chapitre114. 閉ざされた逆円錐
文字数 8,967文字
一緒にいたはずのフルルがいないことを問われて、体調が悪かったようなので途中で待ってもらっています、と答える。
「元気そうだったのに、どうしたんでしょうか」
レゾンが不思議そうに唇を尖らせたので、リヤンは曖昧に視線を逸らした。嘘を吐いたわけではないが、真相をごまかしたようで胃が痛かった。
支部に帰ったら、フルルに謝らないといけない。
フルルは彼らとは違う。
リヤンが
「……そうだよね?」
ふと不安になってしまって、リヤンは洞窟の冷たい空気を大きく吸い込んだ。肺の中で温めた空気が、白く濁って闇に溶けていく。太陽を閉じ込めたようなランタンの暖色の光でさえ、洞窟の暗闇には叶わない。足下数メートルを照らした向こうは、どこまでも続くような漆黒だ。
もう一つ溜息をつくと、一歩後ろを歩いていたレゾンが「あれ」と小さく声を発した。リヤンが振り返ると、彼は照れくさそうに肩を竦めつつも、斜め上の方を指さしてみせる。
「上にあるの……
「本当だ」
リヤンは呟く。
進行方向の右手、窪地になって水が溜まっている空間の天井近くに、異様な白い光を放つ光球がある。先を行った構成員たちも、話しているリヤンたちに気がつき、引き返してきて
今朝はラピスを丸ごと飲み込んだあの恐ろしい光も、暗い洞窟のなかでは妙に綺麗だ。半永久的に太陽の光を浴びることはないだろう洞窟の内壁を、幻像の白が照らし出す。どこか現実と乖離した景色を、息を詰めてリヤンは見つめた。
ひとりが物珍しげに頷いた。
「こんな場所に出ることもあるんですね。珍しい」
「天然の水晶が析出してたんじゃない?」
「あぁ、ハイデラバード近いですもんね」
彼らの推察を聞いて、なるほど、とリヤンは頷く。腕を組んで
「いや、おかしいですよ。だって
そのとき。
レゾンの言葉を断ち切るように、遠くで音が響いた。
呑気に談笑していた雰囲気が一瞬で張りつめる。リヤンは人より多少良い耳を澄まして、冷たい空気を伝って響いてくる音に集中した。岩洞に跳ね返って発生源が推定しづらいが、明らかに――誰かの足音だった。
「人がいます」
リヤンは声を潜めて彼らに伝えた。
深夜にこんな場所にいる人間について、あまり好意的な想像はできない。
それにここは、ハイデラバードにほど近い、水晶の析出した洞窟だ。工業を主な産業とし、水晶の技術を継承するハイデラバード市民にとっては、縄張りと言える場所に踏み込んでしまったのかもしれない。
「そうか……迂闊だったな」
ひとりの呟きに、レゾンが小声で同意する。
「
「ああ、戻るぞ。ランタンを消せ」
「え、でも……」
「道は俺が覚えている。全員、一列に並んで、前の者を掴め」
オレンジ色の灯火が消える。
せめてお喋りができれば、この暗闇から気を紛らわすこともできるのに、声でこちらの存在が見つかってしまっては元も子もない。リヤンは静かに息を吐き出して耳を澄まし、遠くから聞こえてくる足音に集中した。
どうせ暗闇だから、目を開けている意味はない。
リヤンは目を閉じて、耳に意識を集中し、跳ね返る音を逆向きに辿ろうと試みた。視界が遮られた状況で音を頼りにして動くのは、
そのうちに違和感を覚えだした。
「……待ってください」
絞った声で呼びかける。
先を行く人たちが驚いて振り返る気配を感じた。
「前に、います」
誰かが息を呑んだ瞬間、炎のオレンジ色が岩肌に反射して揺らめいた。暗所に慣れていた目が眩み、頭がしびれるように痛むなかで、リヤンは幾つかの人影を確かに見た。
人影が頷き合う。
そして彼らはこちらに駆け出し、迫ってきて――それから何が起きたのかは、よく分からない。倒れる誰かの身体に押されて、よろめき、手足が上手く動かせなくなる。
名前を呼ばれた気がした。
フードを後ろに引かれて、何かに頭をぶつける。目の裏で火花が飛び、ぐったりと岩肌に身を横たえて、そのまま視界が暗くなっていった。
*
次に目を覚ましたのは、意外にも、柔らかいマットレスの上だった。
リヤンはゆっくりと上半身を起こし、服や荷物を調べた。冬用のブーツを脱がされている以外、特に変わったところもない。ぶつけた後頭部はこぶになっていて痛むが、他に怪我はないようだ。
裸足のまま寝台を降りて、僅かな明暗を頼りに部屋を歩いた。月明かりが差し込んでいる窓の手前には、鉄格子が嵌まっている。リヤンは床を蹴って跳ね、鉄格子に飛びついて身体を引き上げた。
外の景色が見える。
「わぁ……」
リヤンは今の状況をすっかり忘れて、その景色に息を呑んだ。
中央から等方的に伸びる街並みに、
そして中央の広場には巨大な水晶が祀られており、月明かりを受けて神々しく煌めいていた。
何て綺麗なんだろう、と思った。
今まで見たどの街と比べても、明らかに違う。全体として逆円錐の形状に収まりながら、細部の装飾は変化に富んでいた。全体と細部の美しい調和に目を見張ると、コツコツと扉を叩く音がして、リヤンは慌てて床に飛び降りる。
靴を履き直して扉を開けると、通路に立っていたレゾンがほっとした表情を浮かべた。
「良かった、無事ですね」
「レゾン君……」
夢を見ている時のように、現状を疑問に思わず受け入れていたリヤンは、彼の顔を見てようやく異常性に気がつく。
「ここ、どこなの」
「ハイデラバード市街地です」
レゾンはそう言って、身体を後ろに捻る。通路の壁際に、髪をクリームで撫でつけた男が立っていた。レゾンが彼に場所を譲ると、彼はリヤンの前に進み出て頭を下げる。
「申し訳ない。盗掘だと早とちりしてしまった」
「盗掘……?」
リヤンが小声で疑問をこぼすと「鉱石を無許可で採ることです」とレゾンが教えてくれる。
「水晶の採取はハイデラバードの、それも一部の人間にしか許可されていないので」
「その通りだ」
ハイデラバードの関係者らしい男が頷く。
「申し訳ないが、君たちの持ち物を改めさせてもらった。その結果、こちらの勘違いだと分かったのだが。しかし、採掘のためでないのなら、何故あんな場所にいた?」
「今朝、
「……ああ。
男は頷き、リヤンたちの聞き慣れない単語を呟く。ほとんど音にならない小声を、リヤンの耳は捉えていた。
「外ではそう呼ぶのか」
「――外?」
聞き取れた言葉をリヤンが反復すると、男はぎょっとしたように目を見開いた。
「聞こえていたのか。気味が悪い子供だな」
「……すみません」
ぎゅっと肩を丸めたリヤンに代わり、あの、とレゾンが顔を上げた。
「こちら、ハイデラバードでは
MDPの正式な構成員の証である、首から提げた金属製の笛が小さく揺れる。男は目を眇めて、ああ、と呟いた。
「あの……
「はい。今は本来の業務である伝報より、この非常事態にどうにか対処するため、七都、いえ六都を繋ぐ連携役として動いている側面が強いのですが」
「非常事態、ね」
ふっと男は笑みを浮かべた。
「やはり外の人間は何も知らないんだな。水晶を介した
「ハイデラバードに伝わる信仰、ですか」
「その信仰という言い方も、虚構であることを前提に敷いているようで好きになれないがね。現にD・フライヤの存在の真実性は、今回の
「なるほど、失礼しました」
男の厳しい口調にも臆さず、レゾンは小さくあごを引いた。
「では、この街では、言語を異にする人々がやってくることすら、想定済みだったと?」
「その通りだ。従って私たちは、鳥飼いごときの助けなど必要としていない」
「――分かりました」
レゾンが唇を噛みつつも引き下がる。
男の言葉には、彼の言うところの「外」に対する隠しきれない侮蔑が滲んでいた。このような事態になることを前々から予期していたのが本当なら、今になって焦っている人々を見て嘲笑したくなるのも分からないではない。
だが、現在ラピスが直面している問題はそれだけではない。近いうちにラピスを飲み込むと言われる海水面の上昇、“
難局に臨んでいるからこそ七都が手を取り合う必要があるはずだが、ハイデラバード側には協力する気は一切ないようだ。
「明日の朝にはスーチェンに護送する」
男は儀礼的な口調で言い、今晩は割り当てられた部屋を使うようにと言い残して去って行った。通路の突き当たりにある重たい扉が閉まり、施錠の音が響き渡る。
取り残されたレゾンは肩をすくめた。
「思いがけず内情が分かりましたね。しかし、いくらハイデラバードとはいえ、独力でどうにかできるとは思えないんですが」
「そうだよね……」
「特に、出生管理施設の件は」
レゾンはぐっと拳を握りしめる。
考えないように意識していた話題を出されて、胸元がずんと重たくなるのを感じた。新しく生命が生まれる場所が、燃えて無くなってしまったと耳にした。リヤンは出生管理施設で生まれた人間ではない、人間の夫婦の間に産まれた
「まあ……MDPだって、明確な解決策を持っている訳ではありませんが。ヴォルシスキー支部では色々と試行錯誤しているようです」
「何か糸口があるの?」
「はい。俺たち
彼は通路の壁に背中を預けて、溜息を吐く。
「だから
「……そう、なんだ」
急に早くなった鼓動を抑えて、リヤンは呟く。
まだ痛みが残る頭の中で、色々なことがぐるぐると回っていた。リヤンを産んでくれた顔も知らない父母がいなければ、自分はここにいなかった。
しかし同時に、
だけど、もしかして。
「まあ、俺たちは俺たちの仕事をしましょう。もう遅いですし、今日はそろそろ――」
「待って」
背を向けようとしたレゾンの背中に、思い切って手を伸ばす。ジャケットの生地を掴まれて、不思議そうに振り返った顔をまっすぐに見た。
「レゾン君。あたし、
彼が目と口をぽかんと開ける動作が、やけにゆっくりに見えた。洞窟の中でフルルと話したときのことを思い出して、膝が震えた。せっかく親しくなれた相手を手放すかもしれない、という恐怖が身体を縛り付けようとする。
勇気が萎んでしまう前に、言わないと。
「だから、あたしにできることなら――」
「ま、待ってください」
口の前に指を立てて、レゾンが首を振ってみせた。拒絶でもないが肯定的でもない、予測していなかった反応にリヤンは当惑する。逆光のなかで、彼が険しい表情を浮かべているのが分かった。
「分かりました。でも、ここでは言わないでください」
ほとんど声帯を震わせない声が鋭く告げる。
「どうして」
「危険だからです」
「どういうこと?」
「俺たちは……マダム・アルシュに誓って、貴女の尊厳を傷つけるようなことは、絶対にしませんよ。でも、ここの人たちの思想は分かりません」
「思想、って」
「貴女をひとりの人間ではなく、
血の気の失せたレゾンの顔を見て、リヤンはようやく彼の言っている意味を悟った。恐怖で身体の温度が失せていく。どうしよう、と呟いた。
「あたし……何も考えてなかった」
「落ち着いてください。仮に聞かれていても、多分、
「どうして言い切れるの」
思わず彼を責めるような口調になってしまう。目から勝手に流れ落ちる涙を、手のひらで乱雑に拭った。
「ごめん、酷い言い方しちゃった。あたしが軽率だったのに」
「いえ」
リヤンを励ますためか、彼は微笑んで見せる。
「向こうもMDPとの正面衝突は避けたいでしょう。表立って手荒なことはしないはずです」
「それは違うな」
低い声が背後から聞こえて、リヤンは凍りついた。
先ほどリヤンに謝罪したのと同じ質の声なのに、響きがまるで違う。冷たくて重たい声が手足を縛り付けて、動けないリヤンを庇うように、レゾンが前に出る。
複数の足音が背後から近づいてきた。
いつもより上ずった声で、レゾンが問いかける。
「何が違うって言うんですか」
「あの時洞窟にいた者は全員捕らえた。君たちが消えたところで、まさかここにいるなどとは思うまい」
騒ぎを聞きつけたのだろう、いくつかの扉が開いてMDP構成員たちが出てくる。何事だ、と口々に問われても、説明しようとする口が動かない。しかし事態の異様さを感じ取ったらしく、体格の良い者は前に出て、小柄な者は震えているリヤンの隣に立った。
「
「乗らないでください」
小声でレゾンが言う。
「情報をMDPに持って帰らせる気などないでしょう。貴女が犠牲になったところで事態は変わらない」
隣に立った構成員がリヤンの耳元に口を近づけて、小声で囁いた。リヤンが涙に濡れた目を瞬くと、無言で頷き返される。
まだ硬直している身体を、軋ませながらもどうにか動かして通路の向こうを見た。突き当たりの窓が、細く開いている。部屋の窓と違って鉄格子はなく、位置は高いけれど、飛びつけないほどではない。
部屋の中から見たハイデラバードの街並みを思い出す。中央が低く、周縁が高くなっている街のなかで、リヤンがいるのはかなり端のほう。森の中からハイデラバードの方角に見えた景色を思い出す。高い壁のように見えたのは、端ほど高くなっている街を外から見たものだろう。
「大丈夫? 落ち着いて」
先ほど助言をしてくれた彼女は、リヤンがいるのとは違う方を見てそう語りかけている。リヤンは息を潜めて、大柄な構成員の影に入ったままゆっくりと後退し始めた。敵と仲間と自分、三者の位置関係と大きさ。慎重にそれを測り、隠れられなくなる瞬間に思いっきり地面を蹴って駆け出した。
全ての情報を遮断して、身体を引き上げ、窓の桟を飛び越える。向かいにあった半球の屋根に飛び乗り、身体を翻して、出てきた建物の屋根に乗り移る。誰かの叫び声を嫌でも聞きつけてしまう。その中には聞き覚えのある声も混ざっていた気がして、戻りたくなるけれど、強く首を振って音から遠ざかる方に向かう。
月の明るい夜だった。
街の周縁へ、脇目も振らず駆けていく。
丸いドームを駆け上がって、その勢いのまま、身長ほどの距離を飛び移る。揺らめく
「落ち着いて」
小声で自分に言い聞かせる。
景色は正常に見えている。
まずハイデラバードの周囲をぐるりと見た。丘の向こうにラ・ロシェルの塔が見えている。方角と地図を頭の中で重ねて、スーチェンに戻るにはどの方向に行けば良いか、まずそれを掴む。
次に恐怖心を堪えて、下をじっと見下ろした。壁はほとんど垂直だけど、掴むものが全くないわけではない。装飾のためか、あるいは構造的に意味があるのか、壁面からわずかに突き出した細い柱が巡らされており、足をかけて降りることも不可能ではなさそうだ。
ひとつ足音を捉えて、肩がぴくりと跳ねる。まだ遠い、けれど確かにこちらに向かっている。
リヤンは冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
10センチもない幅につま先を付けて、身体全体をゆっくりと下げていく。次の足掛かりを見定めてから、手を動かす。ひたすら、それを繰り返す。
足音がすぐ近くを通り過ぎていくのを、リヤンは息を止めて聞いた。心臓がうるさくて、それが聞こえてしまわないか不安に思うほどだった。雪がちらつく寒い夜なのに、全身が燃え上がったように熱い。指先の感覚と、身体のバランスだけは失わないように、叫びだしそうなほどの緊張を堪えて、単調な降下を続ける。
『
「……違う」
小さく呟いて、柱を掴む。
『妊娠可能で若く非力な女』
「違う」
身体を翻し、近くに迫った木の枝に手を伸ばす。
『リヤン』
たったひとつの名前を呼んでくれる、沢山の仲間の顔を思い浮かべて、リヤンは飛んだ。細い木の枝はリヤンの体重を受けて大きく曲がり、その動きを利用してもっと太い枝を掴む。枝を伝って下に向かい、最後は雪の積もった地面に飛び降りた。
月明かりが、積雪を白く照らす。
「あたしは……人間だ」
だからこそ、恩に報いなければ。
守ってくれた仲間を、助けなければ。
見定めたスーチェンの方角へ、腰まで埋まるほどの雪をかき分けて、リヤンは一心不乱に進んでいった。
遠くでざわめきを聞きつけて、はっと息を呑む。静寂に耳を澄まして、複雑に絡み合った糸をほどくように、混ざった音をいくつもの声に分けていく。切り分けたなかのひとつに親しんだ音色を見つけて、思わずこぼれた涙を拭う。
方向を少し修正して、声の方角へ向かう。
白く染まった木立の向こうに集まっている人を見つけて、安堵で膝が崩れ落ちそうになるのを堪える。疲労が蓄積した足を必死に動かして前に進むと、周囲を警戒していたひとりと目が合った。
リヤン、と名前を呼ばれる。
抱きしめられた体温が暖かくて、自分の身体がかなり冷えていることに気がついた。集まっているMDPスーチェン支部の顔ぶれを見回して、そっか、とリヤンは呟く。
「フルルが、支部に連絡してくれたんだ……」
ひとりだけ洞窟の途中で待っていた彼女が、一連の事態を目撃していたのだろう。フルルは頷きながら雪の積もったリヤンの肩を払って、外套を貸してくれた。手袋越しの手が冷たい指先をぎゅっと握りしめる。
「無事で良かった。ごめん」
「あのさ……フルル」
「どうしたの?」
涙で濡れた友人の顔をじっと見て、リヤンは訊ねてみる。
「あたしって、フルルたちと同じ、人間だよね」
「うん、そうだね?」
フルルは不思議そうに頷く。
それで、と続きを促すように言うのだが、リヤンが微笑んで首を振ったので、何それ、と呟いて唇を尖らせた。