chapitre134. 瞳の裏側
文字数 4,002文字
――新都ラピス ハイバネイト・シティ最下層
自分は姿を隠すのには向いていないのだが――と内心でぼやきながら高い背を竦めつつ、カノンは通路の向こうを見遣った。深夜と早朝の間にある冷たい沈黙が、霜のように降りている。足音、声、息づかい――そういうものがどこにも捉えられないことを確認して、後ろに視線だけを向けた。
腕組みをしてこちらを見ていたカシェが頷く。手入れをしていない庭のように伸び放題だった金色の髪は、全て後頭部でひとつにまとめられ、色の違う瞳が暗闇の中でもしっかりと光っていた。MDPの面々が寝静まっていることを祈りながら、足音を立てないようにゆっくり進み、エリザの居室まで辿りつく。
ごく小さいノックに応えて扉が開く。
隙間からエリザの顔がのぞいて、こちらを確認して微笑む。目元が赤く腫れており、痛々しい涙のあとを頬に刻みながらも、その瞳はいつにも増して明るく感じられた。
居室のなかに入ったことで安堵し、扉にもたれかかると、板が僅かに軋んで音を立てた。女性ふたりの鋭い視線がこちらを見て、すみません、と眉を下げてみせる。
「早速ですが……」
カノンは後ろのポケットから
「決行は今夜、今から――で、構いませんか」
「ええ」
「勿論」
一瞬の淀みもなく、ふたりが同時に口元を持ち上げる。青と白銀、白銀と白銀のまっすぐな視線に、まだ胸の中で燻っていた迷いが灼かれるのを感じた。薄暗い部屋にもかかわらず、眩しさを感じる。どうしてこう――太陽のない地下にやってくる人間は、揃いも揃って強い目をしているのだろう。
「分かりました」
ひとつ瞬きをして頷き、そこから具体的な作戦の調整に入った。エリザが眠っている間にカシェの知恵を借りて、多少は計画を詰めたものの、依然として不確実な点が大半を占めている。その中でも一番、賭けの要素が大きいと思われるのは――“
気を抜けば浅くなりそうな息を、静かにゆっくりと吐く。
「仰るとおり、たしかに彼らは――マダム・エリザ、あんたの絶対的な味方です」
「そうね。あくまで、この私の……ね」
「分かってらっしゃるようですね」
“
だが彼らは――真祖と崇めるエリザの味方であって、正義の味方ではない。下手をすれば、かつて地上に無節操な攻撃を加えようとしたのと同様、エリザを助けるという大義名分のもとに、残虐行為に手を染めるかもしれない。
「ひとつ間違えれば乱闘騒ぎだ」
そうなると、フィラデルフィア語圏との決定的な確執が生まれてしまう。
「あのふたりのためなら、多少危険を冒しても良い、そのくらいの覚悟はありますがね――たったふたりを助けるために、双方で甚大な被害を出すのは許容できません」
「そこは私に賭けられている――と」
「はい。あんたの説得が頼りです」
「分かった」
エリザはひとつ頷いて、眉を持ち上げた。
「任せて下さい」
おや――と、声には出さないながらも、カノンは内心で首を傾げる。エリザの口調や表情に、ほんの少しだが――針の先が引っかかるような違和感を覚えて、
「カノン?」
不思議そうな表情がこちらを見ていることに気がつき、自分の時間が止まっていたことを理解する。瞬きと共に散る七色の光から視線を引きはがして、いや、と口ごもる。
「少し――気を取られていました」
朝は刻一刻と近づき、MDPの面々が起きてくれば時間切れだ。無駄にして良い時間は一秒たりとて存在しない。それでも何かを考えようとする脳の一部を無理やり抑え込み、話を次のトピックに動かす。
一連の作戦が具体的になっていけばいくほど、不確かな点が積み重なっていることを嫌でも理解してしまう。捕らえられているアルシュとシェル、代わりの人質として自ら出向くエリザ、コアルームに残るカノンとカシェ、MDPの構成員たち、対峙するフィラデルフィア語圏の人々、そして“
「……それでもやるんですね」
「ええ」
エリザがしっかりと頷く。
「行きましょうか」
「ああ――すみません。その前に、ひとつだけ」
「なにか?」
立ち上がろうとした腰を下ろし、わずかな角度だけ首を傾げて、
無駄話をしている時間はない。扉の鍵に手をかけたカシェが、訝しげな表情で振り向くのを感じ取る。それでも、今ここで聞かなければ――という焦りにも似た、焼け付くような感情が胸を支配した。
力強く持ち上げられたまぶたの下で、薄暗い明かりを受けた瞳が光っている。自ずから光っているわけではない、ただ光を反射しているだけなのに、電灯よりよっぽど明るく煌めいて見える――不可思議な色彩に覆われた瞳を見つめて、カノンは静かに息を吸った。
「その、あんたは……どちらですか」
「――
訝しげな呟き。
「もしかして……もう、聞いたのか」
ほとんど独り言のような言葉が乾いた唇に乗せられて、空気をついばむがごとく動く。素早いまばたきと同時に視線が左右に揺れ、ああ――と嘆息めいた声がその喉から落ちる。
「そうか……」
諦めたような溜息。
それを聞いた一瞬だけ、カノンは視界がいくつもの像に分かれるのを感じた。分光された多重な光景のひとつに、エリザではない姿を見つけたような気がして、頭の芯がじわりと痺れる。
自分のものではないような足を一歩前に踏み出して、その姿の前に膝をついた。ワンピースに覆われた腿の上に指先を重ねて置いている、骨の浮くほどに痩せた手を、いてもたってもいられなくなって握る。
「あんたは――」
「ごめん、カノン」
唇をぎゅっと横に引いて、彼女がまっすぐこちらを見た。歪んだ口元の輪郭が僅かに上を向いて、微笑みのような形を浮かべる。
「こういう形でしか、
「……どうして黙ってた」
「信じるものか、と思った。エリザの身体のなかに、別人の心がある――なんて突飛な話は、誰も」
「そりゃあ、随分と……信頼、されてないもんだね」
勝手に掠れていく声を絞り出してカノンが言うと「それに」と彼女は目を伏せた。
「正確には
「だけど……あんたでもあるんだろう」
言った瞬間に顔が熱くなる。少し力を加えれば折れてしまいそうな彼女の手を、熱くなった額に近づけると、頬をなにか液体が伝って落ちた。戸惑うようなエリザ――の姿を取った人の視線と、背後からこちらをじっと見つめている気配の存在を感じつつも、身体が思うように動かせない。横隔膜を突き上げる地響きのような振動に、カノンはしばしの間、抗えないまま身体を丸めていた。
「えっと――隠してて、悪かった」
気まずそうな声音がそう呟く。
「でも、あんまり……広めないで欲しいんだ。ハイバネイト・シティを意のままに操れるエリザの中に、別人の意志がある――なんて広く知られて良いことじゃないし、私が、誰かの姿を借りないとここにいられないことも、知られたくない」
「ああ……分かってるよ」
ようやく落ち着いてきた呼吸を挟んで、目元を拭った。ひりつくように痛む喉を、咳で押し流しながら立ち上がる。
「ただ、あんたがそこにいるなら、そうと聞きたかった。それだけだ」
「他には誰か知ってるのか。このこと……」
「俺とアルシュ、マダム・カシェ以外は誰ひとり知らないはずだ」
「……そうか」
心なしかほっとした声で、頷く。
「良かった」
「ああ……」
口元に浮かぶ微笑みの形には、そうと意識して見つめればたしかに、彼女の輪郭が宿っているような気もした。
「何というか、驚いたよ。本当に――そこにいるんだね」
「
同じ声色のまま、少しだけ違うトーンが苦笑交じりにそう言う。ほんの少し口調と表情が変わるだけなのに、全く違う人間に入れ替わったように――実際にそうなのだが、見えるから不思議だ。
「再会を喜ぶ気持ちは分かるけれど、あまり話し込んでいる訳にもいかないわ」
「ああ……どうも、すみませんね」
落ち着いたエリザの声に諭されて、自分が柄にもなく、現状を忘れかけていたことに気づかされる。表情に力を入れ直して、立ち上がろうとするエリザに手を貸した。先に居室を出ていったカシェを視線で追いかけながら、彼女はカノンの手に体重をかけて立ち上がった。少しふらついた立ち姿を横目に見て「では」と切り出す。
「行きましょうか、マダム・エリザ」
「あまり畏まった話し方をしなくても良いわよ、切り替えるのも面倒でしょう」
「そうも行きませんよ」
背を向けて、気を抜けば緩みそうになる目元を片手で隠しながら、カノンは彼女のために扉を抑えてやった。