chapitre12. 紅色の秘密
文字数 6,729文字
二人はひとまず、リュンヌが目覚めた部屋に戻った。
ソレイユは出窓のふちに座り、空を背に足を組んだ。バランスを崩したら落ちるのではないか、とリュンヌは少し不安になる。
「……気をつけてくれよ。それで、さっき見たことについてだけど」
「うん、事態を確認するために、まずは地盤を固めよう。ルナが見たのは、過去のこの部屋の景色だった。装置の暴走に伴うあの光には、過去を見せる力があるってことだね」
まあ、そうだな、とリュンヌは頷く。
部屋にぽつんと置かれたベッドに腰掛け、片足を引き寄せた。自分の身体が本当にここにあることを確かめたかった。あの幻想のような過去の景色のなかで、サジェスと呼ばれた青年を助けられなかったことが心に薄暗い影を落としていた。
「どのくらい前かな? カノン君がいたなら100年前とかじゃないよね」
「2年。サジェスは2年前に幹部候補生として選ばれた人間だ」
リュンヌは即答した。積み重ねられた本のように、雑然と並んだ記憶のなかから、彼に関する記憶を取り出して並べていく。
「サジェス・ヴォルシスキー。どの分野にも秀でていたが特に算術の成績は群を抜いていた。それから弓術が得意だったが、軍部ならともかく開発部の人間だとあまり役に立てられないだろうな」
ソレイユはふんふんと頷きながら聞いている。
リュンヌが弓術の腕に言及すると、ああ、と丸い目を見開いた。
「それ、ぼくも覚えある。弓術のセンセイが、開発部なのに勿体ないって言ってた。あれ、サジェス君のことだったんだ」
ソレイユの知識はだいたい人脈に基づいている。顔が広く、誰とでも気安く話せる彼ならではのものだ。
「ソルは彼と話したことは?」
「残念ながらないんだよね」
彼は本当に残念そうな顔をして肩を竦めた。
「違う年齢の人と話す機会ってあまり無いじゃない?」
研修生のカリキュラムは年齢に沿って綿密に組まれているので、必然的に年の違う人間と接する機会は減ってしまう。廊下やカフェテリアですれ違うのが関の山だ。たしかに同じ建物で講義を受けているはずなのに、その存在を意識することは殆どなく、お互いに空気のような存在だった。
「例によってサジェスも塔に招待されたんだろうが、その後の音沙汰はない。他の幹部候補生と同じだ」
「……幹部候補生は、塔の上で仕事をしてるって今まで言われてきたよね」
「ああ、だが、私たちへの扱いを見るとそれも疑ってしまうな」
返事の代わりに頷いて、ソレイユが窓の下を見下ろした。リュンヌも、窓の下の景色を想像する。もし落ちれば万が一にも助からないほどの高さだ。こんなところに、半ば閉じ込められたような形になるなんて、塔の下にいた頃は想像すらしなかった。
「……あ」
窓の外を見ていたソレイユが、弾かれたように顔を上げる。
リュンヌも少し遅れて気づいた。さっき、過去のビジョンの中でも聞いたのと同じ、低く響く音がする。昇降装置が動いているのだ。
今までいた部屋を出て、塔の中央にある正七角形の部屋に向かうと、ちょうど昇降装置の扉が開いた。中から出てきた人の名前を、ソレイユが重々しく呼ぶ。
「……ムシュ・ラム」
「お早う。朝食は摂ったか? 二十分後に出発だ」
睨み付けるようなソレイユの表情を、彼は意にも介さない様子だった。
有無を言わさぬ口調で畳みかける。
「ああ、出てきて良いぞ」
ムシュ・ラムは後ろを向き、何気ない口調で話しかけた。一瞬、自分たちに向けられた言葉かとリュンヌは思ったが、そうではない。昇降装置のなかにもう1人いるようだ。灯りの消えた装置の中から、背の高い青年が歩み出た。
「彼はゼロ。君たちの身の回りの世話を任せている」
「……え?」
その男の顔を見て、言葉を失ったリュンヌの代わりに、ソレイユがああと頷いた。
「朝食を用意してくれたのは貴方か。ありがとう」
ゼロと呼ばれた青年は返事をしないどころか、一切の反応を返さなかった。本当に生きている人間なのかと疑うほど、感情を感じさせない。ムシュ・ラムがゼロの肩に手を置いた。
「足りないものは彼に言うといい、……まあ手に入るかどうかはまた別の話だが」
「確認ですが。貴方はぼくたちをこの部屋から出すつもりはないのですね?」
ソレイユの言葉に、人聞きが悪い、とムシュ・ラムが冷笑した。
「ここが君たちの新しい居場所というだけだ」
*
ゼロから葬儀の正装を受け取る。
伝統的に、死者を偲ぶ式典では男女問わず無地の黒いシャツとスラックスを着用する決まりだ。装身具として水晶をあしらったチェーンをつける。肌の露出を抑えるため、襟が詰まったデザインになっているので、少し息苦しい。それに加えて陽が差し始めたので、気温が上がりはじめ、風通しの悪い長袖でいるには暑い。
快適ではなかったが、これが式典の正装なので仕方がない。手早く着替えを済ませ、二人はムシュ・ラムとゼロに先導されて塔を降りていった。
長い下降を経て、祈りの間に辿りつく。朝日に照らされる巨大な水晶を振り返った。ムシュ・ラムにここへ呼び出され、昇降装置の仕掛けを見せられた、あれがたった半日前とは思えなかった。
――そういえば。
あの時水晶に浮かび上がった女性の顔は、エリザに似ていた。新都の技術発展に貢献したために、敬意を表して認証システムのグラフィックに採用されたのだとムシュ・ラムが言っていた。するとエリザは、技術者としても何か仕事をしていたのだろうか。あとでソレイユに相談してみようか、とリュンヌは記憶の片隅にメモを残す。
それも大事だが、今はそれより大事なことがあった。
ゼロ、と紹介された青年の横顔を、気づかれないように盗み見る。
こちらに気づく様子はなく、一切表情の浮かばない顔を機械的に前に向けていた。ムシュ・ラムの命じるままに動き、それ以外一切の行動をしないさまは本当に機械のようだ。頬は痩せていて、濃い隈が目元に刻まれている。そのために分かりづらいが、しかし、風貌に見覚えがあった。
「ルナ?」
その視線に気づいたのか、半歩先を行くソレイユが小声で話しかけた。顔は前に向けたまま、口の形で、どうしたの、と尋ねる。
『何かあった?』
『あの、ゼロという青年だが――サジェスに良く似ている』
リュンヌが同じく声には出さずに答えると、ソレイユは『本当に?』と口を動かしながら目を丸くした。返答の代わりに頷く。
時間の経過に伴う変化は感じられるものの、ゼロの風貌はついさっき過去の景色の中に見たサジェスの顔によく似ていた。もしもリュンヌの見込みが正しく、ふたりが同一人物だとすれば、幹部候補生として祭り上げられたはずの研修生が、雑用係に回されていることになる。
一行は長い階段を下っていく。
昨日の襲撃事件、そして今日の葬儀と、非日常なできごとが続いているためか、どこも静かなざわめきのようなもので溢れていた。
途中の階で、ゼロは一礼して別の方向に向かっていった。
自然と、彼の動向を視線で追ってしまう。
「彼は葬儀に出席しないのですか?」
ソレイユが尋ねると、ムシュ・ラムは振り向かずに短く答えた。
「業務がある」
「……そうですか」
ソレイユは引き下がる姿勢を示しながら、リュンヌに眉をひそめて見せた。その表情の意図するところは容易に理解できた。葬儀よりさらに優先される業務があるのか。業務というのは言い訳に過ぎず、ゼロは公の場に出せない存在なのではないか。
考えているうちに地面の高さまで辿りつき、重たい扉を押し開いて外に出た。
葬送は始まるのはまだ一時間ほど先だったが、外は既に参列者で溢れていた。無秩序に歩き回る人々が、リュンヌたち一行を見て慌てて道を空ける。支給されている衣服の質が高いので、リュンヌたちが統一機関の人間であることは誰にも一目で分かるのだ。
先導するムシュ・ラムは、柔和な笑顔を人々に振りまきながら人波を割っていった。
彼が統一機関の人間として、ラピスを統べる立場にあることを改めて実感する。塔の下の人間から見れば、リュンヌもムシュ・ラムも等しく崇められる存在なのだが、実態的な立場はずいぶんと違う。片や多くの研修生を一手に取りまとめる指導的存在であり、片や塔の上に軟禁された状態だ。
気が滅入りそうになって、リュンヌは慌てて下がっていた口の端を引き締める。その状況を少しでも打破するために、情報を集めようと言ったばかりだ。卑屈になっている場合ではない。
「今からカシェという人物に会いに行く」
少し人が途切れたところで、ムシュ・ラムは立ち止まって小声で言った。
その名前には聞き覚えがある。
「政治部のカシェ・ハイデラバード氏ですか?」
「その通り。言わなくても分かるな? ――余計なことを言うなよ」
気分屋だが敏腕と名高い、政治部の重鎮だ。統一機関内で、いやラピスのなかでその名を知らない者はいないだろう。だが、その姿を見たことのある人間は多くない。別にカシェに限った話ではなく、統一機関の人間は立場が高いほど人前に姿を出さない傾向にある。
「カシェ氏がここに来ているのですか」
ソレイユが聞き返したが、ムシュ・ラムはそれに答えず背を向けて歩き出す。
おそらく、カシェがここにいること自体が内密なのだろう。迂闊にその名前を出すな、ということか。
一行は人が集まっている方向へ向かった。人だかりの中心は、ラピスを流れる川に隣接した広場だ。死者は棺に収められ、その棺は船に乗せられて川の下流に流されるのだ。もう支度は済んでいるらしく、太いロープで接岸された木製の船が浮かんでいるのが見えた。
あれ、と小さい声が聞こえる。
振り返ると、ソレイユが船の方を小さく指さしていた。
「ねえ、ルナ見える?」と尋ねてくる。
「何が?」
「あの、船に乗っている子さ、アルシュちゃんじゃないかな。遠目だけど」
リュンヌは目を凝らす。
棺が収められた船には、ひとり同乗者が乗り込む決まりになっている。
彼らは「
ソレイユが指摘したとおり、船に乗り込んでいるのはたしかにリュンヌの友人のアルシュだった。遠目でしか見えなかったが、間違いないと確信する。彼女は花冠とヴェール、麻の貫頭衣を身につけている。
「亡くなったのはアルシュの知り合いなのか」
「たぶん、アルシュちゃんの
二人はざわめきに紛れる程度の小声で会話を続けた。
「研修生だと、原則はそういう慣習だった気がする」
「そうなのか。なかなか、研修生の葬送というのは珍しいからな……」
口に出しながら、人の死んだ回数を数えるような真似をするのはどうなんだ、と反省した。
「いや、ないに越したことはないんだが。今のはあまり良くないな」
「アルシュちゃんにも悪いね。こんな話をするのは」
頷いて、しばらく無言のまま、ムシュ・ラムについて歩いた。幹部の面々が集まっている場所は、遠くから見ても分かった。並べられた椅子にまばらに腰を落ち着けている。仕立ての良い服装に加え、誰も目に力強い光を湛えている。
あれが新都の頭脳たちだ、と言われて納得するだけの存在感がある。ムシュ・ラムが向かったのは、なかでも強いオーラを放っている、端の椅子に腰掛けて足を組んでいる女性のもとだった。
「どうも、マダム」
慣れ親しんだ様子で声をかける。漆黒の服に全身を包んだ彼女は、ムシュ・ラムに鋭い眼光を向け、鮮やかな赤を引いている薄い唇を僅かに開いた。
彼女がマダム・カシェ・ハイデラバードなのか。
リュンヌは驚愕の顔を、密かにソレイユと向けあった。
「その娘がリュンヌ?」
「そうだ。後ろはソレイユ」
「彼の方には別に興味ないけれど」
肩にかけた、長い金色の髪を払い、彼女は立ち上がる。その瞬間になってようやく気づいた。先程からムシュ・ラムを見ていると思っていた視線は、ずっとその後ろのリュンヌに向けられていた。
カシェが立ち上がると、女性なのに背が高いと分かった。リュンヌはおろか、ムシュ・ラムを凌ぐほどだ。しかしその体躯をさらに大きく見せているのは、尋常でないほどに威圧的な空気だ。まるで圧力を伴うようなカシェの視線をまっすぐに受け、リュンヌは思わず一歩下がりそうになる。
「初めまして、リュンヌ。貴女を一目見たかった」
黒の手袋をした右手が、何かの花の香りと共に伸びてくる。結った髪の下に手が入り込み、顎を持ち上げる。しなやかで細い指がもてあそぶように踊っている間、リュンヌはその場に凍りついたように、他人に触れられる感触に耐えながら、その口元に浮かぶ笑みを見ているしかなかった。その時間はおそらく数秒なのに、異常に長く感じられた。触れられた首のまわりに消えない違和感が残り、手で擦りたいのを我慢しながら、リュンヌはカシェに尋ねた。
「……貴女が、なぜ、私に?」
「だって貴女は、私の願いを叶えてくれるかもしれない、唯一の存在だもの――ああ、唯一、じゃなかったっけ?」
芝居がかった仕草でカシェは首をかしげる。瞳がゆっくりと横に向けられた。彼女の言葉の後半がムシュ・ラムに向けられていることは、その視線で分かった。ムシュ・ラムはモノクルを押し上げ、苦虫をかみつぶしたような顔になった。
「会わせるという約束は果たした。もう良いか?」
「つまらない人間ね」
吐き捨てるようにカシェは言ったが、すぐに口角を上げた。
「ご自由に、どうぞ。私はもう帰るわ」
「葬送は」
「出るわけないでしょ、そんな退屈なの」
ムシュ・ラムの言葉を途中で遮り、カシェは雑踏に消えていった。周囲の人間がすぐさま道を空けた。ムシュ・ラムのときと比較してもさらに広い道ができているのが分かる。見事な金髪の後ろ姿が見えなくなるまで、ムシュ・ラムは口を開かなかった。
リュンヌは、自分の心臓がずいぶん早く跳ねていることに気づいた。はあ、と弛緩した溜め息がこぼれる。「私の願いを叶えてくれるかもしれない存在」とカシェは言った。彼女の願いとは何だろう、そして、リュンヌと何の関係があるのか。
「ぼくには興味ないのかあ」
リュンヌが色々と考えている隣で、ソレイユはいささかつまらなそうな顔で呟いた。
「別に良いんだけど。でも、まるでいないみたいな扱いをされると傷つくよね?」
「……ソルは肝が太いな」
リュンヌは少し笑ってしまった。カシェのあの雰囲気に、ソレイユは全く気圧されなかったらしい。時折ソレイユは、友人のリュンヌから見ても驚くほどの胆力を見せる。
「だって、こんな衆人環視の状況で危険なことにはならないよ」
「――だが、彼女には警戒しておけ」
ようやく言葉を発したムシュ・ラムが、二人に顔を向けてそう忠告した。
「何を考えて会わせろと言ったのか分からないが、彼女に深入りするなよ。それから、知恵比べで勝とうと思うな――私も、勝てたことがない」
最後に付け足されたひと言を言ってから、ムシュ・ラムはまた苦い顔になった。リュンヌはおや、と思った。その言葉が醸す雰囲気は、恐ろしい上司というより、往年の好敵手に向けられているような感じがしたのだ。
ソレイユもそう思ったのか、「古い知り合いですか?」と尋ねる。
ムシュ・ラムの返事は、「古い敵だ」のひと言だった。
そのやりとりを聞きながら、ある予感がリュンヌの胸の中で真実味を増していった。おそらく今まで見えていたラピスの姿は、ほんの一角でしかない。舞台袖に、日陰に、裏側に、潜んでいるものがある。畏怖と同時に、隠しようのない好奇心が育っていくのを感じていた。知りたい。否、知らなければならない、と思った。ムシュ・ラムが隠したこと、エリザが伝えたかったこと、ラピスが忘れた記憶を。
広場に、静かな音楽が流れはじめた。葬送が始まる。