断章

文字数 4,365文字

 創都三五二年の初夏、緑風の吹く五月。

 ラピス周縁四都市のひとつ、南の町エスマリテの、そのまた南の端のほう。日光が降り注ぐ穏やかな草原に、木造二階の建物がある。太陽が空のてっぺんに昇るのと前後して、カラカラと鐘の音が鳴り響く。その音に導かれるように、開け放たれた建物の扉や、ときには窓から、子供たちが飛び出して草原に駆けていった。

 すっかり静かになった、学舎の一室で。

 七歳の少女であるフィリシアは、外に駆け出していった彼らとは逆のほうに向かう。木の匂いがする廊下を歩いて、中庭を横切ると、その向こうに学舎とは別の建物があるのだ。

 両開きの重たい扉を開けて、中に入る。

 そこは、図書館だ。

 空気中に舞う塵が、光を受けてきらきら輝いている。光る粉雪みたいな埃をかき分けた先には、綺麗に成立した本棚がずぅんと立ち塞がり、小さなフィリシアを出迎えた。

『ようこそ』

 堅苦しくて低い、老爺のような声。

 フィリシアは少し背伸びをして、前から気になっていたハードカバーの本を取る。深い草色の背表紙には「高山の植物」と書かれている。ためしに開いてみると、陽気な少年のような声が出迎えた。

『ハロー、初めまして』

 軽快な文章に、シンプルで可愛らしい挿絵。

 フィリシアはそれを胸元に抱えて、他にも何冊か本を取る。本棚には色んな人が住んでいる。ちょっと怖そうだけど優しいおじさんとか、賢くて凜としたお姉さんとか、寡黙だけど大切なことを教えてくれるお婆さんとか。初めて出会うたくさんの友達と一緒に、フィリシアが奥の机に向かうと、そこには先客がいた。

「やあ、フィリ」
「先生!」

 片手を上げて微笑んだのは、本の中にいる友達ではなくて、フィリシアと同じ、本を読む側の人間だ。彼はフィリシアよりもずっと大人で、学舎で勉強を教えてくれるので、フィリシアたち生徒は彼を先生と呼ぶ。

 そんな先生だが、実は講義のない空き時間は、こうして図書館に来ていることが多いのだ。他の生徒たちはみんな草原に遊びに行ってしまうので、このことを知らない。自分だけが先生の習慣を知っている、その事実に、何となく得をしたような気持ちになるフィリシアだった。

「あれ?」

 そんな先生を見て、フィリシアはふと見慣れないところを見つける。

「先生……髪、切ったでしょ。ちょっと短くなってる」
「ああ、うん。小さい子だと、引っ張って遊ぶ子がいるんだよね。飛びついて引っ張られると、流石に危ないからね、切ったんだ」
「えぇぇ、やんちゃ」
「そんなこと言うけど」

 先生はくすっと笑った。

「フィリだって、学舎に来てすぐの頃は、髪を引っ張る癖があったよ」
「うそぉ」

 フィリシアは唇を尖らせる。

「わたし、そんなことしない」
「今はね」
「……前だってしないもん」

 否、正確には自信がない。

 フィリシアが学舎に来たのは三歳の秋らしいが、その前後のことは、曖昧にしか覚えていない。学舎に来る前、こことは違う場所で、先生や学舎の仲間とは違う人たちと暮らしていたというけど、あまり思い出せないのだ。

 唯一、学舎に来る前のフィリシアについて教えてくれるのは、右耳に下げた飾りだけ。黄色っぽい金属の輪っかをつなげたイヤリングは、フィリシアを昔に育てていた人がくれたものらしい。だけど、考えると頭がずきずきと痛くなり始めるので、フィリシアはそれ以上思い出そうとするのを止めて、重たい友達たち――ハードカバーの本たちを机の上に載せた。

「また、いっぱい持ってきたね」

 先生が笑う。

 そう言う先生も、机の上にたくさん本を積んでいる。書いてある内容のジャンルも、書いた人も、本の厚さやサイズもバラバラだ。先生は色々な本を、食い入るように集中して読んでは、小さな溜息とともに本を閉じるのだ。

「――ねえ」

 その日はふと気になって、フィリシアは先生に聞いてみた。

「先生って、どうして本を閉じるとき、悲しそうにするの?」
「悲しそう……かな」

 先生はぱちぱちと二回瞬きをして、小さく首を傾げた。それから目を伏せて「そうだね」と呟く。

「たしかに、残念だなぁ――とは思ってるかも。探してるものが、本を一冊読んでも見つからなかったってことだから」
「先生、なにか探してるの?」

 板張りの地面にぺたりと座って、フィリシアはソファに座る彼を足下から見上げた。

「わたしも手伝ってあげようか?」
「ありがとう、フィリ。でも、もうずっと探してるけど、見つからないものだから……手伝わせるのは、ちょっと申し訳ないかな」
「ずっとってどれくらい?」
「きみが生まれるより、前から」
「ふぅん……」

 フィリシアは今年で七歳になる。

 それより前というのは、つまりは、世界が始まるより前――と言われたようなものだった。宇宙の成り立ちについての図鑑を読んだときと、似た感覚がする。身体がふわっと宙に浮かんで、遠くから自分のつむじを見下ろしてるみたいな――果てしなく大きなものに触れるときの感覚。

「なるほど」

 どきどきする胸に手を当てて、フィリシアは呟いた。

「それは、だいぶ、昔だね」
「そうでしょう?」

 先生が微笑む。それから、床には埃が積もっているから、ちゃんと椅子に座りなさい――と、お小言を言われた。

「でも」

 ソファに座り直して、フィリシアは先生を正面から見る。

「先生のお手伝い、してあげても良いよ。わたし、色んな本、読んでるもん。先生が探してるもの、教えてよ」
「……フィリ」

 少し驚いたように、先生はぱっちりと目を見開いた。つるりとした癖のない髪をかき上げて「ありがとう」と微笑む。

「ぼくはね――《ルナ》を探してるんだ」
「《ルナ》?」
「そう」

 先生が頷く。

「うまく言えないんだけど、大切なもの……な、気がするから」

 長い睫毛がほっぺたに影を落として、先生の雰囲気はいつになく悲しげに見えた。いつも頼っているはずの大人が、そんな弱々しい表情をすると、フィリシアは妙にどぎまぎしてしまう。

 だから、必死で考えた。

 《ルナ》。

 どこかで聞いた音のような気がする。誰かが――図書館の本のうち誰かが、教えてくれた言葉のような気がする。ぐるぐると頭のなかを駆け回って、フィリシアは記憶のしっぽを掴もうとした。

 そうだ。

 《ルナ》は、あの笑顔が素敵な女の人が教えてくれた言葉だ。

「先生!」

 フィリシアは勢いよく顔を上げる。

「わたし、知ってる」

 その勢いのまま机を乗り越えて、向かいのソファに座っていた先生の手首を引っ張る。ずらりと待ち構えている本棚の森を抜けて、フィリシアは図書館の隅っこ、静かに佇んでいる本棚の前に先生を引っ張っていった。

 背伸びをして、本のひとつを引っ張り出す。

「先生、この辞書、読んだことある?」
「羅英……七言語のどれでもない、旧時代の言語か。いや……読んでないかも」
「じゃあ、読んでみて!」

 先生に分厚い辞書を手渡し、二人はそのまま、最初に座っていたソファまで戻る。テーブルの上に積み上げた本をどけてスペースを作り、そこに辞書のページを広げる。先生は索引からページ数を見つけて、本の真ん中より、ちょっと後ろのページを開いた。

「……本当だ」
「ね? あったでしょ」

 指をぎゅっと握りしめる先生の横で、フィリシアは自慢げに胸を張ってみせた。それから、ページのなかにある《ルナ》を指さす。そこには《ルナ》の訳語として《ムーン》、つまり月を意味する単語が書いてあった。

「先生、お月様が欲しいの?」
「うーん……どうかな」

 先生は片方の頬を膨らませて、難しそうに腕を組んだ。

「とりあえず……ありがとう、フィリ」
「どういたしまして」
「そっか、《ルナ》って月のことだったんだ。でも――じゃあ、月を手に入れたいって、一体どういう意味だろう」

 先生は目を細める。

 他でもない自分のことなのに、よく分かっていないらしい。フィリシアは考え込んでいる先生の横に座って、しばらく自分の持ってきた本を読んでいたが、ふと思いついて「ねえ」と顔を上げた。

「《ルナ》をずっと追いかけてるなんて、なんだか先生って太陽みたいだね」
「太陽?」

 目をぱちっと開けて、先生が不思議そうに呟く。明かり取りの窓を指さして、フィリシアは「だって」と言った。

「太陽と月って、お空に別々に昇ってくるもの。おんなじ方に動いてるのに、追いつかない。追いかけっこ、してるみたい」
「それは、ちょっと違うけど……」

 先生は肩をすくめた。

 それからフィリシアは、ふと気になって、先生が読んでいた辞書を奪う。《ルナ》は月のことだが、では太陽は何と呼ぶのだろう――と気になったのだ。まず、英語――フィラデルフィア語圏で使われていた言葉で、太陽が《サン》と呼ばれることを別の辞書に聞いて確認する。それから、さっき持ってきた辞書で《サン》を調べる。

 答えはすぐ見つかった。

「《ソル》だって」
「え――」

 何か考えていたらしい先生は、はっと顔を上げた。険しい目つきが、まるで睨むようにこちらを見て、フィリシアは思わず身をすくめる。

「フィリ、今、なんて」
「だ――だからね、太陽のことは《ソル》って言うのよ……?」
「《ソル》……」

 ぼんやりと呟く。

「……そうか」

 それから先生は、両手で顔を覆った。

「《ルナ》は……ルナのことだ」
「先生」

 ――泣いてるの?
 喉のすぐ手前まで出てきた言葉を、フィリシアは飲み込んだ。

 ***

 夏がやってくる。

 空に湧き上がった入道雲が眩しい、青葉の匂いが風のなかに透けている日、学舎にお客様がやってきた。昼休み、いつものように図書館に入ろうとしていたフィリシアを見つけて、彼女は微笑みを浮かべてみせる。

「こんにちは」
「……こんにちは?」

 フィリシアは首を傾げる。

 その人はこちらに歩いてきて、フィリシアの前に膝を付いた。フィリシアの耳飾りを見て、ああ、と小さく呟く。

「君が、フィリシアかな」
「そうですけど……」

 間違いなく、初めて見る人だ。

 なのに、どうして名前を知っているのだろう。フィリシアがちょっと警戒して後ろに下がると、図書館の扉が内側から開けられて、先生が顔を出した。

「フィリ、どうしたの――」

 先生の声が止まる。

「……見つけた」

 その人は、にっこりと微笑んで立ち上がる。フィリシアはそこで、彼女の両耳に、太陽と月を象ったイヤリングが揺れているのに気がついた。








 ラピスの再生論 了

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本エピソードを持ちまして「ラピスの再生論」本編完結となります。なお「ノベルアッププラス」にて改稿版を連載しており、こちらに掲載したものも順次改稿版と差し替えていきます。初稿は「小説家になろう」にのみ残す予定です。

感想など、もし宜しければ残して頂けると、今後の励みとなります。
お読み頂きありがとうございました。

織野帆里 2021/2/15
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登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

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