断章
文字数 4,365文字
ラピス周縁四都市のひとつ、南の町エスマリテの、そのまた南の端のほう。日光が降り注ぐ穏やかな草原に、木造二階の建物がある。太陽が空のてっぺんに昇るのと前後して、カラカラと鐘の音が鳴り響く。その音に導かれるように、開け放たれた建物の扉や、ときには窓から、子供たちが飛び出して草原に駆けていった。
すっかり静かになった、学舎の一室で。
七歳の少女であるフィリシアは、外に駆け出していった彼らとは逆のほうに向かう。木の匂いがする廊下を歩いて、中庭を横切ると、その向こうに学舎とは別の建物があるのだ。
両開きの重たい扉を開けて、中に入る。
そこは、図書館だ。
空気中に舞う塵が、光を受けてきらきら輝いている。光る粉雪みたいな埃をかき分けた先には、綺麗に成立した本棚がずぅんと立ち塞がり、小さなフィリシアを出迎えた。
『ようこそ』
堅苦しくて低い、老爺のような声。
フィリシアは少し背伸びをして、前から気になっていたハードカバーの本を取る。深い草色の背表紙には「高山の植物」と書かれている。ためしに開いてみると、陽気な少年のような声が出迎えた。
『ハロー、初めまして』
軽快な文章に、シンプルで可愛らしい挿絵。
フィリシアはそれを胸元に抱えて、他にも何冊か本を取る。本棚には色んな人が住んでいる。ちょっと怖そうだけど優しいおじさんとか、賢くて凜としたお姉さんとか、寡黙だけど大切なことを教えてくれるお婆さんとか。初めて出会うたくさんの友達と一緒に、フィリシアが奥の机に向かうと、そこには先客がいた。
「やあ、フィリ」
「先生!」
片手を上げて微笑んだのは、本の中にいる友達ではなくて、フィリシアと同じ、本を読む側の人間だ。彼はフィリシアよりもずっと大人で、学舎で勉強を教えてくれるので、フィリシアたち生徒は彼を先生と呼ぶ。
そんな先生だが、実は講義のない空き時間は、こうして図書館に来ていることが多いのだ。他の生徒たちはみんな草原に遊びに行ってしまうので、このことを知らない。自分だけが先生の習慣を知っている、その事実に、何となく得をしたような気持ちになるフィリシアだった。
「あれ?」
そんな先生を見て、フィリシアはふと見慣れないところを見つける。
「先生……髪、切ったでしょ。ちょっと短くなってる」
「ああ、うん。小さい子だと、引っ張って遊ぶ子がいるんだよね。飛びついて引っ張られると、流石に危ないからね、切ったんだ」
「えぇぇ、やんちゃ」
「そんなこと言うけど」
先生はくすっと笑った。
「フィリだって、学舎に来てすぐの頃は、髪を引っ張る癖があったよ」
「うそぉ」
フィリシアは唇を尖らせる。
「わたし、そんなことしない」
「今はね」
「……前だってしないもん」
否、正確には自信がない。
フィリシアが学舎に来たのは三歳の秋らしいが、その前後のことは、曖昧にしか覚えていない。学舎に来る前、こことは違う場所で、先生や学舎の仲間とは違う人たちと暮らしていたというけど、あまり思い出せないのだ。
唯一、学舎に来る前のフィリシアについて教えてくれるのは、右耳に下げた飾りだけ。黄色っぽい金属の輪っかをつなげたイヤリングは、フィリシアを昔に育てていた人がくれたものらしい。だけど、考えると頭がずきずきと痛くなり始めるので、フィリシアはそれ以上思い出そうとするのを止めて、重たい友達たち――ハードカバーの本たちを机の上に載せた。
「また、いっぱい持ってきたね」
先生が笑う。
そう言う先生も、机の上にたくさん本を積んでいる。書いてある内容のジャンルも、書いた人も、本の厚さやサイズもバラバラだ。先生は色々な本を、食い入るように集中して読んでは、小さな溜息とともに本を閉じるのだ。
「――ねえ」
その日はふと気になって、フィリシアは先生に聞いてみた。
「先生って、どうして本を閉じるとき、悲しそうにするの?」
「悲しそう……かな」
先生はぱちぱちと二回瞬きをして、小さく首を傾げた。それから目を伏せて「そうだね」と呟く。
「たしかに、残念だなぁ――とは思ってるかも。探してるものが、本を一冊読んでも見つからなかったってことだから」
「先生、なにか探してるの?」
板張りの地面にぺたりと座って、フィリシアはソファに座る彼を足下から見上げた。
「わたしも手伝ってあげようか?」
「ありがとう、フィリ。でも、もうずっと探してるけど、見つからないものだから……手伝わせるのは、ちょっと申し訳ないかな」
「ずっとってどれくらい?」
「きみが生まれるより、前から」
「ふぅん……」
フィリシアは今年で七歳になる。
それより前というのは、つまりは、世界が始まるより前――と言われたようなものだった。宇宙の成り立ちについての図鑑を読んだときと、似た感覚がする。身体がふわっと宙に浮かんで、遠くから自分のつむじを見下ろしてるみたいな――果てしなく大きなものに触れるときの感覚。
「なるほど」
どきどきする胸に手を当てて、フィリシアは呟いた。
「それは、だいぶ、昔だね」
「そうでしょう?」
先生が微笑む。それから、床には埃が積もっているから、ちゃんと椅子に座りなさい――と、お小言を言われた。
「でも」
ソファに座り直して、フィリシアは先生を正面から見る。
「先生のお手伝い、してあげても良いよ。わたし、色んな本、読んでるもん。先生が探してるもの、教えてよ」
「……フィリ」
少し驚いたように、先生はぱっちりと目を見開いた。つるりとした癖のない髪をかき上げて「ありがとう」と微笑む。
「ぼくはね――《ルナ》を探してるんだ」
「《ルナ》?」
「そう」
先生が頷く。
「うまく言えないんだけど、大切なもの……な、気がするから」
長い睫毛がほっぺたに影を落として、先生の雰囲気はいつになく悲しげに見えた。いつも頼っているはずの大人が、そんな弱々しい表情をすると、フィリシアは妙にどぎまぎしてしまう。
だから、必死で考えた。
《ルナ》。
どこかで聞いた音のような気がする。誰かが――図書館の本のうち誰かが、教えてくれた言葉のような気がする。ぐるぐると頭のなかを駆け回って、フィリシアは記憶のしっぽを掴もうとした。
そうだ。
《ルナ》は、あの笑顔が素敵な女の人が教えてくれた言葉だ。
「先生!」
フィリシアは勢いよく顔を上げる。
「わたし、知ってる」
その勢いのまま机を乗り越えて、向かいのソファに座っていた先生の手首を引っ張る。ずらりと待ち構えている本棚の森を抜けて、フィリシアは図書館の隅っこ、静かに佇んでいる本棚の前に先生を引っ張っていった。
背伸びをして、本のひとつを引っ張り出す。
「先生、この辞書、読んだことある?」
「羅英……七言語のどれでもない、旧時代の言語か。いや……読んでないかも」
「じゃあ、読んでみて!」
先生に分厚い辞書を手渡し、二人はそのまま、最初に座っていたソファまで戻る。テーブルの上に積み上げた本をどけてスペースを作り、そこに辞書のページを広げる。先生は索引からページ数を見つけて、本の真ん中より、ちょっと後ろのページを開いた。
「……本当だ」
「ね? あったでしょ」
指をぎゅっと握りしめる先生の横で、フィリシアは自慢げに胸を張ってみせた。それから、ページのなかにある《ルナ》を指さす。そこには《ルナ》の訳語として《ムーン》、つまり月を意味する単語が書いてあった。
「先生、お月様が欲しいの?」
「うーん……どうかな」
先生は片方の頬を膨らませて、難しそうに腕を組んだ。
「とりあえず……ありがとう、フィリ」
「どういたしまして」
「そっか、《ルナ》って月のことだったんだ。でも――じゃあ、月を手に入れたいって、一体どういう意味だろう」
先生は目を細める。
他でもない自分のことなのに、よく分かっていないらしい。フィリシアは考え込んでいる先生の横に座って、しばらく自分の持ってきた本を読んでいたが、ふと思いついて「ねえ」と顔を上げた。
「《ルナ》をずっと追いかけてるなんて、なんだか先生って太陽みたいだね」
「太陽?」
目をぱちっと開けて、先生が不思議そうに呟く。明かり取りの窓を指さして、フィリシアは「だって」と言った。
「太陽と月って、お空に別々に昇ってくるもの。おんなじ方に動いてるのに、追いつかない。追いかけっこ、してるみたい」
「それは、ちょっと違うけど……」
先生は肩をすくめた。
それからフィリシアは、ふと気になって、先生が読んでいた辞書を奪う。《ルナ》は月のことだが、では太陽は何と呼ぶのだろう――と気になったのだ。まず、英語――フィラデルフィア語圏で使われていた言葉で、太陽が《サン》と呼ばれることを別の辞書に聞いて確認する。それから、さっき持ってきた辞書で《サン》を調べる。
答えはすぐ見つかった。
「《ソル》だって」
「え――」
何か考えていたらしい先生は、はっと顔を上げた。険しい目つきが、まるで睨むようにこちらを見て、フィリシアは思わず身をすくめる。
「フィリ、今、なんて」
「だ――だからね、太陽のことは《ソル》って言うのよ……?」
「《ソル》……」
ぼんやりと呟く。
「……そうか」
それから先生は、両手で顔を覆った。
「《ルナ》は……ルナのことだ」
「先生」
――泣いてるの?
喉のすぐ手前まで出てきた言葉を、フィリシアは飲み込んだ。
***
夏がやってくる。
空に湧き上がった入道雲が眩しい、青葉の匂いが風のなかに透けている日、学舎にお客様がやってきた。昼休み、いつものように図書館に入ろうとしていたフィリシアを見つけて、彼女は微笑みを浮かべてみせる。
「こんにちは」
「……こんにちは?」
フィリシアは首を傾げる。
その人はこちらに歩いてきて、フィリシアの前に膝を付いた。フィリシアの耳飾りを見て、ああ、と小さく呟く。
「君が、フィリシアかな」
「そうですけど……」
間違いなく、初めて見る人だ。
なのに、どうして名前を知っているのだろう。フィリシアがちょっと警戒して後ろに下がると、図書館の扉が内側から開けられて、先生が顔を出した。
「フィリ、どうしたの――」
先生の声が止まる。
「……見つけた」
その人は、にっこりと微笑んで立ち上がる。フィリシアはそこで、彼女の両耳に、太陽と月を象ったイヤリングが揺れているのに気がついた。
ラピスの再生論 了
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本エピソードを持ちまして「ラピスの再生論」本編完結となります。なお「ノベルアッププラス」にて改稿版を連載しており、こちらに掲載したものも順次改稿版と差し替えていきます。初稿は「小説家になろう」にのみ残す予定です。
感想など、もし宜しければ残して頂けると、今後の励みとなります。
お読み頂きありがとうございました。
織野帆里 2021/2/15