chapitre123. 月光の祈り
文字数 5,882文字
――新都ラピス ハイバネイト・シティ最下層
コアルームで昇降装置の利用権限を管理していたシェルは、ふと視界の端に動くものを捉えた気がして、思わず手を止めた。違和感を覚えた方へ振り向いたが、これといって不自然なものはない。
「どうかしたの?」
アルシュが怪訝そうに尋ねてくる。
「いや……気のせいかな」
そこでは、
「シェル君?」
戸惑ったようなアルシュの声を背後に聞きながら、コアルームの中央に向かう。そこにいるのは、この部屋で唯一動くはずのない人間――外部からの刺激に一切の反応を示さないはずのエリザだった。
彼女はアームレストに腕を置き、身体を背もたれに委ねている。自分の意志で姿勢を保つということをしないため、誰かがうっかりその肩にぶつかりでもすれば、均衡を失って椅子から崩れ落ちてしまう。心を持たないエリザは、人の形を取っただけの物体に近かった。
そのはずなのに、なぜか違和感がある。シェルは彼女をじっと見つめて、違和感の原因に気がついた。
エリザの瞳だ。
常に涙を流している白銀色の瞳は、どこにも焦点が合っていなかったはずなのに、今は何だか、こちらを見ているように見える。
「なんか、目が合ったような」
力の抜けた手首に触れると、今度は指先が小さく動いたように感じた。ねえ、と背後に呼びかけて、振り返ったアルシュを手招きする。
「エリザの身体が、今、ちょっと動いたかも」
「まさか」
一笑に付した彼女の横で、カノンがヘッドセットを外してこちらを見た。
「見間違いじゃないの」
「違うと思う。本当に――ほら、今」
今度は目で見ても分かるくらいにはっきりと、指先が動いた。カノンは眉をひそめて立ち上がったが、アルシュは足を組み変えて疑うような目を向ける。
「神経の反射とかじゃない。意志がなくたって、瞬きはするんだし……」
「いや、だが。確かに――シェル君、ちょっと場所を譲ってくれ」
エリザの前に膝を付き、その顔を正面から眺めたカノンが小さく頷いた。
「何というか、顔立ちが違うように思うね。目つきというか……表情筋に力が入っているように思える」
「え、意識が戻ったってこと?」
「どうかな」
「マダム・エリザ? 聞こえていますか」
斜め下を向いた、痩せた顔。
静かに周囲を窺っているような、瞳の向き。笑っていない口元に、僅かにひそめた眉の付け根。その身体を満たしている意識の流れが、良く知っている相手のものと重なって見えた。
「ルナ?」
反射的に彼女の名前を呼んでしまってから、勢いよく振り向いたアルシュとカノンの険しい表情を見て、シェルは失言に気がついた。ごめん、と頭を垂れる。カノンが立ち上がり、肩を叩いてこちらを見下ろす。その視線には、怒りよりはむしろ憐憫に近い色が浮かんでいた。
「正気を失うな、と言ったはずだ」
「……うん」
目元を強く擦る。
もう一度エリザに視線を戻すと、その表情は心の抜け落ちた人形そのもので、友人の面影など微塵も感じられなかった。周りに集まった構成員たちがエリザに呼びかけたり、その手に触れたりしているが、彼女は一切の応答を返さないようだった。
「やっぱり反射だと思うな」
アルシュが背を向けたまま押し殺した声で呟いて、静かに首を振った。椅子に戻っていくアルシュを見つめて、ほら、とカノンが苦く笑ってみせる。
シェルは唇を噛んで、床に視線を落とす。
腫れた頬が少し痛んだ。
「ごめん。ぼくは何を見たんだろう」
「まあ、実の
「うん、そのくらいは、流石にね……」
パネルの前に置かれた椅子に戻り、険しい目つきでウィンドウを見つめるアルシュに声をかけて、シェルは元の仕事に戻った。
分かっている。
仮にエリザの意識が戻ったとして、それはシェルの友人とは何も関係ないのだ。親子というのは遺伝子を共有している他人以外の何ものでもない、わざわざ言うまでもない事実だ。
分かっているのに。
あのときこちらを見たエリザの視線が、幻像の向こうに消えた友人のものだったように思えてしまって仕方がない。具体的な根拠なんて何もないけれど、シェル自身の直感がそう告げたのだ。
一日の終わりを迎え、寝台で目を閉じる。
今日もまた、いくつかの変化があった。
最下層に滞在するMDP構成員の数は日に日に増えて、作業スペースが不足しつつある。そのため、かつて“
また、居住区域の一部で水道管が破損しているため、滞在エリアを勝手に指定された入居者たちから苦情が寄せられている。しかし感染症予防の観点から、彼らを自由に移動させるわけにもいかず、どうにか説得を試みつつ居住区域の線引きを調整している。
こなすべき仕事は数え切れないほどあって、問題は次々に沸いてくる。
エリザに大切な人の面影を見たなんて、そんな幻覚に囚われている暇はない。感傷に溺れる権利もない。ハイバネイト・シティを上下左右へ走り回った身体は、隅々まで疲れ切っていた。明日の朝までに体力を回復して、自分ができることをひとつでも多く、少しでも前に進めるべきなのだ。
なのに、眠れない。
捨てきれない祈りがいつまでも、頭の中に残っている。
耐えきれなくなってまぶたを押し上げると、朝はまだ遠い部屋で、暗い天井だけが静かに見下ろしていた。シェルは息を吐いて起き上がり、テーブルの上に放り出した外套をシャツの上に羽織る。部屋の窓際に寄り、エリザがいるはずの場所を見下ろした。
ほら――眠っているだけだ。
あの身体を満たす心はもう、どこにもないのだから。マットレスに扇形に広がる蜂蜜色の髪が、痩せて関節の浮き上がった細い指が、まぶたに閉ざされた白銀色の瞳が、ひとりでに動くことなんて――
「……え」
シェルは思わず息を止めて、その光景を見た。
常夜灯の頼りない光が、どこか月光にも似た煌めきを伴って、円形のステージに舞い降りる。誰かの目を通して見ているかのように視界がぼやけて、その瞬間シェルは自分のいる場所を見失った。
無重力に支配された暗闇のなかで、白銀色の瞳が見開かれる。まるで双子星のように光る一対の瞳が、静かに周囲を見回して――そして、こちらを見た。乾いた唇がゆっくりと開いて、子音を乗せて動く。
口元に浮かんだ単語を読み取った瞬間、シェルは靴も履かずに居室を飛び出した。
円筒形のホールに駆け込み、立ち尽くすワンピースの後ろ姿に、おそるおそる呼びかける。白銀色の瞳がこちらを見据えて、今度こそはっきりと、名前を呼んだ。
――ソル。
自分をそう呼ぶ相手は、世界でたった一人だけだ。宇宙に散らばる全ての光を集めたような笑顔で、エリザが――いや、
「ごめん、ごめんね……!」
身体が熱かった。
幼い子供のように泣くシェルの背中に、腕が回される。膝から力が抜けて、崩れ落ちた冷たい床で、ふたりはくすくすと笑い合った。
何が起きているのか良く分からないまま、笑い合った。頭がぼうっとして、話していた内容はほとんど理解できなかったけれど、彼女が隣にいる、それだけで十分すぎるほど奇跡だった。姿形こそ他人だけど、その内側にある心は疑いようもなく彼女のものだ。この事実以外はもう何も要らない――そんなことを考えてしまうほど、幸せな夜だった。
*
誰かに肩を揺すられる。
冷たい床にうつ伏せで倒れていたシェルを、しゃがみ込んだカノンが見下ろしていた。肘で身体を支えて起き上がると、やや呆れた視線がこちらを見据える。
「あんた、何でこんな場所で倒れてる」
「あれ――えっと」
シェルは慌てて立ち上がり、周囲をぐるりと見渡したが、自分とカノン以外には誰もいなかった。身体が冷えたためか、ずきずきと痛む額を抑える。
「もう朝なの」
「そうだよ。体調が悪いんじゃないなら、さっさと支度してくれるかい」
「ああ、うん、ごめん……」
身体をぶるりと震わせながら、外套の前を閉じたシェルを横目に「今日は忙しくなる」とカノンが呟いた。
「なんせ、エリザが目覚めたんだ」
「――え」
「これで、ようやく声紋認証が使える」
「待って。待って、彼女の意識が戻ったの?」
思わず彼の服を掴んで揺さぶると、彼は迷惑そうに目を細めながらも頷いた。
「そう言ったでしょう。今は、コアルームでアルシュたちが話を聞いている。気になるなら、早く、支度を済ませて来るんだね」
カノンの言葉を最後まで聞くのももどかしく、シェルは駆け足で居室に戻った。服装を整えて、甘ったるい携行食を口に詰め込み、おかしな方向に寝癖の付いた髪もそのままに居室を飛び出す。もつれる足でコアルームに駆け込むと、椅子に腰掛けた白銀色の瞳と目が合った。
手前に座っていたアルシュがシェルに気がついて、あ、と声をこぼす。こちらに手のひらを向けて、外向きの丁寧な口調で言った。
「マダム・エリザ、彼はシェル君です」
「ああ――」
その双眸がこちらを見て、ひとつ瞬きをする。
「
こちらに差し出された手のひらを、凍りついて動けないままシェルは見下ろした。アルシュが一瞬だけ眉をひそめてから、ああ、と何かを閃いたように頷いた。
「10年前に、シェル君とは会ったことがあるそうですよ。貴女がラ・ロシェルで生活していた頃の話です」
「そう――ごめんなさい。覚えていなくて」
「いえ、無理もないことです」
アルシュが笑顔で相槌を打ちながらも、視線でこちらに催促するので、シェルは頷いて前に踏み出した。
「シェル・バレンシアです。ここでMDPの手伝いをしています。改めてよろしく、エリザ」
「ええ、よろしく。シェル」
笑顔を浮かべてエリザと握手を交わしてから、シェルは適当に理由を付けてコアルームを抜け出した。通路の曲がり角で、壁にもたれるように座り込む。何の含みもないエリザの笑顔を思い出して、顔がかっと熱くなった。
「そっか……夢だったんだ」
空っぽになったエリザの身体に、
それだけのことなのだ。
「……しっかりしないと」
シェルはぐっと目元を拭って立ち上がり、コアルームに引き返した。
*
物心ついてからずっと愛称で呼んでいた幼馴染に、初めてそれ以外の名前で呼びかけた。彼は引きつった笑顔を浮かべながらも頷き、エリザの右手を取って、エリザの名前でこちらに呼びかけた。
前に出会ったときのことは、夢か幻覚だったと諦めてくれただろうか。
コアルームを出て行ったシェルが気になり、視線で追いかけると、アルシュが「こちらへ」と読んだので、立ち上がってそちらへ向かおうとする。小さくよろめいた身体を、金属の笛を首から提げたMDP構成員が支えてくれた。10年もの長い期間、眠りについていたエリザの身体は、想像以上に筋肉が衰えている。
「すみません、大丈夫ですか?」
慌てて駆け戻ってきたアルシュが、エリザの身体を支えて椅子に戻した。頷いてみせるが、もう一度立ち上がるのは少し怖かった。本来の身体は健康でそれなりに鍛えている若者のものだったから、その感覚を捨て切れていない状態でエリザの身体を動かすと、何か怪我をしそうなのだ。
「ごめんなさい、このまま移動しても?」
キャスターがついた椅子を見下ろして尋ねると、もちろんです、とアルシュが微笑んだ。
アルシュにもカノンにも、シェルにも、他の誰に対しても――エリザの身体を動かしているのが、エリザ自身の意識ではないことを、悟られてはならない。白銀色の瞳を辿って創都345年の世界にやってきたロンガは、誰に言われたわけでもないが、そう心に決めていた。
第一にこの身体は、エリザのものだから。
ラムが生命と引き換えに臓腑を提供したのも、サジェスが死の直前に総権を譲り渡したのも、エリザであって他の誰でもない。色々な人の祈りによって形成されたのが、ハイバネイト・シティ総権保持者にして“
第二にこの身体は、そう長く持たないから。
恐らくは長年の生命凍結によってだろうが、体力が落ちすぎている。臓器移植が成功したとはいえ、大がかりな手術そのものによって、エリザの身体は引き返せないほどダメージを受けたのだ。エリザの身体の感覚をそのまま受け止めているロンガには、それが理解できた。生命の灯火が、今にも消えそうに揺らめいているのを感じる。
だから――残された時間で可能な限りの仕事をして、エリザの身体が死んでしまうのと同時に、この世界とも別れよう。それしか選択肢はないのだから、本当のことを明かすのが賢明とは思えない。自分はエリザとして生きて、エリザのまま死ぬのだ。ロンガ、リュンヌ、ルナ――自分を表す本当の言葉は、彼らには知られないままで良い。