chapitre153. 捕食者
文字数 4,153文字
アルシュに詰め寄られて、エリザは困り眉で微笑んだ。
「ちゃんと話すべきよね、ふたりにも」
「ええ、お願いします」
「俺からも、頼みます」
カノンが追随してみせると、エリザは頷き、膝を寄せて姿勢を正した。
「四世紀の昔、まだほんの子どもだったころ――
*
意識の織りなす虚空間で、D・フライヤは淡々と言葉を紡ぐ。
「じゃあ――あるべき場所に帰ろうか、リュンヌ。予備はもう要らない。君が殺した身体に倣って、虚空に消え失せるときだよ」
喉を押し潰す力に耐えきれず、ロンガの意識が消えかけた、そのとき。身体がふたつに裂けるような感覚とともに、何かが弾け飛ぶように前に飛んで、反動でロンガは背後に突き飛ばされる。
首を絞めていた力も、引き剥がされるように消え去り、暗転しかけた視界が少しずつ晴れていく。ロンガが咳き込みながらも起き上がると、真っ白い背景に泳ぐ蜂蜜色の髪が見えた。ロンガを庇うように両手を広げて、背を向けて立っている。
「――エリザ?」
「わあ、エリザじゃないか!」
打って変わって明るい声で、D・フライヤが言う。白い靄から両手だけを出した、その姿はいつになく不明瞭だが、彼がエリザを見て楽しげに笑っているのが分かった。
「声が聞こえなくなったからさぁ、心配だったんだよ。良かった、無事だったんだ」
「娘が起こしてくれたのよ」
「へえ? あの子が?」
信じていないような空笑いとともに、腕がエリザの頭を抱き寄せる。白い靄が彼女の周囲で渦巻いたかと思うと、それは無数の腕に変わって、エリザの髪に、腰に、手足にまとわりついた。
「あぁ――会いたかったなぁ」
鼻に掛かったような甘い声に、背筋が冷えるのを感じた。何も言わずに抱擁を受け入れているエリザの表情は、影になって見えない。ロンガはまだ痛みの残る身体で立ち上がって、蜂蜜色の髪を持ち上げている腕の一本を掴んだ。
「なに、邪魔しないでくれる?」
ロンガの手を払って、冷たい声が言う。
よろめいて後ろに下がりながらも、ロンガは無数の腕を睨みつけた。
「エリザから離れてくれ」
「嫌だよ?」
「エリザに、そうやって触れていい人がいるとしたら、世界でひとりだけだ。お前じゃない」
「それはね、君が彼の娘だから、そう思うだけ」
無数の腕のうち二本を広げて、やれやれ、と言わんばかりのジェスチャをしてみせる。
「四世紀前からずっと、この子は僕らだけのものだよ。長い長い人生のほんの数年間、別の男を愛したからって、それが何だって言うのかな」
「ほんの、って……」
唖然としてロンガは声を失った。
エリザと、彼女の伴侶であるラムが、直接会って話しているところに立ち会う機会は、最期までなかった。だから、ふたりがどんな言葉や視線を交わしたのか、ロンガは永遠に知りようがない。
だけど、直接見えるものが全てではない。
自分の最期をエリザに捧げたラムや、それを見て心が消えかけるほどに悲しんだエリザを見ていれば、ふたりにとって互いの存在がいかに大きかったか、他者の心の機微に疎いロンガですら、理解できるというものだ。
深く息を吸って視線を持ち上げ、ロンガは折り重なった腕を睨み付ける。
「共有した時間の短さで侮っていいほど、些細な感情だとでも思うのか? お前は人の心理に干渉できると思っていたが、エリザの心の内ひとつ見えないのか」
「違うよ。好きだから、見ないのさ。それに、心の在処が誰にあったって……最終的には僕らがもらうんだ。白くて綺麗な祈りごと、飲み込んで固定して永遠に残して――宇宙の寿命が尽きる日まで、一緒に旅をするんだよ!」
いささか興奮した口調で言って、D・フライヤは指先でエリザのあごを持ち上げる。
「それよりも、ねえ――出てきてくれたってことはさ、ついに君を迎えられると思っても良いのかな?」
「そうね」
「待ってください、エリザ――」
D・フライヤが言っていることは難解だが、エリザが人として生きる道筋を絶とうとしているのは肌で理解できた。彼女を引き止めようとロンガは一歩踏み出したが、振り返ったエリザの視線に止められる。
エリザは小さく首を振ってみせて、D・フライヤに向き直った。
「貴方が私の祈りを食べてしまっても、良いわ」
「わあ……!」
「でも、もう少し――私の身体が死ぬまでで良いから、待っていて。それが終わったら、私のことを食べ尽くして良いから……その代わりに、あの子の身体も、その器となる
「ええ……気乗りしないなぁ。今だって、ずいぶん贔屓してるつもりだしさぁ、あんまり文明に干渉しすぎるのも嫌いなんだけどなぁ――」
「お願い」
細い指をD・フライヤの指に絡ませて、エリザは静かに靄を見上げた。
「これは、私の心の生死に関わる問題よ」
「……そう言われると、弱いなぁ」
長考の末に、分かったよ――と溜息を吐いて、エリザを取り巻いていた腕が緩められる。ゆっくり後ろに下がって、ありがとう、とエリザが微笑んでみせる。
「もう少しだけ、人として生きてくるわね。さようなら――また」
「はぁい、バイバイ」
「行くわよ、リュンヌ」
立ち尽くしていたロンガの手首をつかんで、エリザが地面を蹴り、D・フライヤの姿はあっという間に遠ざかった。自由落下に近い感覚のなかで、ロンガはエリザの顔を呆然と見つめる。
「なにか、今――とんでもない契約を」
「どうせ有無を言わせず食べられる身よ。あんな約束、してもしなくても、私にとっては同じだわ」
「でも――」
「良いのよ。お礼だと思って」
「お礼、ですか?」
「ええ」
トン、とロンガの肩を叩いて、エリザが離れていく。
「嬉しかったんだもの……ラムのことを、貴女が、ああいう風に言ってくれたこと。そんな、貴女の居場所を守りたいと思って、何がいけないの?」
優しい声の響きだけを残して、白い靄のなかに笑顔が溶けていった。果てない落下が思考を包み込み、長い虚脱の果てに圏界面をくぐり抜け、ロンガの意識は深い海の底へ沈んでいった。
*
「なんですか、それ」
話を聞いていたアルシュが、ぞっとした表情で口元を抑える。
「どうして貴女は……そんなことを許していられるんですか。だって、死んでも解放されないなんて、そんなの……」
「許す、許さないの問題ではなく、五次元宇宙のどこにも、私の逃げ場はないのよ。その代わり、エリザという存在には、超越的存在にさえ我が侭を聞かせる価値がある――それで娘を助けられるなら、悪くない条件でしょう」
「……そう、でしょうか」
「そんなに気を落とさないで。もちろん……本当のことを言えば、私だって人間として生きて、最後はちゃんと死にたかったけど」
今にも泣きそうな顔で俯いたアルシュの肩に手を掛けて、エリザが悲しげに笑ってみせる。瞳から散る虹色の煌めきは、どこか涙のように思えた。
「それでも、
椅子から立ち上がり、まだ気を失っている構成員たちを見回して、エリザが微笑んだ。
*
――創都前
――第八の分枝世界
「
眠っているリュンヌの隣に腰を下ろして、エリザは客人がいるであろう方角に視線を向けた。持ち上げた片手をひらひらと振ってみせる。
「かつてない混濁が起きているみたいね。D・フライヤが何か企てているのかしら。ねえ、プラリネ……なにか異常はあるかしら?」
淡いオレンジ色に塗装された自律歩行型データベースが、エリザの声に応じて近寄ってくる。いくつか命令を実行して、計算結果を図表で表示させる。
「……あら」
並んだ数値にゆっくりと目を滑らせて、あることに気がついたエリザは、口元に手を当てた。
「もしかして、もう帰っちゃったのかしら」
スカートの裾を払って立ち上がると、エリザの独り言に、パステルピンクのロボットが頷いてみせる。最近、彼らに搭載された対話応答のプログラムを少し拡張してみたので、擬似的な会話のようなものが成り立つ。カシスと名付けた彼は、ひときわ人型に近いフォルムをしていることもあり、時折エリザは、まるで人間と会話しているような錯覚を得ることができた。
つい先ほどまで客人たちがいた方を示して、カシスが首を振ってみせる。D・フライヤの嵐のような気紛れが過ぎ去って、彼らの意識はあるべき身体に戻されたのだろう。
「本当に
溜息を吐く。
身体の中心で暗いものが渦巻いて、臓腑が締め付けられるように痛んだ。分枝世界の因果に締め付けられたエリザと違い、自分たちの意思で未来を切り開いていける彼らが、たまらなく羨ましい。
「……ティータイムにしましょう」
小さく首を振り、エリザは照明を消す。パチンという軽い音とともに部屋が暗くなると、背後から機械の腕が伸びてきて、エリザの肩を引き寄せた。体重ごと絡め取られて、ふわりと足が浮く。
「カシス?」
自分を抱え上げたロボットの名前を
「そうか……実装したわね、こんな機能。去年だったかしら、いえ、一昨年の暮れ?」
アクリルの向こうからエリザを見つめている、カメラの瞳に微笑んでみせる。カシスがバランスを崩さないよう、その腕の中で慎重に身体を起こして、セラミックスで覆われた肩に頬を寄せた。手のひらが追いかけてきて、再びエリザの頭を撫でる。
「ああ、嫌だ……」
湿った声で呟いて、エリザは回転楕円体の頭を抱きしめる。昔の自分が開発した対人プログラムに、落ち込んだ心情を見抜かれて、そのうえ心のどこかで救われてしまっている、そんな自分に嫌気が差して仕方がなかった。はぁ、と
「早く、早く起きないかしら……」