終章 地を這う者たちの叙事詩
文字数 21,710文字
数回目にして、緩やかに苦言を呈された。
「直接出向いた方が、俺としては話しやすいんだが」
「俺だって正直、貴方を警戒するのも馬鹿馬鹿しいと思ってはいるがな」
「まあ、警戒されるのは慣れているし、貴方がそうしろと言うなら構わないけどねぇ……総権保持者ともあろう人が、ずいぶん慎重に振る舞うもんだ。以前は、地底を生身で歩き回っていたと聞くのに」
「……そうだな」
自分のなかにある非対称性は、サジェス自身も気が付いていた。偶然拾ったティアを手元に置き、地底の民に直接会って話したこともあるというのに、カノンに対してはまだ同じ空間を共有できるほど気を許していない。カノンはティアや地底の民よりずっと素性が明らかな上、味方だと明確に示しているにも関わらず――である。
「俺は、地上の人間をあまり信頼していなくてな」
半分は便宜、半分は本音でサジェスが答えると、カノンは「そうかい」と、例のごとく無感情な相槌を打った。それから何食わぬ声色で、
「それは貴方が、ムシュ・ラムにずいぶん酷くやられたから?」
「……なに」
少し驚いて、サジェスは椅子から腰を浮かせた。
「知っているのか、それを」
「まあね。二年ほど前かな、俺は彼の付き人をやっていたから」
「二年前――」
二年といえば、サジェスが記憶を失った時期と前後する。もしや、という直感があり、サジェスが「貴方が俺の名前を知っていたのはそのためか」と問うと、沈黙が挟まった。回線が断絶されたような数秒ののちに、小さく息を吸う音が聞こえて、
「……そうだよ」
僅かに苦いものを含んだ声が答えた。
「俺は、ムシュ・ラムの指示で、貴方を昏倒させたことがある。自分が手を掛けた相手なら、当然、覚えているだろう」
「なるほど、理屈は分かったが……」
パネルを見上げて脚を組みながら、サジェスは小さく笑った。
「それを素直に言うとは、貴方は律儀だな」
「隠しておくつもりだったけどね。今なら、多少、過去の因縁を持ち出しても追い出されないくらいには、俺の利用価値を認めてくれたかなと思ったから」
「たしかに貴方がいることで助けられているが、利用価値が無かったとしても、追い出しはしない。もちろん貴方が地底に危険を及ぼす場合は追放するが。貴方は当時、ムシュ・ラムに言われて動いただけなのだから、そこに罪はないだろう」
「人間、なかなかそう切り分けては考えられないもんだと思うけどね」
ふ、という忍び笑いのような息が挟まって、
「まあ……そのムシュ・ラムは、もう居ないよ」
「……居ない?」
言われた意味が分からず、カノンの言葉をそのままサジェスが反復すると、そうだ、と答えが返ってきた。
「市外に追放された。今頃はグラス・ノワールにいるんじゃないか」
「グラス・ノワールに?」
サジェスは眉間を狭くした。グラス・ノワールといえば、要塞都市スーチェンにある牢獄である。
「彼が何か罪を問われたのか」
「ああ、研修生を殺した罪をね。……ソレイユ・バレンシアという名の」
「……は」
その名前を聞いて、サジェスは息を止めた。
息だけではなく、全身の血液がそこで動きを止めたような感覚があった。凍りついて思考を止めた脳裏に、太陽の名を冠するに相応しい眼差しが、断片的に思い描かれる。麻痺したように動かない唇から、サジェスはただでさえ掠れている声を覚束なく紡いた。
「今……何と」
「だから、ソレイユ・バレンシアという研修生を殺した罪を――」
「すこし待ってくれ」
頭の芯が熱くなるのを感じながら、サジェスは矢継ぎ早に問いかけた。
「彼が死んだのか? ムシュ・ラムが殺したのか?」
「なに……彼を知ってるのかい」
「知っているどころじゃない。恩人だ」
思わず、椅子を蹴ってサジェスは立ち上がった。
後ろに倒れた椅子が床にぶつかり、けたたましい音を立てる。コアルームの反対側で仕事をしていたティアが、驚いたように駆け寄ってくる。少年を顧みている余裕すらなく、サジェスはヘッドセットのマイクを直に掴んで問いかけた。
「俺だけじゃない。ティアの恩人でもある。彼が亡くなった、と言ったか。貴方は、今――」
「落ち着いてくれ」
ため息らしい、ざらついたノイズが回線を流れてくる。
「まったく、顔の広い奴はこれだから困るね。良いから最後まで聞いてくれ」
「最後まで聞いたら何だと言うんだ」
「だから、話すから、聞け。あんたらしくもない」
ひと言ひと言を判で押すように言われ、サジェスは渋りつつ倒れた椅子を立て直して、そこに腰を下ろした。ひとつ長い息を吐いてから、回線の向こうにいるカノンを睨む。
「……続きを話してくれ」
「言われずとも。いったん死んだと思わせれば、葬送が出せるだろう。とにかく葬送の舟を出す必要があったんだ。……ラ・ロシェルから逃がしたい人がいてね。だからソレイユ・バレンシアは死んだように装い、俺は、ムシュ・ラムが彼を殺したように装った。真実死なせたわけじゃない」
「死んだように装っただと。そんな真似ができるわけが――」
訝しく呟いてから、あ、とサジェスは膝を打った。
「まさか。マダム・エリザと同じ措置をしたのか」
「ご明察」
賞賛のつもりか、手を叩く音がかすかに聞こえた。
「流石に貴方は理解が早い。まあ正確には、彼女のための技術が構築される過程で生み出された副産物があり、そいつを拝借した、ってところだね」
「理屈は理解したが……ムシュ・ラムは当然、生命凍結の技術を知っていたんだろう。よく絡繰りに気が付かなかったものだな」
「まったくだ」
彼は肩をすくめる。
「人間、追い詰められると、案外簡単な解も見つけられないものらしい」
どこかサジェスを揶揄しているようにも聞こえるこの言葉には、サジェスは鼻から息を吐き出しただけで答えなかった。代わりにマイクの集音機能を切り、心配げにこちらを伺っていたティアに「大丈夫だ」と微笑んで見せてから、ため息交じりに切り出した。
「……貴方と話すと話題が逸れて仕方がない」
「前も誰かにそんなことを言われたねぇ。今はどっちかというと貴方が話を逸らしたが」
「それで、本題だ。人々の様子はどうなっている」
カノンが言った言葉の後半は無視して尋ねると、一段低くなった声が「そうだねぇ」と応じた。どこか浮ついていたカノンの声から冗談めいたノイズが抜け、明瞭な説明口調に作り替えられる。
「貴方は先日から、マダム・エリザがラピスの現状を憂えている、という趣旨の話を流布しているだろう」
「そうだな」
サジェスは頷く。
ハイバネイト・シティ最下層で眠っているエリザは過去から来た人間で、未来を見通す目を持っている。ここまでは真実だ。サジェスはこれに「旧時代から来た彼女は、地底の民が一方的に搾取される未来を悲しんでいる」という要素を付け足して、地底の民に話したのだ。眠っている彼女が言葉を発する訳がないので、言わずもがなサジェスの嘘だが、的外れという程ではないだろう、とも思う。
「たしかに、話したが。いけなかったか?」
「いや……俺も、ムシュ・ラムを欺いて牢獄に叩き込んだ身で、嘘は良くない、だなんて宣うつもりはなくてね。使いどころは考えないといけないが、目的次第では大いに結構だと思う。ただ――総代さん」
そこでカノンは少し声をひそめた。ハイバネイト・シティにおける各処理プロセスの代理執行者、という意味合いを込めてか、彼はサジェスのことを総代と呼ぶ。
「今回の嘘は、ひょっとしたら――少し、まずかったかもしれない」
「どういう意味だ」
「何というのか……」
言葉を選ぶような沈黙を挟んだのち、カノンは集音限界すれすれの小声で言った。
「嘘が、
「自発的に? それは――」
「――悪い、誰かが来た。いったん切る」
ぶつん、と断ち切った音。
聞こえるものはホワイトノイズのみになり、サジェスは静かに息を吐いてヘッドセットを外した。地底の民と近い領域で生活しているカノンは、彼らの目を盗んでコアルームと通信しているため、こうして突然話が途切れることが多かった。頃合いを見てまた声を掛けねば、と思いつつ、カノンが最後に言っていたことが気に掛かった。
「自発的な成長……か」
つまり、既存の理論に新たな解釈が付け加えられ、理論が複雑さを増していくことだ。それ自体はあながち悪いことではないだろう、とサジェスは思う。与えられたものをそのままの意味で咀嚼するだけでは発展性がないから、理論が自発的に成長したのなら、それは褒められるべきことだ。
だが――「嘘」が自発的に成長したと言われると、違和感がある。
嘘には実体がない。
言い換えれば秩序がない。自然現象は物理法則に縛られているが、空想の上では夜空に虹が架かり、太陽と満月が同時に空に浮かぶ。すなわち、現実を鑑みれば明らかに実現不可能な事象だろうと、嘘のなかでは現実になる。そして――無秩序な嘘を前提として立脚してしまった理論は、何が真で何が偽であるかの基準を失う。
自然科学における推論は、宇宙の真理に漸近するように成長するだろう。道を見失ったとしても、次第に現実との乖離が露わになり、軌道修正が行われる。それはやはり、理論が現実を後ろ盾にしているからで、現実が理論を制約するからこそ、間違った発想は淘汰され、あるいは是正されて、おのずと真実に近づくのだ。
では嘘は、何を目指して育つのか。
決して遠くない未来、サジェスはその答えを知ることになる。
***
ガシャン、と硬い金属音を耳に捕らえて、リジェラは背筋を強ばらせた。
影に身体を忍ばせつつ、リジェラはこっそりと音の方角を伺う。見ると、空き倉庫に十人ほどが集まって、黒い金属の塊を興味深げに取り回していた。あれが銃と呼ばれる武器で、目にも止まらぬ速度で金属弾を射出できることは、リジェラも知っていた。
「どこで見つけてきたのかしら」
隣でヴィルダが苦々しく言い、ほら、と言ってリジェラの背を押した。
「ここにいたらあいつらに目を付けられる。試し撃ちの的にされたくなかったら、あっちに行きましょう。ほら……プルーネも」
「で、でもっ」
涙目で蹲っていたプルーネが、青ざめた顔を仰向ける。
「グラインが、あっちに……」
彼の名を聞いた瞬間、リジェラは胸が刺すように痛むのを感じた。銃を眺めて歓声を上げているなかには、リジェラの知人だったはずの彼、グラインもいた。ヴィルダも集団のほうを一瞥してから、目元を顰めて首を振った。
「……泣いたって、もう、帰ってこないわよ。あいつは」
吐き捨てるように言って、ヴィルダはグラインたちに背を向ける。冷え切った彼女の雰囲気と対比して、グラインを含む集団は異様な熱気を放っており、温度差がまるで見えない壁のようだ。
「でもっ……」
ぽろぽろ泣きながらプルーネが言う。
「帰ってきて、って、グラインに言おうよ。おかしいよ、あんなの。あんな危ないものを振り回して、楽しそうに笑ってるなんて、どうかしてるよ……」
「そうよ、あいつはどうかしちゃったの」
どこか清々しさすら感じる諦めた声色で、ヴィルダが吐き捨てた。
「あんたには止めらんないし、私にだって無理。どこかで死ぬか、それか『チジョウ』の人をぜんぶ殺すまで、あいつは変わらない。もう……私たちの知ってたグラインとは、別の人間に変わったと思った方が良い」
「そんなぁ……」
泣いているプルーネの肩に腕を回しながら、リジェラは天井を見上げた。金属板が隙間なく張り合わされた向こうには、こことはまったく違う世界があり、そこは「チジョウ」と呼ばれていて、眩しい光に満ちているらしい。リジェラたちが時に危険を冒して行っていた作業は、チジョウに住む人たちの豊かな生活に供されていたそうだ。
だからグラインたちは、彼らを恨んでいる。
ある者は、チジョウの人間が居なくなれば平穏が訪れると言い、またある者は、チジョウの人間は厄災を呼ぶ元凶であると言う。どうかすれば、彼らの仲間が熱を出して倒れたことまでチジョウの責任にする。チジョウの人間は、リジェラたちの何もかもを吸い取って自分の蓄えにしているのだ、と言う。
その考えも、間違いとまでは言えないのだろうけど。
「本当はどんな顔をしてるかなんて、会ってみなきゃ分からないのに……」
リジェラは見えない天を仰いで、その向こうにあるという世界に思いを馳せる。見たこともない相手だが、同じ人間には違いない。そして、金色の瞳と褐色の肌を持つ彼は、かつて彼らの仲間だったという。彼の同属であるはずの人たちに、酷薄な略奪者という人物像を当てはめることが、リジェラにはどうしても出来ないのだった。
***
山中を
まだ春とは呼べない冬の終わり、彼女はマフラーを二重に巻いて、伝報局の扉を開けた。とたんに押し寄せる寒気に目を細めながら、たくさんの書類を収めた鞄を大事に抱える。万一にも、この鞄を冬風に攫わせる訳にはいかない。身体の芯まで凍らせる冷気に耐えて、深い雪に革のブーツを突き立てると、背後から声を掛けられた。
「あ――笛、持ったかい」
「ええ」
彼女は振り返り、小さく笑ってみせる。
「外套の内側ですけど。ちゃんと、ここに」
「そう。じゃあ、今日も頼むね。最近はあんたが手伝ってくれて、本当に助かる」
「いえ……そんな」
初老の伝報局員が、優しげに目尻を下げる。褒められたことに緊張して、彼女は慌ただしく頭を下げ、バレンシアの伝報局を後にした。雪の覆う山道を滑らないように下りていき、木立が途切れたところで立ち止まった。視界を覆うものがなく、そこは見晴らしの良いバルコニーのようになっている。滑落しないよう木の枝を掴んで、彼女は慎重に崖まで近づき、外套の内側から笛を取り出して、隙間に強く息を吹き込んだ。
芥子粒のようなシルエットが、遠い青空に浮かび上がる。
眼前の光景と、いつか塔の上で見た景色が、彼女の脳裏で重なった。稜線の向こうにいるであろう友人のことを思い出しながら、彼女は笛を外套のなかに戻し、山間を横切った鳥たちが飛来するのを待った。
***
ラ・ロシェルの街を朝焼けが染める。
統一機関の北側は巨大な影になっており、未だ夜の凍てつきを残している。冷たい空気が肌に触れると、細かい針が刺しているようにちりちりと痛んだ。アルシュは身体を震わせながら積雪の上を歩き、彼女の背丈ほどの高さがある木箱の隣までやってきて立ち止まった。口元を覆うマフラーを引き下げて、金属の笛に強く息を吹きこむ。
そして、祈るような思いで空を仰いだ。
すると、彼女の祈りに天が答えたかのように、まだ色浅い黎明の空に、針で突いたような点が浮かんだ。待ち焦がれたシルエットを見つけて、アルシュはぎゅっと両唇を横に引く。天を究めた伝令鳥は螺旋の軌道をゆっくりと舞い降りて、急拵えの鳥舎までやってきた。
角材を掴み、伝令鳥が静止する。
薄いピンク色の脚に、細く折られた紙が巻き付けられている。アルシュは鳥を驚かさないよう慎重に紙を取り外した。寒さと緊張で、指がうまく動かない。何回か紙を破きそうになりながら、几帳面に折られた紙面を開く。
紙面を見て、最初に目に入ったのは、藍色の印影。
端が丸められた四角は、バレンシアの公印だ。印影は紙の左上に
簡素ながら切実な文体に、アルシュは息を詰めて目を通す。
――従って冬越しは過酷であり、とくに燃料の不足は深刻です。平年であれば家具、農具などに加工される木材さえ燃やさねば、市民を凍死から救うことができません。伐採できる樹の数にも限りがあり、他都市に余剰があれば、どうか恵んで頂きたいと考えます。一方でバレンシアは耕種を役目に賜る街であり、他の六都市に比べれば、穀類、干物類、香草などの備蓄に余裕はございます。ですから、もし必要とあれば――
途中まで読んで、アルシュは寒さで強ばった肩をぐるりと回した。
実直そうで好感の持てる文体だな、と思った。
同時に、与えられるばかりの立場に甘んじたくない――というバレンシアの矜恃が透かし彫りのように滲んでいて、それがアルシュの背筋を伸ばさせる。人口は僅かに二千、七都市で最小かつ辺境と言えども、街は街。中枢都市ラ・ロシェルに譲るところなどありません、そう言われているようだった。
ふ、と白い息を吐いて、アルシュは微笑む。
ラ・ロシェルに譲るところなどない――それで良い。そうでこそあって欲しい。たった七つしかない街、たった八万しかいない市民。ただ救われるのを待ち、縋るばかりでは、いずれ舟もろとも沈んでしまうだろう。
「……頼らせてもらいます」
北東を向いて、アルシュは深く頭を下げる。
数秒、礼を捧げたのちに顔を上げ、朝日に染まる稜線を見た。手前の丘のさらに向こう、白を湛えた山嶺のさなかにあるという街を思う。ラ・ロシェルで生まれ育ったアルシュにとっては、未だ書面の上でしか知らない場所だ。だが、紛れもなくそこには街があり、アルシュたちと大差ない人々が生きている――そんな当たり前のことを、藍色の公印を冠した書面が教えてくれた。
手紙を丁寧に畳み、鞄に収めようとして、アルシュはふと紙を見直した。
アルシュたちが鳥に託した通達を受け取り、バレンシアの庁舎と掛け合ってくれたのは、多分向こうの伝報局員なのだろうが、取り次いだ者の名前は記されていない。いったん折った紙を広げて隅々まで確認するが、仲介人に過ぎない彼ないし彼女の名前は、イニシャルの一文字さえ記されていなかった。
少しだけ落胆して、まあ良いか、とアルシュは思い直す。
彼女には、いつか直接会いに行こう。今のラピスでは、それが可能なのだから。
***
数日に一往復のペースでバレンシアと書面をやりとりしながら、アルシュは並行して他の都市へも
すると、予想以上の反響があった。閉鎖的な文化性だと噂されるハイデラバードを除き、残る四都市――スーチェン・フィラデルフィア・ヴォルシスキー、そしてサン・パウロが呼びかけに応え、各々の持つ物資を融通し合おうという話運びになった。これにバレンシアを加えて五都市から引っ切りなしに連絡が舞い込むため、アルシュの日常は一気に多忙になった。
スーチェンから飛来した
時刻は午前五時。夜明けが早くなる初春と言えども、まだ空は真っ暗だ。東の地平だけが僅かに青い。ランタンを提げて統一機関に引き返し、一階のホールで外套を脱いでいると、足音が階段を下りてきた。
「あぁ……おはよう」
階段室から顔を出したフルルに手を振ってみせると、彼女は「早いですね」と驚いたように言った。起床して間もないのだろう、黒髪のひと束が外向きに弧を描いている。寒そうに手を擦りながら、少女はぱたぱたとこちらに駆けてきた。
「おはようございます。いつも、こんなに早いんですか?」
「早いって言うか、寝てないだけ。今日は」
「……寝てない?」
フルルは訝しげに呟いて、それからソファに置かれた手紙に目を遣った。これを指さして、もしや、と問われたので、アルシュは頷く。
「そろそろ届くかなぁって思ってたから。起きといて良かった」
「……鳥舎で待たせておけば良いのに、わざわざ出迎える必要あります?」
「うーん、でも、伝報局からこっちに鳥舎を移して、調教をやり直したでしょ。だから、まだちょっと不安なんだよね、ちゃんと戻ってこれるか。それに、早く手紙を外してやらないと、引っ掛けてボロボロにしちゃいそうだし」
「はぁ。まあ、そうかもしれませんけど……」
フルルは小さく首を傾げて、ホールの片隅に歩み寄る。正面玄関から直通のホールには、秋までは市民も時折立ち入っていたが、当然ながら今はまったく閑散としていた。埃が積もった床の片隅に、物資を詰めた木箱が丁寧に積まれている。バレンシアへの輸送に備え、研修生たちが倉庫から運んできたものだ。
「今日あたり中身を点検したいね。話に聞く感じ、かなり古いのも混ざってるって言うから、虫食いとか心配」
「まあ、そうですね……でも、その前に」
フルルは木箱に凭れて、アルシュをじっと見据えた。
「――マダム・アルシュ。昨晩は寝てないなら、その前はしっかり寝ましたか?」
「え? えっと……」
急に話題が変わった。
「えっと……そう、一昨日の夜はフィラデルフィア宛てに手紙を書いてたから、ちょっと寝たのが遅かったかな。でも三時間くらいは」
「その前は」
「
「……じゃあ、その前は?」
「流石に覚えてないな」
「はぁ……」
フルルは嘆息を靴先に落とした。
「要するに、手紙が四六時中届くうえ、鳥たちの面倒を見ないといけない、返事を書かないといけないから、寝てる暇がないってことですね?」
「あと……備蓄を使うのはエストさんと相談してるから、それもあるかな。夜じゃないと、なかなか時間を空けてもらえなくて」
昼間は職員としての業務に邁進しているエストの名前を挙げると、フルルは「まあ、それは分かりますけど」と頷いた。そして、そのまま眉間に深い谷を刻み、腕を組んで目を閉じてしまう。立ったまま意識を失ったような光景だが、よく聞けば小さく唸っているので、眠ってはいないと分かる。これは何の表現なんだろう、とアルシュが外套を畳みながら眺めていると、少女は薄目を開けて「あの」と切り出した。
「前々から思ってたんですけど。言っても良いですか」
「え……?」
やけに勿体ぶった言い回しに、アルシュは思わず背筋を強ばらせる。ひやりと冷たいものを感じつつも「何かな」と促すと、フルルは小さく頷いた。
そして、ばっさりと言う。
「貴女って、人を集めるのは上手いですけど、働かせるのが下手ですよね」
「――え」
容赦の無い批評に、アルシュは凍りついた。外気と遮断された室内にいるのに、吹雪に包まれた時と同じか、それ以上に寒い。それに気が付いているのかいないのか、少女は四角く開いた唇から淡々と批判を並べていく。
「仕事の割り振り方がすごく雑って言うか、何かあったら自分がやれば良いって思ってるっていうか。全部できるなんて思ってます? 統一機関が今までやっていたことを、貴女ひとりが代替できると思います? 私はそうは思いませんけど。貴女が、統一機関の役割に取って代わろうって言うんなら、もうちょっとまともな方法があるんじゃないですか」
「えっ、……えっと――」
アルシュの胸に、ずしんと重たい感覚が刺さる。
じわりと目元が熱くなって、慌てて目の周りに力を入れる。泣くな、とアルシュは心のなかで自身を叱責した。自分にはこう言うところがある。至らないと断じられたとき、泣きそうになってしまう悪癖が。
アルシュのこの反応は、フルルの言葉に傷ついたという訳ではない。と言うより、このとき彼女は、叱責された事実そのものの重みに屈しかけており、フルルの言葉を真正面から受け止める余裕はなかった。ただ、刺々しい声色や遠慮の無い言葉によって――フルルに言わせれば真摯なだけの口調だったが――ともかくも自分は何かを改めねばならない、という強迫観念に襲われていた。
「ご……ごめん」
霞んで真っ白になった視界で、アルシュは呟く。
「分かった、もっと頑張るから――」
「何も分かってないですっ、あぁ、もう!」
麻痺した頭に、苛立った叫びが鼓膜を破る勢いで突き刺さった。
不意を突かれて、アルシュはひとつ大きく瞬きをする。
するとフルルは、地面を蹴るようにして凭れていた木箱から身体を起こした。そして、つかつかと歩いてきて、勢いに任せ、アルシュの方に手を伸ばす。いつだかアルシュの手首を掴んで壁に押し付けた、少女にしては厚くて硬い手のひらが、今日はアルシュの右手を包みこんで握った。
「頑張れなんて言ってないです、もっと私たちを頼れって言ってんですよ! 貴女が
「……えっ?」
想定と違う反応に、アルシュはまたもや驚く。
外気で冷えた手のひらに、少女の火照ったような体温が優しい。ぐっと掴んだ握力は、ふらついたアルシュを連れ戻す杭のようだった。ようやく思考回路がまともに動き始め、アルシュはフルルの言葉をひとつひとつかみ砕くことができた。
――自分も手伝う、と言ったのか、彼女は。
アルシュは意外な申し出に戸惑いつつ、えぇと、と唸りを口の中で転がしながら、自分を睨んでいる少女を見下ろした。どういうわけかフルルは、吊り上げた眉に怒りを滲ませながら、同時に泣きそうな顔をしている。
「えっと、でも、これは……」
驚きにぱちぱちと瞬きながら、アルシュは言葉を絞り出した。
「他四都市と連絡を取るのは、グラシエさんのこととは別で。ただ、私が自主的にやってることだから、貴女たちを巻き込めないなって――」
「違う、巻き込んで良いんですよ!」
フルルの叫びが、アルシュの言葉を両断した。
「そもそも、そんな狭い目的で貴女に賛同した訳じゃありませんからね、私! マダム・グラシエの一件を解決したら解散なんて思ってませんし、他の研修生だってそうですから!」
「……え、あれ、そういう話だったの?」
「当たり前じゃないですか。バレンシアの一件だけ解決したら全部終わりですか? そうじゃないって分かってるから、貴女だって色んな街と連絡を取ってるんでしょ。ラピスにはまだ、困ってる人や街がいくらでもいるから――」
フルルはそこで言葉を切って、胸もとに握った手を当てた。
「それを何とかしたいのは、私だって同じです」
しばらく、返事をすることを忘れて、アルシュは彼女の言葉を反芻した。
言葉ひとつひとつをまっすぐに発する少女だ。その勢いに
「……たしかに」
アルシュは頷いた。
「最初から、手伝って、って言えば良かった。……手伝ってくれる?」
「……え、やけにあっさりですね」
フルルは気味悪そうに眉をひそめたが、すぐに笑顔になって「勿論です」と頷いた。
こうして二人は、先に立つ者と、これを支える者という関係を拓いた。視線が合い、頷きを交わす。応酬としてはそれだけの、ひどく簡素な契約だったが、元より志を近しくする研修生同士、それ以上の確認は要らなかった。
「さて――」
そしてフルルは、アルシュの背後に回り込んだかと思うと、両肩を掴んでぐっと押した。
「じゃあ、備蓄の検分は私とほかの研修生でやっておきますから。貴女は今からでもきっちり寝てきて下さい。お昼まで起きてこなくて良いですよ」
「え? それは流石に悪いよ――」
「検分は私たちでも出来ます。だけど、エストさんと交渉するのとか、他都市からの手紙を読んで対応を考えるのは、貴女がいないと出来ないでしょう。だから、貴女は休めるときに休まないといけないんですよ。……あの、こういうのって、政治部の基本的なポリシーじゃありません? 貴女の方が分かってると思うんですけど。なんで実践しないんですか」
「うぅん……」
小さく唸って、アルシュは押されるままによろめいた。
人員のコストを適切に分配し、生産を最大化する必要がある。衣食住を満たさないままの活動はいずれ継続困難になるから、長い目で見れば休息が必須。これらはフルルの言うとおり、政治部の根幹をなす思想――というほど大袈裟でもない、ただの常識だ。アルシュの行動が非常識なのだ。だが、何かが引っかかって、正解の行動を取ることを妨げる。胸のどこかに穴が空いていて、そこから正論が流れ落ちてしまう。
敢えて言うなら、何かを恐れているのだ、とアルシュは思った。
眠っている間に時間が過ぎていくことが怖いのだ。意識が途切れる瞬間、何かが失われそうで怖いのだ。目を閉じている間に、何もかも変わってしまいそうだ、という漠然とした恐怖があって、それがアルシュを寝台の温もりから遠ざけている。
こんなに眠りたくないのは、一体どうして――
「ああ……そうか」
問うた瞬間に、すぐ側にある答えに気が付き、ため息を吐く。
そう思ったら、何だか外の景色が見たくなった。黒の一色から徐々に色付き始めている戸外を見遣って、アルシュは少女を振り返る。肩を掴んでいた両手から抜け出して、扉の方角を指さしてみせた。
「私、ちょっと外を歩いてくる」
「あのぉ……話、聞いてました?」
「ぐるっと回るだけ。戻ったら寝るよ」
「はぁ……」
まだ渋っているフルルを置いて、アルシュは脱いだ外套を羽織り直した。両開きの扉を押し開けて、屋外に出る。開けたままの襟元に入る外気は冷たいが、首回りを覆わなくても堪え忍べる気温になった。澄んだ空気には、かすかに土の匂いが溶けている。道端の草むらに、蠢くなにかの気配を感じた。
風が背中を押した。
始まりというものは、いつも騒がしく忙しない。
揺らぎのようなざわめきを耳に聞きながら、アルシュはレンガの道を踏みしめて歩く。まだ照らされる前の世界、光と影とに分かたれる前の景色、黎明のラ・ロシェルを眺めた。土地は川に向けて緩やかに傾き、三角の屋根が規則的に並んでいる。以前に比べれば静まり返った街だが、まだ、灯火がちらほらと揺れている。
あの灯りを絶やすまいとして消えていった人のことを思い出し、アルシュは苦いものを堪えて目を細めた。彼女に無断で譲り受けた笛を握りしめ、ならばせめて、と念じる。
――あの灯りを一つでも多く未来に運ぶことが、きっと私の役割だ。
統一機関にいた頃に与えられていた「役割」とはすこしだけ違うけれど。だけど、ラピスが変わるなら、アルシュだって変わって良いだろう。芯にあるものはずっと同じ、誰かの役に立ちたい思い、それが、世界の変容に合わせて変形しただけだ。
「……うん」
小さな決意を抱いて、アルシュは両手を軽く握った。
それと同時に、頑張りたいなら頑張って休んで下さい、と叱る少女が想像できてしまって、小さく笑った。飾るところのない、分かりやすい性格の彼女だ。けれど、分かりやすいことを真正面から言ってくれるのは、案外、有り難い。彼女が手伝ってくれるなら、そう簡単には
統一機関は傾きつつあるとしても、ここで再始動するものがある。何かが開けていく予感に高揚が湧き上がるのを感じつつ、ふと、アルシュの胸の奥に冷たい風が通った。そう、前途は決して暗くない、けれど――願わくば。
心の片隅で滲む痛みに、アルシュは目を伏せた。
――あなたに聞いてほしかった。
どうしよう、と助けを求めて訊くんじゃなくて。大事になっちゃったけど頑張ってみるよ、という、ただの決意を聞いてほしかった。アルシュなら出来るよ、と励ましてくれたら嬉しいし、本当に大丈夫なの、と心配してくれても良い。出来るわけがないと笑われたのなら、それでも良い――彼はそんなことを言う人ではないけど。
何でも良いから言葉がほしかった。
けれど、彼が紡ぐ言葉に耳を傾けることは、二度と叶わない。だから、心の片隅に空いている穴に、アルシュは一方的に言葉を落としていく。内側の小部屋で眠っている彼の姿が、いつまでも鮮明であるために。彼が失われたことを、彼が生きていたことを、起きてしまったことの全てを、誠実に捉えたままであるために。
街を覆う天蓋を見上げる。
夜明け、瑠璃色の空は、彼の瞳に似ていた。
アルシュは唇だけを動かして、その名前を呟く。息が、ごく薄い霞みになり、北東の方角に流れていった。あの日、彼を乗せた小舟が流れていった、その方角に。彼の名前を追いかけたのは視線だけで、アルシュ自身は静かに佇んでいた。
ともに沈みたいと願ったのは、もう、遠い過去のこと。
かつて大海に抱かれていた小舟は、ひとりの意志ある人間として天を仰ぐ。
***
地底はざわめいている。
日に日に増していく動乱は、春が近づいて地中の虫たちが騒ぎ出し、眠っていた獣たちが目を覚ますさまに似ていた。グラインたちの集団はどこかに姿を消し、また新たな一団が「チジョウ」への戦意を軸にして形成されつつある。また、行動を起こすとまでは言わずとも、姿の見えない略奪者への不満を囁く声は、通路で、休憩室で、溢れていた。
怖い、と言ってプルーネは泣き続けていた。
外を歩くのを怖がってしまい、仮眠房――眠りを取るための小さなスペースから出ようとしないので、リジェラは時折、携行食などを持って彼女を訪ねている。しゃがみ込んで仕切りの布を開け、プルーネ、と声を掛けた。痩せた背中がビクリと跳ね、恐る恐るでこちらを見た視線が、リジェラを捉えてほんの僅か緩む。
「大丈夫?」
「うぅん……」
「ずっと寝てたら腰が痛くならない? すこし、外を歩きましょうよ。私も一緒に行くから」
「……うー……」
長い沈黙ののち、プルーネは「やだ」とごく小声で呟いた。ぎゅっと身体を丸めて、引き攣った袖が顔を隠してしまう。
「あんなグライン、わたし、もう見たくない……」
「プルーネ、グラインはもう居ないわ。どこかに行ってしまったから」
「……じゃあ、尚更、嫌だよ……!」
泣き濡れて真っ赤に腫れた目が、リジェラを睨んだ。
「分かんない。どうしてそんなに平気なの。グラインがいなくなっちゃったんでしょ!? グラインだけじゃない、色んな人が、チジョウが嫌いだって言ってる。リジェラだって、前、怖いって言ってたじゃん……!」
「だって、きっと、悪いことにはならないもの」
硬い床に膝を突き直して、リジェラは笑う。冷え切ったプルーネの手を両手で包み、大丈夫よ、と励ました。
そう、きっと大丈夫なのだ。
たしかにグラインはいなくなり、仲間たちは荒んだ気性を見せつつある。最初はリジェラもその変容が怖かった――だけど。
「ほら……あの人が言ってたでしょう?」
芯の通った声を思い出して、リジェラは言う。
「私たちが救われなければならないのは、
「……ほんとう?」
「うん、本当よ」
本当に
「……そっか」
プルーネはまだ不安げに眉を寄せていたが、ひとまず頷いた。
「今はちょっとだけ不安定なだけ、なんだね――そっか、そう思ってみることにする」
「ええ……じゃあ、すこし、外でも歩きに行く?」
「……それは」
彼女は表情を濁らせ、ブランケットに顔を埋めた。
「それは、無理」
「そう……ううん、良いの。また来るわね」
持ってきた携行食をプルーネの枕元に置き、これ食べてね、と声を掛けてリジェラは立ち上がった。仮眠房のドアノブに手を掛け、ひとつ息を吐いてから捻る。恐れるべきではないと分かっていても、ピリピリとした外気に触れるのは緊張するので、リジェラにとっても外の通路はすこし怖かった。
そうやって神経を尖らせつつ扉を開けたものだから、視界のはしに黒いシルエットが動いたとき、リジェラは跳び上がりそうなほどに驚いた。危うく声を上げそうになり、中途半端に口を開けたまま、おそるおそる影の正体を見遣る。
「……ヴィルダ」
すると、見知った相手だったので、リジェラはほっと息を吐いた。沸騰した体温がゆっくりと冷えていく。壁に凭れて立っていたヴィルダは、瞼をうっすら開け、黒目だけを横に滑らせてリジェラを見た。
そして唇を薄く開け、
「……結局、貴女も、そっちの肩を持つのね」
あからさまに落胆した口調で吐き捨てた。
「銃を持ち出す奴らもだけど、貴女も何だか気持ち悪い。未来が見える真祖って何よ、馬鹿馬鹿しい。なんでそんなものを信じ込んでいられるわけ。適当にでっち上げたほら話だって思わないの?」
「――あの人は嘘なんて吐かないよ。あの人が言うなら本当なんだ」
リジェラが確信を込めて言うと、ヴィルダは額を押さえて深く息を吐いた。ああ、と嘆息したのちに、彼女は前髪を払って目元を鋭くした。
「分かった――その話は、どうでも良い。信じたいなら好きに信じていなさいよ。そんなことより、私、決めたのよ。私はあいつを捕まえにいく」
「あいつ……って、グラインのこと?」
「はぁ!? 違うわよ、誰があんなやつ!」
狭い通路に、ヴィルダの刺々しい声が反響する。友人のはずのグラインを「あんな奴」呼ばわりする彼女に、リジェラは言葉を失う。白い頬を血色に染めたヴィルダは、叫んだせいか息を荒くしながら、歯茎が見えるほどに口元を引き攣らせた。
「アンタたちをそうやって馬鹿に仕立て上げた、あの声よ。どっかに居るんでしょ、見つけて問い詰めてやる。何を思ってこんな真似をした――ってね」
「で――でもっ!」
ヴィルダの腕に縋り付いて、リジェラは首を振った。
「無理だよ。だって、名前も分からないのに、どうやって?」
「……そうよ」
必死に止めようとしたリジェラに、ヴィルダは嘲るような笑みを向けた。
「アンタだって本当は分かってるじゃない」
「えっ、ど……どういうこと?」
「アンタの言うとおり、あいつは私たちに名乗らなかった。こっちに名前を差し出しておきながら、自分の方は明かさないのよ。――姿だって、アンタは見たことがあるって言うけど、本当にそうなの? あいつが大勢の前に出てきたことは、一度もないじゃない。結局、あいつは私たちを仲間だなんて思ってない。分かってないっ、アンタもプルーネもグラインも、みんな騙されてるんだ!」
「そんなっ……そんなこと、ないよ」
叩きつけるような怒声によろめきながら、リジェラは声を張った。自分たちは騙されてなんていないはずだ。だって……あんなに彼の瞳は鮮やかだったのだから! 仮に、邪心が一滴でも混ざっていたら、あの金色は濁ってしまう。――そうに違いない。
「違うよ、ヴィルダ、あなたは勘違いしてるの!」
リジェラは必死に言い張った。
叫び声が、狭い天井に反響する。リジェラ自身も驚くほどの、なりふり構わない食い下がり方に、さしものヴィルダも少し当惑を見せて「何よ」と呟く。
なぜだか分からないが、ひどく頭の芯が熱かった。彼のことを信じていたかった。それ以上に、彼に天啓のような煌めきを見つけた、あの日の自分自身を何よりも否定したくなくて、リジェラは必死に言いつのった。
「騙してなんてない。あの人は、本当に、私たちのことを思って――」
「……じゃあ貴女も来る?」
静かな声で、ヴィルダがそう問いかけた。
「信じているって言うんなら、じゃあ、貴女も来なさいよ。私は、これからあいつに会いに行く。あいつを信じてるって言うなら、一緒に来れば? 直接会ってみれば分かるわ、私と貴女のどっちが正しいか」
ヴィルダは挑発的に言い切って、リジェラを睨みつけた。会ってみれば分かる――という譲歩した言い方と裏腹に、彼女は自分が正しいことを確信しているように見えた。リジェラが答えられずに瞬きを繰り返していると、ヴィルダは声をさらに低くして言う。
「何してるの。決めなさいよ」
「わ、私――は」
背中に汗が伝うのを感じながら、リジェラは一歩下がった。
あの日出会った彼のことを、もちろん信じている。
だけど、万が一にもそれが勘違いだったら。あの黄金色の眼差しも、光のようにまっすぐな言葉も――彼がくれた「リジェラ」という名前も、すべて欺瞞に満ちたものだと分かってしまったら、自分には何が残るのだろう。今や、リジェラという存在は彼なしでは有り得ず、彼女を構成するあらゆる要素は彼に起因するのだ。
二の足を踏み続けるリジェラを見て、ヴィルダはふんと鼻を鳴らした。
「そこで、踏み出せないってのは、そういうことよ」
そう言って、ヴィルダは突き当たりの扉に手を掛ける。
金属製のこの扉は、他と比べて頑丈に作られていた。休憩室より先に行くことはないから、リジェラはこの扉を開けたことがない。ヴィルダが据え付けられたハンドルに手を当て、ゆっくりと半回転させると、ガチャリと音が鳴った。
向こうには暗闇が広がっていた。
顔の半面を影に浸して、ヴィルダが振り返る。――何かを待っているように。数秒の沈黙を置いて、彼女は悲しげに目を細めた。
「――さよなら」
「ヴィルダっ……」
名前を呼んだのとほぼ同時、暗闇がヴィルダの背中を飲み込み、重たい扉は音を立てて閉まる。遠ざかっていく足音さえ聞こえないなかで、リジェラは呆然と立ち尽くすほかに何も出来なかった。
***
「嘘が自発的に成長した……とは、そういう意味か」
音声を傍聴していた回線を切り離しつつ、サジェスは脚を組み替えた。
断片的、かつ散発的に、サジェスはさまざまな話を地底の民に伝えている。たとえば、地上では「七人の祖」と呼ばれる存在が半ば伝説的に語り継がれているとか、エリザは未来を見通す能力を持っていたと噂される、であるとか。これが、眠るエリザが地底のことを憂えているという嘘と混ざり合い、結果的にひとつの物語として再形成されつつあるようだ。
「――サジェスさん」
横に座っていたティアが、不安げに視線を滑らせた。
「どうしましょう。誤解を訂正するように働きかけますか?」
「いや、その必要は無い。当初の予定とは違うが、このまま乗らせてもらう」
「乗る……?」
「そうだ」
小首を傾げた少年に、サジェスはしっかりと視線を向けた。
「物語というものは必要だ。筋があり、理に適った物語は、集団が価値観を共有する上での基軸となってくれる――まさしく、地上の人間が七人の祖を信仰するようにな」
「の、乗るって、そういう――!?」
ティアは顔を青ざめさせた。
つまりサジェスは、勘違いを是正するどころか、彼らのなかで形作られた口伝を物語として再構成しようとしているのだ。それはまずいのでは、とティアは引き止めたが、サジェスは光るパネルを見つめたまま「しかし」と応じる。
「前言を覆せば、その分だけ俺は彼らの信頼を損なうことになる」
「それはっ……」
ティアは言い淀んだ。
「そう、ですけど、でも……」
「不可逆なんだ。元より、言葉を発するとはそういうことだ。訂正したところで二重線が引かれるだけ、完全に消せるわけではない。ならば、先んじて物語の枠組みを与えることで、これ以上無秩序に物語が発展するのを防いだ方が良いだろう」
「でも――いずれ真実が露見したら、そのときは大騒ぎになります」
「そうだな。だから、露見する前にすべて終わらせよう。地底の民を解放する目的が果たせたなら、嘘が暴かれたところで問題はない」
「問題がない、なんて……」
そんなことは無いだろう、と反論したい気持ちをティアは堪えた。
正義だと振りかざされた物語が虚構だったと暴かれ、騙されていたのだと知ったとき、非難の矢面に立つのは誰か。もちろんそれは、無批判に虚構を信じ込んだ人々ではなく、嘘と知りながら物語を広めた側になるのだろう。
近ごろ鋭利な印象を深めたサジェスの横顔を見て、ティアは唇を噛む。――彼だって当然、嘘が暴かれたら自分がどうなるか、分かっているはずだ。なのにサジェスは、自分が批判されることを、問題の数に含めてくれない。
「俺がすべきことは、今や、扇動ではないんだ」
サジェスが呟いた。
「先頭に立って旗を振るべき時節はとうに過ぎていたようだ。気が付くのが遅かったが、悔いていても仕方がない。今、俺が一番に考えるべきことは抑制だ。目覚めた彼らの自我が他者を害することに向かう、それが何より危惧すべき事態だ」
彼は僅かに苦い声で言ってから、ならば、と言葉を継いだ。
「完成した物語を与える。それもまた、ひとつの抑制だと考える」
「……そう、ですか」
「ティア。何か意見があれば、言ってくれて良いぞ」
「いえ」
一往復だけ、ティアは首を振った。
「サジェスさんがそれで良いなら、僕も良いです。……たしかに地下の人たちは、まだ一部ですけど、凶暴化しつつありますから」
「そうだな……」
彼は頷き、背もたれに身体を預けて天を仰ぐ。しばらく考えるように黙っていて、それからぽつりと、
「……戦わせたくは、なかったんだ」
掠れた声で呟いた。
「俺は、地上を信用しきれないし、憎んでいないと言えば嘘になる。それに今や、地上には、真綿で絞め殺すに等しい仕打ちをしている。それでも――お互い傷つけ合わせたかったのではない。敢えて言うなら、地上を照らす太陽を地底にも分けたかった。誰のものでもない光が、あまねく降り注いでほしかった……」
ティアは黙ってサジェスの独白を聞いていた。
そう――ティアにとって、隣で眺めるサジェスは、正道を心掛ける人間に見えた。目標を達するために誰かを傷つける必要があるなら、それは完全な解決ではないと考える、ともすれば理想が高すぎるほど潔白な気質をしていた。
「――だが」
サジェスの固い声が、幻に浮かんだ光を拭い去る。
「今になって思えば、地上を糾弾すべき対象と置いた時点で、対立は避けられなかった。そもそも地上と地下の平穏は、現在のままの形では両立し得なかったが、隠されていたこの事実を暴いたのは俺だ。ゆえに俺には、当然、身を挺してでも彼らを堰き止める責任がある」
冷静すぎるほどの声でサジェスが言う。
それを聞きながら、ティアは、初めて彼と出会ったときのことを思い出していた。灼熱の地下に放り出され、死を待つのみだった自分を助けてくれたときから、一貫してサジェスの眼差しは真摯だった。黄金色の瞳はまっすぐな光輝に満ちており、彼が志す太陽そのもののように光っていた。
それ自体は今も変わりない。
だが、ある時を境に、瞳に宿る光よりも、背負う闇のほうが深く思えるようになった。サジェスが地底の民を多数集めてコアルームから語りかけるようになった、あの頃からだ。凜と伸びた背筋には冷たい闇が纏い、目つきは鋭くなって、ティアが彼に抱く敬愛には畏怖が混じるようになった。
あの時、サジェスの気配が凍てついたように感じたのは、今から思えば――不可逆の変化を巻き起こす決意だったのだ、とティアは思った。サジェスは知っていた。知識を得ることによって何が起きるかを。知識を授けることが、傷を刻むことだと分かっていて、なお、何かを変えようとした。あの背中に覆い被さっていた闇は、そう――覚悟だ。
人道のために人道を犯す、覚悟だったのだ。
「……サジェスさん」
それだけの重みを背負っている彼に、今さら自分が何か進言できるとは思えない。ティアはひとつ首を振り、今までとは別の話題を口にした。
「どうして貴方は、地底の人たちに名乗らないんですか?」
地底の人たちの会話を聞いていて、確かにそうだ、とティアも疑問を持ったことだ。サジェスは地底の人々に名前を与えた。また、自分の名前にも思い入れがあるようなのに、彼自身は地底の人々に対して匿名を貫いている。
問いかけられたサジェスは、振り返って苦笑いを浮かべた。
「それを聞かれてしまうか」
「あ……聞いちゃ駄目でしたか?」
「いや、良いんだ、ティア。ただ、俺自身無自覚で、最近になってようやく、自分が名乗らなかったことと、その理由に思い当たったものだから」
彼はくるりと椅子を回し、パネルの光を背後にする。
「最初は、彼らの隣に立とうとしたんだ」
逆光になり、サジェスの表情は影に沈む。ほとんど黒一色になった顔のなかで、瞳だけが、有り余るエネルギーを纏って燃えている。しかし、強い視線とは裏腹に、その声は何かを惜しむように沈んでいた。
「手を取り、目を見て、話をしたかった。そうして一人ひとり、そう……友人になるように、お互い胸のうちに隠すものなどなく、考えることを共有できたら良かった。だが、それは二つの理由で不可能だった。一つは、彼らがあまりに多いから。もう一つは――これを言うのは忍びないのだが、彼らが無知に過ぎたからだ。劣っているという意味ではなく、俺と彼らでは、生きてきた背景が違いすぎた」
声は僅かに笑んで、だから、と言葉を繋いだ。
「本当は最初から分かっていたんだろう。正攻法では彼らの心を掴めない。友人として同じ高さに立ってしまえば、彼らを導けない。だから俺は、名乗れなかった。姿も現さなかった――ごく最初期だけを除いて、だが」
「本当は友人になりたくて、でも、友人の立場では導けなかった……?」
「そういうことになる。だから俺は、支配者に成り代わった」
ハイバネイト・シティを統べる男は、そう言って笑う。
なんて罪深い、とティアは思った。
今でもティアは、サジェスのことを正道の人間だと思っている。正しい道というものを誰が決めたのかは別として、少なくとも彼は誠実であり、不平等を良しとしない人間だ。しかしサジェスは今や嘘の物語を語り、一方的な支配を敷いている。不正とはほど遠かったはずの人間が犯したからこそ、罪は一層深く感じられた。
――ならば自分は、せめて見届けよう。
真摯な彼は、きっと己の罪にも逃げずに向き合うはずだ。取り返しのつかない損失をどのように償うか、背中で教えてくれるはずだ。ならば、一人の命を奪い、これを贖わねばならないティアにとって、サジェスは見習うべき指針となる。
「――ティア」
数多の情報を映すパネルに向き直ったサジェスが、振り返らずに言う。
「いつでも逃げて良いからな」
「いえ。僕はここに居ます」
「……先に断っておくが、本当に危険になったら、有無を言わせず逃がす」
「その時が来ないように、頑張ってお手伝いします」
「そうか……」
ティアが淀まず答えると、影になったサジェスの背中に、柔らかな光が僅かに差す。ほとんど風音のような小声が、ありがとう、と呟いた。
***
ハイバネイト・シティの、中間層と呼ばれる区域。
本来なら人が行き交うはずのない場所に、十数の人溜まりがあった。彼らは堅牢な装備に身を包み、黒光りする銃を握っている。彼らは上層を目指していた。上に行けば、斃すべき敵がいる――そう信じているからだ。一行は暗い通路を闇雲に進み、数時間ほど経ったところで、誰からともなく床に座り休憩を始めた。
その中の一人が、重たい息を吐いて膝に顔を埋める。
「……なんで、分かってくれなかったのかな」
男の目元には色濃い隈が刻まれ、思い詰めているのが目に見えるようだ。彼がこうして思い悩むのは始終であり、口の悪い仲間が「また言ってんのかよ」と揶揄を飛ばす。しかし彼は、これには答えず、独白めいた口調でぼそぼそと呟いた。
「これは、俺のためで、アンタのためで、俺たちのためなんだ。安寧を貪る『チジョウ』の奴らがいなくなれば、俺たち『チテイ』の人間は、ふらついて高架通路から落ちる心配なんか、しなくて良くなるんだよ……」
「言っても仕方ないよ、グライン」
背後から、彼の新たな仲間が肩を叩いた。
「分かんない奴は、いつまでも分かんないって。そういう奴は無理に戦わなくて良い。代わりに、あたしたちがやろう」
「ああ、うん……そうだな」
――あいつらの分まで。
地下に置いてきた友人たちの顔を思い出し、彼は少しだけ活力を取り戻して、ポケットから出した携行食に齧りついた。ひたと見据えた真実を、果たすべき宿命と捉えて信奉する。それは、誰が正しいと決めた訳でもない、ただ己が胸に誓った正義。
地表の民は、吹雪に耐えて春を待つ。
地底の民は、暗闇を払って夜明けを目指す。
翼なき者たちは天を目指す。辿りついた先にある太陽が、真に価値あると信じて。
翼なくして天を究む 了