chapitre124. 記憶を継ぐ者
文字数 5,558文字
――新都ラピス ハイバネイト・シティ最下層
仮眠から目覚めると、吹き付ける雪よりもなお冷たい視線がこちらを見ていた。驚き、起き上がろうとして、本来の自分の身体ではないことに気がつく。乾いた空気を吸い込むと肺が軋むように痛んで、思わず咳をすると更に痛みが増した。
眉をひそめながらどうにかエリザの身体を起こすと、マットレスに腰掛けて足を組んだカシェ・ハイデラバードがこちらに手を伸ばした。白銀色の左目と青色の右目はいずれも暗く濁って、一ミクロンの揺れもなくこちらを睨んでいる。
「貴女は、誰かしら?」
「私は……」
喉が渇いているように思うのは、乾燥した空気のせいだけではないだろう。唾をひとつ飲み込んで、口を開く。
「……エリザです」
「違うわ」
少しの躊躇いもなく、カシェは言い切った。
迂闊だった、と内心で頭を抱える。
カシェは、エリザのためならば、権力も良心も全て差し出そうとした人間だ。現在の彼女はエリザが身体を病んで以降の記憶を失っているらしく、20年ぶんほど精神が退行している。そのせいか、かつて政治部の重鎮だったときに比べれば眼光は和らいだ。とはいえ本来のエリザと友人であり、そのうえ彼女の蘇生を誰よりも心待ちにしていたカシェを、拙い演技程度で出し抜けるわけもない。
カシェは長い金色の前髪をかき上げて「もう一度聞く」と掠れた声で言う。髪に隠れていた頬には、古い傷跡がいくつか刻まれている。2年前に同じ場所で彼女と対峙したときに、隙を突いて逃げ出したときの傷かもしれない。
「貴女は誰なのか知らないけれど。今すぐその身体をエリザに返しなさい」
「いえ――できません」
覚悟を決めて首を振る。
カシェはもう、エリザの心だけが別人にすげ変わってしまったことを確信しているようだ。このまま嘘を突き通すのは難しいと判断して、説得の方針を変えた。
「それに、私がこの身体を捨てたところで、エリザは帰ってこない」
「なぜ?」
「分かりませんか。エリザの心はもうどこにもない。心が抜け落ちた空洞の身体だから、こうして中に入れたんですよ」
「その
冷徹な口調だが、どこか柔らかいものを隠した声でカシェが問う。
「エリザの心が失われたというのなら、その理由を聞いている。そう簡単にやつれてしまうほど脆弱な心の持ち主ではないわ」
「では、貴女は……ラム・サン・パウロという男を知っていますか?」
「勿論。エリザの伴侶で、私の友人よ」
カシェはすっと目を細めて、微笑みとも呼べる穏やかな表情を浮かべた。
少し予想外の反応だった。
その名前の持ち主は、彼女にとっては宿敵にも匹敵する男のはずだ。
だが考えてみれば、臓腑を病んだエリザに臓器移植をする話が持ち上がったからこそ、思い詰めたカシェは移植の適合条件を満たしていたラムを殺そうとしたのだ。エリザが体調を崩してからの記憶を失っているということは、つまり――ラムとカシェの間に発生したいざこざすら、忘れているということか。
「友人、ですか」
「ええ。幼くて愚かで――放っておけない奴ね」
溜息交じりにカシェは斜め上を見上げる。
「本当にエリザは……ひどい趣味をしている。あんな男のどこが良いのかしら」
ラムを
エリザとラムと、カシェ。
一対の恋人と、それを見守る友人。
夫婦というものが公に存在できないラピスにおいて、決して普通ではないけれど、ある意味でありふれた関係性に収まっていた時期が、彼らにもあったのだ。その均衡が崩れてしまった経緯は知りようもない。
けれど確かに言えるのは、いま目の前にいるカシェにとって、ラムは憎むべき相手でも何でもないということだった。
「酷だと思いますけど……言いますね」
小さく息を吸って、カシェの瞳をまっすぐ見つめた。
「彼は亡くなったんです」
痩せた手を握りしめて、胸元に引き寄せる。
「この、エリザの身体を生かすために」
「……何を言っているのか分からないわ。どうして、エリザのためにラムが死なないといけないの」
言葉をまっすぐに突きつけると、カシェは落ち着かない様子で髪をかき上げた。唇が引きつって、笑顔の形を取り切れていない。目を閉じて首を振り「本当です」と断言する。
「ええ、マダム・カシェ、貴女は忘れてしまったんですよね。エリザが細菌に由来する病気に
そして。
「ムシュ・ラムの臓腑をエリザに差し出すため、彼の命が狙われたことも」
その主体を意図的に省いて言うと、カシェは目を張り裂けんばかりに見開いた。
「そんなことして良いわけないじゃない」
「……そうですよね」
――だけど貴女はしようとしたのだ。
本当なら、そう言って糾弾したかった。しかし、第8分枝世界のエリザが言っていたように、心なんて案外簡単に壊れてしまうものだ。カシェのまとう雰囲気の節々から感じ取れるのは、彼女がラムを憎からず思っていた痕跡だった。
本当は彼女は、ずっと後悔していたのではないか、と思う。ひとりの友人を救うために、もうひとりの友人を犠牲にしようとしたことを。それでもふたつの生命を天秤に掛けてしまい、おそらくは、ほんの小さな擾乱で傾いた方を救おうと心に決めたのだ。
彼女を責めることなんてできなかった。
ぎりぎりで選び取った悲願すら叶わなかったこの現実においては、尚更。
胸が締め付けられるのを感じつつも、エリザの身体に心を宿しているロンガは当時の光景を思い描いた。
「ムシュ・ラムは最終的には、自ら死を選びました。どのみち残り僅かな
「……冗談を言わないで」
「いいえ、真実です。エリザが甦生したということは、
俯いて、ワンピースに覆い隠された腹部に手を当てる。そこに何本かの手術痕が刻まれているのを、先ほど確認した。エリザの身体が今、決して健康とは言えないまでも動くのは、紛れもなくラムの祈りの――あるいは愛の賜物だ。
「手術の痕を見せましょうか?」
尋ねると、金髪を乱したカシェは頭を抱えて「要らないわ」と呟いた。政治部の重鎮であったマダム・カシェ・ハイデラバードだとは信じられないほど、弱々しく掠れた声だった。
「何も聞きたくない」
「――それでも、貴女は思い出さないと駄目です」
マットレスの上に伸ばしていた両足を引き寄せて、カシェの肩に手を伸ばした。目眩でよろめきながらも、倒れ込むようにカシェの身体を押し倒す。エリザの長い髪が肩から滑り落ちる。金色の長い前髪を払いのけ、その下にある青と白銀の目をまっすぐ見つめた。
「辛い記憶に決まっている。思い出したくなくて当然です。だけど、忘れて楽になってしまって、それでいいんですか!」
動揺した表情を浮かべるカシェの頬に、いくつも水滴が落ちた。濡れた目の端がじわりと痛むのを感じながら、それでも言葉を止めなかった。
「これは――貴女の、大切な人たちの話です」
「……黙りなさい」
エリザの痩せた肩を、女性にしては厚いカシェの手のひらが掴む。体格に恵まれた彼女にあっさり体勢を逆転されて、マットレスに身体が押し付けられて軋む。首に手をかけられて、気道が圧迫されるのを感じた。
小さく咳をしながらも、カシェの手首を掴み返す。
「良いんですか。エリザの身体ですよ」
「いい加減に……止めなさい。その身体をエリザに返して。あの子に会わせて」
「私だって会いたい。でも、もう会えないんです。思い出して下さい」
カシェの声は途中から掠れていき、嘆願するような涙混じりの声に変わる。金属が擦れる音に似た唸り声が、彼女の喉から零れた。
思い出すだけで苦しいような記憶なら、忘却するのだってひとつの救いだとは思う。
だけど――経緯はどうあれ、結局カシェは自分自身の手でラムとの絆を引き裂き、エリザの大切な人に手をかけようとしたのだ。それは紛れもなくカシェの罪だ。許しを請うべき相手はもう、世界のどこにもいないけれど。
「忘れてしまうなんて、
ふたつの意味で彼らの生命を引き継いだロンガは、焦燥に駆られたカシェの顔をじっと睨んだ。彼女を親の敵だと呼べるほど、エリザとラムのことを親だと思っていたわけではない。だが、遺伝的にふたりの娘であることとは関係なく、彼らの意志と祈りからカシェが目を逸らそうとしているのを、見過ごす気にはなれなかった。
「私だって同罪のようなものです。一緒に思い出しましょう、マダム・カシェ」
「何を、言ってるの」
「もう謝れないなら、せめて悼みましょう」
「ふざけたことを――」
その瞬間、カシェははっと目を見開いた。首にかけられた手の力が弱まったので、身体をよじって彼女の腕を振り払う。かつて巨大な水晶が吊されていた天井を見上げて、カシェは小さく口元を動かした。
――エリザ?
唇に乗せられた言葉を読み取るのとほぼ同時、ステージの階段に緊張した気配を感じた。
「……何をしているんですか」
押し殺した声が聞こえて、視線を横に滑らせる。いつの間にかステージに上がってきていたアルシュが、エリザを抑えつけているカシェに向けて拳銃を構えていた。
「マダム・カシェ。その方はハイバネイト・シティの総権保持者です。貴女自身の安全のためにも、乱暴な真似はしないことをお勧めします」
「――貴女は?」
刺すようなアルシュの視線と、突きつけられた銃口をものともせず、カシェは静かに立ち上がった。腰まで伸びた長い髪が揺れて、光を複雑に跳ね返す。銃口を下げないまま、アルシュは眉根にしわを刻んでカシェを睨んでいる。
「私はそちらの、マダム・エリザに協力を依頼している者です」
「そう……ひとつ、聞いても良いかしら。ラムという男の顛末を知っている?」
「――ええ」
アルシュは僅かに目を細めて、頷いた。
「ムシュ・ラムに自身の生命を捧げて頂いたからこそ、マダム・エリザを生命凍結から呼び戻すことが叶ったんです」
「ふん……馬鹿馬鹿しい」
カシェは興味を削がれたように溜息をついた。
「目覚めたところで、もうエリザではないわ。私の知っている彼女ではない」
「――今、何と」
「言葉の通り。エリザじゃないわ、
「は、はぁ……?」
指をさされて、内心肝が冷えた。
エリザの身体に宿っている心が別人のものであることは、あまり悟られたくない。
困惑した声をこぼすアルシュの背後で、ステップを登ってきたカノンが「どうかしたかい」と呑気な口調で問いかけた。アルシュが彼に耳打ちをすると、ふぅん、と彼は表情を変えないまま頷いた。
「まあ――仮にそうだとしても、俺たちには何も関係ないですね」
「ええ。私たちはただ、ハイバネイト・シティの総権を使える人間が味方に欲しかっただけです」
「そう……」
額に手を当てて、ふらふらと覚束ない足取りで彼女はステップに向かった。
「失望したわ。そんなことのために協力したわけではないのに」
近づかれたアルシュが銃を構え直すが、カシェはアルシュたちに構うつもりはないらしく、そのまま部屋を出て行った。扉の向こうに彼女の姿が消えると、安堵からか上半身の力が抜けた。借り物の心臓が、心配になるほど早く動いている。
「大丈夫ですか」
拳銃をホルダーに戻したアルシュが近寄ってきて、身体を支えてくれる。乱れた髪を直しながら頷き、彼女の手を借りて靴を履き直した。膝をついて手伝ってくれたアルシュが、こちらをじっと見つめていることに気がつく。
「――何か?」
何食わぬ顔で問いかけてみると、いえ、と彼女は唇を横に引いた。
「すみません。何でもありません」
「マダム・カシェはおかしなことを言っていましたね。曰く、あんたが本当はエリザではない――とか」
「カノン君」
アルシュが眉を吊り上げて振り向く。
「失礼だよ」
「俺が疑ってるんじゃない。ただ、みんな色んな幻覚を見るんだな、と思ってね……」
カノンが目を細めて呟くと、アルシュは唇を噛んで押し黙った。小さく首を振り、エリザのものである右手を取る。
「行きましょうか」
「ええ」
頷き、転倒しないように気をつけながら立ち上がる。彼らに手を貸してもらってステップを降り、コアルームまで移動する。
エリザの身体はかなり体力が消耗しやすい上に、筋力も自分の体重をどうにか支えられる限界まで落ちているので、休憩を多めに取りながら作業に参加している。しかし、毎回のように迎えに来てもらうのも申し訳ないので、コアルームの近くの居室を利用させてもらえないか、今晩にでも尋ねてみよう、と考えた。