chapitre138. 地の奥底へ
文字数 5,937文字
まるで誰かの足跡のような、その線はまっすぐ伸びて、少し先で右に曲がった。
「ここを右?」
振り返って確認すると、フルルが頷いた。彼女は片手に
「地面、気をつけてね。そろそろだと思うから」
「はぁい」
「あ――そこじゃないですか」
レゾンが片腕を伸ばして、低木の影を指さす。
「ほら、少し掘り込んだみたいな――」
「あ! 本当だ」
くぼんだ地面に足を取られないよう、慎重に回り込む。別の角度から見ると、さらにはっきりと、半径70センチ程度の穴が掘られているのが分かった。ペンライトで照らすと、光ははるか奥まで吸い込まれていった。
「うわぁ――こんな近くにあったんだ」
驚きで思わず声が上ずる。
それは、新都ラピスのあらゆる場所に隠されているという、ハイバネイト・シティへの入り口だった。リヤンの身長ぶんほど下った場所に、ロープの結びつけられた杭が刺さっているのが見える。明らかに人為的に作られた道で、なおかつ人が通ることを想定している作りなのだ。
「ちょっと潜ってみる」
リュックサックを背負い直して、ペンライトを唇で挟む。垂直に近い穴を、砂埃を立てながら滑り下りて、ロープを片手で掴んだ。ペンライトを持ち直して下を照らすと、ロープは切り立った洞窟の岩壁を這い、かなり下の方まで続いているのが分かった。
「待って待って、リヤン」
「いったん止まってください」
頭上から、ふたり分の苦言が同時に降ってくる。
「支部に戻りましょう。俺たちだけで対処して良い問題じゃないと思います」
「でも……急がないと、見失っちゃう」
「リヤン。まだ、ティア君が地下に行ったと決まったわけじゃない」
「ううん、ここに来る途中、枝とか折れてたもん。絶対ティア君が通ったんだよ」
ロープを握り直し、靴を岩壁のくぼみに引っ掛けて、リヤンは身体をぐっと下げた。腕を伸ばして、ペンライトの白い光で四方を照らす。岩壁は僅かに濡れていて、光をチカチカと反射した。その照り返しのなかにひとつ、気になる形を見つける。
「あ――やっぱり」
目を凝らして、頷く。
「足跡だ」
遠いので大きさが掴みづらいが、大人のそれと比較するとどうも小さいように思える。リヤンは上を向いて、こちらを見ている仲間たちにそれを伝えた。
「やっぱり、ティア君が来たの……ここで正解だと思う。ふたりとも、急ごう」
必死に声を上げて訴えるが、フルルたちの反応は芳しくなかった。フルルが小さく首を振って「そもそもさ」と眉をひそめる。
「どうする気なの、リヤン。まさか後を追いかけようと思ってる?」
「そ――そうだけど。ダメ?」
「ダメというか……」
フルルは言葉に詰まって、困ったようにレゾンに目をやった。彼がひとつ頷いて、フルルの代わりに「リヤンさん」と呼びかけてくる。
「はっきり言って無謀です。追いかけて、その先に必ずティアさんを見つけられるとも限らない。もう一度言いますが、支部に戻りましょう」
年下とは思えない落ち着いた声に諭されて、かえって頬が熱くなった。
「でもっ――ティア君を保護するのって、MDPの役目なんだよね?」
「はい。だから、大人の判断を仰ぎましょう」
「そんな、呑気なことっ――」
息を呑む。
岩壁に掛けていた足が、ずるりと滑ったのだ。
仲間たちが驚きに目を見張る、その姿がゆっくりと遠ざかっていき、一瞬だけ、リヤンの身体は完全に宙に浮いた。指先を掠めるように触れたロープを掴み、どうにか身体を繋ぎ止めると、全身が痺れるような感覚に襲われた。
喉が詰まって声が出ない。
身体が破裂しそうなほど飲み込んだ空気を、肺に入れないまま吐き出す。
「リヤン――大丈夫!?」
上から声が聞こえて、ようやくリヤンは自分が置かれた状況を思い出す。弾かれたように鳴り出す心臓を抑えて、ゆっくりと息を吐く。どうにか上を向いて返事をすると、安堵の溜息が降ってきた。
「靴が――滑った、みたい」
「戻って来れますか?」
「え、ええと――あ」
きょろきょろと周りを見渡して、右手に握っていたはずのペンライトを落としてしまったことに気がつく。地上から差しこむ僅かな日光のみを頼りに、目を凝らして周囲の地形を確認する。
「リヤン、こっちから見えないんだけど――どう?」
「……ちょっときついかも」
隠すわけにも行かず、正直に答える。張り出した岩の下側に張り付いているような状況で、無理に登ろうとすれば、いったん岩壁から足を離して完全にぶら下がる必要があった。バレンシアにいた頃は畑仕事を手伝ったりしたから、そこまで非力というわけではない。だが、流石に手のひらの力だけでロープを手繰って、上に登れるほどの自信はなかった。
それよりは――いっそ。
リヤンは爪先の向こうをちらりと見る。数メートル下った先に、落としたペンライトが転がっているのが見えた。
「――あのさ」
ロープを握りしめた指に疲労が溜まっていくのを感じながら、リヤンは思い切って声を上げた。
「あたし、下に降りるよ」
リヤンの宣言に、深い沈黙が応えた。
仲間たちの顔は岩の影になって見えないが、苦々しい表情を見合わせているのが目に見えるようだった。続く無言が気まずくて「それに」と言い訳めいた言葉を付け足す。
「ずっとぶら下がってるの、しんどいし……」
「え、そこ、足場ないんですか」
「あるにはあるけど」
壁に突っ張った足は、くぼみに爪先を引っ掛けてどうにか留まっている。靴底のゴムが、滑り止めとしての機能をほとんど果たしていないのだ。その理由は、岩壁を覆っている薄らとした湿り気にあった。
「なんか、岩が濡れてて……」
そう伝えると、ふたたび沈黙が場を支配した。ややあって、ロープが引っ張られる感触と共に、フルルが「分かったよ」と言った。
「私たちも降りる。先に行って」
「え? 良いの? だってさっきまで、ダメだって言ってたのに」
「あのねぇ――」
フルルの声がにわかに低くなる。
「リヤンはもうちょっと、自分が危なっかしいって、目を離せないようなことばっかしてるって、自覚して」
本当にそうです――と、溜息交じりに相槌を打つ声が聞こえた。
*
落ちてきた水滴が、頬にぴたりと落ちる。ひゃっ、と思わず声を上げて、リヤンはペンライトを上に向けた。岩と岩の隙間に水滴が膨らんで、今度は目の前30センチを落ちていく。水滴がぬかるんだ地面を叩き、高い音を響かせた。
「うぅ……ドロドロだなぁ」
泥に覆われた地面のせいで、持ち上げる足が重たい。べたついた感触も相まって、だんだんと気分が滅入っていく。思わず文句を零すと「じゃあ」と先頭を行くフルルが白けた声で応じた。
「嫌なら戻ろうか?」
「そういう意味じゃないもん。意地悪」
「まあ――でも、おかげでティアさんの足取りが分かりますね」
むっと睨み合ったリヤンたちを取りなすように、レゾンが話題を逸らした。リヤンは頷いて、ペンライトを前方に向ける。ティアのものとおぼしき小さな足跡が、泥に覆われた地面に点々と続いていた。
「やっぱティア君、地下に行ったんだ」
「うん……でさぁ、リヤンは」
リュックサックを担ぎ直して、フルルがこちらを見下ろす。
「結局、あの子を見つけたらどうするつもり。連れ戻すの?」
「それは――分かんない」
小刻みに首を振ってみせる。
「だって、ティア君がどういうつもりで地下に行ったのか、分かんないもん。レゾン君が言うとおり、故郷の人たちに会いに行ったのかも知れないけど……本当のとこは分かんないし。聞いてみて、それから決めるよ」
「……行き当たりばったりだなぁ」
フルルが溜息をつく。
斜め後ろから見る頬はわずかに白く、フルルが少し無理をして平静を保っているのが分かった。ずっと地上と対立していた地下に対して、彼女はことのほか良くない印象を持っていたにも関わらず、何だかんだ来てくれたのだから、感謝しないとダメだろう。
「一緒に来てくれてありがとう、フルル。いてくれて心強いよ」
精一杯に真面目な表情で言うと「はいはい」と軽くあしらって、フルルは前に向き直る。リヤンは、今度は後ろに振り返って、巻き込んでしまったもうひとりの仲間に視線を向けた。
「レゾン君も。止めてくれたのに、ごめん」
「いえ――付いてきてしまったからには、今さら文句は言いませんけど。……地下にいるかもって言っちゃったの、俺ですし」
レゾンが渋い表情で呟く。
「でも、正直なところ……本気で地下に行ってるとは思わなかったです。怪我した腕で、あの崖を降りようなんて、普通、思わないですよ」
「ほんとだね……」
ほとんど垂直に切り立った岩壁を思い出して、リヤンも頷く。ロープが渡してあったとはいえ、決して安全な道のりではなく、結局仲間たちの手を借りてどうにか降りてきた。ティアのように成長途中の体躯なら、少し足を滑らせただけで滑落してもおかしくない。
「何がティアさんをそこまでさせたんでしょう」
「うぅん……」
リヤンが首を捻る前方で、フルルがぴたりと立ち止まった。短い髪を揺らして、真剣な顔でこちらに振り返る。
「私――分かったかもしれない。ティア君、マダム・アルシュを助けようとしてるんじゃないかな」
*
「――痛っ」
まだ痛めている足首に体重を掛けてしまって、思わず息をこぼす。ティアは周囲に入居者の影がないことを確認して、細く開けた扉の隙間に身体を滑らせた。壁のパネルを取り外して、その裏側に隠されている、斜めに伸びたスロープに乗り込む。
本来なら荷物の運搬に使われる経路である。だがティアは、これを隠密に移動する手段として、去年の秋頃から何度となく利用していた。おかげで配置を覚えてしまい、地図を確認しなくても、ハイバネイト・シティの主要な場所ならば行き来できる。現在のハイバネイト・シティは、感染症予防のために、移動できる区域が制限されており、ティアはラ・ロシェル語圏出身者向けのマニュアルを参照しながら、目的地へ向かうルートを構築した。
目的地は、ラ・ロシェル地下の第36層――アルシュたちが捕らえられているという、その場所である。
少し前、
しかし、その事実を認めようとしない人々が、少なからず存在する――ということは以前から語られていた。それに加え、ティアの生まれ故郷である並行世界、フィラデルフィア語圏の人々もまた、
ならば――他ならぬ
スロープ内部のベルトコンベアに腰を下ろし、
ティアがハイバネイト・シティ内に入ったのは昼頃なのに、課された移動制限のために経路は遠回りを極め、気がつけば日付が変わろうとしていた。
気が
苛立つほど流れの遅いベルトコンベアの上を歩いて降りようとして、バランスを崩して転ぶ。包帯に覆われた腕をもろに打ち付けて、痛みに涙をにじませつつも、再び立ち上がった。
たとえ、自分の生命を対価に差し出しても、彼女を助けなければ――そんな強迫に近い熱意が、ティアの心臓を叩いている。一方、その裏側で、まったく逆の考えも浮かび上がって、双方からティアを押し潰そうとしていた。
『自分の犯してしまった罪を、
かつてティア自身が吐いた言葉だった。
たしかにティア自身の未来というものは、罪を償うために差し出せる最大のものかもしれない。というよりも、正確には、ティアができる最大限の償いですら、傷つけた相手とは無関係の人間の身勝手な死という形でしか納められないのだ。
そんなものに誰が意味を求めるというのか。
結局のところ、償いのために生命を差し出すなんていうのは、償う側にとって都合の良い表現に他ならず、それどころか苦しみからの逃避ですらある。だからあのとき、罪悪感から逃げるように生命を投げだそうとした――ように見えた人に対して、思わず声を荒げるほど腹が立った。平静でいられなかったのは、生命を投げ出して楽になろうとする弱さが、染み渡るほど深く理解できたからだ。彼自身にではなく、そこに見えたティア自身の幻影に、掴みかかったのだ。
罪悪感を抱えて生き続けることこそ、自分ができる唯一の償いだと、そう思っていた。
「――でも」
鈍い痛みがうずく足首を無理やり動かして、ティアは下層を目指す。
他でもない、償うべき相手が危機に瀕しているのなら――その場合に限っては、彼女を守ることと引き換えに、ティアがこの命を散らすことだって、正当化されるかもしれない。怒り狂った故郷の人々に殺されたとしても、ティアが、2年前まで彼らの世界にいたティアと同一人物だと気がついてもらえれば、役目は果たせるのだ。故郷の人々が
「それで良い……よね」
誰に問いかけるでもなく呟いて、ティアは指先をぎゅっと握りしめる。
心の中にある扉の向こうで、何かが溢れそうに部屋を満たしている。扉の隙間からにじんでいる何かの色を見てしまわないように、ティアは小刻みに首を振って、スロープから飛び降りた。
それでも声は、かすかに聞こえている。
『でもぼくは、ティア君も――美味しいものを食べて、見たいものを見て、友達と笑い合って過ごして欲しいなって、本当は思ってるよ』
その声は走る速度を鈍らせた。
「……黙ってください」
呟いて蓋をする。
常闇の地底を目指す、この道のりは、もしかしたら破滅の穴に落ちていく一本道かもしれないけれど――きっと、間違いではないはずだ。だからこそ、地上の明るさや、人肌の暖かさを思い出してしまう声には、耳を傾けてはいけないのだ。