chapitre102. 希望を抱く人々
文字数 6,831文字
澄んだ歌声が、通路の向こうに聞こえる。
リジェラは彼らの声を道しるべに、似たような構造が繰り返すハイバネイト・シティ居住区域を進んで、コラル・ルミエール団員の利用している区域に辿りついた。ノックして扉を開けると、グランドピアノの椅子に座っていたルージュが振り向いて、小さく頭を下げる。ちょうど練習が一段落したタイミングだったようで、団員たちはそれぞれに固まってお喋りをしたり、少人数で歌っていたりと思い思いに時間を過ごしていた。
ルージュがじっと語りかけるようにこちらを見てくるので、リジェラはパイプ椅子を取ってきて彼女の隣に腰を下ろした。ピアノを弾いていたのね、と尋ねると、ルージュは無言のまま頷く。譜面台に置いたノートを取って、そこに文字を書いてみせた。
『まだ歌えないので』
「そう……でも、伴奏だって、貴女たちの音楽に必要なものなんでしょう?」
励ますように口の端を持ち上げると、ルージュは緩慢な動作で頷いた。その口元をマスクが覆っていることもあり、表情が読みづらいが、眉間に小さくしわが寄っているのが分かった。
ラ・ロシェル上空から降り注いだ灰色の砕屑を、コラル・ルミエール団員の何人かが吸い込んでしまい、喉を痛めてしまった。ルージュもそのひとりで、当分は歌わない方が良いという診断が降りたらしい。先日、地下の居住区域で開かれた聖夜のコンサートにも、歌い手としての参加はできなかったそうだ。
歌えない。
それは、音楽を何より大切にする彼ら彼女らにとって、どれほど苦痛なのだろう。彼女の心境に思いを馳せると、胸が締め付けられるような痛みに襲われるが、リジェラは笑顔を保って「良かったら」と切り出した。
「私もルージュのピアノが聴きたい。もし、疲れていなかったら、聴かせてくれない?」
『良いですけど』
ルージュはそう書き付けたノートをリジェラに渡し、譜面台に楽譜を広げる。小さな手を鍵盤の上に置き、静かな呼吸に合わせて押し込んだ。
音楽が始まった瞬間はいつも、時間の流れが切り離されたように感じる。昇った太陽がまた次に昇るまでの時間を、八万と六千四百に割った単位が刻む時流から、楽譜に記された数字によって定義された時流に移り変わるのだ。ルージュの細い指が、彼女だけの時計を作り出す。
一曲を弾き終えたルージュに、リジェラが賞賛の拍手を送ると、彼女は満更でもなさそうに小さく息を吐き出した。それからリジェラに訝しげな視線を向ける。
『今日はそのために来たんですか?』
「あ、いけない。忘れていた」
慌てて立ち上がり、リジェラは部屋を見回す。立ち上がった勢いで椅子を倒してしまい、何人かの唱歌団員が迷惑そうな顔でこちらを見た。リジェラは彼らに向けて、申し訳なさを表情で示しながらも、ルージュに向き直った。
「アックスとロマンはどこ? 相談したいことがあるの。ルージュ、貴女にも」
*
コラル・ルミエールの団員たちがラ・ロシェルから地下に避難するとき、リジェラも彼らに同行した。しかし数日前から、地下の居住区域では彼らと離れて暮らしている。その理由はリジェラが、他の“
先日、ハイバネイト・シティを包括的に管理している人工知能、
「真祖エリザの伝承に出てくる
良かったら貴方たちも、コラル・ルミエールの人たちと一緒に生活できないかしら。リジェラはそう提案し、彼らも賛成する方に傾いていたのだが、そのうちのひとりが「でも」と眉をひそめた。
「言葉が通じないんだろ。地上って」
「何人かは、通じるけれど……通じない人の方が多いわね」
自分をコラル・ルミエールで受け入れるときに積極的に関わってくれたアックスとルージュ、そしてロマンは驚くほど飲み込みが早く、日常会話で意思疎通ができる程度には上達している。しかし、他の唱歌団員はそこまでリジェラとのコミュニケーションに興味を示さなかったこともあり、いくつかの簡単な言葉を知っている程度だ。
リジェラが正直にそう答えると、“
しかし、慣れない場所で生活をするのだ。言葉の壁さえなければ、できるだけ大人数で固まって動いた方が良い。リジェラは思考を巡らせた末に「じゃあ」と提案をした。
「向こうの言葉を勉強しましょう。私たちの言葉を喋れる人たちを呼んで、彼らに教えてもらうのよ」
この提案は受け入れられ、アックスたちも快く協力してくれた。また、ELIZAが再起動してからは、そのライブラリも利用して言語学習を進めた。
しかしながら、いくらもしないうちに、“
「なんで俺たちだけが勉強するんだ? あっちだって、俺らの言葉が理解できるよう、もっと努力すべきじゃないのか」
そう言って、ひとり、毎日の練習に参加しなくなった。更に何人かが彼に同調し、今となっては異言語の習得に前向きなメンバーは半数以下になってしまった。
良くない流れだ。
しかし彼の主張も理解できる。どうして地下サイドの人間だけが、異言語の習得という、決して簡単ではないもののために膨大な労力を費やさなければいけないのか。意思疎通ができなくて困るのは相手側も同じなのに、どうして自分たちだけが苦労しているのか。
そんな雰囲気を感じ取り、ひとりで問題を抱えきれなくなったリジェラは、コラル・ルミエールの友人たちに相談をしに来たのだ。説明を終えるとアックスが「なるほど」と頷いて顔を俯けた。
「そうですね……僕らの言語を貴方たちが学ぶべきなんだ、という感覚を無意識に持っていた気がします。どちらが上というわけでもないのに」
「まあ、今まではそちらの方が多数派だったけど、今は違うものね」
「はい。コラル・ルミエール側でも、地下の公用語を学ぶよう、もっと呼びかけるべきでしょうか」
「……でもさ」
対面に座っているロマンが、少し遠慮するような表情になりつつも切り出した。
「オレたちが皆、両方の言葉を喋れるようになったとしてさ。結局どっちの言葉で会話するんだよ」
彼の言葉に、マスクをしたルージュも頷いて見せた。ノートのページをめくり、ペンで文字を書き付ける。
『最後はどちらかを選ばないとダメ』
「それは――そうね。ふたりの言う通りね」
「たしかにそうなんですけど、これは、単純にどちらの言葉を使うかっていう問題じゃないですよね。地上の僕らが、地下の人間に対して譲歩していなかったことの表れとも言える」
『譲歩するために無駄なことをする?』
「たとえ、勉強した結果その言葉を使わなくても、全く無意味だとは思ってないわ」
リジェラは食い下がったが、そうじゃない、とロマンが首を振った。
「オレもそうだったから、分かるけどさ……
「でもそれは――」
「それはリジェラたちも同じだよ、ロマン」
思わず立ち上がりかけたリジェラの代わりに、アックスが冷静な口調で言った。
「僕たちが歌っている時間は、彼らが言語学習のために費やしている時間を吸って作られている。どちらにとっても一秒の重みは等価だ」
「分かってるよそんなの!」
声を張ったロマンが、次の瞬間に喉元を抑えてげほげほと咳き込んだ。アックスが彼の肩を抑えて、大声を出さないで、と少し厳しい口調で言う。
「君だってルージュと同じで、本当なら喋らない方が良いんだ」
「……分かってるよ」
同じ言葉を繰り返して、でもさ、と苦い顔になる。一連の流れを見守っていたルージュに、ちらりと視線を向けた。
「ルージュ、そうだろ。オレたちは
ロマンの言葉に込められた微妙なニュアンスが汲みきれず、リジェラは首を捻ったが、ルージュは即座に頷いてノートのページをめくった。
『私たちはそんな理屈では動けない。子供だから』
「まあ」
あまりにもストレートな主張が可愛らしくすら感じられて、リジェラは思わず苦笑したが、ロマンだけでなくアックスまでもが真剣な顔で頷いた。
「こう言っては何なんですが、ここにいる唱歌団員は、ほとんどが10代の子供です。ルージュとロマンだってまだ
脇腹をノートで突かれて嫌そうな顔をしながら、アックスが冷静な口調で説明する。
リジェラは彼らのじゃれ合いに笑いながらも、先行きの暗さを感じていた。ただ話をしたいだけなのに、そのハードルがあまりにも高い。使っている言葉が違う、それだけで、こんなにも壁ができてしまうものなのか。
リジェラが腕を組むと「なあ」とロマンがこちらに顔を向けた。
「言葉を勉強しようって話になったの、元々はさ、お互いの安全のためだよな」
「そうね。“
「ってことは……逆に言えば『一緒に出掛けよう』とか『こっちは危ない』だけ、伝えられれば良いってことか」
「え?」
「そうだろ」
七つも年下の少年は、真剣な眼差しでリジェラを見た。
初めて出会ったとき、言葉が通じなかったために激昂して掴みかかってきたのは、何を隠そう彼だ。ロマンの友人の住む街が地下サイドに攻撃されて、気が気でなかったという事情はあるものの、当時のリジェラからすれば一方的な暴力でしかなかった。
だが、その償いのつもりなのか、ロマンは地下とのコミュニケーションに対して前向きな姿勢を強く示している。それでもしばらくは恐怖を拭えなかったが、真摯な態度と、それから見事な音楽を幾度となく目にするうち、いつの間にか抵抗はかなり薄れていた。
「あのさ――」
緊張した表情でロマンは3人を見回した。
「どっちの言葉を使っても喧嘩になるなら、違う方法でコミュニケーションを取れないかな」
「違う方法って?」
「今オレが言ったみたいにさ、伝えたい情報って限られてるだろ。部屋を出るときに必要な言葉だけ通じれば良い。だからさ」
ロマンの白い頬に、血色の赤が差した。彼が唱歌団員の前で
「作ろうぜ。オレたちの言葉でもリジェラの言葉でもない、思いを伝える新しい方法」
*
「――という経緯のはずだったんですけど」
コラル・ルミエールの元を訪ねたロンガたちを出迎えてくれたアックスは、苦笑と共に部屋の中を振り返った。彼の視線を追いかけてロンガが部屋をのぞき込むと、隅々まで紙を広げたテーブルで、ロマンとリジェラが険しい顔を突き合わせている。
「彼らに何かあったんですか?」
声を潜めて問いかけると、いえ、とアックスは首を振った。
「どちらの提案した発音を採用するか、議論しているところですね」
「はぁ……?」
「本気で、新しい言語を作ろうとしているんです」
アックスは、まるで眩しいものでも見るように目を細めた。彼ら2人だけでなく、他の唱歌団員も紙を指さしては、あれこれと意見を出し合っている。
「最初は、定型のやりとりだけ通じれば良いと、そのつもりだったんですが……地上と地下のどちらにも依らない、全てのラピス市民のために言葉を作ろう、とロマンが呼びかけたら、意外にもみんな興味を持ったようです。練習時間の合間を縫って、ですけどね。似た単語はすり合わせ、違うものは取捨選択して――」
「凄いな」
横でシェルが呟いた。
「言語の壁をそんな風に乗り越えようとするなんて、考えたこともなかった」
「ええ。あの発想は僕には真似できない」
アックスが肩を竦めると、ちょうどリジェラと目が合って、あ、と彼女は口元に手を当てた。
「ロンガ! 良かった、無事だったのね」
ぱっと笑顔を浮かべて、こちらに駆け寄ってくれる。それから白銀色を呈した右眼に気がついたらしく、ロンガの顔をじっとのぞき込んだ。
「眼帯の下、こんな色をしてたの? 怪我とかじゃなかったのね」
「ええ。ただ少し目立つので、隠していました」
「白に近い銀色なのね。なんだか、伝承に出てくる真祖の瞳のよう。素敵じゃない」
リジェラが真相に近いことを口走るので、思わず背筋が強ばった。ありがとうございます、とどうにか受け流し、ロンガは彼女に手を引かれるまま部屋の中に入る。
テーブルに近づくと、ロマンが片腕を引っぱって「なあ、これ見てよ」と紙を見せてきた。
「どっちが分かりやすいと思う?」
「待って、ロマン」
呆気にとられたロンガの代わりに、リジェラが唇を尖らせた。
「さっき別の話してたじゃないの」
「それ、もう決まったよ」
「私がいないうちに! 酷い」
リジェラが憤慨してみせるが、そこまで気にしていない様子なのは誰の目にも明らかだった。決まったなら仕方ないわね、と彼女は椅子に腰掛けて、次の議論に加わった。
いつの間にやら、かなり打ち解けた様子の2人を横目に見つつ、ロンガはテーブルの端で記録を取っているらしいルージュを見つけて近寄った。声を掛けると、彼女は目を上げて視線だけで挨拶をする。
「議事録、ですか?」
『はい』
文字で綴られた返事に、おや、とロンガが首を傾げたのを感じ取ってか、ルージュは『喉を痛めたんです』と書き足した。
『砂を吸ってしまって』
「なるほど……」
マスクをしているのはそういう訳か、と合点する。ロンガは相槌を打ちつつ、議論の白熱しているテーブルをちらりと見遣った。リジェラの言葉が通じるロマンを中心に、目にも留まらない速度で意見が交わされ、議論が進んでいく。ルージュはひたすらにペンを動かして、その流れを記録していた。
メモを取り続けるルージュの邪魔になりそうで、ロンガが黙って彼女の仕事を眺めていると「ねえ、君は」と明るい声が差し込んできた。
「どっちが良いと思う?」
見ると、あっという間にコラル・ルミエールの面々に溶け込んだらしいシェルが、ルージュに視線を向けていた。スロープの中で見せた、どこか影のある表情とは似ても似つかない、明るい笑顔を浮かべている。
議論をしていた人たちの視線が、ひとつ残らずこちらに向く。ルージュが口元を抑えて黙り込むので、見かねてロンガは割り込んだ。
「ソル。彼女は今――」
「喉を痛めてるんだよね。聞こえてたよ、でも、もし意見があればと思って」
ルージュはロンガの袖を引いて、無言で首を振った。特に言うことはありません、の意らしい。
「そう?」
彼はちょっと目を見開いて、ごめんね、と眉を下げて見せた。
「何か言いたげかなって思ったから。それに、言葉の壁を取り払うための会議に、声が出なくて参加できないんだとしたら……何だか本末転倒だなって」
彼はそれだけ言って、何事もなかったかのように話の軸を引き戻したが、それを聞いたルージュの表情は、ほんの少しだけ変わったようにも見えた。何か言いたいことがあれば代わりに伝えますよ、とロンガは彼女に語りかけたが、やはり曖昧な反応しか返ってこなかった。