chapitre126. 責任
文字数 6,579文字
――新都ラピス ハイバネイト・シティ最下層
壁掛け時計の分針が頂上を越えたのを見て、
何番目かに手を挙げたグループは、比較的早くに全貌が掴めた語圏にアプローチをかけて、代表者を探す作業をしている、と報告した。
「統一機関と類似の統治機構が、ヴォルシスキー語圏にも存在したようです。なので、その構成員を代表と見なせば良いかと思ったのですが、そうもいかず」
「何か問題が?」
アルシュの問いかけに、ええ、とグループの代表らしい女性は頷いてみせた。
「統一機関の人間と繋いで欲しいと申し出たところ、かなり反発されました。このラピスと同じく、統一機関の支配体制が既に傾いていたようなんです」
やはりそうか、とロンガは内心で頷く。
第八分枝世界のエリザが言っていたことを信じるなら、D・フライヤは、融合した七つの語圏はどれも滅亡の未来を辿ると予測したそうだ。いや――むしろ、滅亡という同じ結末に向かっているからこそ、七本の分枝が五次元空間上で近づきつつあり、世界の枠を超えた融合が実現したのかもしれない。
「他の語圏でも同様の事態があるかもしれません。どうすべきか、私たちなりの方針を固めておきたいんですが――マダム・アルシュ、どう思われますか」
「私ですか」
壁にもたれていたアルシュが、少し驚いたように身体を起こす。
「MDPとしての方針を決めたいと?」
「というより、ラ・ロシェル語圏としてどう対処しますか、という問いです」
「うーん、ひとつ、私の考えとしては……そもそも私たちだって、ラ・ロシェル語圏の代表を名乗る権利はないはずです。偶然コアルームにいて、偶然MDPが多少は影響力のある組織だっただけで」
「そ――それはそうですけど」
問いかけた構成員が、仄かに顔を赤くする。
「でも誰かが代表にならないと、話が進まないじゃないですか」
「その通りです」
アルシュが頷く。
「だからこそ、最初に応答した人間を代表と見なして良いのではないか、というのが私の意見です――どう思われますか?」
彼女が部屋を見回すと、MDP構成員たちはさまざまな表情を浮かべたが、概ねは眉を潜めていた。
「それは流石にちょっと――」
「あまりにも分の悪い賭けでは」
口々に反対意見が上がるが、アルシュはその一つ一つを頷きながら聞いていた。
「数万人の責任を、素性も知らないひとりに負わせるのか」
やや非難めいた口調でカノンが言った。アルシュが伏せていた視線を持ち上げて、彼の方を向く。
「誰もがあんたみたいに、不特定多数の信頼を背負えるほど、強いとは思わない方が良い」
「いや――私だって流石に、代表なんて誰でも良いとか、そんなことを言っているわけじゃないよ。それはMDPとして動いてくれている皆にも失礼だし」
「でもその決め方じゃあ、誰でも良いって言ってるのと同じでしょう」
「そうかな……」
アルシュが首を傾げる。
ロンガは
「あの……他の語圏に呼びかけるというのは、どのように」
「えっと、
「ハイバネイト・シティ全域にですか?」
「あ、いや、基本的に語圏で居住区域を区切ってるんで、そこにだけ」
「つまりメッセージ自体は、ほぼ全ての入居者に届いていると」
「そういうことです」
なるほど、と頷き、教えてくれた構成員に礼を言ってから視線をアルシュに戻した。彼女自身も言及した通り、ひとつの語圏を背負って立つのは誰にでもできることではないだろう。重すぎる責任で潰れたり、あるいは人々の利益を考えずに勝手な行動を取るかも知れない。
「あの……でもさ。ひとつ良い?」
人々が意見を言い終わって、コアルームが少し静まった。そのタイミングを見計らってか、シェルが控えめに片手を上げる。
「この状況で一番に応答する人って、結構、肝が据わってて冷静な性格だと思うんだけど」
「うん、私もそう思ってる。少なくとも、語圏の融合という事態をちゃんと受け入れていて、この混乱に振り回されていない人だよね」
アルシュが頷いて、最初に報告した構成員に顔を向ける。
「ヴォルシスキー語圏で応答してくれた人は、今のところ何人いますか」
「えっと……今朝までで何らかのリアクションを起こしたのが」
彼女は周囲の構成員と囁きあって、書類を確認したようだ。
「14人です」
「メッセージ自体は数万人に届いていて、応答したのがたった14人。どのみち何らかの基準を設けなければならないとすれば、十分、選別として機能しているとも思いますが、どうでしょう」
アルシュがコアルームを見回す。
まだ不服そうな顔をしている人間も少なくなかったが、それ以上に有効なアイデアが出なかったこともあり、初期に応答した人間を語圏の代表として見なすことが、暫定的な方針として採択された。
他にも数件の報告をして10時前に解散となり、MDP構成員たちはそれぞれの仕事に移行していった。混迷を極めた状況を改めて飲み込むだけでも疲れてしまい、思わず溜め息をつくものの、まだ一日は始まったばかりだ。
「アルシュちゃん、ちょっと良いかな」
「――との交渉についてなんだけど」
「えっと……今のところ応答なし、だっけ」
「うん、で、ひとつ話があって――」
シェルが何か提案をして、アルシュが難しそうに顔をしかめている。話を聞いているとどうやら、シェルも語圏のひとつを担当して、対話を試みているようだ。声の調子から伺うに、あまり順調な滑り出しとは行かないようだが。
「マダム・エリザ、少し宜しいですか」
コアルームで作業していた構成員たちに総権の使用を求められたので、盗み聞きを中断する。
椅子から立ち上がろうとすると、移動を手伝おうかと申し出られたが断る。体力は相変わらずすぐ尽きるものの、エリザの身体に馴染んだのか、少々の移動なら問題なくこなせるようになっていた。
こちらに、と言われ、何かの立体モデルが表示されたパネルの前に座る。画面内でゆっくりと回転しているそれは、どうやらハイバネイト・シティ居住区域の一角を表しているようだった。
操作盤の前に座っている構成員がキー操作をすると、モデルの表示モードが素早く切り替わり、地下施設の骨組みだけが表示される。次いで、幾つかの地点が赤くハイライトされた。その点を指さして、グループの代表らしい構成員が言う。
「ここと、ここを閉鎖したいんです」
「ああ、例の感染症予防の……」
「そうです」
彼は硬い表情で頷いて、認証パネルをこちらに差し出す。勧められるまま、パネルに手を乗せようとしたが、直前でふと思い当たることがあって顔を上げた。
「マダム・エリザ、早く」
「いえ――ちょっと待って下さい。ここ、有人区域ですよね?」
先ほど立体モデルの表示モードを切り替えたときに、数十個は下らないだろう光点が表示されていたのを思い出したのだ。光点が表すのは、おそらく入居者たちの現在地だ。言われたとおりに通路を切り離せば、彼らは外と行き来できなくなってしまう。
「ここを閉鎖して、彼らは大丈夫なんですか。自分たちの語圏の人間とも、切り離されてしまうのでは――」
問いかけると、こちらを囲んでいる構成員たちは一様に苦々しい表情になった。数秒の沈黙を挟んで「それでも」とひとりが顔を上げる。
「必要なんです。彼らはキャリアです」
「キャリア?」
「発熱と倦怠感、嘔吐など似たような症状を申告している一群です。彼らはスーチェン語圏の出身ですが、
「ああ……
言葉の意味にようやく理解が及んで、頷いてみせる。
異なる生活圏から来た人間が接触することで、免疫を獲得していない感染症に罹る可能性は、
だが、実態はもう可能性の域を出て、実際に感染者が出るところまで来ているらしい。展開の速さに驚きつつも、縋るような思いで周囲を見回した。
「ですが……ここを封鎖してしまったら、彼らを治療することもできないのでは」
「
「それだけでは不足でしょう」
「元より、その程度しかできないのです」
溜息をついて、さあ、と認証パネルを再び差し出される。
「早く。キャリア達が移動してしまえば、封鎖区域の計算をし直す必要があります」
「移動してしまうって――合意を取っていないんですか」
「そんな時間があるとお思いですか?」
「とても、予告なしに執行していいようなこととは思えませんが」
「――すみませんが、マダム」
冷たい声と共に、背後から肩を掴まれた。取り囲んでエリザを見下ろしている彼らの顔は逆光になり、暗い視線が集中する。
「これはもう、我々がグループ内で相談し、決定したことです。責任はこちらが取る。貴女はただ、そこに手を置くだけだ」
「ですが……」
動揺で喉が渇いて、上手く言葉が紡げない。エリザの細い腕ではろくに抵抗することも叶わず、手首が持ち上げられてパネルに押し付けられ、認証が成立する。居住者の位置をリアルタイムで反映する光点が、封鎖に気がついてか慌てふためいたように動き出すのを、見ないようにして目を伏せた。
「ご協力に感謝します、マダム」
「……総権の執行人となることしか、エリザには求められていないのですか」
低い声で呟いた言葉には、誰も答えを返さなかった。パネルにはまた違うモデルが表示され、彼らは顔を突き合わせて相談を始める。誰も彼も、多すぎるほどの仕事と責任を抱えているのは、嫌と言うほど理解していた。綺麗事を言っていられるほど、簡単な状況ではないことも、だんだん分かってきた。
そんな状況下において、現状を知らず、動き回れるほどの体力も持たないエリザの利用価値は、総権保持者であるというただ一点のみにあるのだろう。総権を粛々と執行する以上の役目は、おそらく期待されていない。彼らの決定に口を挟む権利は、最初からないのだ。
だが――それでも、思わずにはいられない。
もしもエリザではなく、ロンガとしてこの場にいることができたなら、MDPの彼らや、シェルやアルシュやカノンと同じ立場に立って、議論に加われたのだろうか、と。
*
昼休憩までの時間は、やけに長く感じられた。気がつかないうちに眉間に力が入っていたらしく、休憩室まで案内してくれたアルシュが、不安そうに顔を覗き込む。
「お疲れですか?」
「いえ、すみません。その、MDPの人たちは……なかなか、厳しい決断を常に迫られているのですね。それに少し、驚いてしまって」
「ああ……」
アルシュが重々しい溜息をつく。その表情は、長い眠りから目覚めたばかりのエリザ以上に青ざめているようにすら思えた。
「キャリアの隔離のことですね。すみません、お話は聞こえていたんですが、フォローに入れませんでした」
「フォロー、ですか?」
「はい。あ――すみません、彼らの決断自体は私も支持しています。そこだけは、先に断らせて下さい」
彼女は視線を遮るように片手を立てて、ですが、と言葉を続けた。
「最終的に手を下すのがMDPではなく、貴女であるということを、私たちはもっと真剣に考えるべきなんですよね。どれだけ極限的な決断であっても、それを執行するのが自分ではない……怖い構図だと思いませんか」
「ああ、確かに――ひとつ、壁を隔てたような立場に立っていると言えますね」
「そうなんです。意識しないと、当事者意識が薄れるような……非人道的な決断を、絵空事のように下してしまいそうで。責任はMDPが取るなんて言っていましたが、人命や健康が脅かされている状況で、そんなもの、取れはしないのに……」
声は次第に掠れ、歪んでいった。
「――アルシュ?」
立ち止まった彼女を振り返る。
通路に立ち尽くした彼女は、ごめんなさい、と血の気の失せた顔に笑顔を浮かべた。
「私、食事は後にします。休憩室はあちらなので、すみませんが、お一人で――」
その様子を見て、ああ、と思う。
MDP総責任者という立場で自分を律している彼女が、外面を取り繕えなくなるときの反応だ。長年の友人であるロンガにとっては、見慣れつつある表情だった。
多分、ひとりになりたいのだとは思う。だけど、彼女がまた自分の内側に苦悩を閉じ込めてしまうのも、少し心配だった。灰の降るラ・ロシェルで、危うく友人を失いかけた記憶が、今の彼女を放っておくことを引き止める。
では、と人差し指を立ててみせる。
「ふたりぶん、昼食を頂いてきましょうか」
「え、いえ。そんな――」
「一緒に食べませんか」
笑顔を保ったまま提案してみると、分かりました、とアルシュは根負けしたように頷いた。ひとつ息を吐いてから、思い切ったように顔を上げ、喧噪の聞こえてくる休憩室の方向へ足を踏み出した。
「気を遣わせてごめんなさい。やっぱり、私も行きます」
頬を両手でぱちんと叩いて、アルシュは笑顔を浮かべた。その頬はまだ、血の気が失せて白いが、背筋はぴしりと伸びていた。
「お昼休みだって、私でいることを辞めるわけにいきませんから」
「貴女でいること、ですか」
「はい。マダム・エリザ、先ほどの私の言葉は、聞かなかったことにしてくれませんか……責任なんて取れない、っていう話」
その言葉は途中から、耳元で囁くように告げられた。
「みんな、きっと、本当は分かっています。私たちの判断ひとつひとつが、時には誰かを切り捨てていること。その責任なんて取りようがないことも」
「――そうですよね」
こちらを囲んで見下ろしていた、構成員たちの表情を思い出す。どの顔も固く張り詰めて、必死に何かを堪えようとしているように見えた。
「何を取っても、完全な正解とは言えないことばかりですね」
「ええ、それでも私は、お願いしますと言った。責任は私にある、だから貴方の思う最善を尽くして下さいと、そう言ったんです。だから……私は、私を信頼してくれる人がいる限り、いつ如何なる時も堂々としなければ」
静かに紡がれるアルシュの言葉は、自分自身に発破を掛けているようでもあった。
「それが私の役割なんです」
「ああ……」
思いがけず圧倒されてしまって、感嘆の息を吐く。
「やはり、代表というのは、誰にでも務まるものではありませんね。貴女だからこそ、MDPを背負って立てるんです」
アルシュは片方の眉をひそめて、そうでしょうか、と呟いた。
「今の話を聞いても尚、そう思われますか? 所詮は口ばかりの、偶像のようなものですよ」
「いえ――責任の重みを理解して、それでも信頼に応えようとする貴女は、本当に強いと思います」
エリザの声を借りて告げると、友人は驚いたように薄く唇を開けた。前々から思っていたことだが、面と向かって口に出したことはなかったような気もする。彼女はほのかに頬を赤くして、いえ、と目を逸らしつつ微笑んだ。
「まだまだですよ」