chapitre170. 晴れ上がり
文字数 7,384文字
――新都ラピス
声の切り方。
息の抜き方。
エリザのそれが、
「いや……」
少年が首を傾げる。
「でも、シェルが違うって言うなら、違うのか。やたら似てると思ってさぁ――結構、そういうとこに、人の個性って出るんだよな」
違う。
いや――違わない。
ずっと前から、幾度となく感じていた。どう因果がねじ曲がっても彼女と同一人物ではないはずのエリザから、他人の空似とは思えないほど、濃く彼女の気配が漂っているのを。
声だけではない。
立っている姿や歩くときの癖、笑うときに持ち上げる頬の角度。記憶のなかにいる彼女と、そこにいるエリザを比べるたび、まるで映像をすげ替えたように、エリザが彼女と重なり合う瞬間があった。
だけど、それは全て――あの日、彼女から世界を奪ってしまったシェルの後悔が見せた幻覚だと思って、ずっと見ないようにしてきた。直視すれば心ごと囚われてしまいそうで、目を逸らしていたのだ。
まさか。
もしかして、幻覚でないとでも言うのか。
「シェル……どうした?」
掴まれた腕をぱっと払う。
地面に落ちてひびの入った
どうして。
自分は、いったい何をしているのか。
よく分からないまま、それでも、今すぐコアルームに行かなければならない――という確信めいた熱が胸を満たして、それを原動力にシェルはひたすら走り続けた。
今すぐ、エリザに。
いや――彼女に、会わないと。
***
「多少の嘘は、致し方ないと言うけど」
エリザが白く光るパネルを見ながら呟いた。
「私たちの場合、少々嘘を吐きすぎではないかしら?」
「貴女がそれを言いますか……」
ロンガは呆れつつも答える。
現在、エリザの身体をコントロールしているのは本来の持ち主であるエリザで、居候であるロンガの意識は、あえて空間座標で表現するなら斜め上の後方に浮いていた。操作盤の上で指が滑らかに動いているのを感じながら、ロンガは黙っていられなくて苦言を呈する。
「マダム・カシェを無理やり追い出したのは貴女じゃないですか。吐くべき嘘が、ひとつ増えたんですからね、あれで」
「ふふ……ごめんなさいね?」
密やかに笑って、エリザの小指がキーを叩いた。
改行。
数秒考えて、命令文を書く。
彼女がやっているのは、
アイデアを出したのはロンガだが、驚くべき速度でプログラムを組み上げているのはエリザだ。次々に生み出されるソースコードに目を見張りながら、そういえばエリザは情報工学に明るいという話だったな――と、ロンガは今さらのように思い出す。そもそも彼女はハイバネイト・シティの立ち上げ段階に関わっているのだから、エリザこそが、現在ラピスにいる人間でもっとも
「……ひとまず、これで」
書き終えたプログラムを実行させて、ふぅ、とエリザが息を吐いた。彼女はシャツワンピースの袖をまくり、椅子の背もたれに背中を倒して目を閉じる。
温度調節の機能が壊れたのだろう、地下五百メートルの地熱が床下から蒸してきて、コアルームは真夏のように暑かった。おまけに天井からは水が滴っており、湿度も高い。息を吸って吐くだけで体力が奪われていく環境で、エリザの病弱な身体はかなり疲弊していた。
「――この部屋も」
椅子をくるりと後ろに回して、ロンガはコアルームの扉を見遣った。
「いつまで持つか、といった雰囲気ですね」
「ええ……」
エリザが相槌を打つ。
コアルームの電子扉はずいぶん前に壊れて動かなくなり、半開きのまま止まっている。外の通路は膝上まで浸水しており、扉の前に棚を置いてどうにかコアルーム内への浸入を防いでいるが、隙間から少しずつ水が室内に入り始めている。通路の非常灯もほとんど消えてしまっていて、コアルームにまだ電気が通っていることのほうが、奇跡に思えるほどだった。
椅子を再び回して、ロンガはパネルに向き直る。
ハイバネイト・シティの立体地図を表示させると、まだ地下に残っている人たちが、白い光点で表示される。この数時間で光点の数は一気に減少したが、同時に停電区域も広がっているので、ただ単に
「皆……無事に、地上に逃れたでしょうか」
天井を見上げて呟く。
発電棟の再起動に向かったアルシュやカノンからは、別れて以来、一度も応答がない。電力がひとまず復旧したので、少なくとも再起動には成功しているのだろうが、その後どうしたのかは何の情報もない。
他にも、居住区域にいたであろう知人たちや、
そのときだった。
今まで真っ暗闇だった立体地図の一角に、とつぜん光点がひとつ煌めく。滞在位置としてはほぼ最下層だ。逃げ遅れている者がこんな下層にいるとも思えないため、センサーの誤作動だろうか――と疑いながら、ロンガは詳細な情報を表示させる。
ウィンドウが開く。
「――え」
そこに浮かび上がった四文字の名前を見て、ロンガは思わず立ち上がった。意味もなく後ろに下がりながら、二、三度と瞬きを繰り返すが、何度見ても同じことが書いてある。
「嘘……どうして」
「――あら」
横で浮かび上がったエリザの意識が、小さく嘆息した。
「来てしまったのね……彼」
「なんでっ……」
ひゅぅ、と喉元で音が鳴る。
後ろに倒れそうな感覚を耐えながら、なんで、と繰り返して呟いた。
「だって――彼は地上に」
「そうね、さしずめ……嘘が暴かれてしまった、というところではないかしら」
遠くで水音がした。
そして、その音はこちらに近づいてくる。静まりかえった最下層で、明確な意志を持った存在が、まっすぐコアルームにやってくる。
「リュンヌ。もう、逃げ場がないわ」
身体がびくりと揺らされる。
エリザがぐっと肩を掴み、顔を正面からのぞき込む――そんな錯覚。
「本当のことを、彼に言いなさい」
「そ――それはっ……できません」
「あのねぇ……」
はぁ、と溜息が聞こえる。
「彼をここまで来させておいて、今さら貴女は、私の名前を使って逃げるつもりなの」
叱りつけるような声が言う。
「貴女は……貴女自身や、私や彼や、友人たち、それにこの世界のために、たくさん嘘を吐いたわよね。貴女が言ったとおり、私は、嘘が必ずしも悪だとは思わない。嘘は手段のひとつであって、真に大切なのは、その裏側にある意志……」
エリザは淡々と言葉を連ねてから「だけどね」と少し声のトーンを下げた。指先までが白銀色の視線に絡め取られて、ロンガは一歩も動けない。
「それでも嘘は……上辺だけ取り繕った虚構は、いずれ暴かれる。その時に問われるのよ、何のために嘘を吐いたのか――その理由が。本質が」
足音が聞こえてくる。
「リュンヌ、貴女は」
脳の内側で声が響く。
「どれだけ理屈を弄しても、結局……彼と正面から向き合うのが恐ろしくて……それで、本当のことを言えなかったんじゃないの」
乱れた息遣いが近づいてくる。
エリザがすっと意識を遠ざけて、じゃあ、とひとつ挨拶をしたかと思うと、深い海の底に潜るように姿を消した。心臓の動きがどんどん速くなって、今にも壊れそうだった。ロンガは胸元で両手を握りしめて、その瞬間を待つ。
扉の向こうに人影が現れる。
視線が合う。
長いオレンジ色の髪も、膝丈の外套もぐちゃぐちゃに乱して、彼はそこに立っていた。上気した頬は汗に濡れて、光を反射している。彼はコアルームの扉前に置かれた棚に手を掛けて乗り越え、ロンガの目の前まで歩いてくる。
正面で向き合う。
懐かしい、赤みの強い瞳を見つめた。
長い睫毛に縁取られ、いつも強く見開かれて、ともすれば圧迫感すら与えるほどに存在感のある瞳だ。瞳が訴えかける力の強さは、そのまま彼の意志の強さだった。
あの日、朝焼けの窓際で、このラピスを捨てて他の世界に行こうと彼が言ったとき――ロンガは彼を恐れた。彼のなかにある、強すぎる意志を恐れた。愛しいのと同じくらい、計り知れない恐怖に囚われた。物心ついてからずっと隣にいて、誰よりも親しいと思っていた相手のことを、本当は何一つ知らなかった。
分からないのが怖かった。
自分と同じくらい大切な人で。
だけど、自分ではない他人だから。
どうやって触れていいのか分からなくて、ずっとロンガは、ロンガ自身として彼に向き合うことを避けてきた。彼が、自分のことをどれだけ大切に思っているか知っていたから、自分自身の存在――あるいは不在が、彼をまた絶望の底に叩き落としてしまう気がして、どうしてもあと一歩を踏み出せなかった。
でも、本当は分かりたいし、分かってほしい。
誰よりも大切で、いちばん特別な人に、ここに存在する自分を知ってほしい。そのためには、恐れながらでも一歩、前に進まないといけない。
前に、ロンガは手を伸ばす。
彼の手に、確かめるように指先で触れる。
「……ソル」
思い切って声にする。
彼のまなざしが、揺れるのが分かった。触れた指先が、強ばるのが分かった。どうか彼が、今ここにいる――いないけれど、たしかに存在しているロンガを、ここにある真実を真正面から受け止めてくれるように、祈りながらその手を握りしめる。
「私……ここにいるんだ」
視線を逸らさないまま言うと、彼の下まぶたの縁に涙が浮かび上がって、火照った頬を伝って落ちた。
「やっぱり……そう、なんだ」
「……気付いてたのか?」
「気がつかないように、してた。ぼくの、幻覚だって……思って」
彼は目元を拭って、じっとロンガを見た。
一秒ののち、張りつめた表情から溶けるように力が抜ける。いくつも大粒の涙をこぼして、しゃくり上げる呼吸をしながら、それでも彼の口元は上向きに弧を描いていた。
「でも、分かる……ルナだ」
「うん……」
懐かしい愛称で呼ばれた瞬間、身体中が浮き立って震え出す。指先から足の先まで、全身が言うことを聞かなくて、ただそこに立っているだけで精一杯だった。彼はつないだ手を胸元まで引き寄せて、そこにじっと視線を落とした。
手の甲に涙が落ちて、伝う。
泣いている体温を空気越しに感じながら「ごめん」とロンガは呟いた。
「ずっと黙ってて、悪かった」
「どうして……謝るなら、ぼくの方だ。ぼくが、あんなことをしたから……ルナは」
声のトーンが落ちる。
闇夜より暗い後悔が、一瞬シェルの背後に浮かび上がる。だけど彼は、それに飲み込まれることはなく、ひときわ強くロンガの手のひらを握りしめた。彼の呼吸は不安定に揺れて、収まりきらないものを押し出すように息がこぼれる。
「よ、良かっ、良かった……」
「……うん」
「ごめん、ちょっと待ってね……」
掠れきった声で言って、シェルは肩を震わせながらその場に膝をついた。ロンガは彼に何か声を掛けようとして、だけどどの感情もうまく言葉にできず、握る手に力を込めることで、せめて何かを伝えようとした。
ピッ、と背後で音が鳴る。
日付が変わったことを示す音だ。
太陽が地面の真裏に回り、真円の月が空を極める真夜中の零時。太陽と月が出会うはずのない時刻に、それでも二人は出会って、互いの存在を確かめ合う。
***
「あのさ……ひとつ、聞いていい?」
まだ、何かが引っかかったような、少し掠れた声でシェルが言った。ロンガが頷くと、彼は外套を脱ぎながら立ち上がって、くるりとコアルームを見回す。荒廃しつつあるコアルームにいるのは、シェルと、エリザの身体を借りているロンガの二人だけだ。
「マダム・カシェが一緒にいるって言ってたのは……嘘?」
「ああ――うん」
ばつが悪いながらも、ロンガは頷く。
「いや……昼頃までは、彼女もいたんだけど。マダム・カシェと二人で残るなら――という条件で、MDPの人たちはエリザを残して地上に向かったんだ」
アルシュやカノン、MDP構成員たちの名誉のためにもそう補足しておくが、当然の疑問として、シェルは「じゃあ」と首を傾げた。
「どうして今はいないの?」
「えぇと――」
それを説明するには、この身体に、エリザとロンガの二つの意識が宿っているところから理解してもらわねばならない。直感的には掴みづらい話をどうにか説明すると、シェルはすんなりと納得して、そっか、と呟いた。
「ずっとルナってわけでもなかったんだね」
「意外と……あっさり受け入れてくれるんだな。もっと疑問に思うものだと」
「たしかに変な話だけど、エリザじゃないとおかしいな……って場面もあったから。そうか、じゃあ、マダム・カシェを地上に行かせたのはエリザなんだね?」
「そう」
ロンガは頷く。
「あの二人は……友達だから。マダム・カシェはエリザを守ろうとして地下に残ったし、エリザは彼女を守りたくて地上に逃がした」
「お互い、相手のことを思っていたのに、相容れないんだね」
「でも、分かるだろう?」
ロンガが、自分とシェルを交互に指して言うと、彼は幾分険しい表情になりながら頷いた。
「同じだね」
シェルはそれだけ呟いて、コアルームの壁を一面占めている液晶パネルに向き直った。ほとんどスケルトンと化したハイバネイト・シティの地図と、数少ない残留者を示すまばらな光点が表示されている。
「でもさ」
彼はパネルを見つめたまま呟く。
「エリザが独力で、ここから地上まで脱出する算段ってあったの?」
「さあ……今のところ、画期的なアイデアのようなものは聞かされてない。だから、なかったんじゃないか。最悪の場合、ここに骨を埋める覚悟だった――と」
「きみ自身にも関わるって言うのに、呑気だね」
シェルがどこか呆れた声で言う。
「さっき回線越しで、コアルームにマダム・カシェがいるって言ってた……あれはルナでしょ? どうして嘘を吐いたの」
「だって――本当のことを言ったら、ソルだったら、ここに来てただろ」
「うん」
彼は躊躇う素振りもなく頷いた。
「っていうか……ぼく、現に来てるけど。ダメだったわけ?」
「そりゃそうだろう……誰が、危険な場所に来て欲しいと思う? ハイデラバードに向かう手引きまでしたんだ。あのまま地上に逃れてくれれば、それで良かったものを」
「ぼくひとりが助かったって、ルナやエリザが助からなかったら、意味がない」
シェルはきっぱりと言う。
そこには一切の迷いがなくて、シェルが何の比喩や誇張でもなく、自分だけが生き残ったのでは無意味だ――と思っているのが伝わった。また少し、計り知れなさを感じる。時折シェルは、彼自身の安全や生命についてひどく無頓着だ。何をするにしても意志が強いのに、その中核にあるべき彼そのものに、重みが欠けてふわふわとしている。
「ソル――」
ロンガが顔を上げて、シェルの瞳を見つめた、そのときだった。
ドン、と斜め上の方角で音。
遅れて、コアルームの壁が小さく揺れ始める。天井近くでバチッという音。シェルが目を見開いて後ろを振り向いたのを最後に、白く光っていたパネルが消えて、視界が暗闇に包まれた。手を引かれ、壁ぎわに身体を抑え込まれる。
数十秒、激しい揺れが続いた。
暗闇のなかで、衝突音が断続的に響く。壁や天井や床、落ちたパネルや操作盤や椅子、ありとあらゆるもの同士がぶつかり合う音。無作為に揺さぶられる部屋の中では、人間もただの物体でしかない。何かの間違いでうっかりすり潰されないことを、祈るしかない。
何か生温い液体が、ロンガの頬に落ちる。
だが、気に掛けている余裕はなく、ロンガは歯を食いしばって、その場から押し流されないようにひたすら耐えていた。
ようやく揺れが小さくなる。
「ルナ、大丈夫?」
シェルがどこからかペンライトを取り出して、こちらを照らす。眩しさに思わず目を細めると、彼が小さく息を呑んだ。
「血が……どこか、怪我した?」
「――え?」
彼が指さした頬を触ると、たしかに少し血が付いているが、どこも痛くない。ロンガは眉をひそめて、そこで初めて、こちらにライトを向けている当人の額から血が落ちていることに気がついた。
「違う、ソル、君が怪我をしてる」
「え? ああ……」
シェルが自分の額を触って、初めて気がついたらしく片目を細めた。頬を伝い落ちた血を袖で拭いながら、電気の消えたコアルームをライトで照らし出す。
「電源が落ちちゃったか」
冷静な口調が言う。
「これ以上、コアルームにいる意味がないし……どこかから登れないか、探しに行こう。大丈夫、立てる?」
そう言うや否や、シェルはロンガの手を引いて立ち上がろうとする。
ロンガは慌てて「待って」と彼を引き止めた。
「ソル、頭を打ったなら、すぐ動かない方が良いんじゃないか」
「ん……でも、平気だよ。それより、一秒でも早く、ここから逃げることを考えた方が良い。いつ崩れるか分からないから」
「……そう、だけど」
ロンガが渋々ながらも立ち上がると、シェルは血で汚れた顔のまま頷き、リュックサックを背負い直した。その首筋を血がひと筋伝うが、彼は気に留める様子もない。
ほら――そういうことをする。
理屈としては正しいから、反論ができない。だけどやっぱり、シェルが、彼自身に興味がないように見えるのが、どうにも気掛かりでならない。シェルが誰の役にも立たなくたって、ロンガを救ってくれなくたって、ただ生きて笑っていてくれれば、それ自体がロンガにとっての太陽になるのに。