遷移と萌芽/地上
文字数 11,867文字
「……結構、酷い容態だったんだね」
グラシエの外套を吊しながら、アルシュは呟く。そんな状態の彼女から、無理やり話を聞き出そうとしたのはまずかったかもしれないと、アルシュは今更のように思い至る。どうも視野が狭くなっていたようで、引き止めてもらって助かった。
「ええ、そうですね」
アルシュを引き止めた当人の少女が、硬い表情で頷いた。少女は、首元に結んだ紺色のリボンから分かるように軍部の研修生で、フルル・スーチェンと名乗った。アルシュと同様、吹雪の中を歩いてくるグラシエを見つけて、階下に下りてきたらしい。
難しそうに顔を歪めて、フルルがタオルを絞る。
「肺が炎症を起こしてないと良いんですが。何にせよ、長旅の疲れで抵抗力が落ちてると思いますので……とにかく、あまり、無理はさせないことです」
「うん、ごめんね。止めてもらえて助かったよ」
「謝るなら彼女の方に」
フルルは無愛想に言った。
「それより、今後、どうするおつもりなんですか」
「そうだね……」
アルシュは棚に水差しを戻しながら考える。
「統一機関を頼みにラ・ロシェルまで来たってことだから、なんとか助けたいとは思うけど、事情が分からないことには何とも言えないかな。とにかく目を覚ますのを待って、どうして統一機関に来たのか、聞いてみる」
「そう、ですか……」
「……問題あるかな?」
含みがありそうな相槌だったので、アルシュは目を細めつつ問いかける。フルルは「問題があるとまでは言いませんが」と迂遠に前置きしてから口を開いた。
「ともかく統一機関の職員に……大人たちに相談すべきじゃありませんか。この方に何かを訴えられても、私たちには何もできない。組織の上部に引き渡して、対処を任せるのが妥当だと思います」
「統一機関の上部ね……」
濡れた手を拭いて、アルシュは腕を組んだ。
「今のあの人たちに身柄を渡すのは、私は反対かな」
「何故です。私は一介の研修生ですし、貴女もそうでしょう。他都市から街境を超えて訪ねてくる人がいること自体、相当に異常事態です。多方面から意見を仰いで、適切に対処しなければならない。私たちだけで対応して良いわけがありません」
「昔ならそうかもね。だけど私は、今の上層部に、グラシエさんを引き受けるだけの余剰があるとは思ってない。そんな余裕はないって突き返されるなら、まだ良いんだよ。中途半端に引き受けられて、こちらからは手出しが出来なくなって、なのに何の対処もされないのが、一番困る。そして私は、その可能性は高いと思ってる」
「……貴女が統一機関を蔑むのは勝手ですが」
少女は険しい顔でアルシュを睨んだ。
「ならば貴女が、統一機関よりもまっとうな対処ができると仰いますか。彼女は……マダム・グラシエは、バレンシアという街ひとつの命運を背負ってここまで歩いてきたのではありませんか。それだけの責務がいち研修生に担えるとでも?」
「……じゃあ、直接聞いてみたら良い」
自分でも意地が悪いと思いながら、アルシュは言った。
「貴女は、前に、職員のフロアに行って直談判してたよね。どうして講義が無いんだ、ちゃんと研修生のことを顧みろ――って」
「そっ……そう、ですけど」
フルルの顔つきが曇る。
あれは初秋の、まだ暑さが残る頃だった。フルルは職員たちが業務をこなすフロアを訪れ、大人たちに現状を訴えていた。彼女の主張はきわめて真っ当だったのに、大人たちは、研修生が立ち入れないフロアであることを名目にしてフルルを追い出した。
「あの時、なにか収穫があった?」
一連の様子を偶然見ていたアルシュは、苦いものを堪えて首を振る。
「無いでしょう。すげなく追い返されて終わりだったでしょう。あの時から状況が好転してるとも思えない。理由は知らないけど、統一機関の上にいる人たちは、もう、外に配ってる余力なんて無いんだよ」
「……だったらっ……!」
ぎり、と口元を噛んだのが見えたかと思うと、少女はつかつかと詰め寄ってきてアルシュの手首を掴んだ。そのまま、だん、と音を立てて手首ごと壁に押し付けられる。
「だったら、黙って行動しても良いって言うんですか」
「ちょっと……」
壁に押し付けられた手首に鈍い痛みが走り、アルシュは思わず眉をひそめる。自分より僅かに背丈の低いフルルの肩に手を掛け、穏やかに押し返そうとするが、少女の方にはまったく譲る気がなかった。
「貴女が、どうやってマダム・グラシエを助ける気なのかは知りません」
ブラウンの視線が、至近距離でアルシュを睨んでいる。
「ですが、貴女が何か行動を起こすなら、それは必ずや統一機関の所有物を動かすことになるでしょう。そして貴女自身も統一機関の管轄です。貴女が人を救える立場にあるとして、それは貴女自身が得たものではない、統一機関から与えられた地位です!」
「それはっ――」
咄嗟に言い返そうとして、しかしアルシュは言葉に詰まる。アルシュが保有する物品や権利や環境は、アルシュ自身を含め、何ひとつ独力で得たものではない――これは、紛れもない事実だからだ。
「……それは、そうだろうね」
ひとつ嘆息する。
壁に押し付けられた不安定な姿勢のまま、アルシュは頷いた。
「統一機関があったから私がある。私が行使できるあらゆる力は与えられたもの……その通りだよ。統一機関の肩書きが無ければ、彼女が私を頼ることもなかった。でも、それが何なの。ここで見捨てるような真似をするのが正しいとでも?」
「――そんなこと……言ってません」
アルシュの手首から手を離して、フルルが俯く。
「ただ、独断で動かないで下さいって、言いたいだけで。正しさを標榜するなら、まず筋を通したらどうですかって、それだけです……」
鬼気迫る勢いだった声色から、覇気が徐々に失われていく。彼女は肩で息をしながら、血が上って紅色になった眉間を歪めた。
「上層部は話を聞いてくれないなんて、私だって……分かってます」
「あ……」
アルシュははっと息を呑む。
零れる寸前まで目元に涙を溜めている、フルルの表情には見覚えがあった。あの日、職員のフロアから追い出されたときの表情。必死の抗弁を強引に遮断されて、遣り場のない熱量を内側に抑え込むほかなかった顔だ。あのとき傍観者だったアルシュは、フルルを気の毒と哀れんだはずなのに、今、他ならぬ自分自身が、彼女の訴えを冷笑的に退けようとした。対話を拒絶してしまったのだ、と気がつく。
そして、それは――アルシュの、統一機関に対する姿勢にも通じていた。どうせ力になってはくれないだろう、と最初から決めつけて掛かった。諦めと失望を盾にして、思い込みだけで事を片付けようとした。
「……ごめん」
乱れた袖を直して、アルシュはフルルに謝る。無言で頷く少女は、もはやぼろぼろと涙をこぼしていて、それが悔しいとでも言いたげに、眉間にしわを寄せていた。さっき畳んだばかりのタオルを差し出すと、フルルは無言で受け取る。
「そうだね。貴女の言うとおりだと思う」
口元をぐっと横に引いて、アルシュは苦く呟いた。
「話を通さずに勝手に動いたら、それは、あの人たちと同じだ。話が通じないからといって、話をしない理由にはならない」
「……そう、です」
「でも、やっぱり上を信用はしてないんだ……ごめんね。余力がないって見込みも、間違ってないと思う。いまグラシエさんの件を持ち込んでも、断られるか、形式上だけ受け持って実質的に放置されるか、どっちかだと思うんだよ」
「……それも、はい――分かります」
「だからね」
言って、今度はアルシュがフルルの手を握った。
少女にしては角張った、鍛えられて厚い手のひらを両手で包むように握ると、フルルはまだ濡れている目をぱちくりと瞬かせる。見るからに真面目そうで、責任感が強そうな彼女。心根のまっすぐさを象徴するような顔つきの少女に向けて、アルシュは笑って見せた。
「言質、取りに行こう」
「……は?」
「グラシエさんの対処を任せてもらえないか、相談しに行ってみよう。やらせて下さい、そのために必要なものは統一機関の物資から賄いますって言えば、たぶん許可が出る。でも、私ひとりじゃ追い返されると思う。……貴女ひとりでも、ね」
去った秋を思い出して、アルシュは苦く笑った。
一人でしかないとき、自分はあまりに無力だった。統一機関という集団を前にしたとき、個人には何もできない。だけど、目の前にいる人を助けるために、無力だろうが立ち上がらなければならない時だってあるのだ。
「だから……皆で行ってみよう」
一人で駄目なら、人を集めれば良い。
「暇を持て余してる研修生、沢山いるでしょう。何かラピスのために動きたいけど、動けないでいる人は、私と貴女以外にもいると思う。そういう人たちを集めて、みんなで、上と交渉してみよう。きっと上手く行くから」
アルシュは強い口調で言い切った。
そう――自分はあの秋だって、同じようにしたのだ。同じ志を持つ相手を見つけて、単独ではできないことを成そうとした。仲間の選定には失敗したかもしれないが、しかし彼を頼ったことで、アルシュの独力では動かせなかったものが動いたのは事実だ。
他者を頼ること、思いを束ねることで得られるものがある。ならば今度こそ、上手くやってみせよう。無力な自分ひとりを超えるために、孤独な思索を飛び出すのだ。似たような意志を持つ人は、きっと、思ったより近くにいるはずだから。
たとえば彼女、フルルがそうであったように。
「……吃驚しました」
大きく目を見開いて、少女が呟く。
「政治部の人は、そういう風に考えるんですね……」
「……政治部?」
「え、その緑のリボン、政治部でしょう」
アルシュの首元を指して、フルルが首を傾げる。
「人を集めて対抗しようっていう考え方が、まさしく政治部って感じだなって思って」
「ああ――ふふ、そういうことか。そうだね。本当、私の持ってるものって、全部、統一機関がくれたものなんだなぁ……」
「あ、いえ……すみません。悪い意味では」
「ううん、事実だよ。今の私を形作ったのは統一機関だ。それは覆らない」
アルシュは微笑んで「でもね」と首を振る。
「ここから先のことは、私が決めないと」
真っ白い窓の向こうを見て、アルシュははっきりと言った。
きっと、これから色々なものが変わっていくだろう――という予感が、この時、すでにアルシュの胸中にあった。ラピスは否応なしに変化しており、今まで主流だったものや、あるいは常識だったものが、きっと徐々に崩れ去っていく。変化の渦中で、堅牢に見えた足下が揺らぐこともあるだろう。
だから、いつまでも統一機関の研修生ではいられない。
いま手にしているものを武器に、新しい世界に切り込む必要がある。そして――古い世界で恵まれた地位にあり、多くのものを与えられてきたアルシュにとって、新しいラピスのために尽力することは義務なのだ。
「フルル、貴女もだよ」
不安げに視線を揺らがした少女を、アルシュはまっすぐ見据えた。
「これからを決めるのは、統一機関じゃなくて、私で、貴女だ。だから聞くよ。私と一緒に、バレンシアを手助けする気は無いかな?」
「――分かりました」
フルルはしっかりと頷いて、まだ濡れていた目元を拭った。
「お手伝いします。行きましょう、マダム・アルシュ」
「……マダムって」
あまりに畏まった呼び方に、アルシュは苦笑する。
「アルシュで良いよ?」
「そうは行きません。先輩ですから」
良いのに、とアルシュは苦笑したが、フルルはそこは頑として譲らなかった。
***
午後二時になっていた。
二人はグラシエの眠る休憩室を施錠して、いったん階段を上り、研修生たちのフロアに引き返す。昼時はかなり過ぎていたが、カフェテリアにはぽつぽつと人影がある。彼らは分厚い本を読んだり、なにか難しい顔をして議論したりしている。
――まだ、こんなに沢山、人がいたんだ。
見慣れたはずの景色に、アルシュはやけに新鮮な感慨を覚えた。同じ研修生の顔を見ること自体、どうにも久しく感じられた。端末室や資料室に一日中篭もってしまい、あまり出歩いていなかったからだろう。
「バレンシアから歩いてきた、ですか?」
アルシュと同じ政治部の所属らしい、緑のループタイを結んだ少年に話を持ちかけると、彼はそう言って目を丸くした。レゾンと名乗った彼は、まだ十代前半だろう。くるくると渦巻いた癖毛が丸い額に掛かっているのが印象的だった。
「こんな雪のなか?」
「そう。だから、相当に困ってるんだと思うの。でも……今、職員さんたちに話を持ちかけても、対処してる余裕がないと思うんだよね。講義や訓練だって、無くなってしまったくらいだから」
「それは……そうですね」
レゾン少年は苦い顔をして頷く。
彼が座っていたカフェテリアのテーブルには、丁寧に書き込まれたノートが何冊も広げられていた。インクが香ってきそうな書き込みは、まだ新しい。講義が行われなくなってから既に二ヶ月以上が経過するが、彼は未だに勉学の研鑽を怠っていないらしい。
「ずっと勉強してるのか……すごいね」
アルシュ自身は自習に励むことを早い段階で諦めたのもあり、レゾンに掛け値無しの賞賛を送ったのだが、え、と少年は不思議そうに首を傾げた。
「すごくは……ないです。俺、何すれば良いのか、分かんなかったから……」
「何すれば良いのか分からないのは、みんな同じだよ。そのなかで、自分は勉強し続けようって選んだことが、すごいなって思ったんだ」
「……そうでしょうか」
丸みのある口元をぎゅっと曲げて、レゾンは俯いた。
「俺は、何も出来ないのが、悔しかったです。俺は研修生で、まだ恵まれた側にいるんだから何かしなくちゃって、でも何もできなくて……」
「ああ、あはは……うん、そうだよね」
「……なんで笑うんですか」
少年がむっと口元を尖らせたので、あ、とアルシュは慌てて両手を広げた。
「馬鹿にしてるみたいに聞こえちゃってたら、ごめん。ただ、私も、まったく同じことをずっと思ってた」
「え――貴女も?」
「そうだよ」
アルシュは頷き、それに、と背後に視線を遣った。
「たぶん、皆……同じように悩んでたと思う」
昼時を過ぎたカフェテリアに、まばらに集まった研修生たち。会話をしている者はおらず、彼らはただ寄り合うように同じ場所を共有していた。向かうべき先が分からず、ともに歩む相手も持てず、それでも居室に閉じこもらず公共の場所で時間を過ごしていたのは、きっと――何かを待っていたのではないか。
アルシュは思う。
――私たちは、思ったより似たもの同士だ。
誰かの役に立ちたい。無為に時間が過ぎることが苦しい。統一機関の人間というのは、たぶん、そう感じるように最初から作られているのだ。骨の髄まで他者貢献の原則が刻まれているとでも言うべきか。フルルに指摘されたように、これもまた、統一機関がアルシュたちに植え付けたものだが、ともかくもアルシュたちは、ラ・ロシェル市民のように街を捨てて逃げ出すことは出来ない。
「私たちは、そういう生き物なんだと思う」
「生き物、ですか」
「そう、本能なんだよ。食事を食べたり、眠るのと同じくらい、誰かの役に立っていたくて、それが出来てないと倒れちゃう……みたいな、ね?」
少々冗談めかして言うと、少年は至って真剣な顔で「俺もそう思います」と答えた。
***
カフェテリアの研修生たちの賛同を得て、一同は十余名にまで膨らんだ。
「――駄目だ」
だが、一挙して職員のフロアに押しかけたアルシュたちに待っていたのは、にべもない拒絶だった。エストと名乗った強面の男性が、二メートル近い大柄を盾にずんと立ちはだかって研修生たちを睥睨し、威圧する。年少の研修生が、ひっ、と小さい悲鳴をこぼした。
「備品は万一の蓄えであり、他都市に開放することは罷り通らん。以上だ」
「……ええ、そう仰るでしょうと思いました」
一同の先頭に立ったアルシュは、威圧感を真正面から受け止めてあごを上げる。
「しかし、ではグラシエをどうします。何はともあれ彼女は統一機関まで到来してしまい、面倒は私たちが見ている。彼女の分の食糧さえ出してはならないと?」
「そうは言わない」
「では、彼女がバレンシアに帰ると言ったとして、道中の食糧を渡すのは」
「それも許可しよう」
「ならば、バレンシアに開放することが、なぜいけないのです。そもそも万一の蓄えと仰いましたが、今がまさにその万が一なのではありませんか。市民が飢えに見舞われているのを知りながら備蓄を閉ざしていること自体、本来ならあってはならないことです」
「問題は一時的であって恒久的なものではない、というのが統一機関の見解だ。ひとつ滞りが生じているだけで、これが撤去されれば即座に生活基盤が回復する。ゆえに備蓄は、冷夏や水害による不作など、どうにもならない事態にのみ限って開放するべきなのだ」
議論は平行線をたどった。
しかし、それでもアルシュたちを追い出さないだけ、このエストという職員の対応は寛容と言えた。見かけは威圧的だが、対話する姿勢は崩さない。アルシュたちは、グラシエを匿っていることを公然と表明したが、エストはこれを咎めることもなければ、自分たちに引き渡せとも迫ってこない。備蓄を枯らしてはならない、その一点張り。
無為な言葉の応酬を辿りながら、次第にアルシュは、これはエストの本音とは違うのでは、と思い始めた。わざと話の通じない相手を演じ、話を引き延ばすことで、何かを訴えているように見えてきたのだ。ならばエストが言外に潜ませたものを見極めようと、アルシュはぐっと目を凝らす。
「ともかく――」
硬い表情でエストが言った。
「備蓄を使うのは良いが、とにかく十分に弁えろ。求められるままに開放して備蓄を空にするなど、あってはならんことだ。もし、常識の範囲外の使い方が認められた場合、その時は相応の罰則を覚悟することだな」
「ええ」
アルシュは頷く。
――やはり、そういうことだ。
エストの思惑に確信を持ち、アルシュはほのかに微笑んだ。エストにアルシュたちを阻害する意志はない。ただ、統一機関の職員という立場上、備蓄を自由に使って良いなどという許可を出しようがないだけだ。
「分かりました。十分です」
言って、アルシュは頭を下げる。
「お時間をとってすみませんでした。ありがとうございます」
「え!? ちょっと」
慌てふためいてフルルが袖を掴んでくる。
「言質――じゃなくてっ、利用許可を取るんでしょう! なに引き下がってるんですか」
「許可を取るとは言ってない」
「言ってましたよ!?」
「そうだったかな……」
アルシュは肩をすくめて、あっさりと、
「じゃあ、それは諦めた」
「なっ……」
「ああ、エストさん、すみません。最後に」
絶句したフルルを背に、アルシュはエストに振り返った。
考えてみればいつも、統一機関の職員は罰則を振りかざして研修生を律しようとする。
しかし、罰則があるからルールを外れるな――というのは、裏を返せば、懲罰さえ覚悟したらルールを外れられる、という意味だ。もちろん、あらゆるルールには意味があり、規律が保たれることで共同体全体の利益が守られる、というのは大原則として。
「仰るとおり、
言って、アルシュは胸もとで右手を握りしめた。
「グラシエを見つけたのは私です。責任は私にある。私を――統一機関政治部の幹部候補生、アルシュ・ラ・ロシェルを罰して下さい」
エストは何も答えず、無言で扉を閉めた。
***
夜、グラシエはまだ起き上がれる状況になかった。
だが容態は安定してきたようだ。熱も下がり、苦しそうだった呼吸は平常に戻りつつある。時折うっすらと目を開け、研修生たちと譫言のような言葉を交わすこともあった。研修生たちは階下に詰めて、備蓄倉庫と睨み合いつつ、グラシエの身の回りを調えていった。アルシュはもともと、備蓄を市民に開放することを想定して倉庫の様子を把握していたこともあり、事はスムーズに運んだ。
ひとまず作業が一段落し、午後十時。
研修生たちは「明日も来ます」の言葉を残して、上階にある各々の居室に戻っていった。アルシュはひとり階下に残り、灯りをひとつだけ点した空き部屋の古いソファに腰掛けた。窓の外はしんしんと雪が降っており、ブランケットを羽織っていてもまだ冷える。冷たい指先を擦り合わせ、備品のリストを眺めながら、遅い夕食として保存食を食べる。保存食は乾いたパンかクッキーのような風合いで、油分も甘みもなく、ひどく喉が渇いた。
すると、足音が近づいてきた。
「まだ残っていたのか」
「――エストさん?」
暗い通路のかげから姿を現したのは、数時間前にも姿を見た男だった。予期せぬ来訪に驚きつつも、一礼しようと腰を浮かすと、エストはランタンの明かりを右手に揺らして「座ったままで良い」と告げる。
「他のメンバは帰ったのか」
「ええ、夜も更けましたから。ただ、もしグラシエさんが目を覚ましたときに誰もいなくても困りますから、私が残っています」
「そうか……」
ことん、と軽い音を立てて、ランタンが円卓に置かれる。息が凍るほど寒い部屋で、太陽を思い起こさせるオレンジの灯りは、見ているだけでも身体を温める気がした。何をしに来たのだろう、とアルシュが視線を持ち上げると、エストは気まずそうに身を竦めた。
「多くは言わん。口出しするほど暇でもない。上手くやってくれ。くれぐれも――
大袈裟に強調された言葉は、苦笑の形に歪められた口元を見るに、彼流の自虐らしい。アルシュは「心得ています」と真面目な顔をして頷いてから、ふと口元を緩めた。厚手のブランケットに両膝を包んで、部屋の対角に立ったエストに問いかける。
「それで、具体的に何の罰があるんです?」
「あるわけないだろう」
はぁあ、とエストは盛大に息を吐いた。
「懲罰に割いている時間などあると思うか。君たちも重々承知のことと思うが、職員はどこの部署も多忙を煮詰めて絞った状態だ。忙しいだけなら良いが、いつ解決の目処がつくか、まったく出口が見えない」
「何があったんですか?」
「その問いには、残念ながら答えられないな。一介の研修生に機密を流さない程度には、俺はまだ統一機関の再生を信じている」
「――そうですか」
今、彼がアルシュに話した内容だって、機密漏洩すれすれだろう――と思いつつ、アルシュは何も問い詰めなかった。会話が途切れ、手持ち無沙汰になったが、職員が来ている前で保存食をかじるのも躊躇われる。仕方なく手元にあった書類を揃えていると、今度はエストの方から話しかけてきた。
「しかし、なかなか君は聡いというか――狡猾だな。罰がないと分かっていて、あのような啖呵を切ったか」
「そうですね……」
アルシュは苦笑しつつ、正直に答えた。
「半分は、期待してました」
「もう半分は」
「罰を恐れて目の前の人を救えないのなら、罰されるほうが正しいと思いました」
「――そうか」
夜の暗がりに紛れ、エストはすこし笑ったようだった。
そして顔立ちを引き締め、彼は険しく細めた双眸でアルシュを見据える。
「だがな、あいにく統治府というのは、目先の正解だけを選んでいられるほど単純ではない。統一機関に行けば備蓄がもらえる、などという噂が安易に広がってみろ――大挙して市民が押し寄せる」
「……そう、でしょうね」
「今回は女ひとりだから油断して掛かったのだろうが、これが屈強な群衆になったり、果ては武装した集団にでもなってみろ。均衡を崩して行き着く先は暴動だ。そして、君が思うより、臨界角はずっと近い場所にあるぞ」
「――はい」
姿勢を正してアルシュは頷く。
ずん、と重たい鉄球が夜に落ちた気がした。真冬の寒さが身体に染みこみ、どこか昂ぶっていた心を冷やしていく。エストが語った内容はごく常識的な推論に基づくものだが、彼に言われるまで、暴動に発展する可能性は頭から抜け落ちていた。事の重大さは分かっていたつもりで、それでも軽く捉えていたのかもしれない。アルシュが我知らず拳を握りしめると、エストは「まあ」と苦笑して雰囲気を緩めた。
「その上でこう思うよ。俺も、君のように動けたらどれだけ良いことか――と」
「……ですよね」
小さく頷く。
統一機関の職員というのは、もともと研修生だった人々だ。つまり、アルシュたちと同様の教育を受けて育っており、似たような規範を内面に刻まれている。助けを求めて転がり込んできた市民を見殺しにしたい職員など、本当は一人だっていないはずだ。彼らが動かない理由はただひとつ――研修生とは非にならないほど統一機関に責を負っているから、軽率なことができない、その一点に尽きるだろう。
「もし――何か問題があれば、相談してくれ」
そう言って、エストは卓上のランタンを持ち上げた。
「俺に可能な範囲で手を貸そう。昼間は業務があるから動けないが、夜間ならば多少の対応はする。他のメンバにも、エスト・フィラデルフィアの名を伝えておいてくれ」
「ありがとうございます」
アルシュが礼を言うと、エストはひとつ頷いてくるりと背を向けた。そのまま部屋を出て上の階層に戻るのかと思いきや、彼は、背を向けたまま扉の前あたりで留まっている。何をしているのだろう、とアルシュが訝しく見ていると、風音に紛れそうな小声が言った。
「……俺は、統一機関が存続してほしいと思っている」
「エストさん?」
アルシュの問いに彼は答えず、ただ、一方的に言葉を繋いだ。
「だが、率直に言って崩落は近い。雪が溶けるのとどちらが早いか、極限はいずれやってくるだろう。その時、新たにラピスを統べる者が、もしもだ、仮に生まれるとしたら、それは……現状を知らずに理想のみで動ける、若者の役割なのかもしれないな」
ぐっと喉が詰まった。
我知らず、アルシュは息を呑む。思わず立ち上がりそうになるが、追及を避けるようにエストは部屋を出て行ってしまう。遠ざかっていく硬い足音を聞きながら、はぁあ、と長いため息を吐いて、アルシュはソファに座り直す。
心臓がどきどきと鳴っていた。
「……目が覚めちゃった」
呟き、目を擦る。保存食を食べ終えたら仮眠を取るつもりでいたのに、とても目を閉じられるような気分ではなかった。
***
翌朝九時。
グラシエの容態はひとまず小康状態に入り、彼女のベッドを囲むようにして集まった研修生たちは、彼女の訴えを聞く。グラシエが訴えた慢性的かつ広範にわたる物資の不足や、配電系統の不安定、また水路の凍結などはラ・ロシェルでも散々聞こえる苦情だった。
率直に言えば凡庸な訴えだった。研修生たちは自主的に集まっただけあり、表立っての反論はしないものの、またか――という辟易を誰しも滲ませていた。あるいは、どこでも同じ問題が起きているんだな、という諦念を。
――しかしながら。
「冬に配給量が減ることは、再三通達があったはずですよ」
フルルがそう問うたのを切欠に、場の空気は一変する。
「今年、バレンシアでは、例年になく大規模な収穫祭を催し、浄火で焚く供物も多く捧げたとの話でしたが。今の仰り方ですと、配給が減ることを分かっていながら備蓄を削ったと、そのように聞こえてしまうのですが――」
「……通達?」
ぱち、とグラシエは腫れた目を瞬かせる。
「……何のことですか?」
「え、ですから、統一機関が七都市に発している報せです。月に四度、届くでしょう。どのように処理されているか知りませんが、おそらくは伝報局の人間が処理して、バレンシア住民にも知れるよう公布するはず――」
「公布って、何を……」
「ですから……その、生活基盤の供給が不安定化してるとか、そういうことを……」
「不安定、なんですか……?」
「……は?」
フルルがぽかんと口を開ける。
その場はフルルに譲り、一歩下がって見ていたアルシュだが、どうもグラシエとフルルの会話がすれ違っているように思えた。何か、根底の部分でずれている。最初のボタンを掛け違えている。何だろう、と考え、そして――気がついた。
「ま、待って、フルル……! グラシエさんも!」
アルシュは慌てて会話に割って入った。
そう、考えてみればおかしな話だったのだ。ラ・ロシェルの住民たちは口を揃えて統一機関の文句を言う。頼り甲斐がないと罵り、臆面もなく落胆を語り、ついには見切りを付けて街を出て行く。職員のエストがどれだけ体面を保とうとしようが、それが統一機関に対してラ・ロシェル市民の下した評価だ。吹雪をかき分け仲間を喪ってまで頼る相手ではない――そのはずだったのだ。
「まさかっ――」
呆気に取られている両者を見て、アルシュは絶望的な気持ちで呟いた。
「まさか、バレンシアには……情報が、何ひとつ、届いてない……?」