chapitre125. 輪郭をたどる
文字数 7,533文字
――新都ラピス ハイバネイト・シティ最下層
「言い方は悪いけど――管理して一覧表にしないと、先に進まないんです」
椅子をくるりと回して、アルシュが額を抑えた。
「どこに何人いるのか。どの……ええと、語圏から来たのか。どんな体調、状況なのか。とにもかくにも、データがないと」
第8分枝世界のエリザから教えてもらった『語圏』という表現は、ちょうどアルシュたちが求めていた形容だったらしく、教えるとすぐに普及した。
七つの異なる公用語によって区分される世界は、それぞれ中央都市とする街が異なっている。どうやら、七都の名前は旧世界の地名に由来するようで、公用語の争奪戦を勝ち抜いた祖の出身地が、そのまま中央都市の名前に冠されているようだ。
ロンガたちが故郷とするラ・ロシェル語圏とは、すなわちラ・ロシェルという街の出身である祖が、自らの母語をラピスの公用語とした世界なのだ。
「でも、言葉の壁は思ったより低いようで、そこは良かったです」
微笑んでみせると、ええ、とアルシュも応じる。
「ライブラリに大いに助けられていますね。とはいえ、そのうち各語圏のリーダーと協調するようになれば、機械翻訳に頼るのは難しいと思いますが……」
「どうしても遅れてしまいますからね。それに、微妙な言い回しの差異や、独特の表現といったものも少なからずあるでしょうし」
「ええ……そうなんです」
アルシュは頷き、眠たそうに目元を擦った。相変わらず無理をしている様子で、どうにも不安になってしまう。もう休んだ方が良いのでは、と控えめに提案してみるが、彼女は苦笑して首を振って見せた。
「今、地上からの返事を待っているので」
「何か指示してもらえれば、代わりますよ」
「いえ、そんな――私の仕事です」
「でも……体調が万全ではないのでしょう?」
思い切って言ってみると「ご存知でしたか」と応じてアルシュは苦い表情を浮かべる。
頭部打撲の後遺症のために彼女が手術を受けてから、こちらの時流ではひと月も経っていないようだ。寝込んでいた時期と比べれば、目に見えて体調は改善したものの、完全に回復したと言うにはまだ早いだろう。
そこに手術の痕があるのか、アルシュは後頭部の髪をかき上げて僅かに顔をしかめた。
「本当は、自身の健康などに囚われている場合ではないんですが」
「そりゃあ、その人に言ったらいけない言葉だね」
何かのコピーをカノンが持ってきて、笑い交じりに言う。振り返ったアルシュが受け取って、ありがとうと応じた。以前は、どこか馬が合わないように見えたふたりだが、いつの間にか随分と打ち解けた雰囲気になっている。自分がその輪から一歩引かざるを得ないことを歯がゆく思いつつも、彼らのやりとりを微笑ましく見つめた。
「その人が長年伏せっていたのだって、病気のせいなんだから」
「それは……そうか。失礼でしたね」
「いえ」
申し訳なさそうに俯くアルシュを見ているのがいたたまれなくなり、握りしめられた彼女の手に触れる。
「でも、だからこそ。ちゃんと休んで下さい」
本来なら友人として告げるべき言葉を、エリザの唇に託した。アルシュが困ったように視線を巡らせると、MDP構成員のひとりが歩み寄って「やっときますよ」と言いながら書類を受け取っていった。ほら、と無表情に呟いて、カノンがアルシュを見下ろす。
「お言葉に甘えて、もう休んできたら」
「――そうするよ。気を遣わせて、ごめんなさい」
アルシュが立ち上がり、部屋を出て行く。何か手伝えることは、と周囲に聞いてみたが、カノンは小さく首を振った。
「あんたこそ身体を大切にして頂きたい。いちばん近い部屋を開けたから、休んで下さい」
「昼間に少し眠ったので、まだ平気ですよ」
「いや、しかし――地上と情報交換をするのに、総権は必要ない。残りはこちらだけでできますから」
居室に戻るように促される。
エリザの身体が小柄なためか、以前より輪を掛けて威圧的に見えるカノンの姿を見上げながら、でも、と反論を試みた。
「カノン、私は……その、ただ貴方がたの指示を代行するために、ここにいるわけではないんです。仲間に加えてもらうことは、できませんか」
「いや――俺もね」
まっすぐ視線を向けると、カノンは頭に手をやって気まずそうに目を逸らした。
「あんたが、ただ総権を発動するための装置だとか、そんなことは思っちゃないですよ。だが無理をさせて、総権が使えなくなったらそれこそ共倒れだ」
「なら、総権を誰かに委託できないのですか?」
虚弱なエリザの身体に、ハイバネイト・シティを揺るがすだけの権力が集中しているのは、MDPとしても不安な状況ではないだろうか。そう思って問いかけると、カノンは首を捻った。
「まあ、可能ですよ。ただ、誰に委託するのかという問題でね……今は食い止めていますが、“
「ええと――」
「ご自分が
「ああ、はい」
「そりゃあ話が早い。そういうことですよ、あんただから、その強大な権利を持っていても奴らに殺されない」
そういえば以前にそんな話を聞いたな、と思いつつも、素知らぬ顔で頷いてみせる。真祖というのは、かつて総権を持っていたサジェスという青年が、名前も信念もなかった地底の民を“
混乱のさなかでサジェスは命を落とし、“
居心地の悪さを覚えて、思わず身を竦める。
「しかし……では、もっと力を分散できないのですか。特定の、エリザという個人ではなく」
「仰るとおりで。まあ、語圏を横断した議会のようなものを作れたら良い、とは考えているようです」
やけに他人事めいた言い回しに疑問を呈すると、俺はMDPじゃないんで、とカノンは口元を手で覆い隠した。話しているうちに地上から連絡が来たようで、コアルームに残っていたメンバーも帰りの支度を始めた。
居室まで移動するのに手を貸そうかと尋ねられたが、その程度なら気をつければ問題ないと判明したので断る。体力を付けるためにも、無理をしない範囲で身体を動かしていくべきだろう。壁を伝って歩きながら、カノンが話していた内容について考えた。
七語圏を横断した議会。
それが必要なのは、誰かに教えられるまでもなく自明だった。
地上と地下のみならず、あらゆる背景が異なる七語圏の人間が混ざり合ったのだから、たったひとりを代表に指名することなど不可能だ。今もMDPの人間が議論しながら仕事を進めているわけだが、それだとラ・ロシェル語圏の人間しか意志決定に加われないことになる。
この体制が続けば、遅かれ早かれ不満は出るだろう。いや――もう、出ているのかもしれないが。
息が上がってしまい、曲がり角にもたれて少し休んでいると、低いモータ音と共に壁が小さく振動し始めた。音の聞こえた方向に顔を向けると、扉の一部が開いて、中からシェルが顔を出す。否応なしに視線が合って、彼の表情が僅かに歪んだ。
「――シェル」
黙っているのも気まずく思い、呼びかけてみる。彼は一瞬たじろいだものの、すぐに笑顔に戻って「こんばんは」と気さくに応じた。羽織っていた外套を脱いで顔を仰ぎながら、2メートルほど手前までやってきて立ち止まる。これが彼の考える、エリザと保つべき距離なのだろう。
「エリザ。こんなところで、何を?」
「いえ……休んでいるだけです」
緩やかに首を振ると、そうですか、と彼は微笑む。その表情がやけに大人びて見えて、少し驚いた。付き合いの長い
あれ、と唇を尖らせてシェルが周囲を見回す。
「今は誰も、付き添っていないんですね」
「ええ。部屋くらいまでなら、私ひとりでも移動できるかなと」
「ぼくに何か、手伝えることありますか」
「いいえ。大丈夫です」
彼の顔をあまり眺めているのも苦しくて、首を振ってみせる。乾いてはいるものの、艶のある蜂蜜色の髪が、首の動きに追随して揺れた。
分かりました、と頷いて立ち去ろうとしたシェルの表情が、視線を通路に移したところで強ばった。まだ重たい胸を抑えつつ視線をそちらに動かすと、通路に並ぶ扉のひとつが開いて、中から出てきたアルシュと目が合った。
あれ、と目を見張る。
「もう休んだのかと」
「ええ……その、あまり眠れないんです」
「あ、あのさ――アルシュちゃん」
ぎこちなく微笑んだアルシュに、シェルが思い切ったような表情で呼びかけた。
「良く眠れるお茶を持ってるから――良かったら」
「ありがとう。でも、要らない」
「そう……でも、眠れないんでしょう」
明らかに気後れした様子ながらも、シェルは食い下がる。アルシュは短く溜息を吐いて、それから頬を持ち上げた。
「少しコアルームの様子を見るから」
「その……もう、みんな帰ったようですよ」
思わず口を挟むと、そうですか、と呟いてアルシュは俯く。シェルが歩み寄って、無言で茶葉の入った瓶を差し出すと、アルシュは視線を合わせないまま受け取り、呟くような声でお礼を言った。そのままシェルは、小さい会釈だけを残して歩いて行った。
はあ、とアルシュが今度こそ溜息をつく。
見るからに張りつめた雰囲気に、見ている方が緊張してしまった。所在なく手を握りしめると、すみません、とアルシュが顔を背ける。
「ちょっと色々ありまして。喧嘩中です、私の方から一方的に」
「――そうですか」
そういえばシェルの頬には、内出血の痕らしい腫れがあった。温厚な彼女がそうそう手を上げるとは思えないが、もしや、関係しているのだろうか。思わず首を傾げたのを見ていたのだろう、アルシュは横目でこちらを見て苦笑した。
「ご興味がありますか?」
「いえ。詮索する気は」
「隠しているわけじゃないですよ。ただ……その、私の友人がひとり、いなくなったんです。言い方は悪いんですけど、シェル君のせいみたいなもので」
それを聞いて顔が引きつったのを、アルシュが不思議に思わないと良いのだが。必死に表情を抑えながら、そうですか、と頷いて見せた。
自分のことだ、と流石に勘づいた。
今はエリザの身体を借りているロンガが、
確かに、ロンガを塔の上の部屋に連れて行ったのはシェルだし、
「そう……ですか」
表情の変化に気がつかれるのが怖くて、思わず口元を抑えると、アルシュが重々しく頷いた。
ふと。
自分が今ここで正体を明かし、シェルの取った行動について弁明すれば、彼らの緊張も解消されるのだろうか、という疑問が沸いた。エリザの身体を満たしている心が別人のものだと、広く知られてしまうのは困りものだ。だが、自分の不在によって彼らに不和が生じているのなら、信頼の置ける友人にくらいは明かすべきかもしれない。
ロンガは胸元で手を握り、友人に一歩だけ近寄った。
「アルシュ――」
「何でしょうか?」
だが、よそ行きな彼女の声を聞いた瞬間、真実を打ち明ける勇気は嘘のように萎んでいった。背筋を駆け上がった冷たい感覚を堪えて、微笑みを浮かべる。
「いえ。おやすみなさい」
「ええ」
手を振って別れ、借りた居室までどうにか辿りつくと、そのまま寝台に倒れ込む。身体がずっしりと重たいのは、疲労のせいだけではなかった。はあ、と長い溜め息を吐いて、暗い天井を見上げる。この階層に来るのは2回目だが、あの時とはかなり立場が変わってしまった。
身体と心が共に自分の所有物であること。
そんな当たり前の権利を有している彼らと、エリザの身体に心だけを宿している自分は、もう同じ人間と呼べるのか分からないほど遠い存在に感じられた。
『時々、自分が本当に人間なのか、分からなくなるものだから』
第8分枝世界のエリザはそう言って笑っていた。D・フライヤの力を借りて世界の境目を踏み越えた自分が、彼らの友人であるロンガだと証明できたとしても――そう知った彼らがどんな顔をするか、それが怖いのだ。
「私は……まだ、人間なのか?」
いや、違う。
「私は、本当に
それを知っているのは自分自身だけだ。幼少期にバレンシアにいた頃から続く、ひと続きの記憶だけが、本当の自分と繋がるよすがだ。考えてみれば、自分が自身である証とは、なんと頼りないものだろうか。
暗い窓ガラスに映り込む姿は、完膚なきまでにエリザの形だ。喉から零れる悲鳴に近い声も、エリザの声だ。引きつった表情は、見たことがないけれど、やはりエリザの顔だ。
心が彼女の像に飲まれていく。
上半身から力が抜けて、寝台に倒れた。明かりの消えた部屋に横たわる身体を、斜め上から見下ろしている視線を感じた気がして、背筋がぞくりと冷えた。自分の意図したとおりに身体の輪郭が動く、それだけのことを恐怖に思う日が来るなんて、思ってもみなかった。
こんなことを考えてしまうのは、明けない夜のせいだろうか。だが、太陽が照らさない地底都市でも、人々は一日の周期を守って動いており、エリザの名を騙る以上はそれに合わせないといけない。早く眠らなければ、と無理やりに目を閉じる。得体の知れない不安感は、一晩中皮膚の裏を這いずって、浅い眠りから何度も目を覚まさせた。
翌朝、控えめなノックで起き上がった。
ずきずきと痛む頭を抑えて返事をすると、扉が細く開いて人工的な光が差しこむ。おはようございます、と明るく呼びかけたのはアルシュの声だった。手術の関係で髪をばっさりと切った、まだ見慣れない友人のシルエットが、逆光のなかで目を瞬く。
「顔色が、悪いように思いますが……」
「ああ――あまり、眠れなくて。でも、平気ですよ」
「そうですか?」
なら良いのですけど、と言いながらアルシュが室内に入ってきて、銀色のホイルに包まれた塊を差し出してくれる。地下の居住者たちが主食として食べる、携行食と呼ばれる焼き菓子だ。まだロンガとしてハイバネイト・シティにいた時から、この油臭く甘ったるい食事はあまり好きになれない。角をかじり、少し顔をしかめながらも飲み込むと、壁沿いに立ったアルシュが苦笑してみせた。
「お口に合いませんでしたか」
「……率直に言えば、あまり」
口元を拭いながら答えると、アルシュは小さく吹き出した。
「やはり、美味とは言えないのですね。上の居住区域では、もう少し調味に気を遣った料理が出ているとも聞きますが、実のところ、私にはあまり違いが分からなくて……天然の食材に比べると味が落ちる、とは聞きますが」
それも、以前にアルシュたちと喋ったことだった。統一機関を離れてからの2年間を、農耕の地・バレンシアで過ごしたために、自分でも気がつかないうちに舌が肥えており、仲間たちと再会したときに、はじめてそのギャップに気がついたのだ。
「ちゃんとした食事を用意できず、申し訳ありません」
「いえ、でも、他にないのでしょうから」
「ええ……最下層では、これが標準です。すみません」
アルシュが肩をすくめてみせる。
彼女に気を遣わせてしまうので、できるだけ不味い顔をしないように気をつけて、携行食を食べ終える。顔を洗ってコアルームに向かうと、既に集まっていたMDPの面々が挨拶をしてくれた。
「おはようございます、マダム・エリザ」
ちりちりと痛む胸の奥から目を逸らして、挨拶を返した。エリザの形をしている人間に、人々がエリザと呼びかけるのはごく自然なことだ。その内側に違う人間の意志が宿っているなんて、そもそも考えるほうがおかしい。
でも、だからこそ。
背後でコアルームの扉が開く。
「――あ」
シェルがコアルームに入ってきて、こちらに視線を向ける。彼はひとつ瞬きをしてから、意を決したように笑顔を浮かべた。
「おはようございます――
ほんの少しだけ躊躇った沈黙をはさんで、彼はエリザの名前を呼んだ。この中で唯一、シェルだけは、エリザの外見に惑わされずに、内側にある心の名前で呼んできたことがあった。もっとも今は、あれは何かの勘違いか幻覚だったと認識しているだろう。その方が都合が良いので、また本当の名前で呼んで欲しいとは思っていない。
でも、彼がルナと呼んでくれた一夜の記憶があるから、今はまだ、自分の存在を覚えていられる。この世界で生まれ、この世界を21年に渡って生きた人間と地続きの記憶に、名前を付けられる。
そんな気がするのだ。
「どうも、
呼び慣れない名前で応じると、彼は礼儀正しい笑顔を返してくれた。