chapitre130. 差し出した手に
文字数 7,525文字
――新都ラピス ハイバネイト・シティ居住区域
狭い円筒形の昇降装置内部に、シェルはアルシュと向かい合って立っていた。
ハイバネイト・シティは室温が常に20℃前後に保たれているので、外では雪の積もる季節にも関わらず、多くの人間が軽装で過ごしている。シェルとアルシュもその例に漏れなかったが、今日に限ってはジャケットを着せられていた。息苦しさに耐えきれなくなり、無意識に前のボタンを外すと、アルシュが「ちょっと」と苦言を呈した。
「ちゃんとしてくれないと」
「あ――ごめん。つい」
謝りつつも、肩すら自由に上げられない服装に、どうしても窮屈さを覚えてしまう。紺色のノーカラージャケットをぴしりと着こなしたアルシュに、でもさ、と食い下がる。
「
「いや、分からないからこそ、安全策を取るべきだと思う」
アルシュはきっぱりと言って、垂れ下がった後れ毛を耳にかけ直した。
「少なくとも私たちにとっては――これは、本当に大切な場だから。気軽な格好で行って、その程度かって思われたくない」
「そう……分かった。頑張ります」
「うん。まあ、それにカノン君とかが来るならともかく……私たちじゃ、多少着飾ったって威圧的にはならないよ」
「そりゃそうか」
女性のアルシュよりも、更に小柄な自分の身体を見下ろす。シェルが肩を竦めると、アルシュはくすりと笑った。
少しだが上を向いている彼女の口元を見て、内心で不思議に思った。
しかし、ここ数日。
アルシュの視線が、ほんの僅かだが優しくなった気がするのだ。常に力の入っていた眉間も、どこか和らいだ気がする。口に出して理由を尋ねられるほど確証はないのだが、ただの勘違いにも思えない。
気になるが、今は関係ないことに気を配っている場合ではなかった。振動しながら昇っていく装置の天井を仰いで「あのさ」と切り出す。
「どうかなぁ、上手く行くと思う? フィラデルフィア語圏との――
ジャケットのボタンをかけ直しながら、尋ねる。わざわざ似合わない正装で着飾っている理由はそのためだった。
コアルームに集まった人々は、七語圏からそれぞれに代表と呼べる交渉相手を見つけ出し、直接アプローチを取り始めた。
しかし唯一フィラデルフィア語圏だけは、遷移性の
そんな彼らに対して、シェルたちラ・ロシェル語圏はティアという切り札を持っている。2年前に彼らの語圏からやってきたティアは、存在そのものが
今日、シェルの知人ブラスを密かに尋ねるのは、その第一歩だ。
――だが。
「彼らは
「うん、率直に言ってしまえば、どうなるか分からない」
アルシュは頷いて、でもね、と頼もしい笑顔を浮かべてみせた。
「だからこそ話しに行く、んでしょ? 信頼させてよ、シェル君」
「信頼……ん、どういうこと?」
「シェル君が見込んだ相手なら、きっと、ちゃんと対話してくれるってこと」
言わせないでよ、とアルシュが唇を尖らせた。そうかな、とシェルは昇降装置の扉を見つめる。目的のフロアが近づいているのだろう、減速で身体がふわりと浮き上がる。
「だと良いけど」
静かな音と共に、昇降装置の扉が開いた。
両開きの扉を抑えて、アルシュが通路に出るのを待ってから、シェルも昇降装置を出る。
壁のプレートに記されている現在地は、ハイバネイト・シティ第36層。フィラデルフィア語圏の居住区域とはかなり離れた場所だ。人目を避けるために、入居者のいない一角を、ブラスとの待ち合わせ場所として指定したのだ。
通路に歩み出したアルシュが、ふと立ち止まる。今まさに昇降装置のある部屋から出ようとしていたシェルに振り返って、片手を広げて見せた。
――来ないで。
口元がそう動き、すぐに手で覆い隠された。
引きつった表情を浮かべて、目眩を起こしたように壁にもたれる。そのままよろめきながら壁沿いに戻ってきて、部屋の床に倒れ込んだ。眉根が苦痛に歪み、ぜえぜえと荒い息をしている。シェルが駆け寄ると、力の抜けた手が首元のタイを掴んで、床に引き寄せられた。
「大丈夫!? どうしたの」
「多分……何かの
アルシュはゆっくり身体を起こして、屈んだ姿勢のまま上を見上げた。
「起きて大丈夫なの」
「ちょっと気が遠くなっただけ。平気だよ」
そう言いながらも顔色は悪く、身体を支えているだけで精一杯という様子だった。アルシュは這うように床を移動して、壁にもたれかかる。
「あんまり平気そうに見えないけど」
「動けないほどじゃないよ。でも、ちょっと困ったね……」
「これ――ガス漏れ、かな」
「分からない」
アルシュが唇を噛む。
どこかの配管が傷ついて、有毒気体が漏れている可能性はある。だが、そうだとしたら、ハイバネイト・シティの生活基盤を支えているはずの
「一旦、コアルームに戻ろう」
シェルはそう提案して、
だが、そのとき。
通路の遠くに足音が響くのを聞いた。
はっと顔を上げたアルシュと目を見合わせて、頷き合う。無人のはずの区域を踏む足音は、こちらに近づいているように感じられた。
――こっちに来ている。
そう言うようにアルシュの口元が動く。
シェルは頷いてみせながら、昇降装置と足音の主のどちらが先にこちらに辿りつくか、頭のなかで計算してみた。昇降装置の振動音はまだ遠い。一方で足音の主は、ひとつ角を曲がれば姿が見えるほどの距離まで、あっという間に近づいていた。
不自然に充満したガス。
無人のはずの区域にも関わらず、こちらに向かってくる足音。
偶然と片付けるには少し難しい、明らかな何者かの作為が感じられる。
とは言え、物騒な展開を予期していたわけでもないので、武器は拳銃を携帯しているのみだ。迎え撃つには装備が心許ないし、
シェルとアルシュはどちらからともなく頷き合い、床に身体を倒した。意識を混濁させるガスと足音に関係があると仮定して、あえて作戦に乗って隙を突こう、という試みだ。もし偶然の重なり合いなら、倒れているシェルたちには構わないか、あるいは助けようとするはずだ。
足音が近づいてくると、彼らが異言語で会話していることが分かった。やはりティアの故郷である、フィラデルフィア語圏の人々のようだ。
「どうだ、いたか」
「何だ、こんなとこにいるぞ」
目を閉じている分、耳に集中して異言語を聞き取る。グローブに覆われた手が肩を掴んで、横倒しの身体が仰向けになる。まぶたの向こうで光が遮られて、誰かが顔を覗き込んでいるのが分かった。
「運べるか」
「ああ、思ったより小さいなこいつら、俺とお前でどっちも運べるだろ」
声は男性の二人組で、どちらもフィラデルフィア語圏の言語を喋っている。
やけにくぐもった声のやり取りから察するに、シェルたちふたりがここに来ることは既に知れ渡っていて、昏倒させて連れ去る計画が事前に立てられていたようだ。ガスが充満していたのも事故ではなく、彼らが用意したものなのだろう。
シェルたちを何のために連れ去るのかは不明だが、およそ平和的な理由とは思えない。大方、何かの交渉材料にでもするつもりだろう。
ブラスが密告したのだろうか。
信頼してたんだけどな、と内心で唇を噛む。
一方の声の持ち主が、荷物を扱うように乱雑な手つきでシェルの身体を持ち上げ、背中に背負ったようだ。タイが引きずられて気道を締め付け、思わず呻き声を上げそうになる。反射的に身体が強ばったためか、不審そうにこちらをのぞき込む気配がして、シェルは慌てて気絶しているふりをした。
身体が持ち上げられて、強制的に頭の位置が高くなる。ガスを吸い込まないよう、できるだけ息を抑えながら、シェルは声の持ち主の動向を探った。シェルとアルシュを持ち上げた二人組は、どこかに自分たちを運んでいくつもりのようだ。
薄目を開けて、様子を見る。
男の頭部が視界の隅にちらりと見えて、合点した。髪の毛の下に見える紐は、ガスマスクの留め具だろう。やはり彼らは、通路にガスが充満していることを知っていて、その上でシェルたちを捕らえに来たのだ。
そこにあるのは、明確な敵意。
――そちらが、そのつもりなら。
先を歩く、アルシュを背負っている男が通路の角を曲がる。視線が切れるタイミングを見計らって、シェルは短期決戦の火蓋を切って落とした。
まずガスマスクの留め具に噛みついて、外す。驚いて振り向いた男の顔を鷲づかみにして、振り回される自重を支えながら、腕で抑えられていた両足を引き抜く。
男の背中に乗り、バランスを欠いて前傾していく彼の身体を踏み台にして、前方に高く飛び出した。仲間の叫び声に驚いたのだろう、もう一人の男が角から顔を出す。
天井すれすれの飛翔。
驚きに目を見開いた男と、冷静にこちらを見るアルシュの表情が見える。シェルを目視した男が身構えようとするのと同時に、アルシュが彼のガスマスクを外し、その首に手をかけて仰け反らせた。
無防備に反った胸に、飛び降りる勢いのまま蹴りつける。
アルシュとシェルの体重を受けて、男の身体が後ろに倒れる。床に挟まる寸前でアルシュが抜け出し、奪ったガスマスクを片手に飛び起きた。着地したシェルも、口にくわえていたガスマスクを付け直す。
たった数秒の出来事だった。
成功を喜ぶ暇もなく、即座に地面を蹴る。
男たちは不意を突かれて倒れているが、気絶したわけではない。彼らが起き上がるまでの数秒の空白を利用して、できるだけ距離を稼ぎ、行方を眩ませる。
ガスマスクを奪われた彼らは、シェルやアルシュより明らかに大柄だった。そんな彼らがガスを吸わないためには身体を屈めざるを得ないから、後を追ってくることは難しいだろう。だが、フィラデルフィア語圏の仲間が彼らだけとも思えない。すぐに連絡され、新たな手を打ってくるはずだ。
通路をひたすらに駆けていく。
後ろを走るアルシュの息が荒かった。ガスを吸い込んでしまったのだろう、シェルの体力も限界に近かったので、彼女に声をかけて手近な部屋に駆け込んだ。
「やっぱ動きづらいよ、この服」
無理に動いた結果、ボタンがひとつ飛んだジャケットを見下ろして文句を言うと、アルシュが「呑気だね」と呆れた表情を作ってみせた。
さて、これからどうしようか、とふたりはガスマスクに覆われたままの顔を見合わせる。
「コアルームには連絡した」
そう言って、アルシュが
「ひとまず、下に戻らないと」
「でも、この辺り、昇降装置もスロープもないね」
ハイバネイト・シティ内部の地図を投影しながら、シェルは現在位置を確認した。居住区域にいる入居者は
「迂闊だったなぁ」
シェルは小さく溜息をついて、人の居場所を示す、うごめく光点を突く。名前を登録していないのか、表記は全てデフォルトの“survivor”だ。
「どのくらい人がいるか、事前に見とけば良かったね。これ、確認しとけば、明らかに異常だって分かったよ。無人地域だと思って油断した」
「まあ……反省会は後にしよう」
アルシュが肩を竦める。
「それより、急いで移動した方がいいと思う。向こうも、ひょっとしたらこうやって、
「どうかな。それにしては、こっちに来ないけど……でも、移動するのには、賛成」
動きやすいように装備を整えて、周囲に警戒しながら部屋を出る。本来は無人区域であることから、近隣にいる人間は全て敵対する相手だと仮定して、一分に一度ほど相手の場所を確認しながら進む。
「こっちだ」
右折と左折を繰り返し、思ったように進めないことに焦りが募るなか、地図を参照しながら歩いていたアルシュが突然立ち止まった。
「そうか――しまった」
アルシュが苦い表情を浮かべて振り向く。
「誘い込まれてる」
「え?」
眉をひそめたシェルの眼前に、アルシュが地図を表示してみせる。指先で通路を辿って、シェルもようやく気がついた。この次にどちらに進んでも、必ずどれかの集団と遭遇してしまう。
「やっぱり……こっちの居場所、見えてたんだ。その上で、わざと私たちを誘導してた」
アルシュはひとつ溜息をついたかと思うと、
『分かった、抵抗しない。目的は何?』
彼女の打ち込んだ言葉を変換して、異言語のアナウンスが通路に響く。
その直後、背後で固い靴音が床を叩いた。振り返ったシェルの視界に、顔を覆った集団が映り込んだ。隠されていた気配が四方八方に浮き上がり、固い雰囲気をまとってゆっくりと近寄る。フィラデルフィア語圏の兵士と思わしき彼らは、一様に暗い色の服をまとい、銃を構えていた。人数も装備も、明らかに相手の方が上回っている。
アナウンスの合成音声が告げる。
『まず銃を捨てろ。手に何も持っていないことが分かるように広げて、顔の横に上げろ』
「従おう」
アルシュの呟きに応じて、仕方なく拳銃を取り出して床に投げ、彼らの言うとおりに手を上げる。ガスマスクの男たちに反撃してみせたせいで、余計に警戒されているのかもしれない。
シェルたちが抵抗できない状況になったのを確認して、代表者らしいひとりが歩み出た。
「協力的で助かるよ」
「何のつもり?」
シェルが異言語で問いかけると、相手は「おや」と両手を広げてみせた。驚いたよ、とでも言いたげな、余裕のある反応が癇にさわる。
「言葉が通じるのか。それは都合が良い」
「何のつもりって聞いてるんだけどな。こんなことをされる筋合いはない」
「こちらにも事情があってね」
暗色の集団は銃を突きつけたままじわじわと近づいてきて、シェルたちに手錠をかけた。そのまま移動するように命じられ、後頭部に銃を突きつけられたまま歩く。道中、シェルたちを連れ去る意図を尋ねてみたが、質問は全て曖昧に濁されるか無視される。答えないように指示されているのだろうと察し、途中からは黙ったまま歩いた。
横並びの二部屋に、シェルとアルシュはそれぞれ入るよう命じられた。鍵は既に改造されており、部屋の中からは開けられないようになっている。仮に
「用意周到なことだ」
呟いた背後で、音を立てて扉が閉まった。