chapitre163. 恋の具象
文字数 6,306文字
バレンシアの宿舎で生活していた頃の自分とは変わった、と思う。どう変わったのかと聞かれると言葉にしづらいが、見たこともない景色のなかで生きて、フルルやレゾンという友人と出会った。ほんの末端ではあるけど、MDPという組織を介して、変わっていくラピスという街に関わっている。あの頃よりもずっと高く、広い視野を持てている――と思う。
リヤンは胸元で両手を握りしめて、先を歩くシャルルの背中を眺めた。
嫌でも、昔を思い出す。まだ学舎に通う年齢の子供だったころ、彼の後を追いかけて畑仕事をしていた幼少のリヤンが、今の自分と重なり合う。
なんだか――とても、居心地が悪かった。
切り離して故郷に置いてきたはずの、幼くて取るに足らない自分を、無理やり見せつけられているような、そんな気分になる。
「こっちだ」
事務的な素っ気ない口調で、シャルルが振り向かずに言う。リヤンは「うん」とだけ応じて、数メートルの間隔を開け、彼の背中を追いかけた。
「お知り合いなんですよね?」
背後を歩くレゾンが、小声でフルルに問いかけている。「そうだよ」と、こちらも囁き声でフルルが応じる。
「リヤンがバレンシアにいた頃の、同居人らしいよ」
「そうですか……でも、それにしては、なんか――」
雰囲気が重いような。
レゾンの忌憚ない意見に、フルルが苦笑をこぼすのが聞こえる。付き合いの長い彼女には、リヤンが宿舎を家出同然に飛び出してきた経緯も、かいつまんで話してあった。
「まあ……きっと色々あるんだよ」
フルルが軽い口調のまま、少し声のトーンを上げて言う。
リヤン自身もうまく処理できない感情を「色々」という玉虫色の言葉で包み込んでくれたのが、かえって有り難かった。ともすればフルルは、リヤンに聞こえるよう、わざと声量を上げたのかもしれない。そういう気遣いができる人だ。
「気にしないでおこう」
「――そうですね」
レゾンが頷いて、フルルが苦笑する気配。
そのまましばらく無言で歩くと、幾つ目かの曲がり角を通り過ぎたところで、シャルルが歩きながら「あのさ」と切り出した。
「これだけは、先に聞いてほしいんだけどよ」
言葉を選んでいるような気配がある。
「あのな……サテリットのこと」
「妊娠してるのは聞いてる」
リヤンが先回りして言うと「いや、そうじゃなくて」と言ってシャルルが振り向いた。あまり直視しないようにしていたが、彼はかなり疲弊した表情をしていた。自分で切ったらしい髪は不揃いに跳ねて、目元には隈ができている。
「あいつさ……」
黒ずんだ目元を擦りながら、彼は緊張した口調で切り出した。
「今……ちょっと、記憶飛んでんだよ」
「え――」
息が止まりそうになる。
シャルルは気まずそうに首の後ろをかいて、目を見開くリヤンから視線をそらした。
「その……例の、五年前の収穫祭からこっち、ほとんど全部忘れてる。リゼのことやお前が出てったことも、教えはしたけど思い出してない」
「――なんで!」
思わず彼の腕を掴んで、リヤンは叫んだ。
「なんで、サテリットにまでそんなこと!」
「俺らがやったんじゃねぇよ」
押し殺した声でシャルルが言う。
「地下の飯に、一時期……変な薬が混じってたんだよ。あいつとアンと、俺らが何日かはぐれたことがあって、帰ってきたらもう――五年前のあいつだった」
「そんな――」
ふらり、と後ろに体重が傾く。
落ちていきかけた身体をどうにか踵で支えて、リヤンはぐらぐらと揺れる額を抑える。身体中の体温がどこかに逃げてしまったように、身震いが止まらない。後ろから友人たちが追いついてきて、両側を挟むように立ってくれた。
「五年前、って言った?」
「そうだよ。意味、分かるだろ」
「じゃあ……サテリットは、アンと恋人だったことも、今は」
覚えてないの。
ほとんど声にならない声で問いかけると、シャルルが静かに頷いた。
*
突然現れたリヤンを見て、アンクルたちはまるで亡霊でも見たような顔になった。自分の存在に彼らが呆れるほど驚いている、それがなんだか気まずくて、リヤンは友人たちの後ろに身体を隠す。
アンクルが椅子から立ち上がって、こちらを穴が開くほど見つめた。
「え――本当に、リヤンなの」
「もうっ……あたし、
彼らに会うために来たと思われるのが嫌で、先手を取って自分の立ち位置を表明しておく。アンクルの目が潤んでいるのに気がついて、リヤンは慌ててフルルの背中にしがみつき、彼から目を逸らした。
「あんまり変な顔しないで」
「変な……? ごめん、でもその――嬉しくて」
「そういうのが嫌なんだって!」
精一杯に険しい口調で突き放しながら、リヤンは薄目を開けて、寝台に腰掛けているサテリットの姿をちらりと見た。彼女は厚手のカーディガンを羽織っていたが、それでも腹部が明らかに膨らんでいると分かる。リヤンたちと同じ、出生管理施設ではなく、愛し合う人間同士の間に生まれた
それは嬉しいけど、でも。
ふたりの間にあったはずの愛が消えてしまったら、近いうちに産まれてくる生命は、それを知ってどう思うだろう。自分という存在の根源だったはずの感情が、薬剤ひとつで奪われてしまったと聞いて、何を思うのだろうか。
では、と言ってフルルが部屋を見回す。
「段取りを説明して良いですか。ねえ、くっつかれてると邪魔なんだけど……」
フルルが眉をひそめて振り返るが、リヤンが無言で首を振ると「まあ良いけど」と溜息を吐かれる。彼女はMDP構成員としての真面目な表情に戻り、リュックサックから取り出した
少し青みのかった白い光が広がり、六人が見つめる空間の真ん中に、ハイバネイト・シティの立体地図が投影される。
「まず地上を目指します」
地図の上の方を指さして、フルルが言う。
「浸水被害でかなり回り道の必要がありますが、無人区域を飛び石状に渡っていくので、他の語圏と鉢合わせになることはありません。経路は基本的にスロープですが、破損の程度によっては、多少、険しい道のりになるかもしれませんが――」
そう言って彼女は、サテリットにちらりと視線を向けた。
「平気でしょうか?」
「他に方法がないのよね。こんな事態だもの、できる限りのことはするわ」
「分かりました」
フルルがほっとしたような息を吐く。
彼女の説明を引き継ぐように、レゾンが
「地上に出てからの移動はどうされますか。ハイデラバードまで、徒歩でも二時間ほどあれば着きますが」
「二時間?」
シャルルが目を見開く。
「思ったより
「ええ、バレンシアのなかでも、かなり外れのほうに出ますので……ちょっと山道になりますが、まっすぐ向かってもらえば、そうですね――夜くらいには着きます」
「だって隣町だもの」
サテリットが口を挟んだ。
「直線距離だと十キロもないのよ」
「あの、でも――流石に、妊娠されていると二時間は厳しいと思うので。
「メテオール?」
「ああ、えっとですね――」
見たところ、彼女はいつも通りだ。
いや、むしろ――宿舎でともに暮らしていた頃より元気にすら見える。リゼが崖から落ちて亡くなり、サテリット自身も酷い怪我を負った、あの辛く厳しい冬を忘れてしまったからだろうか。
「……だとしたら嫌だな」
ほとんど唇の動きだけで、リヤンはぽつりと呟いた。
辛かった記憶を忘れることで、見かけ上だけ元気になれる。それはまるで、記憶操作を受けていたときの自分みたいだ。サテリットに落ち込んでほしい訳ではないけれど、かつてリゼの仲間だった第43宿舎の人間は、彼の死をちゃんと悲しみ悼む義務がある――そんな気がするのだ。
数分も掛からずに段取りの説明を終えて、フルルが「では」と言って立ち上がった。
「私は少し、地上まで先回りしますね。リヤン、レゾン君、地上までの案内はお願いして良いかな」
「え? どうして」
「
フルルは
「スーチェンの格納庫に出て、そこから空路でバレンシアまで行くよ」
「あ――それは良かったです。でも」
レゾンが頷きつつも、不安そうに眉をひそめた。
「地下は
「いちおう無線は使えるけどね。たしかに、ちょっと不安だけど……地上でみんながどこに出るかは抑えてあるから、現地で合流しよう」
「分かりました」
まだ不安げな表情をしつつも、レゾンが頷く。三人は
レゾンがこちらに振り返って問いかけた。
「荷物は俺が持つんで……道案内、頼んで良いですか」
「うん、分かった」
ふう、とリヤンは息を吐いて、まだざらついている胸元を抑える。いつまでも仲間たちに任せているわけにはいかない。アンクルに宣言した通り、あくまでMDPの人間として役目を果たすために、リヤンはここに来たのだ。
立体地図を参照しながら、一行の先頭に立って通路を進む。
「――ここだ」
内開きの扉を直角に開けて、リヤンは埃っぽい倉庫の照明をつけた。周囲と比べてわずかに色の浮いているパネルに手を伸ばし、手前に引いて外すと、奥にスロープの空間が現れた。幅広のパネルを、リヤンは両手を拡げてどうにか持ち上げ、邪魔にならないよう部屋の片隅に運ぼうとするが、棚のひとつに角が引っかかってしまった。
「わわっ、と――」
「お前……無理すんなよ」
遠心力に振り回されてバランスを欠いた背中を、シャルルが支えてくれた。
「ひとりで運ぶサイズじゃねぇだろ、それ」
「……別に平気だもん」
「平気って、お前なぁ――」
シャルルが苦々しく眉をひそめる。だがそれ以上彼は何も言わずに、パネルの片隅を持って立てかけるのを手伝ってくれた。
「……あれ」
そんな彼を横目で見ていて、ふと気がつく。
上着のポケットに突っ込んだ右手首に、包帯が巻き付けてある。彼は利き手であるはずの右手を使わず、左手だけでパネルを支えていた。
「あのさ……シャルル」
違和感を無視できなかったリヤンは、思わず気になって口を出してしまう。
「手、怪我したの?」
「あ――いやっ、これは違う」
「え、でも、包帯……」
シャルルは妙に忙しない仕草で、ポケットのさらに奥へ手を突っ込む。リヤンが首を傾げたところで、扉の方から「リヤンさん」と呼びかけられた。かかとで扉を抑えて、レゾンが室内に顔を出している。
「ちょっと手伝ってもらって良いですか」
「あ、うんっ」
身体をくるりと反転させて、リヤンは駆け足で通路に戻った。荷物を抱えているアンクルとレゾンに代わって、サテリットが段差を乗り越えるのを助ける。
彼女を間近で見ると、華奢な身体に比べて歪ですらある膨らみが、よりはっきりと感じられて、思わず唾を飲み込んだ。そのまま彼女を手伝い、スロープに一緒に乗り込んでから、リヤンは「あのさ」と思い切って顔を上げる。
「お腹……触ってもいい?」
唐突な申し出に、サテリットは一瞬目を見開いたが、すぐに小さく微笑んで「ええ」と頷いた。リヤンは動いているベルトコンベアの上で慎重に腰を下ろして、磁器でも触れるようにおそるおそる手を伸ばした。
固くて、少し張りつめている。
服越しに触れるだけでも分かるほど、ずっしりと重たく詰まっている。生命の質量だ――と思った。気がつけばほとんど呼吸を止めていて、息苦しくなって長い溜息を吐き出すと、サテリットが眉を下げたまま笑った。
「嬉しいものね。みんな、祝福してくれる……」
「だって……良いことだよ。違う?」
「いいえ。まさか」
サテリットは首を振って、でもね、と口元を抑えた。
「私は、ちゃんと……私自身の感情で、この子を祝福してあげないといけない。私は……この子に会いたいと思ったから地下に来た。忘れてしまったけど、そのはずなのよ」
「うん」
リヤンは頷く。
「それって、きっと……お腹の子が、アンとの子供だったからだよね」
「ええ……そうね。私は、アンのことが好きだったはずなのよ」
いつになく曖昧な口調で言って、サテリットが目を伏せる。スロープの下の方で、アンクルたちが声を交わしているのが聞こえる。荷物をベルトコンベアに運び終えて、彼らも乗り込んできたのだろう。
声の方角にちらりと視線をやって「でも」とサテリットが呟いた。
「それはいったい……どんな感情だったのか。どうして私は、アンのことを好きになったのかしら。それが分からないまま、この子が産まれてしまうのは怖くって……」
「うーん……」
「ねぇ、リヤン」
リヤンの手を両手で包み込むように握って、サテリットがこちらをまっすぐ見る。
「貴女は、恋をしたことは?」
「ない……あたし、ふたりみたいな恋がしてみたかったんだけど、どんな恋をしていたのかって言われると、あたしには分からないかも。ただ、遠くから見て、憧れてただけだから……」
「憧れ……」
初めて聞いた言葉だ――とでも言いたげに、音節ひとつひとつを区切って、丁寧に繰り返す。サテリットは首を傾げながら「そうなのね」と曖昧に相槌を打った。
「うん、でもごめん、これじゃ参考にならないよね……あ、そうだ」
ひとつ思い出して、リヤンは預かっていたサテリットの杖を取り出す。木材を削り出して作った杖は、素人目で見ても分かるくらい丁寧な仕事で仕上げられている。
「これって、アンが作ったんだよね」
「ええ、そう聞いてるわ」
「アンとサテリットの間にある“好き”って、この杖なんじゃないかなぁ」
リヤンなりに考えを巡らせた結論だったが、サテリットは今ひとつピンときていない表情で眉をひそめた。
「じゃあ私は、アンが杖を作ってくれたから好きになったのかしら。何だか、とっても即物的な……ううん、ダメというわけではないのだけど……」
「ねぇ……根本的なこと、聞いて良い?」
ぶつぶつと呟いている彼女の隣に座り直して、リヤンは首を傾げた。
「アンのこと、もう一度好きになりたいの?」
「勿論、そうよ。だから困ってるの」
その返答は、今日リヤンとサテリットが交わしたどの会話よりも明瞭だった。リヤンは息を呑んで、深い泉のような色をしたサテリットの瞳をじっと見つめる。
「……どうしたの?」
不思議そうにサテリットが首を傾げる。
だけど、首を傾げたいのはリヤンの方だった。図書館で司書を務めていて、色々な本を読んでいるサテリットは、リヤンよりもずっと賢いはずだった。五年分の記憶を失ってしまったにしても、頭の回転の速さとか、そういうのは変わっていないはずなのに。
どうして彼女が、こんな簡単な答えに辿りついていないのか。
「ねえサテリット、耳貸して?」
「え? ――分かったわ」
怪訝な表情のまま、サテリットが耳に掛かる髪を払いのけた。リヤンはぎりぎりまで口元を近づけて、
「どう? ……違うかな」
「え――ええと」
サテリットは頬を両手で隠して「少し考えさせて」と身体を丸めた。