chapitre134. 瞳の裏側

文字数 4,002文字

 ――創都345年1月28日 午前2時01分
 ――新都ラピス ハイバネイト・シティ最下層

 自分は姿を隠すのには向いていないのだが――と内心でぼやきながら高い背を竦めつつ、カノンは通路の向こうを見遣った。深夜と早朝の間にある冷たい沈黙が、霜のように降りている。足音、声、息づかい――そういうものがどこにも捉えられないことを確認して、後ろに視線だけを向けた。

 腕組みをしてこちらを見ていたカシェが頷く。手入れをしていない庭のように伸び放題だった金色の髪は、全て後頭部でひとつにまとめられ、色の違う瞳が暗闇の中でもしっかりと光っていた。MDPの面々が寝静まっていることを祈りながら、足音を立てないようにゆっくり進み、エリザの居室まで辿りつく。

 ごく小さいノックに応えて扉が開く。

 隙間からエリザの顔がのぞいて、こちらを確認して微笑む。目元が赤く腫れており、痛々しい涙のあとを頬に刻みながらも、その瞳はいつにも増して明るく感じられた。

 居室のなかに入ったことで安堵し、扉にもたれかかると、板が僅かに軋んで音を立てた。女性ふたりの鋭い視線がこちらを見て、すみません、と眉を下げてみせる。

「早速ですが……」

 カノンは後ろのポケットから水晶端末(クリステミナ)を取り出して、時刻を確認しながら切り出した。

「決行は今夜、今から――で、構いませんか」

「ええ」
「勿論」

 一瞬の淀みもなく、ふたりが同時に口元を持ち上げる。青と白銀、白銀と白銀のまっすぐな視線に、まだ胸の中で燻っていた迷いが灼かれるのを感じた。薄暗い部屋にもかかわらず、眩しさを感じる。どうしてこう――太陽のない地下にやってくる人間は、揃いも揃って強い目をしているのだろう。

「分かりました」

 ひとつ瞬きをして頷き、そこから具体的な作戦の調整に入った。エリザが眠っている間にカシェの知恵を借りて、多少は計画を詰めたものの、依然として不確実な点が大半を占めている。その中でも一番、賭けの要素が大きいと思われるのは――“春を待つ者(ハイバネイターズ)”たちを上手く味方に取り込めるかどうかだった。

 気を抜けば浅くなりそうな息を、静かにゆっくりと吐く。

「仰るとおり、たしかに彼らは――マダム・エリザ、あんたの絶対的な味方です」
「そうね。あくまで、この私の……ね」
「分かってらっしゃるようですね」

 “春を待つ者(ハイバネイターズ)”は、真祖エリザへの絶対的な信仰からなる集団だ。フィラデルフィア語圏が人質を取って脅しをかけてきたことに対し、エリザが自ら出向いたとあれば、間違いなく彼らはエリザの救出に尽力してくれるだろう。

 だが彼らは――真祖と崇めるエリザの味方であって、正義の味方ではない。下手をすれば、かつて地上に無節操な攻撃を加えようとしたのと同様、エリザを助けるという大義名分のもとに、残虐行為に手を染めるかもしれない。

「ひとつ間違えれば乱闘騒ぎだ」

 そうなると、フィラデルフィア語圏との決定的な確執が生まれてしまう。

「あのふたりのためなら、多少危険を冒しても良い、そのくらいの覚悟はありますがね――たったふたりを助けるために、双方で甚大な被害を出すのは許容できません」
「そこは私に賭けられている――と」
「はい。あんたの説得が頼りです」
「分かった」

 エリザはひとつ頷いて、眉を持ち上げた。

「任せて下さい」

 おや――と、声には出さないながらも、カノンは内心で首を傾げる。エリザの口調や表情に、ほんの少しだが――針の先が引っかかるような違和感を覚えて、水晶端末(クリステミナ)を操作していた手が止まる。

「カノン?」

 不思議そうな表情がこちらを見ていることに気がつき、自分の時間が止まっていたことを理解する。瞬きと共に散る七色の光から視線を引きはがして、いや、と口ごもる。

「少し――気を取られていました」

 朝は刻一刻と近づき、MDPの面々が起きてくれば時間切れだ。無駄にして良い時間は一秒たりとて存在しない。それでも何かを考えようとする脳の一部を無理やり抑え込み、話を次のトピックに動かす。

 一連の作戦が具体的になっていけばいくほど、不確かな点が積み重なっていることを嫌でも理解してしまう。捕らえられているアルシュとシェル、代わりの人質として自ら出向くエリザ、コアルームに残るカノンとカシェ、MDPの構成員たち、対峙するフィラデルフィア語圏の人々、そして“春を待つ者(ハイバネイターズ)”の面々――全員が無事なままに目的を達成する未来は、まさしく理想像だった。

「……それでもやるんですね」
「ええ」

 エリザがしっかりと頷く。

「行きましょうか」
「ああ――すみません。その前に、ひとつだけ」
「なにか?」

 立ち上がろうとした腰を下ろし、わずかな角度だけ首を傾げて、()()()がこちらを見る。

 無駄話をしている時間はない。扉の鍵に手をかけたカシェが、訝しげな表情で振り向くのを感じ取る。それでも、今ここで聞かなければ――という焦りにも似た、焼け付くような感情が胸を支配した。

 力強く持ち上げられたまぶたの下で、薄暗い明かりを受けた瞳が光っている。自ずから光っているわけではない、ただ光を反射しているだけなのに、電灯よりよっぽど明るく煌めいて見える――不可思議な色彩に覆われた瞳を見つめて、カノンは静かに息を吸った。

「その、あんたは……どちらですか」 

「――()()()?」

 訝しげな呟き。
 ()()が眉をひそめる。

「もしかして……もう、聞いたのか」

 ほとんど独り言のような言葉が乾いた唇に乗せられて、空気をついばむがごとく動く。素早いまばたきと同時に視線が左右に揺れ、ああ――と嘆息めいた声がその喉から落ちる。

「そうか……」

 諦めたような溜息。

 それを聞いた一瞬だけ、カノンは視界がいくつもの像に分かれるのを感じた。分光された多重な光景のひとつに、エリザではない姿を見つけたような気がして、頭の芯がじわりと痺れる。

 自分のものではないような足を一歩前に踏み出して、その姿の前に膝をついた。ワンピースに覆われた腿の上に指先を重ねて置いている、骨の浮くほどに痩せた手を、いてもたってもいられなくなって握る。

「あんたは――」
「ごめん、カノン」

 唇をぎゅっと横に引いて、彼女がまっすぐこちらを見た。歪んだ口元の輪郭が僅かに上を向いて、微笑みのような形を浮かべる。

「こういう形でしか、()()に来れなかった」
「……どうして黙ってた」
「信じるものか、と思った。エリザの身体のなかに、別人の心がある――なんて突飛な話は、誰も」
「そりゃあ、随分と……信頼、されてないもんだね」

 勝手に掠れていく声を絞り出してカノンが言うと「それに」と彼女は目を伏せた。

「正確には()じゃない。ここにはエリザもいる。カノンと話しているのは、多分、私――ロンガの意識だと思うけど、自分でも確信は持てない。だから――」
「だけど……あんたでもあるんだろう」

 言った瞬間に顔が熱くなる。少し力を加えれば折れてしまいそうな彼女の手を、熱くなった額に近づけると、頬をなにか液体が伝って落ちた。戸惑うようなエリザ――の姿を取った人の視線と、背後からこちらをじっと見つめている気配の存在を感じつつも、身体が思うように動かせない。横隔膜を突き上げる地響きのような振動に、カノンはしばしの間、抗えないまま身体を丸めていた。

「えっと――隠してて、悪かった」

 気まずそうな声音がそう呟く。

「でも、あんまり……広めないで欲しいんだ。ハイバネイト・シティを意のままに操れるエリザの中に、別人の意志がある――なんて広く知られて良いことじゃないし、私が、誰かの姿を借りないとここにいられないことも、知られたくない」
「ああ……分かってるよ」

 ようやく落ち着いてきた呼吸を挟んで、目元を拭った。ひりつくように痛む喉を、咳で押し流しながら立ち上がる。

「ただ、あんたがそこにいるなら、そうと聞きたかった。それだけだ」
「他には誰か知ってるのか。このこと……」
「俺とアルシュ、マダム・カシェ以外は誰ひとり知らないはずだ」
「……そうか」

 心なしかほっとした声で、頷く。

「良かった」
「ああ……」

 口元に浮かぶ微笑みの形には、そうと意識して見つめればたしかに、彼女の輪郭が宿っているような気もした。

「何というか、驚いたよ。本当に――そこにいるんだね」
()もいるけれどね」

 同じ声色のまま、少しだけ違うトーンが苦笑交じりにそう言う。ほんの少し口調と表情が変わるだけなのに、全く違う人間に入れ替わったように――実際にそうなのだが、見えるから不思議だ。

「再会を喜ぶ気持ちは分かるけれど、あまり話し込んでいる訳にもいかないわ」 
「ああ……どうも、すみませんね」

 落ち着いたエリザの声に諭されて、自分が柄にもなく、現状を忘れかけていたことに気づかされる。表情に力を入れ直して、立ち上がろうとするエリザに手を貸した。先に居室を出ていったカシェを視線で追いかけながら、彼女はカノンの手に体重をかけて立ち上がった。少しふらついた立ち姿を横目に見て「では」と切り出す。

「行きましょうか、マダム・エリザ」
「あまり畏まった話し方をしなくても良いわよ、切り替えるのも面倒でしょう」
「そうも行きませんよ」

 背を向けて、気を抜けば緩みそうになる目元を片手で隠しながら、カノンは彼女のために扉を抑えてやった。
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登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

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