chapitre166. 心の座標
文字数 7,183文字
――新都ラピス ハイバネイト・シティ最下層
「どうしたの? リュンヌ」
地上近くの第47層から届いた通信を切断すると、隣に佇むエリザの気配が、不思議そうに首を傾げる。ロンガは、雲のように浮遊する意識の重心を、少しだけ彼女の方にずらした。そちらに視線を向ける――という感覚に近い。
「どう、とは」
「だって、わざわざリアルタイムで応答する必要、あったのかしら? 緊急の連絡には思えなかったけれど」
「ええ……そう思います」
ロンガは頷く。
本来なら浸水していないはずの高階層で浸水が確認されたということは、
数時間前からずっと、
昼頃、ラ・ロシェル中央付近に口を開けた大穴により、施設全体の強度が著しく低下した。それに次ぐ貯水槽の崩落や、破断されたパイプからの漏水により、階層の高低に関わらず、ありとあらゆる地点で浸水が起きている。今しがた報告された第47層での浸水も、その一例に過ぎない――言い換えれば、想定内の予想外だと考えられる。
「一応、確認だけしましょう」
ロンガはそう呟いて、操作盤に指を置き、いくつかのコマンドを打ち込む。
観測機器を起動。
該当区域の浸水状況を計測。
数値化したデータをプログラムに代入。
シミュレーションに修正パッチが当てられて、計算結果が書き換えられる。とはいえ変化は僅かなもので、全体で見て数パーセントも変化していない。
「やはり」
ロンガは頷く。
「大した影響はないですね」
「そう思っていたわ」
「はい……ごめんなさい、率直に言うと、彼女と話がしたかっただけです。私が、ロンガとしてラピスにいた頃の、知り合いだったので。つい懐かしくて……」
ロンガは目を細めた。
バレンシアを一緒に旅立ち、砕屑の降り積もるラ・ロシェルで別れた少女――リヤンの顔を思い出す。
「私が私であることは言えないけれど、せめて声が聞きたくて。元気そうで、良かったです」
「そう……素直そうな子だったわね。お友達?」
「友達と呼んで良いものか」
言い淀んでみせてから、これでは語弊があると気がつき「いえ」と打ち消す。
「その――親しい相手には間違いないんですが、四つも年が下なもので」
「あら、じゃあ、妹のような感じ?」
「どうでしょう。
「それは、そうでしょうね」
「エリザ、貴女に兄弟は」
「いないわ。いえ、もしかしたらいたかもしれないけど……私、家族の顔を知らないのよ」
声のトーンは、僅かに悲しそうだった。
そういうものか、とロンガはどこか新鮮な感覚を覚える。
血縁者の顔を知らないのは、ラピスならごく一般的なことだ。そもそも存在しないのが大半だし、
「旧時代では、会いたいものだったんですか、家族って」
「さあ? どうかしら」
軽い調子でエリザが応じる。
「私も、旧時代の代表のように語っているけれど、ほんの末裔だし……ラピス生まれの貴女たちにとっては、血縁より、真に会いたい相手かどうかの方が大事でしょう」
彼女はひとつ息を挟んで「だからね」と微笑むような口調で言った。
「あの女の子と話したこと、別に謝らなくて良いのよ」
「それは……でも、すみません、私情を挟んで」
「私情も何も」
くす、と可笑しそうにエリザが笑いをこぼす。
「貴女は最初から、自分のやりたいようにしかやっていないわ」
「それは……そうですね」
ロンガは頷いた。
エリザの身体には現在、エリザとロンガの意識が同乗している。ロンガ自身の身体は五次元宇宙上で遠く離れた場所にあり、ロンガはD・フライヤから与えられた白銀の瞳を頼りに、意識だけをエリザの脳に宿らせている。
――自分勝手なことばかりする娘だ。
一度、自身の身体に戻りかけたとき、ロンガは自分自身の心臓を抉った。だから、肉体の方はもう死んでしまったものと思っていたが、どうもD・フライヤの摩訶不思議な力に支えられて、まだ生き延びているようだ。
――それに、友人のことをとやかく言えないくらい、向こう見ずな子。
それだけの犠牲を払って、このラピスに帰ってきたのだ。いつまでも、この不安定な状態を保っていられるか分からない。けれど、せめて全ての
――ラピシア。不思議な響きだ。
大切な人たちが守ろうとしたもの。守れなかったもの。捨てようとしたもの。存在すら気がつかなかったもの。その全てをラピシアと呼び、自分たちを構成する要素として、ひとつ欠かさず掬い上げようとしている。
なんて尊大で、傲慢な野心家なのだろう。
暗い地下を抜け出して、地上で再び生きようとしている、貴方たちという人々は。
「――あれ」
そこで違和感に気がついて、ロンガははっと立ち上がった。蹴飛ばしてしまった椅子が背後に倒れて、派手な音を立てる。
「エリザ?」
振り返っても、そこには誰もいない。
もちろん実体としてのエリザは、ロンガと同一の空間座標に存在している。コアルームにいる人間はひとりだけだ。だが、すぐ隣に体温や息遣いのような感覚があり、それをもってロンガは“エリザの意志”を感じることができた。
それが、今はない。
違う。
そうではない。
エリザはすぐそこにいて、近すぎるが故に、その声すら聞こえなくなったのだ。
そう気がついた瞬間、ロンガは目の前に木の幹のような形を幻視する。太い幹が二つに分かれ、上に向かって伸び、また自己相似的に分岐する。枝の数は累乗で爆発的に増えて、またたく間に視界を覆い隠した。明滅する白と黒は、あまりにも緻密すぎて色すら感じられる。
あらゆる波長の色。
あらゆる周波数の音。
限りなく無限に等しい情報量が、渦のようにロンガを飲み込んだ。
声が聞こえる。
つい気を許してしまった――
娘がいない。
エリザの存在を受け継いだ、五次元宇宙で唯一ただひとりの娘。家族愛などというものは知らなくとも、彼女を守りたい。
あの子はどこに行ったの。
エリザはここにいる。
「私は」
誰だろう。
エリザ。
リュンヌ。
知っている名前はいくつかある。
だけど、それは“会いたかった人の名前”だろうか、それとも“私の名前”だろうか。物事を考える意志はここにあって、会いたかった相手と会えた喜びも存在しているのに、では、自分が母の方だったのか、娘の方だったのか、それを忘れてしまった。
「ああ――」
そうか、とエリザは。
あるいはロンガは頷いた。
ひとつの身体に同乗していたふたつの意識を区切る、自他の境界が溶けて、もう、混ざり合ってしまったのだろうか――
――そのとき。
軽快な電子音とともに、パネルの端に、小さなウィンドウがひとつ浮かび上がった。エリザの網膜に反射したその文字列に、
「――焦った」
すぐ隣でエリザが嘆息する。
「今、混ざりかけたわね?」
「おそらくは」
「良かったわ、元に戻れて……」
いつになく安堵した口調で呟いて「けど」とエリザは言葉尻を濁らせた。
「ハイバネイト・シティと同様、私たちの残り時間も、もう少ないのかもしれないわね。それにしても、一体どうして今、元に戻れたのかしら――」
そこまで言って彼女は口を噤む。
エリザと共有した眼球で、ロンガは白く光るパネルを見つめた。その片隅に浮かび上がったポップアップは、先ほどリヤンから届いた連絡と同様、ハイバネイト・シティ内で発生した異変を知らせるものだ。
特段、珍しいものではない。
ただ、その報告は、ラ・ロシェル直下の居住区域にいるらしい
「あぁそう……そういうこと」
同様の結論に辿りついたらしいエリザが頷く。
「彼に対する感情が、貴女だけに固有のものだったから、混ざりかけた心が分離した……」
「と――言えるかは、分かりませんが」
「なんだか」
エリザが欠伸をするような口調で言う。
「盛大に
「はぁ……」
どうもエリザは、ロンガと彼の関係性を決めつけて譲らない。違います――と言ったところで聞き入れられないのは分かっているので、ロンガは返事の代わりに視線を逸らし、シェルからのメッセージを開いた。
*
大穴に満ちた空気は冷たく、湿っぽい。
肺胞を少しずつ凍らせていくようなそれを胸いっぱいに吸い込んで、シェルは崩れ落ちた床から床へ飛び移る。体重を受け止めた足下が傾いて、おっと、と思わず声が出た。むき出しになった鉄骨を片手で掴んでバランスを取る。舞い上がった砂塵に咳き込みながら、シェルはヘッドライトで周囲を照らす。
ラ・ロシェルの街を抉って大きく口を開いた穴、その底付近にシェルはいた。地上からの距離はおよそ百メートル。かつてハイバネイト・シティだった瓦礫の山は、光を吸い込む真っ黒に染まっていた。
『見つかったか』
ヘッドホン型の無線機から声が聞こえる。
声の主は、上でホバリングしている
シェルはマイクを指先でたぐり寄せて答えた。
「報告があったの、この辺だと思うんだけど……見つからない。先にワイヤーだけ下ろしてもらえるかな」
『――了解した。急いでくれ』
一旦通信が途切れる。
数十秒後、かすかなモータ音とともに、先端に金具が付いたワイヤーが降りてきた。リング状になっている先端に、シェルは指先を引っ掛ける。そのまま、右手の指二本に全体重を預けて、振り子の要領で、鉄骨から床へ、床から鉄骨へ飛び移りながら、真っ暗な穴のなかを探して回った。
視界の隅で、何かがキラリと反射する。
「――いた!」
思わず声が出る。
ヘッドライトが丸く照らした瓦礫の隙間に、生白い腕が見えている。崩落に巻き込まれて、逃げることのできなかった入居者だ。シェルが近くに来たことを察知してか、小さい呻き声が応えた。
心臓が速くなる。
良かった――まだ、生きている。
シェルは金属のリングを握り直して、三メートルほどの距離を飛び移る。足場がひとまず堅牢であることを確認しながら、バールを瓦礫の下に差しこんで持ち上げる。瓦礫の下に、片足と額から血を流した男が、膝を抱えるような格好で倒れていた。
シェルが声を掛けると、薄く開いたまぶたの下で眼球が僅かに動き、こちらを見据えた。
口元が動き、何か言葉を発する。
他の語圏から来た人間なのか、発言の内容は分からない。だが、血塗れの頬を伝って涙が落ちたこと、そして全身が訴えかける雰囲気から、おそらくは「助けて」に類することを言ったのだろう。シェルは小さく頷いて、リュックサックから取り出したハーネスを装着するよう、身振り手振りで男に伝えた。
「――良かった」
ふぅ、とひとつ息を吐く。
空気は肌を切り裂きそうなほど冷たいが、外套を羽織った身体は汗でべたついていた。袖を折り返して、篭もった体温を少しでも外気に逃がす。昼過ぎから現在、午後五時に及ぶまで、ほとんど休む間もなく救出活動に勤しんだ結果、身体にはかなり疲労が溜まっていた。
だが、おそらくシェルが救出できたのは、被害者のうち一割にも満たないだろう。ラ・ロシェル直下の大崩落に巻き込まれた人数は、千を越えると予想されている。一部の区域では電源が復旧していないこともあり、正確な把握はできていないが、それでも、かなりの被害が出たことに疑いようはない。まだまだ休んでいられない、とシェルは痛むこめかみを拳で押しながら立ち上がった。
「よっ――と」
鉄骨の上で体勢を立て直そうとした、その瞬間。
ぐらり、と視界が揺れる。
シェルは慌てて姿勢を降ろして鉄骨にしがみついたが、瓦礫の重みを支えきれなかったのか、その鉄骨自体が傾き始めていた。視線を下に滑らせて、数メートル下に、どうにか着地できそうな足場を見つける。
賭けになるが、そこに飛ぶほかない。
さらに身体を降ろして、空中にぶらさがる。
鉄骨に掛けた指に力を込めて、ぐいと身体を後ろに引き、反動を付けて斜め前に飛び出した。床を足の裏で捉え、ぐるりと倒れ込んで勢いを逃す。床に手を付いて起き上がったところで、崩れた足場が穴の底に落ちた音が聞こえた。轟音が響き、床がびりびりと揺れる。
「……助かった」
先ほど生存者を見つけたときとはまた別の意味で、心臓が激しく鳴っていた。
シェルは絡まった髪を直しながら立ち上がり、周囲をヘッドライトで照らす。足場の先を見ると、真っ暗な通路が一方向に伸びていた。ちょうど、崩れ落ちた居住区域と、無事な部分の境目にいるようだ。ひとまず安全な方に逃れなければ――と、シェルは通路の奥へ移動した。
「あ――」
上空に連絡を返そうとして、耳元に伸ばした手が空回る。
気がつかなかったが、無線機を落としてしまったようだ。おそらく、鉄骨から下に向けて飛んだときに、何かに引っ掛けてしまったのだろう。さらに、
困ったな、と眉をひそめる。
壁に埋め込まれたプレートを確認して、とりあえず居場所は把握できた。第41層――ハイバネイト・シティの中で言えば比較的上層に位置するが、地上からはかなり離れている。通信ができる場所まで闇雲にでも移動するしかないか――などとシェルが考えていると、視界の隅で何かが動いたような気がした。
「あれ?」
大穴を挟んだ向こう側だ。
シェルは眉を寄せて、暗闇に目を凝らす。
すると、べた塗りの黒の中で、何かがまた動いた。星の瞬きのように光点がちらつき、物陰に隠れたのか見えなくなる。不規則に加速と減速を繰り返す動きは、明らかに人間のものだった。この停電区域にも人が残っていたのか、と鼓動が早くなるのを感じる。
合流したいが、かなり遠い。
どうにか視認はできるものの、距離はおそらく百メートル以上離れている。大声で呼びかけても、声が届くか分からない。だが、向こうはおそらくシェルに気がついていない。何とかして、ここにいることを伝えなければ、すぐ遠くに行ってしまうだろう。
「……そうだ」
ひとつ思いついて、シェルはリュックサックの横に下げていたバールを取り出し、壁が崩れてむき出しになった鉄骨に叩きつけてみた。
カン、という高い音が鳴り響く。
ややあって、似たような音が返ってきた。
シェルがもう一度鉄骨を叩くと、また返ってくる。今度は、一度でなく数回に渡って音が響いた。音階もリズムもないただの連打なのに、なぜか嬉しそうにすら聞こえる。そのまま、十秒に一度ほど音をやり取りしながら、シェルは暗闇の通路を進み、音の主とゆっくり距離を縮めていった。
宵闇の僅かに青っぽい光すら遠ざかり、通路は完全な闇に閉ざされる。月のない夜よりさらに暗い闇を歩くなかで、ヘッドライトの光はあまりに頼りなく、自分が踏みしめている床の感触さえ不安定に感じられる。
金属のプレートを見つけて、叩く。
すると、すぐに返事が来た。
音がかなり近い。大穴の直径から考えて、合流にはかなり時間を要すると想像していたが、予想を上回るスピードで、向こうがシェルに近づいているようだった。
そしてついに、幾つ目かの角を曲がった先で、シェルはぼんやりと差しこむ光を見つける。
「見つけた、そこの人!」
言葉が通じない可能性すら忘れて、シェルは駆け出した。曲がり角を飛び出すと、ペンライトの強い光が視界を真っ白に染める。暗闇に慣れた目が痛み、思わず顔を覆うと「あれ」と驚いたような声が言った。
「お前――」
きょとんと目を見開いた金髪の少年には、見覚えがあった。シェルが、かつて友人と一緒に地上を目指したときに知り合った、