chapitre105. 限りある視界
文字数 5,849文字
「ルージュと話したのよ」
「ああ――彼はどう思っているんでしょうか」
「何も言ってくれないの」
リジェラは鼻を鳴らして、意外と深刻に悩んでるみたいね、と付け足した。
「自分を責めてるんだと思う。あの子はただでさえ年長者だし、ルージュたちの音楽を守る、その一点のために地下にやってきた。なのに守れなかった、って思ってるんでしょうね」
「リジェラはどう思いますか。ルージュの音楽は、本当に失われたんでしょうか」
「分からない。私、音楽の素養ないもの」
「それは……私もですけど」
あっさりとした物言いにロンガが思わず苦笑すると、リジェラは真剣な表情で頷いた。
「私にとってルージュは、年下の可愛くて健気な女の子だもの。澄んだ声だろうがダミ声だろうが関係ない。それが普通の感覚よね」
「同感です。でも、アックスたちは――」
「音楽が一番だものね。だけど彼にだって、他者を大切にする当たり前の感情があるはずよ。私やロンガを邪険にしない時点でそれは明らかでしょう」
「ええ……そうですね」
ロンガは頷いた。
「だからこそ、苦しむんでしょうね」
「ええ」
リジェラは一瞬だけ目をぎゅっと閉じて、それから、今までの会話がまるでなかったかのように笑顔に戻った。
「今からまた、
「ああ、でしたら是非。一旦部屋に戻ってから、また来ます」
手を振ってリジェラと別れる。
居室で食事を摂ってから、シェルを誘ってコラル・ルミエールの利用している区画に向かった。
練習部屋の扉を開けると、待ち構えていたロマンが近寄ってくる。ロンガたちは腕を引かれて、既に多くの団員が囲んでいるテーブルの方へ連れて行かれた。いくつもの視線を受けて、ロンガが無意識に身体を丸めると、ロマンがその肩を掴んだ。もう片方の手はシェルの肩を掴んでいて、シェルがその手を呆気にとられた表情で見ている。
ロマンは小さく息を吸って、それから自信に満ちた表情で部屋を見回した。
「みんな! 今日はまず、勉強会をしよう」
「……勉強会?」
思わず、聞いた言葉をそのまま反復すると、同じ呟きが何人かの唱歌団員からも聞こえた。ロンガが視線を巡らせると、少し目を見開いているルージュと目が合った。
ロマンが咳払いをする。
「あのさ、聞いてほしい。言葉の壁を越えたいなら、いま声を出せない人にだって、発言権がなきゃいけない。って、この人、シェルが言ってた」
「ぼくに言質を押し付けるのか」
シェルが苦笑する。
「でも、まあ。そう言ったのは間違いないよ」
「うん、オレもそう思う。だから、今日はこの人たちに読唇を教えてもらおうと思うんだ。そうすればルージュたちだって発言ができるし、喉を痛めたときだって会議が――」
ロマンの説明を聞きながら、ロンガはシェルと顔を見合わせた。まさかこんな流れになるとは、の感情を込めて片方の眉を吊り上げてみせると、シェルも頷いた。
変わってしまったルージュの声について告発する気は、この若い指揮者にはないようだ。通路で立ち聞きした歌は聞かなかったことにして、あくまで彼女が声を出せないという前提に立ち、その上でルージュたちが会議に加われるように策を講じたらしい。
「頼もしいね」
シェルが、ロンガの心情を代弁するかのように呟いた。
読唇術。
唇の動きによって言葉を伝える、2人が研修生だったころに身につけたこの技術は便利だが、肉声に比べればどうしても伝達の精度は落ちてしまう。話す側もしっかり唇を動かすこと、平易な文章構成を心がけることなどに気を配って、多少の練習を積む必要がある。
「この人ならどんな言い回しをするか、とか、そういう視点からも考えて」
10歳近くも年下の唱歌団員たちに囲まれたシェルが、自分の口元を指さして説明する。難しいよ、と頬を膨らませた子供に服の袖を引っ張られていた。
「ねぇ、全然分かんないよ」
「じゃあ心の中で、相手の声をイメージしてみて。で、君はいつも通りお喋りするつもりで、喋ってみて」
「コイツいっつも私の悪口ばっか言うんだよ」
「そうだよ。カルムとフォレは喧嘩ばっかしてる」
「あ、今、うるさい馬鹿って言った!」
「なんで分かんだよ!」
子供たちがお互いの服を掴み合って、シェルが慌てて止めに入っている。ロマンより更に年下の彼らは、あまり接したことのない年齢層なので、人当たりの良い彼に任せたが、結果として苦労を肩代わりさせてしまったようだ。申し訳なさで胃が痛むのを感じつつ、ロンガは自分の担当である比較的年上の集団に向き直った。
「まあ、彼の言ったとおりです。百パーセントの精度は出ませんから、文脈で補完する必要はあります。場合によってはジェスチャを交えたり、聞き返して確認したりも必要かと」
「思ったより万能じゃないんだな」
ロマンが唇を尖らせた。
「でも良いぜ。できないよりできた方がずっと良いから」
「そう、彼の言うとおり、万能ではないです。ただ――精度に上限がある一方で、唇の動きから言葉を読み取ることは、おそらく普段から無意識にやっているはずです。ですから、意識的にそれができるようになれば、習得は困難ではないと思います」
「じゃあ、早速試してみたいところね」
リジェラが今にも立ち上がりそうに身を乗り出しているので、ロンガは頷き、少人数の組に分かれて練習してもらった。歌の練習をしている副産物か、コラル・ルミエールの団員は明瞭で洗練された発音をする。読唇の習得はそこまで難しくないだろう。
ロマンと向かい合って練習をしているルージュの表情が、ちらりと見えた。彼女の場合、本当に声が出ないわけではないから、内心は複雑かもしれない。ルージュにも、いつか失った声音のことを明かすときが来るだろうが、ロマンの気遣いが少しでも彼女にとってプラスに働くと良いのだが。
一時間半ほど練習をして、少し休憩を挟んだ。子供って元気だねぇ、という若者らしからぬ台詞と一緒に、疲れた表情のシェルが歩いてきて、ロンガの隣の椅子に腰掛ける。
「お疲れさま。大変な役回りを押し付けてしまって、悪かった」
「うん、でも楽しかったよ」
彼は両足を前に放り出して、天井を見上げる。
「ぼくとルナの間だけで通じてたものが、みんなの共有物になっていく。不思議だけど――悪い気はしない、かも」
「嬉しいことだよな」
ロンガの言葉に、シェルも頷いた。
自分たちの持っていたものが、他者に広がっていく。周囲から新しいものを受け取るだけでなく、自分の存在によって周囲が変わっていく。そんな相互作用によって、自分と世界がいくつもの
孤独だった自分と世界が不可分になる。
この小さい身体を飛び出して、音が響くように自己が拡散していく。世界に深く根を張っているからこそ、多少の風で揺らいでも立っていられるのだ。
例えば、とロンガはちらりと横を見た。
もしも2年前の、シェルの他にはアルシュくらいしか友人と呼べる相手がいなかったロンガが、ハイバネイト・シティ最下層で彼と出会っていたら、おそらくシェルの暗闇に巻き込まれて一緒に墜落していた。地上に近いこの階層まで上がってくるどころか、彼を支えて立つことすら叶わず、考え得る限りで最悪の結末を迎えただろう。
あのとき、彼を連れて地上に行こうと決心できたのは、自分が孤独ではないと知っていたからだ。前を向いて歩いている人たちがいて、彼らの心の片隅に自分もいる。だからこそ希望はまだあると、理由もなく信じられたからだ。
「――そうか」
ひとつ瞬きをして、とあることに気がついた。炎のように熱くもなければ、氷のように冷たくもない、常温の真実が胸の中に静かに浮かび上がる。
観測できないものに対して、見えないからこそ都合の良い期待を抱いて、脳裏で思い描いた光を頼りに、自分たちは暗闇を歩く。
希望とは、幻像なのだ。
*
暦の上で年が明けた。
あくまで地上の暦に準拠した場合だが、
「それ、何のお酒」
「分からない。アプリコットみたいな匂いがする……飲んでみるか?」
「ううん、ぼく、お酒ダメみたいなんだよね」
シェルは首を振って、苦笑いをしてみせる。
「一回だけ飲んだときは酷い目に遭った」
「はは、そうか。吐いたとか?」
「肩を脱臼した」
「は?」
「あと熱が出た。聞きたかったら教えようか。痛い話だけど」
「いや、いいよ……」
ロンガは顔を引きつらせながら断って、彼には一生アルコールを飲ませるまいと密かに決意した。カクテルグラスを傾けて、琥珀色の液面に口を付ける。アルコールで喉がじわりと暖かくなった。バレンシアの宿舎で飲んだものの方が美味しいけれど、携行食よりはずっと我慢できる味だった。
「そういえば」
ひとつ思い出したことがあり、ロンガはカクテルグラスをテーブルに戻した。周囲のテーブルでは、唱歌団員と“
彼らに聞かせないため、声量を落とす。
「コラル・ルミエールの人たちは、食事による記憶操作の影響を受けていないように見える」
「そうだね」
シェルは頷いた。
「あの子たち……ルナの、バレンシアでの仲間たちが地下に来たのはかなり前だよね。それに比べると、
「そうか。長時間継続して摂取しなければ問題ない、みたいな話だったな」
「それもあるし、総権がサジェス君からエリザに移動して、
シェルは口の端を少し震わせて、それをごまかすようにマグカップに口を付けた。そんな彼を眺めていると、胸の奥でまた小石が揺れるのを感じた。悲しみを閉じ込めた白く丸い石が、やりきれない記憶の数だけ並んでいる。
『色々なものを失い続けているのね、彼』
サテリットがそう指摘したとおり、ロンガとは比べものにならないほどの喪失を味わったはずのシェルは、感情を丸ごと呑み込もうとした結果、誰かの果たせなかった祈りを自分の使命にすげ替えようとしていた。今もまだ、彼が仲間たちの死を受け入れられたとは言い難いが、今にも溢れ出しそうな感情を必死に押さえ込んでいた一時期よりは、少し余裕が現れたように見える。
シェルの胸中を黒く満たした悲しみも、やがて白い結晶に変わるだろうか。特効薬はきっとないけれど、美味しい食事とか楽しいお喋り、安らげる眠りや明るい日差し――そういうものの力を借りて、時間をかけて分解していくしかない。
希望という幻像が、また彼の胸を満たす日まで。
ロンガは最後の一口を食べ終え、背もたれに身体を倒して友人の様子を観察した。いつの間にか彼はフォークをトレイに戻してしまい、頬杖をついてぼうっと天井を眺めていた。まだ半分も食べられていない料理は、もうかなり冷めてしまっただろう。褒められたマナーではないけれど、仕方がない。
彼に断って席を立ち、ロンガは水を受け取りに行った。アルコールに弱いわけではないが、決して強くもない。度数の高いアルコールを飲んだときには、必ず等量以上の水を飲むことを自分のルールにしていた。シェルの分もと思い、両手にプラスチックのコップを持ってテーブルに戻る。
シェルは目を閉じている。
椅子を引き、ロンガは水を飲みながら彼を見守っていた。眠っているのかと錯覚する動きのなさだが、おそらくは考え事をしているのだろう。こうなってしまうともう、ロンガには手を出せず、彼が戻ってくるまで待つしかない。食事には手を付ける様子がないので、トレイを片付けてやるべきか悩んでいると、不意にシェルは身じろぎした。
「……ん、ルナ、今なんて言った」
「何も言っていないが」
「あれ?」
彼は不思議そうに首をぐるりと回して、閉じていた目を見開く。
「何か聞こえた気がしたんだけど」
その瞬間、ロンガの心臓は大きく跳ねた。
長い睫毛に縁取られた、濃い赤茶色だったはずのシェルの瞳が、一瞬だけ揺らめく白銀色に見えた。その光は木漏れ日のように儚く消えて、見慣れた彼の顔に戻ったが、網膜に焼き付いた映像は見間違いとは思えなかった。
彼は額を抑えて、頭が痛いと呟いた。
「ごめん、もしかしたら蒸気だけで酔ったかも。部屋に戻って良いかな」
「あ、ああ……悪かった。トレイを片付けるよ」
ありがとう、と力なく頷いてシェルがふらふらと立ち上がる。ロンガはトレイを両手に持って立ち上がりながら、いつになく早い鼓動を感じていた。ロンガの右眼と同じ、白銀色の瞳。次元飛翔体ビヨンドの干渉を示す、あの忌々しい色が、一瞬だがはっきりと見えた。
「余計なことをするなよ」
ロンガが呟くと、まるで笑うように視界の右側がゆらりと揺れた。