奇跡的偶然
文字数 6,170文字
ユーウェンとルーカス。ハイバネイト・プロジェクト所属である二人の男は、お互い、普段の拠点とは遠く離れた場所で、その場にいるはずのない相手と遭遇して、ほんの一秒ほどであるが思考を止めた。
「なっ……」
最初に声を発したのはルーカスだった。
「なんでお前は、いつも――」
ルーカスはそこまで言って、いや違う、と素早く左右に頭を振った。朱・宇文がなぜここにいるのかはどうでもいい。部外者の彼に違法取引の現場を見られたという結果こそが問題だ。ルーカスは扉のほうに向き直り、誰かが入ってこないよう見張らせていた男に「おい」と呼びかけた。
「何やってる!」
「えぇっ、あの、この方、お客さんじゃ――」
「違う!」
見張りのくせに愚鈍な、とルーカスは苛立つ。
そんな喧噪の様子を、地面に押し倒されたままのエリザはぼんやりと聞いていた。目は半分閉じていて、景色を曖昧にしか見ていない。ぼやけた光と影がうごめく視界のなかで、なにかキラリと光るものが動いた気がした。
次の瞬間。
ガシャン、と派手な音が鳴る。
ガラスを力任せに叩きつけたような音だった。ぐあ、と誰かがうめく声がして、何か重たいものがエリザを押し潰す。パラパラと細かい欠片が鎖骨の辺りに落ちてくる。二の腕を何かに掴まれたかと思うと、エリザの身体は無理やり持ち上げられた。
そこでようやく、周囲の状況に気がついた。
金色の髪を血でまだらに染めて、ルーカスが呻きながらうずくまっていた。周囲に、粉々に砕けたガラス瓶の破片が散らばっている。
エリザが顔を上げると、扉の向こうで見張りをしていた男と目が合った。
完全に放心した顔をしていた男は、はっと気がついて拳銃をこちらに向けたが、それが撃たれるより一瞬早く、ユーウェンが男の銃をなぎ払った。その勢いのまま男の首をつかみ、長身を利用して床に抑えつける。頭蓋骨が床とぶつかる鈍い音が響くなか、ユーウェンが険しい顔でエリザに振り返った。
「早く逃げて!」
「……なっ、な、何して」
「今はなにも考えずに逃げろ!」
立ち尽くしているエリザに、彼は叩きつけるように叫んだ。
その声を聞いた瞬間、巨大な指に弾き飛ばされたのに似た感覚があって、エリザは糸を付けて引っ張られたように、ぎこちない動きで廊下に飛び出した。ふくらはぎが攣りそうに痛むなか、まっすぐで暗い廊下を一直線に駆けていく。
ポーン、と木琴の低い音が響いた。
突き当たりにあるエレベーターが開く。扉の向こうから、ぞろぞろと人が出てきた。人数は十人くらいで、いずれも男性のようだ。人目を忍ぶように黒い外套をまとっている彼らは、薄手のドレス一枚をまとい、靴も履いていないエリザを見て驚きの声をこぼす。
逃げたのか、と誰かが戸惑い気味に言う声が聞こえた。
――今は、なにも考えずに逃げろ。
ユーウェンに言われたことを思いだして、エリザは走る勢いを緩めず、彼らのあいだを突っ切った。途中で腕を掴まれかけたが、どうにかかわして、まだ扉を開けてくれていたエレベーターに飛び込む。金属のふちを踏んだところで、つるりと足が滑って転ぶ。身体は大きく前に投げ出され、エリザがエレベーター奥の壁に叩きつけられた背後で、重たそうな扉がゆっくりと閉まった。
そのまま、エレベーターの箱は揺れながら上昇した。
荒れた息を整えながら、エリザは立ち上がる。とにかく、逃げなければ。ルーカスの目が届かない場所まで行かなければ。エレベーターの扉の上にある階数表示を見ると、エレベーターは屋上の駐車場――さっきエリザたちが車を降りた場所に向かっているようだった。
また木琴の音がして、扉が開く。
屋上のエレベーターホールに辿りついた。防雪のために二重になっている扉を体当たりで押し開けて、エリザは、灰色の吹雪が荒れ狂う屋外に飛び出した。
とたんに氷点下の空気が押し寄せる。ドレスからむき出しの手足に吹雪が吹き付けて、寒いと言うより、もはや痛いほどだった。白っぽくかすんだ景色に目を凝らすと、今いるエレベーターホールとはちょうど対角の位置に、非常階段があるのが分かった。
――あれだ。
まず、あの非常階段で地表まで降りる。それから地下通路への入り口を探すか、雪上車で往来している人を捕まえて助けを呼ぶ。そんなことが可能なのか、と考えてはいけない。どれだけ可能性が低そうに見えても、いまは縋るしかない。
エリザは意を決して、冷え切ったコンクリートに踏み出した。吐き出した息は真っ白に濁りきって、呼吸をするたびに体温が奪われていく。肺の内側まで凍りつきそうな寒さに震えながらも、とにかくエリザは前へ前へと歩いて行った。あまりひとつの場所に長く立っていれば、足の裏がコンクリートと一緒に凍りついてしまいそうだった。
駐車場は、決して広くない。
エレベーターホールから非常階段まではおよそ五十メートル。平時ならあっという間に走れる程度の距離が、ひどく遠かった。涙やら鼻水やらで顔がぐちゃぐちゃになり、それが冷やされてさらに寒さが加速する。息を切らし、全身の皮膚を真っ赤にして、ようやくエリザは非常階段の手前まで辿りつく。
階段の手前に、高さ二メートルほどの扉があった。
白い鉄格子の扉だった。鍵は掛かっていなかったが、蝶番が錆び付いてしまって動かない。引っ張ってみても、ギシギシという音が鳴るばかりだった。扉を開けるのは諦め、傍らにあった室外機を足掛かりにして、エリザは扉のうえによじ登る。セキュリティを目的としたらしい機器があったが、もう動いてはいないだろう。
かじかんだ指にどうにか力を込めて、身体をぐっと引き上げた。
途端、吹雪がさらに強さを増して吹き付ける。地表からは少なく見積もっても三十メートルは離れており、遮るものがないので、吹雪の勢いはまったく容赦するところがない。命を刈り取っていくような冷たさと高所の恐怖に苛まれながら、エリザは建物の外を見回した。かつてオフィス街だったらしい周囲には、同じような高さのビルがいくつもあるが、どれも人気はなく廃墟のようだった。街はどこも灰色の雪に埋まっている。ビルとビルの間を縫う幹線道路だけはかろうじて除雪がされていて、はるか遠方を雪上車がひとつ走っていた。
――あれに、助けを求めよう。
そう考えてエリザは扉を乗り越え、非常階段に降りる。
だが。
カツン、カツンという冷たい靴音が、下方から聞こえてきた。
同時にエレベーターホールから木琴の音が響き、黒衣の人々が屋上にあふれ出したかと思うと、彼らはエリザを指さして何事か叫び、走ってこちらにやってくる。同時に、折り返した非常階段の向こうから、片手に銃を携えたルーカスが顔を出した。行く手をルーカスに、戻る先を黒衣の男たちに囲まれて、エリザは完全に逃げる道を失う。
「惜しかったね、エリザ」
額から血を流したまま、ルーカスが言う。
「君、あれに後を追わせていたの? それとも天文学的偶然なのかな。まあ、いいや、細かいことは……」
ルーカスは手を大きく広げて「ほら」と笑った。
「そんな危ない場所にいないで、降りてきなよ。その格好じゃ寒いでしょ?」
「……っ、ゆ、ユーウェンさんは」
「うん?」
「ユーウェンさんは、どうしたんですか」
彼だけは、もしかしたら味方だ――という、最後の希望がエリザにはあった。逃げろ、と叫んでくれたとき、ユーウェンがエリザに与えてくれた勇気が、わずかに赤熱する炭のように、まだ、胸の奥底に残っていた。
だが。
「さぁ……」
エリザの問いかけに、ルーカスは表情を歪めた。
彼の表情の変化に、エリザは吹雪よりよほど冷たいものを感じる。
「こんな場所に乗り込んでくるほうが、悪いんだよ」
「……それって」
「さあ、おいで、エリザ。あいつのことは、もう良いじゃないか。逃げ出したことは許してあげるからさ、はやく君の
流れるようなルーカスの言葉。
その裏側に、隠しきれない焦りがあった。用意周到に囲い込んだ商品が、自分の手を逃れようとしていることを、ルーカスはひどく恐れている。なにを焦っているのだろう――と、閉塞しつつある思考のなかで、エリザは考えた。武装した十数名の成人男性たちと、身ひとつで裸同然の少女。向こうがその気になれば一秒で勝負が付くはずなのに、なぜか彼らは、ゆっくりとにじり寄るように近づいてくる。
――そうか。
前方も後方も阻まれ、逃げるべき場所を失ったと思っていた。だけどエリザには、まだひとつだけ逃げる先があった。エリザが
唯一の逃げる道。
それは、背後の虚空に続いている。
「ルーカスさん」
エリザは冷たい手すりの上にまっすぐ立ち、ルーカスを睨みつけた。
「仰るとおりです」
「……エリザ?」
「私には、価値がある」
「そうだよ――」
「だから」
柱を掴んでいた右手を、エリザは離した。
激しい風が吹き付け、髪が背後に流れていった。
「その価値を、貴方の自由になんて、させない……!」
ぐらり、と空が揺れる。
灰色の世界が逆さまになる。
十階建てのオフィスビルの屋上から、エリザは真っ逆さまに落ちていった。
***
偶然。
それは、確率論に沿って発生する現象である。発生確率が低いものが生じた場合、その偶然は一見して奇跡や超常現象のように見えることもあるが、実のところ、ただ可能性が低いものが選ばれたという事象自体には、一切の異常性はない。
しかしながら――偶然が「重なる」となれば、話は別である。
百回に一回、一パーセントの確率で生じる偶然が、二回続けて生じる確率は〇.〇一パーセントとなり、事象の希少性は一万分の一に昇華する。偶然がひとつ積み重なるごとに、発生する確率は累乗で減っていく。
四回で一億分の一。
六回で一兆分の一。
どこまでが偶発的事象であり、どこからが必然、あるいは奇跡や超常現象であるか。確率論は、その問いに答えてくれない。ただ「とんでもなく珍しい」ことを無機質な数字で表す、そればかりである。
さて――エリザが空に舞った、〇.〇〇三秒後。
オフィスビルから一二七メートル東を走っていた雪上車は、とつぜんエンジントラブルを起こした。雪上車は個人所有のものであり、昨年、大手メーカーから発売されたばかりの新型モデルである。エンジントラブルの原因は寒さによるオイルの固着だったが、昨今はどの雪上車メーカーも極寒環境に耐えうる構造を基本としていた。数多の安全設計の隙間を縫うような形で発生した、ごく低確率な不運であった。
運転手は勤勉な性格の女性であり、免許を取得してからの年月は七年と二ヶ月。週に一度のペースで日用品の買い出しのために雪上車を運転するが、今までに一度も事故を起こしたことはない。また、車の手入れも怠らない性格であり、年に一度の安全検査を受けるのはもちろんのこと、毎日のように車体の状況をチェックしていた。それだけ運転の安全性に気を張っていた彼女は、突然の事故にも焦らず車を停止させようとした。
だが、そこで不運が重なる。
吹きすさんでいた雪が、勢いを増したのだ。フロントガラスに真っ白く雪がこびりついてしまい、運転手の視界を奪う。グレーの濃淡で描かれた景色に、ハンドルを握った彼女はじっと目を凝らした。
そのとき、遠方の木が大きく揺れた。
何の偶然か、遠くの黒いシルエットがぐらりと動いたのを、彼女はすぐ近くにいる人影と見間違えたのである。なぜ地上に人間が――と、冷静だった彼女もそこでついに焦りはじめてしまい、スピードを緩められないまま右に大きくハンドルを切った。
そこには、狙い澄ましたように氷が張っていた。
氷にタイヤを取られた雪上車は大きくスリップし、歩道に乗り出す。そのまま右斜め四十五度に滑っていき、一切の減速ができないまま、オフィスビルの一階に突っ込んだ。雪上車は大破し、運転手は車体ごと押し潰されて即死した。
雪上車が突っ込んだオフィスビルは、数年前に最後のオフィスが撤退し、それ以降は廃墟と化していた。法律上の管理者はいるものの、点検はかなり前――それこそ、まだオフィスビルとして機能していた頃から怠られていた。建物内の床にはところどころ亀裂があり、とても堅牢な建物とは言えなかった。加えて建設当時、費用を抑えるために柱の削減が行われており、法制上の安全基準はそもそも満たされていなかった。
しかしながらオフィスビルにはすでに利用者がおらず、たまに立ち入る者と言えば後ろ暗い商売をしている人間ばかりだった。昨今の余裕がない情勢とも相まって、それらの欠陥は長年放置され続けていた。
雪上車の衝突事故により、支柱のひとつが傾いた。
そこは偶然にも、多くの梁を支えている、力学的なウィークポイントであった。支柱そのものの傾いた角度はわずかだったが、その数十センチのズレによって、梁のひとつが破断する。それによって隣の柱が傾き、また梁が破断し――と、破壊はオフィスビルの一階を対角線の向きに伝播していった。
砲撃のような音とともに、一階が崩落する。
オフィスビルのあらゆる窓ガラスが割れ、壁は至るところで裂けていく。床は無数のコンクリートに砕けて落下し、少女を買うために屋上に集まった十数名の男性と、非常階段で驚愕に目を見開いていた、少女を売ろうとした男性、階下にいた見張り、そして偶然にも違法取引の場に居合わせた男性のすべてを飲み込んだ。
オフィスビルの下層は、かつて商業スペースとして利用されていた。
三階から五階には、かつて家具メーカーが大型のテナントを展開していた。テナントの撤退時に回収されなかったらしい展示用のマットレスが、傾いた壁を滑り落ち、崩落した壁から屋外に飛び出した。軽量さと柔らかさを謳い文句にしていたその商品は、吹雪に巻かれて三回転したのち、屋上から落ちてきた少女を飲み込んだ。
少女を乗せたマットレスは、滑空するように吹雪の中を飛んでいった。渦巻いたビル風に巻き取られ、落下の勢いは削がれていく。そして、ひとたびオフィスビルから遠ざかった少女とマットレスは、ぐるりと半回転してオフィスビルの方に戻る。時間にすれば十秒にも満たない滞空時間だが、その間にオフィスビルは完全に瓦礫の山と化していた。コンクリートの欠片が積み重なったうえに、マットレスはゆっくりと着地した。
オフィスビルから数百メートル離れた空にて。
近くを飛んでいたヘリコプターの運転手は、崩落事故に気がつき、オフィスビル跡地にゆっくりと近づいていった。この運転手は、情勢が不安定な現代においては珍しいほど責任感の強い性格をしており、事故を目撃したからには救助に加わらねば、と感じたのである。ゆっくりと高度を下げていった運転手は、瓦礫の上に倒れた少女を見て、ぎょっと目を見開いた。
かくしてエリザは救助されることになる。
さて、これは奇跡か偶然か。
そして、奇跡的偶然により生存した彼女にとって、これは幸運か不運か。