chapitre175. 朝

文字数 8,148文字

 新都ラピスに朝が来る。

 七つの街に散らばった、七つの語圏(ルーツ)を持つ五十万のラピス市民に、ひとしく朝日が降り注ぐ。夜露に濡れた木の葉は光り、凍てついた夜空の星が柔らかく溶けていく。希望そのものを表すように、光が世界を照らし出す。

 太陽が昇る。

 照らしたものの色をそのまま跳ね返す、どこまでも白く澄んだ光が、夜に覆われた街に再び意味を与えていく。

 ***

 円柱の中央をくりぬかれた形状の、ハイデラバード市街。地下からやってきた避難者で溢れかえる石造りの街、その片隅にある部屋にて。

 ノックの音で、サテリットは目を覚ました。

 カーテンの隙間から、薄い青色の空が見えている。空気は冷え込んでいて、吐き出した息が白く凍った。外套を羽織りながら身体を起こすと、隣のベッドで眠っていたアンクルが、小さく呻いて寝返りを打つ。サテリットは彼を起こさないように静かに立ち上がって、壁に立てかけてあった杖を取り、氷のように冷たい扉を引いた。

 きぃ、と軽い音を立てて扉が開く。

 向こうに立っていた人影が、逆光の中でサテリットを見下ろした。

「――お、あー……やっと見つけた」
「シャルル……!」

 驚きにサテリットは息を呑む。

「良かった。心配したのよ、全然来ないものだから――そんなに、道が遠かったの?」
「いや……日付変わるくらいには、もうこっちに付いてたんだけどよ。どこにお前らがいるか聞いたら、一晩中――ここでもないそこでもないって、たらい回しにされてさ」

 シャルルは隈のできた目元を擦って、大きく欠伸をした。

「あっちこっち歩いて回る羽目になった」
「それは……大変だったわね」

 サテリットは口元に手を当てる。

 地下からの避難を先導して指揮しているメトル()()ポルティ()の人々も、おそらく突然の緊急事態で余裕がないのだ。彼らを責める気にもなれないが、夜の間ずっとサテリットたちを探し続けたシャルルは、さぞ疲れていることだろう。

 サテリットは扉の前を移動して、シャルルを部屋に招き入れる。

「私、もう起きるから。ベッド使って」
「おう――」

 ふらつきながら部屋に入ったシャルルが、奥のベッドで眠っているアンクルを見て「あれ」と言いながら振り向く。

「もしかして……結果的に、俺がいなくて良かったやつか?」
「早く寝なさいね、貴方」

 昨晩眠れていないせいだ――ということにしておいて、いつになくデリカシーを欠いたシャルルの発言をやんわりとたしなめる。朝焼けでも見に行こうと、サテリットは通路に出て後ろ手に扉を閉めた。通路は部屋の中よりずっと寒くて、だけど明るい。新しい――とはそういうことだ、とサテリットは思った。

 ***

 円柱をぐるりと半回転した、広間の一角にて。

 爪先をじわじわと凍らせていく冷気と、身体中を抑えつける眠気のなかで、ルージュはうとうとと浅い眠りに就いていたが、ついに寒さのほうに耐えかねて目を開けた。足を引き寄せて三角座りになり、ブランケットを身体に何重にも巻き付けながら、周囲を見渡す。

 明かり取りの窓から斜めに差しこむ日光を見て、そうだ、地下から避難してきたのだ――と思い出した。

 石造りの広い空間に、マットレスが敷き詰められている。一緒に避難してきた唱歌団(コラル)の仲間たちが、思い思いの場所で寝転がり、ブランケットを握りしめて眠っていた。

 ルージュはかじかんだ指先を握りながら立ち上がる。通路の向こう側が日向になっているのを見つけて、ブランケットを羽織ったままそちらに歩いて行った。

 そこは開けたテラスだった。

 ルージュは靴を履かないまま外に出て、柵のそばまで近づく。空気は今にも凍りつきそうなほど冷たいが、日射しに暖められ始めた石造りの床はほのかに暖かかった。

 冬の早朝。

 一年で一番寒い季節の、さらに一番寒い時間が、ルージュは好きだった。視界を濁らせる塵や、どこからともなく響いてくる雑音が、すべて地面の近くに落ちて、空気が一層澄み渡る気がするから。

 ゆっくり息を吸う。

 心のなかを描くように、音を紡ぐ。

 最初は不確かだった情景がだんだんと鮮明になり、ひとつの既知のメロディーに収束する。そうだ、あれも――凍てつく夜の終わりを歌った曲。どんな人が作った詩なのか、いつ作られた音なのかは分からない。ラピスの成立以前からある歌だとしたら、おそらく記録にさえ残っていないだろう。

 だけど。

 ルージュは組んだ腕を柵に乗せて、朝日の中で目を細めた。喉は使わず、心のなかで音楽を再生する。穏やかななかに新しさを感じさせる変ロ長調のメロディ。跳ねるように動きながら少しずつ高みを目指す音階。そこにぴたりと当てはまる、平易ながらも美しく繋げられた言葉たち。

 歓喜のフレーズ。

 それらの全てが、綺麗だと思った。

 音楽を紡いだ人のことは知らないけれど、その歌が作り出す風景は、ルージュが知っている朝に――今日の夜明けによく似ていた。

 ルージュは音楽が好きである。

 音楽というものは、ある意味で非常にメカニカルだ。身体を極限までコントロールすることで、イメージしたとおりに空気を振動させる――それが歌声である。歌い手から放たれた声の波形が、もっとも美しく共鳴するようにタイミングや振幅を合わせる――それがハーモニーである。

 だけど、それだけじゃない。

 白い息を吐き出し、その流れていく先を見つめていると、後ろから近づいてくる足音に気がついた。

「――おはよ」

 振り返ると、ロマンが腕をさすりながらこちらに歩いてきた。どうやらルージュと同じく、寒さで目を覚ましたらしい。彼は朝焼けに染まり始める木立を目にして、お、と小さく声を上げた。

「なんか……この景色さ、()()思い出さねぇ? ほら、前にさぁ歌った――」

 その独白に続いてロマンが口ずさんだのは、ルージュの胸のなかに浮かんでいたのと同じフレーズだった。

 ルージュは目を閉じる。
 そういうことだ、と思った。

 ***

 ハイデラバードを覆う森を下ると、そこは開けた平野になる。
 堅牢なレンガ積みの街、スーチェンにも朝は訪れていた。

 広場の一角、臨時発着場にて。

 歩行が困難な避難者のため、夜通し小型航空機(メテオール)でラピスの各地とハイデラバードを往復していたリジェラは、やっとのことで仲間と交代した。欠伸をすると涙がにじんで、擦った目尻がひりひりと痛む。後ろ手に手を組んで伸ばしながら石段を登り、MDPの所有であるという建物を目指した。

 下から数えて三番目の踊り場に着いたとき。

 木立の向こうから金色の光が差して、目の奥までまっすぐ飛び込む。その圧倒的な光を受けて、リジェラは思わず立ち尽くした。

 冬は、もっとも太陽が遠い季節であるという。

 だけど、そんな時節にも関わらず――あるいは、だからこそなのか。太陽が浮かんだ瞬間、あっという間に全ての景色が塗り変わるさまは、まさしく奇跡のように思える。こんな奇跡が、毎朝目覚めるごとに訪れるなんて、ほんの少し前までは想像もしなかった。

 ありふれた奇跡。

 きっと、総代が地底の民に見せたかったのは、この景色なのだろうな――と思った。

 リジェラは石段を登り切り、突き当たりの角を曲がってMDPスーチェン支部に入る。仮眠のために設けられたスペースに向かう途中で、扉が開け放たれた医療室の横を通ると、中にいた少女と目が合った。

「あ――」

 見覚えのある姿に、リジェラは立ち止まる。

 丸い顔立ちにあどけなさを残した、ショートヘアの少女。以前にラ・ロシェルにいた頃、コラル・ルミエールとリジェラの仲介をしてくれた人々のひとりだ。彼女もリジェラのほうを見て、目を真ん丸に見開く。どうやら覚えていてくれたようだが、彼女は地上の人間だ。リジェラに取って馴染み深い、地下の公用語は通じない。

 でも、前までとは違う。

 とたんに乾き始める喉で唾を飲み込んで、リジェラは彼らに教わった言葉を、記憶の奥底から引っ張り出す。

「おはよう……ございます」
「あ……!」

 ぱっと彼女の頬が上気する。

 一目見て分かる嬉しそうな顔で、おはようございます、と彼女は元気に答えてくれた。

「……あの」

 まだ、慣れているとは言い難い。

 語彙も文法もたどたどしいので、せめてできる限り丁寧に発音する。

「貴女、は、MDPの人……です。よね?」
「えっと」

 彼女は目をくるりと回した。

「あたし、本当は違って――いえ……はい。そうです。リジェラさんですよね」
「ええ。その……質問が……質問を、しても良い?」
「はいっ」
「あの――私の友達が、ここに」

 昨日の夜、瓦礫に足を挟まれて怪我をしたアックスを、リジェラ自身がこの建物に運び込んだ。その後の経過は知らないが、ここで治療を受けているはずだ。

「アックスは、無事……ですか?」
「えっと……ちょっと聞いてきます。待ってくださいね」

 彼女はくるりとその場で回って、布を張った衝立の向こうに顔を出す。リジェラのいる場所からはよく見えないが、どうやら向こうにはテーブルとソファ、それに何人かの構成員がいるようだ。彼らと一言二言、早口でやり取りを交わした彼女は、ぱっと花が咲くような笑顔でこちらに振り向いた。

「別状ない、あ……えっと、平気みたいです」
「そう……良かった。ありがとう」

 少女に礼を言って、リジェラは仮眠室のほうへ向かった。

 ***
 
 そんなリジェラを見送ったリヤンは、嬉しいハプニングでどきどきと鳴っている胸元を抑えた。かつて春を待つ者(ハイバネイターズ)の一員だった彼女が、こちらの言葉を喋れるようになっているなんて知らなかった。

 いつの間に言葉を覚えたのだろう――と首を傾げながら、リヤンは衝立の裏に戻る。衝立で区切られたスペースには、地下から運ばれてきたデータボードが所狭しと置かれていた。

 現在リヤンたちは、リュックサックにばらばらに収められたそれらを分類して、倉庫まで運び込む作業の真っ最中である。リヤンは部屋の隅から台車を引いてきて、箱のなかにデータボードを収めていった。

「凄いなぁ……」

 思わず独り言がこぼれる。

 ここに、ハイバネイト・シティの叡知が圧縮されているのだ。故郷バレンシアの図書館にも多くの本があったけど、それと同じか上回るほどの知識量が、リヤンの腕でも運べる程度のデータボードのなかに入っている。

 多分、何もかも知らないことばかり。

 そこにある知識に思いを馳せながら、リヤンは台車を押して通路に出る。玄関のほうまで向かっていくと、曲がり角の向こうから人影がひょいと姿を現した。

「あ――」

 レゾンが小さく目を見開いて、やけに機械的な仕草で立ち止まった。

 彼の顔を見た瞬間、昨日のことを思い出して、リヤンは妙に気まずくなる。もっとも、表立って何か言われたわけではない。リヤンの勘違いなのかもしれない。ただ、彼の態度がどうにも意味深に思えたというか――深読みなんて得意ではないのに、引っかかってしまうのだ。

 あの、とどこか強ばった声が言う。

「その……今、呼びに行こうと」

 彼がどこが遠慮しているように見えるのが、気まずさに拍車を掛ける。思わず彼から視線を逸らして、台車の取っ手をぎゅっと握りしめると、そこに第三の声が割り込んだ。

「ねえ――リヤン、いないの?」

 レゾンの背後から、フルルが勢いよく顔を出して言う。それから彼女は「なに」と怪訝そうに顔を歪めて、立ち尽くしているリヤンとレゾンを交互に見た。

「いるんじゃん。なんで二人して、変な顔して見つめ合ってんの」
「へ!? み、見つめ合ってなんか」
「良いから、来てってば」

 レゾンの横をすり抜けてやってきたフルルが、リヤンを引っ張っていく。背が高い彼女にがっちりと腕を掴まれて、リヤンは危うく転びそうになりながら、強引に玄関に向かわされた。

 屋外は、青くぼんやり光っている。

 目覚め始めた街の片隅に、集まっている人々がいた。フルルに手を引かれながらそちらに向かったリヤンは、一番手前に立っていた癖っ毛の少年を見て目を見開く。

「――ティア君!」

 フルルの手を払って、駆け出す。

 名前を呼ばれたティアは、小さく跳ね上がってから振り向く。息を切らしながら駆けつけたリヤンが彼の肩を掴むと、少年は蒼白な顔で「あの」と思い詰めたように言った。

「僕、迷惑をかけてごめんなさ――」
「よっ――良かったぁ、無事で……!」

 安堵のあまり、ティアの言葉を遮ってしまう。はあぁ――とリヤンが大きく溜息を吐くと、彼は一瞬だけきょとんと目を見開いた。それから琥珀色の瞳がゆっくりと潤んで、彼は掠れた声でもう一度「ごめんなさい」と呟いた。

 ***

 そして――ラピス市街から北東に離れた、海岸にて。

 冷え切った肺が痛い。
 引きずった足が痛い。

 寒さも疲労もすべて痛みに変わり、全身の骨や筋を苛む。げほ、と濁音混じりの音とともに、口から何かを吐き出した。正しく息を吸って吐けているのか、それすら分からないなか、カノンはほぼ本能だけで浅瀬を這った。

 右肩に、友人を背負っている。

 顔にべったりと髪を貼り付けた彼女の身体は重たく、生きているのかも定かではない。背中越しにほんの少し感じられる体温は、カノン自身のものか、それとも彼女のものなのか――分からない。とっくに死体に変わっているのかもしれない。

 それでも彼女――アルシュには恩があった。

 先に水路に飛び込んだ彼女が、途中の柵を外してくれなければ、おそらくカノンは地下を脱出できないまま息絶えていた。だから、生きていようが死んでいようが、この重みを放り投げるわけにはいかない。

 食いしばった歯の隙間から息を吸う。

 地面を掴んだ指先が、膝が、重たい砂に沈む。

 浅瀬までもう少し――あと数メートル。

 三、二、一メートル。

 あと数十センチ。

 最後の一歩。

 波打ち際まで辿りつき、同時に全身から力が抜ける。砂地にうつ伏せに倒れたまま、カノンは視線だけを動かして、今まさに歩いてきた道のりを振り返った。

 ――青い。

 澄み切った青の景色が、そこに広がっていた。

 そして――そんな単色の世界を横一線に切り開く、真っ白く光る水平線。そこから染みるように光が生まれて、金色の光芒が世界に広がっていく。その光が、カノンの泥まみれの身体も、塩のこびりついた髪も、全てをありのまま描き出していく。

 ああ、とカノンは呟いた。

 太陽という、宇宙に無数に浮かぶ恒星のたったひとつを指して、希望だと言った人がいた。彼の思想には同調しつつも、一方で、太陽の何が人間をそこまで惹きつけるのか――それを理解していなかったのも事実だ。

 今になって、やっと。

 朝が普遍的な救いと見なされている、その理由が分かった気がした。

「……見える世界が、広がるから――だ」

 呟いて視線を天頂に動かした、そのとき。

 藍色の空に浮かんでいる小型航空機(メテオール)を見つけて、はっと意識を引きつけられる。なんとかカノンたちがここにいることを知らせて、救助してもらえないだろうか。地面に肘をついて、全身が金属に変わってしまったように重たい身体を起こすと、視界の端でキラリと光るものがあるのに気がついた。

 アルシュの首に、金属の笛が掛けられている。

 音を鳴らせば、もしかしたら。

 そう思って笛を吹いてみるが、どれだけ頑張っても音が鳴らなかった。諦めて他の手段を探そうとしたとき、不意に、四方から無数の風音が近づいてくる。生まれてこの方聞いたことのない音に、カノンは驚いて周囲を見渡した。

 それは鳥たちだった。

 すぐ近くの木立や、まだ影のなかにある遠くの山から、数え切れないほどの鳥が飛び立ち、夜空を横切ってまっすぐ海辺にやってくる。

「ああ……」

 ようやく理解してカノンは呟いた。

伝令鳥(ポルティ)、ね」

 MDPがかつて手懐けていた、情報交換のための鳥たちだ。伝令鳥(ポルティ)が無数に群がっている様子を見たのか、空を旋回していた小型航空機(メテオール)がこちらに方向を変える。思いがけず目的を達したことを悟り、カノンは力尽きて砂浜に倒れ込み、そのまま意識を手放した。

 ***

 朝は訪れる。
 ラピス七都のどこにも平等に。

 そして――それは、今まさに崩落の一歩手前にあるラ・ロシェル直下の大穴も、例外ではなかった。地盤に遮られて太陽こそ見えないものの、夜明けの空の照り返しが穴の底まで到達して、シェルとロンガの視界を大きく開いた。

 導かれるように光のほうに歩き出したロンガは、何か固いものを蹴飛ばす。その様子を見たシェルが、あ――と高い声を上げた。

「それ――昨日、ぼくが落とした……!」
「これは――」

 拾い上げたものに光が当たって、その情報を持った光がロンガの目に飛び込む。網膜に反射した色や形状から、ロンガはその正体を推測する。

「無線機?」
「そう」

 シェルが頷いて、ヘアバンドのような形をした無線機を装着する。

「これで何とか、地上に連絡できないかな……ちょっと、試しに信号を送って――」

 そこで、彼は目を見開いた。

 手に持った無線機を取り落としながら、シェルがこちらに手を伸ばす。危ない、と叫ぶ声を聞いた気がした。手首を引っ張られて、身体がバランスを崩し、ロンガは重力に引かれるまま前に倒れてゆく。

 その刹那だった。

 何か、巨大な力が身体を穿つ。

 全身が弾け飛ぶ感覚。衝撃が身体中を揺さぶる。急激に全ての感覚が鈍くなり、世界が止まったような気さえした。

 不意に、喉元に不快感。

 込み上がったものを抑えきれずに吐き出すと、真っ赤な血の塊が地面に落ちる。そこで、自分の――正確にはエリザの腹部が目に入って、ようやく気がついた。

 鉄骨が腹部を貫いている。

 背中から腰骨の少し上まで、一直線に。

 理解した瞬間、痛みと苦痛が全身を襲った。

「あ……っ、え――? な、なに……」
「……え、嘘」
「ソ……ソル」

 地面に串刺しにされた姿勢で、ロンガは彼に手を伸ばした。どんどん身体が重たくなり、前のめりに地面へ沈んでいく。

「ぁ……た――たす、けて」

 どうにか視線を持ち上げると、はっとしたようにシェルが駆け寄って、力が抜けていく上半身を支える。口元からだらだらと流れる血が、シェルの外套の生地を染めていくのを、ロンガは暗くなる視界の中で眺めていた。

「ルナ、動かないで、動かないでね……!? いっ、今、小型航空機(メテオール)を呼ぶから」
「いっ――いや、こ……これっ、駄目――」
「お願い、がんばって……!」

 涙混じりの声が励ます。

 だけど、エリザの身体はすでに、恐ろしいほどの速度で死の淵へ転がり落ちつつある。彼女と身体感覚を共有しているロンガには、それが分かった。痛いとか苦しいとか、そういう感覚も全て混ざり合って真っ黒になり、虚空へ崩れ落ちていく。

 狭く閉ざされていく感覚のなかで。

 虹色のものを、ロンガは捉えた。

 そちらに意識を向ける。

 シェルの瞳。

 長い睫毛に縁取られた瞳。

 禍々しいまでに色鮮やかな虹色が、そこに宿っていた。

「――え?」

 ロンガが小さく息を呑んだ、そのとき。

 真っ白な光が全方位に広がって、シェルとロンガを飲み込む。全て塗りつぶすような不透明な白色のなかで、どこか遠くから、何重にも重なり合った声が響いてきた。

「……なに、誰。お前は」

 知らない声が言う。

 少年のようにも老婆のようにも聞こえる。鳥のさえずりにも、洞穴の風音にも、合成音声にも聞こえる複雑怪奇な声が言う。

「お前が邪魔をしたのかな。心臓を狙ったのに、ずれた。これじゃあ時間がかかっちゃうじゃない。ぼくは、一分一秒でも早く、その子が欲しいんだ」
「……約束が違うわ」

 すぐ隣で、エリザの声が言った。

「時間をくれるように頼んだはず」
「いや? ぼくは何も間違ってないよ」

 気持ち悪いほど平坦なのに、昂ぶりきったあらゆる感情を感じさせる声が答える。

「きみの身体が死ねば、その心をくれる――そういう条件でしょ。それ以上でも以下でもないでしょ。身体の方を無理やり殺しちゃダメなんて、言われてないよね?」

 ロンガは、幻像(ファントム)のなかでそれを見る。

 五次元宇宙を漂う超越的存在――ビヨンドあるいはD・フライヤが、無数に絡まり合った白い腕の姿を取って、抑えきれないとでも言うように笑いをこぼしていた。
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登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

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