chapitre171. 真夜中の彷徨
文字数 8,882文字
「ちょっと見てくる」
そう言い残して、彼は崩れた天井の向こうに消える。ロンガは近くにあった木箱を引っ張ってきて、足場を確保しつつ、慎重に鉄骨の上に登った。エリザの華奢な身体では、あまり無理はできない――いや、ロンガ本来の身体だとしても、シェルのような芸当はできないが。
立ち上がった視線の先に、壁から落ちた金属のプレートがある。拾い上げて裏返すと、第12層と刻字されていた。
ロンガがシェルとともにコアルームを出て、二時間ほど経つ。そこかしこで落盤が起きている状況で、もはや階層の番号にあまり意味はないが、一応は中間層に該当する区域まで登ってきたようだ。
ふぅ、と息を吐く。
新しく辿りついた階層は、今までと比較すると涼しかった。空調が機能しているとは思えないが、空気が密閉されているために、どうにか快適な室温が保たれている――といったところだろうか。
「――ルナ」
ペンライト片手にシェルが引き返してくる。
「登れそうなところを見つけたんだけど……」
言いながら、地面に腰を降ろしていたロンガを見て、彼は首を傾げた。
「まだ動けるかな」
「まあ、何とか」
壁に手を付いて立ち上がると、包帯に覆われた腹部がずきりと痛む。思わず顔をしかめたロンガを見て「本当に大丈夫?」とシェルが眉をひそめた。
「休んでも良いんだよ」
「いや……まだ平気だ」
彼を安心させたくて、ロンガは口元を持ち上げてみせた。下層に長く残れば残るほど、貯水槽から流出した水に阻まれる可能性が上がり、脱出が困難になる。それに、ロンガが休むと言えば、彼もこの危険な階層に留まらざるを得ない。
「そうだな……もうちょっと、上に向かってから休もう」
「分かった。じゃあ、行こう」
こっち――と言いながら、シェルが身体を反転させた。彼の後を追いかけて無骨な通路を行くと、どんどん空気が冷え込んでいくのが分かった。汗が冷えて肌寒くなり、ロンガはコアルームから持ってきた外套を羽織る。
「なんだか、やけに寒いな」
ロンガは呟く。
室温は十度を切っているのではないだろうか。明らかにこの辺りだけ、意図的に冷やされていた形跡があるが、ただ人間にとっての快適さを求めたにしては温度が低すぎる。冷えて固まってきた指先に、ふぅと息を吐く。
この寒さに何か理由があるのか、考えを巡らせながら歩いて行くと、足音の響きが変わるのに気がついた。どうやら近くに、音の反響する広い空間があるようだ。
数分後。
予想通り、天井の高い部屋に出た。
円筒形をした巨大な空間に、ロンガは思わず圧倒される。今までに見たことがない意匠の部屋だった。壁には円をいくつも並べた不思議な模様が刻まれているが、よく見ると小さい円筒状のものが埋め込まれているようだ。湾曲した壁に沿って
なるほど、とロンガは頷いた。
天井の崩れた場所を探して上に向かうよりも、ずっと楽な道だった。十分ほど歩いて、円筒の最上部に辿りついてから「それにしても」とロンガは背後を振り返った。
「何の部屋だったんだろう」
首を傾げると、シェルが視線だけをこちらに滑らせて「聞きたい?」と、彼にしては珍しく含みのある返事をよこした。
「ソル、知ってるのか」
「ここじゃないけど、同じようなの、見たことあるから……気になるなら教えるけど」
彼の態度に不穏なものを感じつつも、ロンガは興味を抑えきれずに頷く。シェルは円筒の壁にペンライトの光を向けて、小さく息を吐いてから言った。
「……遺灰置き場だよ」
「遺灰……?」
「だから、死体を焼いて、残った骨」
「――ああ」
そういうことか、とロンガは頷く。
馴染みのない言葉だったので、理解に時間が掛かってしまった。ラピスの慣習では、死者は船に乗せて海に流されるものだった。だが、巨大な閉鎖空間であるラピスではそれができず、代わりに火葬をしていたのだろう。ロンガが目を細めて、そこに眠る、かつて生命だったものたちに思いを馳せた――その時だった。
どくり、と心臓が跳ねる。
背後に巨大な気配を感じて、ロンガは肩を強ばらせた。直後、何かに身体を絡め取られて、あらゆる感覚が遠ざかる。灰色っぽく霞んで曖昧になった視界で「あれ」とシェルが目を見開くのを、辛うじて捉えていた。
「ん……? あれ、あ、もしかして」
「あら――
唇が勝手に動いて、言う。
「あ、あら私……ごめんなさい、前に出る気はなかったのだけど」
「やっぱりエリザですか」
シェルが頷く。
「前に……ってことは、ずっと、ルナの後ろにいたんですか?」
「えぇと……どう形容したら良いのかしら。そうね、貴方たちの感覚で言うと、夢うつつの状態……が近いと思うわ。耳を澄ませば声が聞こえるけど、何もできない。浅い眠りのような感じかしら」
二人の会話を、壁も何枚も隔てた遠くで聞きながら、ロンガは暗い海の底で考えていた。
どうして突然、エリザが姿を現したのか。
おそらく彼女は気を遣って、シェルとロンガが会話する機会を設けるために、意識を忍ばせていたはずなのに。何か、エリザ自身の意志すら越えるほどの強い力が働いて、彼女の意識が覚醒し、ロンガの意識が背後に追いやられたらしい。
それは、何だろう。
――そうか。
はっと思いつき、ロンガは湖底を蹴る。
心の奥深くに沈んでいた意識を、水面の方まで持ち上げていくと、蜂蜜色の髪が揺らめいているのを見つける。彼女の肩の後ろから顔を出して、エリザ――と呼びかけた。白銀色の瞳が、どこか怯えるような色を伴ってこちらに向けられる。
「何かしら」
「貴女が何を考えているのか、私、分かった気がします」
「……勘違いよ」
エリザが首を振り、虹色の煌めきが散る。
その両肩に手を掛けて、ロンガは彼女の顔をじっと正面から見つめた。エリザの視線は不安定に揺れて、明らかに動揺しているのを隠せていない。
「本当に?」
「……言ったところで無意味だわ」
「そうですか……」
溜息が気泡になり、真珠のように光りながら水面へ登っていった。どことなく安堵した表情のエリザに「なら」とロンガは小さく微笑んでみせる。
「仕方ないですね」
掴んだ肩を引き寄せる。
驚きに強ばったエリザの顔がぐっと近づいて、一切の抵抗なく、ロンガは彼女の心と重なり合った。エリザの内面世界に入った途端、視界はサイケデリックとすら形容できるほどの鮮やかな虹色に覆い尽くされる。
明滅する色彩。
次第に目が慣れていき、ロンガは周囲の景色を正常に認識できるようになる。そこは――現実のラ・ロシェルで、あるいはエリザの精神世界で何度となく訪れた、懐かしい大図書館だった。二階のステンドグラスから七色の光芒が差している。光に導かれるまま、階段を登っていくと、ロンガはそこで
「……ほら」
予想通りの光景に、思わず微笑んでしまう。
「やっぱり、エリザの心の真ん中にいるのは、貴方なんだ」
彼はソファに深く腰掛け、仮止めされた書類を捲っている。
ロンガの記憶のなかにある姿より、幾分か若く見えた。
彼は、正面に座ったロンガに反応することはなく、書類に何かを書き込んだり、時折眉をひそめて難しい表情をしていた。おそらくそれは、彼がエリザの記憶から構成された像でしかないから――なのだろう。だとしても、現実では二度と見ることの叶わない姿に、ロンガがしばらく視線を落としていると、不意に後ろから肩を掴まれた。
「……リュンヌ!」
子供を叱りつけるようなエリザの声。
それとともに、ロンガの意識は無理やり図書館の外に出される。目まぐるしく変わる景色に一瞬だけ目を閉じて、そして開けると、ハイバネイト・シティの無骨な景色の中にいた。シェルが戸惑いの表情でこちらを見て「えっと」と眉をひそめた。
「ルナ……かな?」
「あ、うん、ごめん……私だ」
「ううん、良いんだけど」
彼はほっとしたように息を吐く。
「一瞬、ぼうっとして見えたから。エリザは……何か、ぼくらに用があったのかな?」
「いや……違うと思う」
ロンガは首を小さく振ってみせながら、逃げるように消えたエリザの意識と、その中で見た景色を思い出した。エリザを呼び覚ましたのは、多分シェルでもロンガでもない。ハイバネイト・シティで死んだ人間は――彼女の伴侶は、真っ白な遺灰となって地下で眠っているという、その事実だ。
「ソル」
どこか不安げな彼の顔を見上げて、ごめん、とロンガは眉を下げた。
「少し、エリザと話したいんだけど。時間を貰っても良いか?」
「あ……じゃあ、そこの部屋で休憩しようか」
手近な倉庫を指さして、シェルが言う。
無造作に積まれている木箱のひとつに腰を下ろして、心の内側をまっすぐ見るため、ロンガは目を閉じた。
目蓋の向こうの暗闇。
そこに浮かび上がる、二つの心が共有した心象風景は、凪いだ海に似ていた。パシャリ、と軽い水音を立てて、ロンガは水を蹴り、明るい水面から暗い水底へ潜っていく。
「……エリザ」
白い気泡を吐いて、ロンガは問いかける。
「このまま地上に向かって、良いんですか?」
「――ダメだなんて言うとでも?」
暗闇から、篭もった声が返ってくる。
「貴女のためにも、シェルのためにも、大勢のラピス市民のためにも――それが最善なのは、言わずと知れたことでしょう」
「そう仰ると思いました」
だけどロンガは、エリザの心と混ざり合ったとき、彼女の本心を聞いてしまった。一瞬の気の迷いかもしれないが、たしかに強い意志として浮かび上がった、悲痛に満ちた叫び――あるいは祈りを。
「貴女自身は……本当は、ここに残りたいのでしょう?」
「……否定はできないわ」
深く沈んだ声が言う。
「この先いずれ、遠からず死ぬのなら、最期はラムと同じ場所が良いだなんて、そんなことを考えてしまった」
「……エリザ。これは、貴女の身体です」
借り物の心臓に手を当てて、ロンガは呟く。
「最終的な決定権は、貴女にあると思います。貴女が望むのなら、私はここでフォアフロントを去っても構いません」
「いいえ……私には、そもそも安寧な死後なんて用意されていないもの。身体だけラムと同じ場所で眠ったって、そんなもの、意味はない」
「……D・フライヤのことですか」
意識の海のなか、水底近くまで潜っていったロンガは、ついにエリザの姿を見つけた。白い砂の積もった水底で、彼女はうずくまって膝を抱えている。ロンガは水中で身体をひるがえし、彼女の隣に腰を下ろして、じっとその横顔を見つめた。
「私が言えたことではないですが。やっぱり私は、最終的に貴女の隣にあるべきは、あの超越的存在ではなく、ムシュ・ラムなのでは――と思えてなりません」
「そんなことを言って何になるの」
自嘲的な微笑みを浮かべて、エリザがこちらを横目で見る。
「あの化け物のことは、もう、どうしようもない。考えてもどうにもならないんだから、貴女が気にする必要はないわ」
「そうでしょうか?」
例えば――と言って、ロンガはエリザの白い腕を掴んだ。心と心を区切る境界が曖昧に溶け合って、彼女の思考がロンガのなかに流れ込み始める。
「このまま私と混ざり合って、貴女が、純然たる貴女でなくなれば、D・フライヤも興味を失うのでは――」
「――馬鹿なことを言わないで!」
ぱし、と軽い衝撃。
平手打ちに似た感覚とともに、ロンガの意識は突き放された。降り積もった砂が舞い上がる向こうで、エリザが眉を吊り上げてこちらを睨んでいる。
「誰がっ――そんな、貴女を犠牲にするような真似をすると思うの」
「まあ……今のは、本気ではないです」
肩をすくめて、すみません、とロンガは頭を下げた。
「ただ、D・フライヤに対して打つ手がないというのは、少し違うかな……と思って」
「だとしても、
艶のある髪を水に漂わせて、エリザは静かに首を振った。感情を内側に閉じ込めるように、目蓋をきつく閉じて呟く。
「どうしようもないのよ」
「そうですか……」
それ以上は掛ける言葉を見つけられず、ロンガは仕方なく彼女のもとを離れた。ロンガがゆっくりと目蓋を――エリザに借りている、物理的実体のある目蓋を押し上げると、向かいの壁沿いに座っているシェルと目が合った。
「ルナ、だよね。えっと――おかえり、で良いのかな? なんか違うか」
彼が笑いながら頬を引っかいた。
「何だか難しいね。どう接したら良いのか」
「私が話してるときはルナとして、エリザが話してるときはエリザとして接してくれたら良いんだが――」
「そんな簡単な話じゃないのは、ルナがいちばん分かってるでしょ?」
苦笑交じりに言われる。
「紛れもなくきみはルナだ。だけど、形がエリザを借りているのは本当だし――それに、同じ脳の中にいるのに、やっぱりルナとエリザは全く別の人格だ……って、エリザと話して、改めて確信した」
「まあ……そうだよな」
立ち上がりながら頷く。
「そう、まさにその話をしていたんだ。有耶無耶にされる前に言っておくけど……多分エリザは、地下に少し未練があるんだと思う」
「どうして? あ……そうか」
一瞬だけ不思議そうに目を見開いてから、シェルが唇を噛んだ。
「そうだね。ムシュ・ラムは、地上には行けないから」
「……うん」
「そっか……ルナは、どうしたい?」
「いや。決められない」
「――そうだよね」
頷いて、シェルが壁にもたれかかった、そのときだった。
疲れたのか伏せがちだった目を、彼は突然ぱっと見開く。弾かれたように背筋を正して、きょろきょろと周囲を見回した。
「ルナ……なにか、人の声みたいなの、聞こえなかった?」
「え――どうだろう」
耳に掛かった髪の房を払って、ロンガは聴覚に集中する。すると確かに、はるか遠い場所から、非常に不鮮明な声が響いていた。
***
太腿まで浸水した通路を歩くのは、通常の何十倍も難儀だ。
淀んでところどころ泡立った水が嫌な臭いを放っているせいで、呼吸も抑えがちになり、そのせいでさらに体力が削られていく。ほんの百メートルほどを、アルシュはやっとの思いで引き返し、気が遠くなりかけた頃にようやく目印の非常灯まで辿りついた。
刺々しい赤のランプが、疲れた目に痛い。
右折した先の止水壁を乗り越えて、拠点としている地点まで戻る。ソファの背に倒れ込んで息を切らしていると、別の方角からカノンが戻ってくるのが見えた。片足を怪我している彼は、見つけた端材を杖代わりにして、アルシュ以上にゆっくりと通路を戻ってくる。アルシュは視線だけをそちらに向けて、尋ねた。
「どうだった?」
「無理だね」
カノンが平坦な声で言う。
通路は静まりかえっているので、大して声を張らなくても会話ができる。そう、とだけ相槌を打って、アルシュはソファの生地にくたびれた身体を埋めた。
二人がいる地点は、おそらく第21層あたり。
今日の昼過ぎ、発電棟の付近でMDPの仲間たちとはぐれてしまってから、アルシュとカノンはどうにか上に向かえる場所を探し、半日近く掛けて居住区域の最下層まで辿りついた。だが居住区域は、下層に比べて垂直方向の移動があまり想定されていない構造をしている。そのためだろうか、この階層に来てからすでに数時間過ぎているが、未だに次の登り口が見つけられない状況だった。
「いま……何時かなぁ」
アルシュは呟く。
「まぁ……とっくに日付は変わったんじゃないの、深夜の二時とか三時とか――勘だけど」
「そっか……」
はぁあ、と長い息を吐いて、アルシュは目を閉じる。
「疲れるはずだ」
「休むなら、ご自由に」
「カノン君は?」
「俺は……少し休んだら、次はあちらを見に行こう。まだ、見ていないはずだ」
どこかを指さしながら言ったのだろうが、疲労困憊のアルシュには目蓋を押し開ける気力がなかった。そう――とだけ呟いて、ソファの背もたれからずり落ちるように、座面に身体を横たえる。
「悪いけど、私はちょっと休むね」
「どうぞ」
近くの椅子にカノンが腰を下ろした気配がする。少し休む――と言っていた通り、しばらくは彼も体力を回復させるつもりらしかった。アルシュは手探りでブランケットを引き寄せながら、ふと思いついて「それにしてもさ」と話を切り出す。
「折れた足で、よく動き回る気になるなぁ……前から思ってたけど、カノン君ってさ、ぜんぜん痛がらないよね」
「ああ――まぁ、比較的、そうだろうね」
「痛覚ないのかと思っちゃう」
「あるよ、人並みに」
何を馬鹿なことを――とでも言いたげに鼻を鳴らしながら、それでも彼は真面目に会話に付き合ってくれた。
「多少は堪え性があるだけだ」
「多少?」
表現の軽さが何だか可笑しくて、アルシュは思わず笑ってしまった。
「骨が折れてるのに平然としてるのは、多少の堪え性……とかじゃ説明できないと思うなぁ」
「まあ――それは否定しないけどねぇ。ただ、動き回らなければどうにもならない現状で、痛みに足を止められるのは、無駄でしかないから」
「無駄?」
「違うかい」
「いや……どうかな」
思わず目を開いて、アルシュはパネルの傾いた天井を見上げた。
「考えたこともなかった。カノン君、他人にはちゃんと寝ろって説教するくせに、自分が苦しいのは良いんだ?」
「そうは言ってない。苦痛は身体の過負荷を俺たちに教えるためにある、要は
「まあ……そうだけどさ、痛いものは痛いじゃん」
「ただ痛いだけだ」
「平行線だね」
「そのようで。あんたとは、いつも、そうだ」
ふ、と吐き出すような笑いが聞こえる。
「いや、まあ……一般的には、多分あんたの方が正しいよ」
「そりゃあ、誰も彼も、カノン君みたいだったら困るよ。大多数の人間は、自分がどう感じるかを軸に動くものなんだから」
「どうも、そういうものらしいね」
「あんまり分かってないでしょ」
「逆に、あんたは分かってるのか」
「え? いやぁ……」
どうかな、と呟いてアルシュは目を閉じた。
蓄積した疲労のせいか、頭の芯が脈打って痛んでいる。手足は泥に絡め取られたように重たい。濡れた服が肌に張りついて気持ち悪い。厚みのあるクッションに身体を沈めると、どことなく心地よい。自分が未だに地下数百メートルの地点から脱せていないのは、想像するだけで恐ろしいが、孤独な旅に同行者がいるのは、とても頼もしい。
身体を覆っている有形無形の感覚。
それこそが、アルシュが感じる全て。
突き詰めれば快と不快の二つに分類される感覚のうち、より快に近しいほうを目指す――多分、人間はそういう風にできている。痛みを無視したり、寝る時間を必要以上に削るのは、基本的な道理を逸脱した行動に見える。だが結局、肉体的な負荷と精神的な負荷の均衡点をどこに据えるかという問題で、それすら、やはり主観的な不快の最小化でしかないのだ。
結局、最適解に堕ちていくしかできない。
「でも……それって、なんか……
「空しい?」
「なんかこう、えっと……傀儡?」
「会話する気があるなら、もう少し文脈が分かるように話してくれるかい」
あんたらしくもない――と溜息まじりの口調で付け足して、カノンが立ち上がった。
不規則な足音が遠ざかっていき、ひとり残されたアルシュは、どろりとした暗闇のなかで目を閉じる。頭の内側で、小さく光る塵のようなものが無数に渦巻いていた。それらのいくつかは言葉になって、また
多分、理想とか希望とか、あえて言うならばそういうものを見ているのだ――とアルシュは思った。キラキラしていて綺麗だけど、星空をただ見つめているみたいで、そこには何の実りもない。どれだけ美しいものがそこにあったって、結局は、自分が捉えられる以上のものを手に入れられない。
寝返りを打って、溜息を吐く。
時折、目を閉じるのが怖いのは、世界から切り取られた自分自身がいかに小さいか、それを理解してしまうからなのだ。手の届く距離がいかに限られているか、否が応でも見せつけられる。アルシュが、MDPという集団に人を集めて、不特定多数の人間の役に立とうとしたのだって、結局のところ、あまりにも小さい自分と、あまりにも広い世界の境界を曖昧にしたかったからなのでは――と思う。
だけど。
皮肉なものだ。自分の安全を切り売りして、自ら地底に残ることを選び、生きるか死ぬかまで追い詰められたときになって――今更、小さな自分の中にある、更に小さな意志に気がつくなんて。
暗い眠りの底に落ちていきながら、アルシュが口元を歪めた、その時だった。
「――おい」
「んん……?」
どこか遠くで、声がする。
ほとんど意識を手放していたアルシュは、曖昧な自己認識のなかで、眠りの殻を揺さぶる何かから目を背けようとした。だが、声は否応なしに近づいてきて、沼の底から引き上げられるように、意識が鮮明になっていく。
「――アルシュ!」
かなり近くで、はっきりと呼ばれる。
完全に目が覚めたアルシュが、ブランケットをはね除けて飛び起きると、止水壁のすぐ向こうでカノンが手招きをした。
「こっちに来てくれ」
「え……?」
アルシュが眠っていると知っていたにも関わらず、一切こちらの都合を顧みずに呼びつけるのは、彼にしては珍しい。何かあったのか――とソファの背を乗り越えて走って行くと、カノンのいつもの無表情に、わずかな高揚が浮かんでいるのが分かった。