chapitre47. 地中の入り口

文字数 10,088文字

『こちらは、包括型社会維持施設、ハイバネイト・シティ。本日は稼働より149230日、負荷率12.2パーセント、システム異常なし。ようこそ、生存者の皆さま』

 天井から流れ出した音声に、ソレイユとラムは目を丸くした。女性の、抑揚のない声だったが、アナウンスの内容に驚いたのではない。それ以前の問題があった。

「これは、異言語か? 嫌なことを思い出すな」

 ラムが忌々しげに目を細める。彼ら2人は、まだ崩壊していない統一機関に所属していたころ、異言語を話す少年と出会ったことがあった。ティアと名乗った少年の、幼い顔立ちに浮かべた悲壮は今でも覚えている。当時、友人と一緒に、ほんの少しだけ彼の言語を学んだが、今はほとんど覚えていなかった。
 合成音声が喋った言葉のうち、聞き取れたのは一語だけだった。

「……ようこそ、って言った。いま」
「お前は、あぁ、そうか。あの少年と話したことがあるからな」
「うん。ほとんど忘れちゃったけどね」

 そう2人が話し合っていると、スピーカーの隣に据え付けられたランプが点滅して、『言語解析を行いました』と、ラピスの公用語で言った。こちらもまだ、多少おかしなアクセントだが、聞き取る分には十分理解できた。

『生存者の皆さま、大変失礼いたしました。改めてご案内いたします、こちらは包括型社会維持施設、ハイバネイト・シティです。貴方がたの言葉ですと、冬眠都市、といった意味合いです。本日は稼働より149230日、負荷率12.2パーセント――』

「ちょっと待て」

 ラムが言葉を挟んだ。

「ほぼ15万日だと? 創都以前からあることにならないか」
「あ、本当だ」

 今年は創都344年だ。

 これはラピスの成立した年を元年として数える暦法なので、15万日を1年の日数で割って、大体400年前からこの施設があったとすれば、この施設はラピスより古いことになる。遅れて理解したソレイユに、ラムがじろりと目配せした。もっと警戒しておけ、の意味だろうか。

『はい。稼働日はC.E.(コモン・エラ)――年となっております』
共通暦(コモン・エラ)だと。つまり、旧時代の遺物だと、そう言うのか」
『はい。現在は、“春を待つ者(ハイバネイターズ)”にオペレーター権を委託しておりますが、私自身は149230日前から走り続けているプログラムです』

 どうやら、この合成音声とは対話が可能らしかった。ソレイユにもいくつか質問したい点があったが、ラムが会話を進めてくれるので黙っていた。それに何となく、音声との会話に割り込まれることを、ラムが望んでいないような気がしたのだ。

「“春を待つ者(ハイバネイターズ)”とは、何者だ?」
『はい。現在ハイバネイト・シティにて滞在する集団です。ハイバネイト・シティ及び地上に分布する配電系統の99.8パーセントを管理しています』
「夜中のあれをしでかした奴らか。規模はどのくらいだ」
『はい。10万人程度です』

「え? そんなわけないよ。ラピスの総人口より多いじゃない」

 あまり話さないようにしようと決めたが、それでも黙っていられず、ソレイユは独り言めかして呟いた。だがその言葉にも、合成音声は『いいえ』と即座に答えた。

『ラピスの総人口はおよそ18万です。地上に8万人。地下に10万人の人間が生存しています』
「10万……」

 呆然と立ち尽くしたソレイユを他所に、ラムは次々に質問を浴びせかけ、アナウンスから様々な情報を引き出していった。
 ラピスが街として成立する前に、数十億もの人口を擁する文明があったが、それが寒冷化でほぼ全滅したこと。数少ない生存者のために設けられた、いわばシェルターがこの包括型社会維持施設「ハイバネイト・シティ」であり、最大100万人を収容できるだけの設備を兼ね備えていること。気候が再び変動して、地上が生活可能な環境になるまで、何世代にも渡り人類が生存し続けるために、400年もの昔、科学技術の粋を極めて設計されたものであること。現在、新都ラピスで利用されている技術の多くは、ハイバネイト・シティのものを転用あるいは応用したものであるということ。

 多すぎて混乱するほどの情報をアナウンスから聞き出すと、ラムは「ありがとう」と呟いた。横顔しか見えないが、彼の目が充血しているのに、ソレイユは気づいた。

『ご案内を進めてよろしいですか?』
「ああ……最後に聞かせて欲しい。()()()()?」
『私は、ハイバネイト・シティの総権を預かる人工知能です。ELIZA(エリザ)と呼ばれております』

 エリザ。

 その名前が、女性の合成音声で語られた瞬間、ムシュ・ラムは床に膝をついた。崩れ落ちる身体を肩で支えて、「やはりな」と青ざめた笑顔を浮かべた。

「そんな気がしたんだ。心なしか声も似せているな」
「え、ええ?」

 妙に納得したような言い方をするラムと違って、ソレイユは全く話について行けなかった。膝をついたラムの隣に屈みながら、「どういうこと」と問いかける。

「なんでエリザの名前が出てくる。貴方はどうして分かったの?」

「お前がどこまで察してるか分からないが、この際だから教えてやる。彼女は過去の人間なんだ。20年と少し前に、時間軸汚染、つまり同じ空間内で時間軸が混じり合ってしまう事故が起きて、エリザは創都前の世界から、あの白い(もや)に連れられてやってきた」

「あぁ――うん。それはぼくらも察していたとおりだ。でも、こんな場所に名前が刻まれている理由は?」

「旧世界にいたころ、エリザは技術者だったんだ。まだ若いが、人類種の生存を賭けたプロジェクトに携わっていたそうだ。まあ、旧時代史も末期となると、大人と子供の境目などなく、才能あるものを起用していたらしいが」

「そうか――」

 点と点がつながる感覚があった。

「つまり、そのプロジェクトというのが、この施設なんだね?」
「理解が早いな。上出来だ」

 かつて研修生の取りまとめ役だったことを彷彿とさせる口調で、ラムが頷いた。

「かつて統一機関で使われていたセキュリティ・システムにも、エリザの肖像が使われていた。あのシステムも、元はハイバネイト・シティの遺産から借用したということか。彼女自身がそれを知らなかったのは、エリザが事故に巻き込まれてからシステムが完成したから、となるのかな」

『はい。私のモデルとなった女性、エリザ・ベネットはシステム稼働前に失踪しております。彼女の功績を称え、同時に追悼の意を示して、私の会話応答を行うインターフェースは彼女をベースに構築されました』

「なるほどね……」

 ソレイユは複雑な気持ちで、スピーカーを見つめた。そこにエリザの名を借りた人工知能がいるわけではないが、他にどこを見て良いのか分からなかった。チカチカと、何かを語りかけるように光が点滅している。

『では生存者の皆さま、どうぞ、こちらへ』

 無機質なのにどこか暖かみを感じる合成音声が、2人を奥の通路へ誘った。その声に従って歩き出そうとするラムを、ソレイユは「え、ちょっとちょっと」と引き留める。

「皆がまだ来てない。待とうよ」

 一緒に脱獄した9人の仲間も、ソレイユたちと同様に自警団に追われていたはずだ。スーチェン市街を必死になって逃げ回るうちにはぐれてしまったが、ここで移動してしまうともう出会えないかもしれなかった。

「あ、ああ。そうだな。だが、俺は……」

 ラムはいつになく狼狽していた。
 彼が、エリザの名を借りたアナウンスに心を惹かれているのは分かった。ほんとうは一刻でも早く、彼女の導く先に向かいたいのだろう。それは、ソレイユにも理解できない感情でもない。

 だが。

「――その声はエリザじゃないんだよ」

 ソレイユは躊躇いながらも言った。そんなことを言いたいわけじゃない。本当のことを言えば良いという話ではない。だけど、今のうちにきつい言葉で張り飛ばしてやらないと、このままラムが帰ってこれなくなるような気がした。
 愛する人の顔を被った幻想に、飲まれてしまう。

「忘れちゃだめだ。この声は、ぼくらをここに導いた地底の民、“春を待つ者(ハイバネイターズ)”の言うことを聞いて動いているだけのシステムだ」

 ソレイユが畳みかけると、ラムがぽつりと「止めろ」と呟いた。拒絶を表すように背を向け、その肩が小さく震えている。

「止めない」

 ソレイユはきっぱりと言って、背を向けたラムの正面に回り込んだ。痩せた両肩を掴んで、ラムの顔をのぞき込む。愛すべき友人とどこか面影の似たラムの目元が、あらぬ場所に焦点を合わせていた。自分の倍以上も年上の仲間――恨みは忘れていないが、今となってはもはや仲間と呼ぶしかない彼の、いつになく均衡を欠いた表情に、真っ向から視線をぶつけた。

「ぼくの顔を見ろ。周りを見ろ! ここは地底の施設だ。得体の知れない相手の本拠地だ。そんな場所で思い出に現を抜かすのが、どれだけ危険か、考えるんだ!」
「――分かっている」

 ラムは肩で大きく息をして、充血した目を乱雑にこすった。しばらく、視線での押し合いが続いたが、ラムがふっと雰囲気を緩めて苦い笑みを浮かべた。

「せっかく良い夢を見れそうだったのにな。お前のせいだ」
「その夢は悪夢だよ」

 ラムがいつもの調子に戻ったので、ソレイユは少し安心してラムの両肩から手を離す。

「醒めない方がいい夢なんて、悪夢に決まってる」

 *

 それから1時間ほど、祈るような思いで洞穴の入り口で待ち続けたが、一緒にグラス・ノワールを抜け出した仲間たちがやってくる気配はなかった。流石にここまで待っても来ないということは、道のりの途中で脱落したか、自警団に捕らえられたのだろう。分かっていても認めるのは苦しい事実だった。
 洞穴の向こうは、暗闇から徐々に白みはじめていた。ソレイユは朝に強いほうではないので、夜明けの空というのはこんな色をしているのか、と不思議な驚きを得た。

「――そろそろ良いだろう」

 ラムの言葉に、ソレイユは無言で頷く。

 天井のスピーカーに話しかけると『どうぞ、こちらへ』と、1時間の空白がなかったかのように案内を再開した。それを不思議に思いかけて、いやいや、これはただのプログラムなのだ、と自分に言い聞かせる。ラムにあれだけ啖呵(たんか)を切ったものの、ソレイユもかなり調子を狂わされていた。エリザとこの人工知能は、突き詰めれば別物以外の何ものでもないのに、ふとした瞬間、エリザその人がスピーカーの向こうにいるように錯覚してしまう。

 心を強く持たないと、と気を引き締めた。

 廊下に並ぶ扉のひとつが、2人を迎え入れるように開く。ラムに扉の外にいてもらい、ソレイユが先に中に入った。呼応するように灯りが付く。

「おっと、眩しっ――あ! これは」
「おい、大丈夫か?」
「うん。ここ、クローゼットみたいな感じだね」

 明るさの変化に目が慣れるのを待って部屋を見回すと、いくつものハンガー・ラックに様々な服が掛けられていた。サイズも服の趣向も様々だ。『まずはお着替えをお済ませ下さい』とアナウンスが言う。ソレイユは一旦廊下に戻って、「どうする?」と聞いた。

「見たところ危険ではなさそう。まあ、閉じ込められるかもしれないけど」
「そうだな、着替えるなら先に済ましてこい。外で待っている」

 ラムの提案に甘えることにして、ソレイユはどろどろになった囚人服の代わりを探した。襟の詰まったシャツに、ノーカラージャケットとショートパンツ、伸縮性に優れたレギンスに革のブーツを見繕って、「うん、良いじゃない」と呟く。部屋の片隅にシャワーが設けられていたので、土だの何だので汚れに汚れきった身体を流してから、新しい服に袖を通した。
 肌着の上にシャツを羽織ると、肌触りの良さに鳥肌が立った。非常に良質な服だ。かつて統一機関で着ていたものは、ラピス内で最高品質の生地と縫製技術で作られた服だったが、それを上回るのではないだろうか。

「まあ、でも、そうか」

 考えながら、ソレイユは問いの無意味さに気がつき、1人で笑った。ラピスのあらゆる技術が、元を正せばハイバネイト・シティ産であることはさっき知ったとおりだ。となれば、服を作ることに関わる技術も、例外なく地下にルーツを持つことになる。

「そりゃあ、オリジナルの方が凄いわけだ」

 生乾きの髪を乾かして、くしを通すと毛先で引っ掛かった。グラス・ノワールにいた頃はろくなシャンプーが使えなかったので、ひそかに自慢だったつるつるの髪は、この2年ですっかり艶を失い、鮮やかなオレンジ色はくすんでしまった。毛先はボサボサになっていて、いくら()かしても絡まるばかりだ。ハサミを見つけたので、いっそ髪を切ってしまおうかと思ったが、上手く切れる気がしなかったので諦めて前髪だけ整えた。それから、ふと思い立って後ろの髪をゆるく編んでみた。これは願掛けのようなものだ。
 最後に、囚人服のポケットに押し込んでいたイヤリングを取ってきて、流水で洗ってから右耳につける。

 鏡の中の、小綺麗になった自分を上から下まで眺めた。

 否定しようもなく体格は貧相になったし、目元は黒ずんでいるが、それでも紛れもなくソレイユ・バレンシアだ。その当たり前のことを確認すると、なぜか気力が湧いた。ソレイユは「よし」と口元を吊り上げ、外で待っていたラムと交代した。

 着替えの後に、食事を出された。

 案内された部屋に入ると、天井から金属のアームが降りてきて2人分には多すぎるほどの食事を並べた。勧められるままソレイユが席に着くと、珈琲(コーヒー)の懐かしい匂いが誘惑してきた。端がパリパリに焼けたハムエッグにマッシュポテト、バジルドレッシングのかかったサラダなどの見慣れた食事から、焼いたクリームのような料理、練り物を揚げたようなもの、など見慣れないものまで、色とりどりで多種多様の食事が並んでいる。囚人だった頃には考えられないほどの豪勢なメニューに、つばを飲み込む。
 グラス・ノワールでの食事が少なかったのに加えて、自警団から逃げ切るために激しい運動をしたので、正直なところ凄まじく空腹だった。胃が本能的にそれらを求めているのを堪えながら、ソレイユはラムに視線を向けた。

「おかしな匂いはしないけど――食べて平気かな?」
「今さら、毒を盛るとも思えないが……」

 ラムは顔をしかめた。

「俺たちに危害を加える機会自体は、ずっとあったはずだ。自警団の奴らから助けてくれた、そのいきさつからして、少なくとも敵対はしていないように思える」
「うん、おおむね同意見」

 ソレイユはプラスチックのスプーンを手に取った。

「頂こう」

 十数分の間、2人は会話もそこそこに料理を頬張(ほおば)った。
 味を組み合わせる方程式があるのかと思うほど正確無比に計算された美味しさ。ときどき、舌の覚えている味に出会ったのは、おそらく統一機関でも同じレシピのものを食べていたのだろう。
 極めつけはデザートに用意されていたムース・オ・ショコラで、贅沢な甘みを2年ぶりに口にして、思わず涙が出た。そうだ、自分はもともと甘いものが好きだったのだ。生命維持のためだけではない、食を味わう楽しみというものを、久しぶりに思い出す。

 2人が食事をしているあいだ、アナウンスは沈黙していた。原則として、こちらから話しかけない限り、何も言わないシステムになっているようだ。あまり饒舌に喋られても困ってしまうのだが、黙っているとそれはそれで怖かった。本当に大丈夫だろうな、この食事、と美味しく食べてしまってから少し不安になる。

 幸いなことに、食事を食べ終わっても呼吸が苦しくなったり眠くなったりすることはなく、2人は次の部屋へ誘われた。アナウンスに従って、ひとりでに開いた扉をくぐると、向こうには何もない部屋が広がっている。
 その部屋に微妙な既視感を覚えて、ぐるりと部屋を見渡し、ソレイユは気づいた。

「この部屋、塔の上の部屋と――時間転送装置があったのと似てる?」
「ああ……この床の形は。たしかにお前の言うとおりだ」

 ラムが頷いた。正七角形の、見る者に生来的な違和感を与える床は、ソレイユがかつて目にした統一機関の最上階と同じ特徴を持っていた。それでふと思い出して、正七角形の各頂点に据えられた柱に近寄る。

「何をしている?」
「統一機関の部屋はさ、柱の、ここら辺に名前が彫ってあったんだよね――」

 ソレイユは柱の下、床から10センチ程度の場所を指さして言った。

「知らない?」
「知らんが、それはおそらく祖の名前だろうな。ラピスの(いしずえ)を築いたとされる、7人の祖の名前がそれぞれ刻まれてあったのなら、柱の本数とも合う」
「やっぱり?」

 そう言って屈み込んだソレイユは、そこに不思議なものを見た。あれ、と疑問が口をついて出ようとした瞬間に、それまで黙っていた天井のスピーカーが突然警告音を発した。ぎょっとして顔を上げた2人に、声が語りかける。

『訂正してください』

 ソレイユは生唾を飲み込んだ。合成された声質は同じなのに、その口調に切迫した雰囲気がある。先ほどまで黙っていたくせに、唐突に喋りだしたのも気持ち悪いし、何を訂正すべきなのか言わないのも怖い。

 だが、にもかかわらずソレイユは、人工知能が何に怒ったのか分かる気がした。柱の下に刻まれていた人名が、全てナイフで上から削り取られているのに気づいたからだ。その削り跡は乱雑で、ところどころ余計な傷がついている。見ているだけで激情が思い起こされるような削り跡を指でなぞりながら、ソレイユは天井に向かって問いかけた。

「訂正しろ、か。それは、ここに刻まれていた名前は()()()()()()()()、そういうこと?」
『その通りです。エリザ・ベネットこそがラピスにとって、後世人類にとっての真の祖。名を残した7人の人間は、ただ彼女を利用したに過ぎません』
「はぁ。何なんだ、エリザの名を(かた)ったかと思えば、今度は祖を侮辱するのか?」
「――止めといた方が良いよ」

 けんか腰に応じたラムを、ソレイユは小声で牽制した。このアナウンスは基本的に、こちらが話しかけない限りは喋らない仕様らしいのに、その原則を踏みこえてまで言ってきたのだ。人間相手で言うところの、逆鱗に触れてしまったのではないだろうか。

「分かった。貴女の言うとおり、エリザが真の祖だ」

 不満そうな顔をするラムの腕を掴んで抑えたまま、ソレイユは友好的な笑みを浮かべてスピーカーに話しかけた。別に表情を見てはいないだろうが、アナウンスは穏やかな口調に戻って『はい。その通りです』と言った。

 ソレイユは内心胸をなで下ろしながら会話の流れを変える。

「それで、ぼくたちをこの部屋に連れてきてくれたのはどうして?」
『はい。生存者の皆さまを、本来なら地下の居住空間に案内すべきなのですが、“春を待つ者(ハイバネイターズ)”により特別な処理が要請されています』

 アナウンスの言葉と同時に、どこかから重たい振動音がし始めた。大きい装置が動いているような音だ。不穏な成り行きに背筋が強ばったが、盛大な音とともに天井から現れたのは見覚えのある装置だった。

「あ、これは……」
「昇降装置か」

 ソレイユとラムはほぼ同時に理解して呟いた。スライドした天井の奥から降りてきたのは、人が数人乗り込める程度の広さを持つ円筒形の小部屋だった。統一機関で、秘密通路として利用されていた装置でもある。塔の上の、正七角形の部屋にも、これと同様の装置で行き来する仕組みだった。
 だが、奇妙なのは2つの昇降装置が同時に現れた点だった。

「これは乗り込めということ? でも、2つある」

『いいえ。生存者の皆さまには、“春を待つ者(ハイバネイターズ)”によって設けられた選択肢があります。この昇降装置のうち、向かって右手側のものは地下の居住空間へ向かうもの。左手側のものは、地上へと戻るものです』

「ええと、つまり――地下空間で暮らすか、地上に戻るか選べということ?」

『はい。ハイバネイト・シティへの移住は、自由意志に基づいていなければならない。それが“春を待つ者(ハイバネイターズ)”の設定したルールです』

「意味が分からんな」

 ラムがぼやいた。

「お前の主人の目的は何だ。俺たちを地下に連れてきて何がしたい?」

『貴方がたの愛するラピスを、貴方たち自身の手で()()()()捨てること。それが“春を待つ者(ハイバネイターズ)”が、地上ラピス市民に願うことです。もちろん、願うだけでは誰も動きませんから、地上への攻撃が予定されています。昨夜、バレンシアで発生した火事は、その萌芽に過ぎません』

「――え? バレンシア?」

 そこに友人がいることを連想し、ソレイユは思わず問い返した。

『はい。迅速に消火されて死者は出ませんでしたが、現在すでに数十名がハイバネイト・シティを探し求めています』

「――ひとまず無事か。良かった」
「つまり、お前たちの作戦は、地上を攻撃することで地下施設へ住まわせる、ということか?」

 友人の無事を確認して、ほっと息を吐いたソレイユの代わりにラムが問いかけた。

「わからん。地上の市民に言いたいことがあるのなら、なぜ交渉してこず、突然このような強硬手段を取るんだ」

「いや、違うんじゃないか。平和に交渉できるほど彼らの精神状態がニュートラルだと考えるのは、地上の人間の傲慢だ。ぼくらは彼らをずっと踏みつけてきたんだ。彼らは――復讐がしたい、って、そう言ったよね?」

『はい。“春を待つ者(ハイバネイターズ)”が求めるのは、貴方がたから太陽を奪い取ることなのです』

「なるほどね……」

 ソレイユは頷いた。ラピスを、地上をあまねく照らす太陽は、当然ながら誰のものでもないが、地下に住まい地上のために働く“春を待つ者(ハイバネイターズ)”は、陽光を浴びる権利すら奪われ続けていたのだ。そうとは知らずに生きてきた自分が、何だか嫌になった。ソレイユは顔を上げると、スピーカーに向かって宣言した。

「よし、ぼくは地下に行くよ」
「――本気か?」

 ラムが隣で目を見張った。

「この話だと、地上に戻った方がまだ安全だと思うが。奴らの元に下ればおそらく二度と戻れない」
「うん、分かってるよ」

 ソレイユはあっけらかんと言った。

「でもそれは、地上と地下が敵対している限り、の話だ。だからぼくは全ラピス市民の先陣を切って、“春を待つ者(ハイバネイターズ)”にごめんなさいを言う。そんで友だちになる。今なら、地上側で被害がほとんどない今なら、まだわかり合えるかもしれない」

「お前、それはあまりにも楽観的な――」

「じゃあ悲観的なことを言うよ。正面から地上と地下がぶつかり合ったら、負けるのは地上だよ。間違いなく。配電系統が乗っ取られた時点でそれは明らかだよね? ぼくらは和平を目指すしかないんだ」

 ソレイユが畳みかけると、ラムは喉を詰まらせるような音を上げた。ソレイユの持論はある意味で正論だが、個人の安全保持という観点に立つとまた話は別だ。何しろ相手の本拠地に乗り込むのだ。無茶をした結果、当たって砕ける可能性は高い。
 ラムはしばらく考えていたが、ややあって「分かった」と重苦しい顔で言った。

「俺も行こう」
「へえ、意外だね」

 ソレイユは忌憚(きたん)ない感想をこぼした。どちらかといえばラムは、自己保身を大切にする人間だと思っていたからだ。こちらの方が危険だと自分で言っておいて、その危険な道にわざわざやってくるとは思わなかった。
 ラムはふんと鼻を鳴らして顔を背けた。

「言っておくが、お前の盾になる気はない。ただ、この世界にまだエリザの名が残っていると分かったのに、そこから逃げ出すのは気が進まない。それだけだ」
「ふぅん……愛だね」

 ソレイユがそう応えたのは、本当に感心したからなのだが、皮肉か軽口と取られたらしく、ラムは返事の代わりに再度鼻を鳴らした。2人は地下に向かう昇降装置へ乗り込み、無感情なアナウンスと共に、長い降下を開始した。
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登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

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