱してますよ。その様子を見るのだって、俺たちの役目じゃないですか」
「まあ、一理あるが……」
それから数分間、消極的な意見交換が行われたが、陽が落ちてどんどん暗くなっていくために時間の猶予はなかった。最終的にはハイデラバードを通過し、より近い入り口を目指す方針が採択された。
地下から転送された言語ライブラリを利用して、七種類の言語で広場に呼びかける。スピーカーから流れ出す合成音声を、疲労でぼんやりした頭で聞いていると、横から声をかけられた。
「あの――さっきは、ありがとうございます」
「あ、レゾン君」
リヤンよりひとつ年下の少年が、申し訳なさそうな表情で見ていた。彼は、以前にスーチェンに立ち寄ったときに知り合ったMDP構成員で、スーチェン支部では最年少だった。しかし年下ではあるものの頭の回転が速く、それでいて謙虚な性格をしている。頭を下げたレゾンに、慌ててリヤンは首を振って見せた。
「ううん。あたしはただ、同意しただけだし……」
「でも、リヤンさんが意見を言ってくれなかったら、俺、引き下がってました」
屈託なくレゾンが笑うので、何だか謙遜するのも申し訳なく思えて「そっか」とリヤンは笑った。
「役に立てたなら、良かったかな。あたし――」
レゾン君やフルルみたいに、賢くないから。
喉元まで出かけた言葉を、リヤンは飲み込んだ。そんなことを言えば、きっと彼は否定してくれるけれど、統一機関で研修生として教育を受けていた彼らに比べれば、自分は教養の点でどうしても劣っている。おそらくそれは事実だし、口に出したところでレゾンに気を遣わせるだけだ。
だからリヤンは白い息を吐き出して「何でもない」と笑った。
自分よりずっと頭が良い人が、このラピスには沢山いる。故郷のバレンシアを出る前には想像すらできなかったことだった。広い世界を歩いて、本当なら出会えなかった多くの人と知り合って――それは間違いなく嬉しいことだった。
だけど同時に思い知った。
自分にできることは限られていて、誰かの役に立ちたいと願っても、能力が伴わなければ意味がないことを。
人手は常に足りないから、どんな人間だっていないよりは良い。そう自分に言い聞かせて、せめて優秀な人たちの足を引っ張らないように、とリヤンはいつも緊張していた。話し合いで意見を出すという、おそらく彼らからすれば当たり前の行為だって、リヤンにとっては一大事だった。
まだ高鳴っている胸元で、リヤンはぎゅっと手を握りしめた。
故郷の宿舎にいた頃は、こんなことを考えずに済んだ。リヤンが何を言っても、仲間たちは笑って受け入れてくれた。時々は叱られることもあったけれど、一時的に落ち込みこそしても、深刻に悩んだことはなかった。
別に宿舎の仲間たちが凡庸だったわけではない。今から思えば、リヤンが彼らよりずっと年下だったのが悩まずに済んだ理由だろう。リヤンより4年も長く生きている彼らが、見識が広くて経験豊富なのは当然で、そこに疑う余地などなかった。ただ彼らを尊敬し、慕っていればそれで良かったのだ。
だから、レゾンのように年下で、なおかつ自分よりずっと賢い人間に出会ったのは、ある意味で大事件だった。身長は頭半分くらい高いけれど、まだ幼さの残るレゾンの横顔を、リヤンはそっと盗み見る。
心の中でもやもや揺れる、暗闇。
リヤンは彼から視線を逸らして、外套の裾を握りしめる。ブーツの甲に雪が薄く積もっていく様子をじっと見つめていると、リヤン、と袖を引かれた。ランタンの暖かい光のなかで、同い年の友人、フルルが不思議そうにこちらを見ている。
「もう出発するよ、リヤン」
「あ……ごめんね。ちょっと、ぼーっとしてた」
慌てて荷物を背負い直す。見ると、広場に集まっていた群衆はすでに流れ始めていて、先ほどまで隣にいたはずのレゾンもその先導に加わっていた。慌てて先頭に向かおうとすると、フルルに引き止められる。
「私たちは、最後尾を行くから」
「あ、そっか、そうだった」
人々を地下に誘導するに当たっての配置は、事前に決められていた。何度も確認したはずなのに、頭から抜け落ちていた。
それにしても、先を切り開く先頭ではなくて、最後尾を付いていくだけの役目なんて、自分は役に立たないのだと遠回しに言われているように思えてしまう。思わず溜息をつくと、フルルが心配そうな顔でこちらをのぞき込む。
「平気? もし疲れてたら、支部に戻っても良いよ。伝えておくから」
「ううん、全然、大丈夫」
首を振って笑ってみせる。
藍色だった空は次第に黒に近づいていき、街灯の乏しい灯りでは照らしきれないほどの闇が満ちる。退屈になるほど緩慢な動きで流れていく、人々の移動をじっと見守った。広場の出口を見ると、順調に人が流れているように見えるのに、広場にいる人はなかなか減らない。健康で足の速い人間ほど先に行き、子供や老人が後に残るから、最後尾に近づくほど移動がゆっくりになる。
息を吐いて粉雪を吹き飛ばしたとき、広場の隅で揉めている集団が目に入った。話している言葉は分からないが、声の調子からして困っている様子が感じ取れる。
「フルル――あれって」
隣に立っている彼女の袖を引き、その方向を指で示す。暗闇に目を凝らしたフルルが、ああ、と声を零す。
「ちょっと見てくるよ」
「え……」
「これ、持ってて」
片手に提げていたランタンを持たせて、フルルはあっという間に石段を駆け下りていった。置き去りにされたリヤンは、彼女が
数分間ほどフルルが彼らと話すと、聞こえてくる声の調子が変わった。お礼を言っているらしい、ほっとした声にフルルが笑顔で応えてみせる。彼らが広場の出口に向かって歩き出すのを見送って、彼女は再び広場を横切り、こちらに戻ってきた。
「機械翻訳が上手く行ってなかったみたい」
リヤンに預けていたランタンを受け取って、フルルは肩を竦めて見せた。
「本当にお前たちを信用して良いのか、とか言われちゃった。だけど、まあ……妥協してくれたから、良かったよ」
「そっか……フルル、凄いなぁ」
「なにが」
「だって、言葉が通じない人とあんなに、すぐに話せて」
「それは
彼女は不思議そうに目を細めた。
「地下から転送して貰ったライブラリで翻訳できるんだってば。マダム・アルシュから連絡があったでしょ」
「……うん」
リヤンは曖昧に頷く。
そうだけど、そうじゃないのだ。いくら翻訳機能が使えると言ったって、彼らは
でも凄いと思う、と協調すると、フルルは不思議そうに首を傾げながらも微笑んだ。
「素直に喜んでおくよ。リヤンはお世辞とか言わなそうだもんね」
さあ行くよ、とフルルが歩き出したので、地図に目を凝らしながら後を追いかける。鉛筆で書き込み直した経路は、大人たちが警告したとおり、一部だがハイデラバードを通過する。通り抜けるのは人が普段から住んでいるとは思えない森の中だが、いざ街境に近づくと、嫌でも心臓の音が大きくなった。手袋のなかの手のひらが汗ばんでいるのを感じる。
思わず息を潜めると、横を歩いているフルルが苦笑した。
「こんなに賑やかなご一行なんだからさ、リヤンひとりが黙っても変わんないって」
「それ、何の慰めにもなってないよぉ……」
声が思わず震えてしまう。普段なら気にもしないような低木の影や崩れた崖の上に、誰かがこちらを伺っている気がして、リヤンは身体を小さく丸めた。
「あれ……」
落ち着きなく見回した視界のはしに、ふと異質な輪郭が映り込んだ。木の枝や葉っぱとは明らかに違う、人工的な直線が組み合わさった形状。つい気になって立ち止まり、ランタンの光を手で遮って、広がる暗闇に目を凝らした。
夜空を四角く切り取った、それは。
どうしたの、とフルルが振り返って、立ち止まったリヤンを怪訝な顔で見る。彼女に駆け寄り、耳を寄せるようにジェスチャで示して、リヤンは声を落とした。
「壁がある――ほら、あそこ」
「あれは樹じゃないの」
「違うよ、その右側。枝の間」
「あ……本当だ」
眉間に深くしわを刻んでいたフルルが、はっと気がついたように目を見開いた。やはり見間違いではないのだ。小高い丘を越えた先、ハイデラバードの中心部と思わしき方角に、夜空を切り取るほど高い壁がそびえている。
「この辺り、近寄らないから知らなかった。何だろうね、あれ」
「入るなってことなのかなぁ」
「どうだろう……あ、まずい。急がないと」
立ち話をしているうちに、いつの間にか最後尾から離れており、2人は小走りで集団を追いかけた。地図の上での街境を緊張しながら乗り越えたが、そこには古びた木製の看板があっただけで、意識していなければ見逃してしまうほど実にあっさりとしたものだった。
ほら大丈夫でしょ、とフルルが励ますように笑ってくれる。
「私たちは最後尾なんだから。みんなが大丈夫ってことは、私たちも大丈夫だよ」
「……そうかも、しれないけど」
それでも恐怖心は拭いきれず、リヤンは緩んだマフラーをきつく巻き直した。それに、前を行く人が無事だから自分も平気だなんて、何だか彼らを露払いに利用しているみたいで、あまり良い気持ちではない。
再び街境を乗り越えてスーチェンに戻ったときは、心の底からほっとした。
しばらく歩いて、天然の洞窟に入る。そこから地下に繋がっているようだ。傾斜のあるゴツゴツとした地面が続き、歩くのに不自由する者には手を貸しながら、ゆっくりと下に降りていく。腰ほどの高さがある段差を、子供の手を取って滑り降りながら、そうか、とリヤンは呟いた。
「だから最後尾にも、人が要るんだ……」
先を切り開くだけではなく、遅れていく人を支えることも必要なのだ。そういう役割で自分とフルルは最後尾に配置されたのだと、今さらながらに理解する。
役立たずだと言われたわけじゃない。
必要があってここにいるのだ。
そう思うと少し心が明るくなって、思わずリヤンは頬を緩める。洞窟を奥に進めば進むほど、空気は冷たく湿ってきたが、あまり気にならなくなった。
だが。
リヤンの気分が上向きになったのとは対照的に、フルルの顔はどんどん暗くなっていった。不安定に揺れるランタンの光を見かねて、リヤンは彼女からランタンを受け取った。
ごめんね、と乾いた声で謝られる。
暗い中でも見えるよう、はっきりとリヤンは首を振って見せた。もともとフルルは地下に向かうことを誰よりも嫌がっていた。その原因は、彼女が敬愛するMDP総責任者のアルシュという女性が、暴走した地底の民によって傷つけられたからだ。
彼女自身の声で、広場に溢れかえった人々を地下の居住区域に案内するよう頼まれなければ、絶対にフルルは首を縦に振らなかっただろう。
吐いた息が即座に濁るほどの寒さの中で、フルルは額に汗をかいていた。胸元で強く握りしめた、リヤンよりずっと力の強い握りこぶしが震えている。
「自分でも、変なの、分かってるんだよ」
「アルシュさん、本当に危なかったもん……仕方ないよ。無事だったみたいで、本当に良かったよね」
「……そう、助かって良かったのに、何だか怖いんだ」
強く閉じたまぶたの隙間に、薄く涙が浮かんだ。
「地下のせいで瀕死の怪我を負って、地下の技術で回復したっていうのが。
「フルル――」
「それだけじゃない。地上と地下があれだけ努力して、ようやく乗り越えられそうだった言葉の壁が、端末ひとつで越えられてしまう。管理AIって何――得体の知れないものが牛耳っている場所に、何万人も閉じ込めようとしてるんだ、今」
「……大丈夫だよ」
フルルの手に、リヤンは手袋に包まれた手を重ねた。
「あのね、お肉の塊を切るときってね、本当はすごくおっきい刃物を使うんだよ。あたしの指なんて簡単に切れちゃうような」
こんなの、とリヤンは両手の距離で刃渡りを示してみせる。宿舎の賑やかなキッチンと、石の冷たい床を思い出して、胸がぎゅっと掴まれたように痛くなる。
「怖いよね。あたしは触らせてもらえなかったんだけど……」
「えっと……何の話だっけ?」
「うん、あのね、怖い道具だって、使い方次第なんだって教わったの。今、その道具を使ってるのは、アルシュさんたちだよ。だから、きっと大丈夫」
「道具か」
フルルは蒼白な顔で、暗い洞窟の先を見つめた。
「本当に、ただの道具なのかな」
「……どういう意味?」
リヤンは首を傾げる。
地下の世界を管理している管理AIという存在については、朧気だが理解していた。人間の目では見張りきれない、広い居住区域を監視していて、人間の作ったルールを代わりに執行する存在。人の身体では不可能なことを代行するという意味では、管理AIという大層な名前で呼ばれていても、道具と同じだ。
フルルだって当然、分かっているはずなのに。
「AIは自分で何かを決めたりしない。人間の指示に沿って動くって、アルシュさんが――」
「そうだけど、でも、地下では生活の全部が、自分じゃない誰かの意志で作られる。たとえその向こうにあるのがマダム・アルシュの意志だって――何だか嫌だ。気持ち悪いよ」
掠れ声で呟いてフルルが俯いた。いつになく弱っている友人の姿を見て、慰めなければいけないと義務感めいたものを感じる。
なのに、それ以上に強烈な違和感が身体の中で膨らんで、リヤンは思わず口に出してしまった。
「それは……統一機関の意志でラピスが創られていたのと、なにが違うの」
リヤンが言うと、統一機関出身のフルルは引っ叩かれたような顔をした。その表情を見て、冷たい罪悪感が渦巻く。かつてのラピスを愛していた彼女に投げつけるには、今の言葉はあまりにも残酷で――けれど、一度考えてしまったことは止められずに口から溢れ出していった。
「人間に役割を押し付けて、管理生産していたのと、なにが違うの。あたしたちを
「……待って。今、なんて」
思わず何も考えないままに喋ってしまったリヤンは、はっと息を呑む。呆然としたように目を瞬いたフルルが、震える声で問いかける。
「
「……そうだよ」
言ってしまったことを撤回する訳にもいかず、リヤンは小さく頷いた。フルルが目を見開くのを、妙に冷静な感情で見つめていた。管理されるのは嫌がるくせに、自分たちの管理から外れた存在を見ると、そんな顔をするのだ。
胸の奥が凍りついていく。
「地下は怖くなんてない。昔のラピスの方が、ずっと、恐ろしいことをしてた」
リヤンは荷物を背負い直し、ランタンを片手に立ち上がった。集団の最後尾はもう遠ざかってしまい、走って追いかけなければならなかった。
「フルル――」
岩に呆然と座り込んだままの彼女に呼びかける。
「ここで待ってて良いよ」
「ま、待って。ひとつだけ、話が――」
「後で聞く」
自分でもびっくりするほど冷たい声が出て、頭がじんと痺れるような感覚に襲われた。どうやら、自分はとても怒っているようだ。今、これ以上フルルと一緒にいたら、きっと彼女に酷い言葉を吐いてしまう。フルルが後を追いかけてこないことを祈って、まるで逃げ出すような気持ちで、リヤンは洞窟の奥に向かった。