chapitre127. 迷い
文字数 8,927文字
――新都ラピス ハイバネイト・シティ最下層
かつて“
シェルもその例に漏れなかったが、先に昼食を食べに行ったメンバーが戻ってきたので、交代して休憩室に向かう。昇降装置を降り、ざわめきが聞こえるコアルームの前を通り過ぎたところで、カノンと出くわした。
「あ、お疲れ様。お昼?」
「ああ、お疲れ……手応えはどうだい」
ちょうど彼も休憩室に向かうところだったようだ。崩れた髪をかき上げた下から、疲れた眼差しがこちらを見下ろす。問いかけられたシェルは、小さく舌を出してみせた。
「ぜんっぜん、駄目!」
「そいつはご愁傷さま」
カノンは眉を下げて、上向きに歪めた唇から、ふっと息を零してみせた。
「シェル君は、どこを相手取ってるんだったか」
「ティア君の故郷」
短く答えて、疲れた首をぐるぐると回す。
2年前に遷移性の
ここ数日、シェルたちはフィラデルフィア語圏と対話を試みているのだが、呼びかけに応じる様子がまったく見られない。
ふぅん、とカノンは薄く笑った。
「そりゃあ幸運だ。こちら側には特効薬がいるんだからね」
「……言い方が悪いよ」
「でも、その通りでしょう」
カノンが悪びれる様子もなく肩を竦めるので、そうだけどね、とシェルも頷いた。
ティアが
少年ひとりが塵すら残さずに消えた、誰が見ても不可思議なその現象は、D・フライヤという超越的存在を受け入れることによって説明がつく。これを逆に利用して、非現実的な事象が実際に起きたのだから、超越的存在は実在するのだ、と証明しようとするのがMDPの目論見だ。
ティアの姿を見せる、それだけで済む。
特効薬だとカノンが言ったのはそういう意味で、フィラデルフィア語圏に対しては、ティアの存在そのものが
「でもね、ティア君も怪我してるし……あんまり無理して欲しくないんだよね」
シェルが呟くと、そうかねぇ、とカノンは平坦に応じた。
「俺の印象じゃあ、むしろ役に立てない方がティア君にとって苦痛だと思うけどね」
「それは……きっと、正しい推測だと思う」
「変に気を遣ってやる必要があるのかね。子どもだから、怪我人だからと、現場から遠ざけられ続ける方が、かえって気の毒だ。あの子はずっと――総代さんに付いて地下に下ったときからずっと、誰かの役に立ちたいんだと、俺はそう思うが」
「うん、分かってるよ」
シェルは頷く。
ヴォルシスキーのMDP支部を訪れたときに、ティアの真剣な表情を見て、シェルは彼への認識を改めた。ティアは10歳も年下の少年ではあるが、10年前の自分と比べるほうがナンセンスだと感じるほど、彼自身の目的について明確な指標を持っている。
だが、その身体が痩せた少年であることには変わりない。
「貴重な切り札だからこそ、大切にとっておかないといけないって、そういう意味だよ。子供ひとり揉み消すのなんて、向こうがその気になれば簡単でしょう」
「
カノンが片方の眉を上げてみせる。
「その形容だとまるで、相手さんがわざと真相を隠そうとしているように聞こえるね」
「実際、そう見えるんだよ。認めてないんじゃなくて、認めたくないように思えるんだよね」
「へえ――その根拠は?」
「んん、明確な根拠はなくて、推測だけど……幻像の存在を唱える集団はあっちの語圏にもいて、でも弾圧されてたみたい。ぼくらにとっての統一機関に」
「なるほど」
彼は顔を逸らして、そいつは面倒だね、と呟いた。
「体裁を保つためには、意地でも認められないと」
「そうみたい」
ふぅ、とシェルは溜息をつく。
連れ立って歩いていたMDP構成員と、細い通路ですれ違う。昼食休憩を終えたばかりだろうに、その表情は疲弊に染まっていた。人員が増えて少しずつ楽になった、そう彼らは言うものの、依然として忙しいことには変わりない。
一体いつまで、こんな事態が続くのか。
些末な問題に囚われて、何を目指してこんな苦労をしているのか、それがだんだん分からなくなってくる。
データベースの見過ぎで疲れた目元を擦ると、横を歩いているカノンが、なあ、と低い声で問いかけた。
「揺るぎない真実、唯一の解釈……それが本当に、一番大切なものだろうか」
「え、何の話?」
頭ひとつ分以上高いところにある彼の目を見返すと、いや、と彼は例によって視線を外した。
「悪い。俺もまだ上手くは説明できないが、ふと――
彼は手のひらを広げ、例えば、と言った。
「ラピスの外側に、こことは異なる言語を持つ別の社会があり、俺たちはそこからやってきた。ラピスを包んだ白い光は未知の兵器。
「それは真相とは違う」
「そうかもしれない。だが、それで誰が困る? 信じたくもないものを親切に証明してやる必要なんて、本当にあるのか。俺は最近、MDPの方針そのものが、少し信頼できなくなってきてね」
「でも――嘘って、必ず剥がれるものだと思うよ。外側だけを繕ったに過ぎない虚構と、内面から理論に支配された真相のどちらが強いかなんて、問うまでもないと思うんだけどな」
「そうだが、同じ出来事は二度訪れない。あの日の
「……だとしても」
疲れているのか、軽い目眩がする。足下がぐらりと揺らぐ錯覚に耐えて、シェルは視線を上げた。
「七語圏が手を取り合うなら、同じ仮定を共有するのは、やっぱり必要だよ」
「それはたしかに。だが、その目的自体も、なんだかねぇ」
「なんだか……何?」
シェルは問い返したが、いや、とカノンは曖昧に言葉を濁して、考え込むように喉元に手を当てる。こういう時の彼は問いかけても会話に応じてくれないので、シェルは諦めてカノンを追い越し、賑わう休憩室に向かった。
「――あ」
休憩室をのぞき込むと、アルシュと目が合った。隣にエリザも座っていて、彼女はシェルを見て少しだけ表情を変えてみせた。ずきりと痛んだ心臓から目を逸らして、お疲れさまです、と片手を上げてみせる。
「おや、お揃いで」
後ろから追いついたカノンが、驚いたような声の調子を作って言う。近くの椅子を引いて、同席しても良いかとエリザに尋ねていた。彼女が頷いてみせたので、シェルも携行食と飲み物を受け取ってそちらに向かう。
既に携行食を食べ終えたらしいアルシュとエリザは、一枚のコピー用紙を指さして何事か話し合っている。包み紙を剥がしながら視線をやると、七語圏の名前が印刷してあるのが読み取れた。
「それは――何の表?」
「隔離すべき組み合わせのリスト、です」
エリザが答えてくれるが、今ひとつ意図が汲み取れなかった。シェルが首を傾げると、つまり、とアルシュが補足してくれる。
「語圏を超えた接触によって、何らかの健康被害が報告されている組み合わせを示しているわけ」
「ああ……なるほど」
「それね、多分また増えたよ」
納得したシェルの隣で、カノンが携行食片手に苦笑いしてみせた。
「コアルームが賑やかだったからね」
「え? 早く言ってよ」
アルシュが血相を変えて腰を浮かせる。
「戻らないと――」
「いや、そこにいた奴らが対応してたから、あんたが行く必要はない」
「そうなの? でも……」
彼女は迷うように目を瞬かせたが、ひとつ頷いて腰を下ろした。
「なら、分かった。すぐ焦っちゃうの、駄目だね」
自分に言い聞かせるようなアルシュの言葉に、どういう訳かエリザが頷いてみせる。エリザが言葉を紡ぐようになってからまだ数十時間しか経っていないが、同性ゆえの気軽さでもあるのか、彼女たちは既にかなり距離が近いように思えた。
あ、と思い出したようにアルシュが顔を上げる。
「ところでさ――フィラデルフィア語圏からの応答はあった?」
作業の進捗状況を聞かれているようなので、シェルは携行食を飲み込む作業を一時中断する。応答がない、と包み隠さず正直に伝えると、彼女は難しそうに目を閉じた。
「そうか――やっぱり、シェル君の提案に乗るべきかなあ」
「提案、ですか?」
「あ、はい。彼、フィラデルフィア語圏に、知人がいるそうなんです」
エリザの質問に、アルシュが答えてくれる。
「語圏全体に呼びかけるのが難しいなら、まずは個人的な関わりから、向こうの雰囲気を汲めないかと……そう、提案されて」
「いい提案に思えますけど……」
エリザが顔を傾けて、蜂蜜色の髪がしだれ落ちる。
「難しい顔ですね。何か問題が?」
「ええ、交渉相手に危険が及ぶのではないかな、と。向こうの権力に逆らって動いてもらうわけですから」
「あ……そうか」
一拍遅れて、エリザが頷いた。
「自分の属する語圏よりも、他の語圏の知人を優先する――ということになるのか。たしかに、フィラデルフィア語圏の統治機構からすれば、心地の良いものではないですね」
「そういうことですね。まあ、それ以前に、向こう側が応じてくれるかどうかも怪しいんですけど……」
アルシュは苦い表情を誤魔化すように、カップの中身を飲み干した。
うーん、と唸ってシェルは背中を後ろに倒す。ほんの短い時間だけ、地上で一緒に過ごした彼の顔を思い出していると、なあ、と不意に声を上げた者がいた。今まで黙って話を聞いていたカノンが、神妙な顔で3人を見回す。
「ひとつ――あんたに聞きたいんだが、アルシュ。いや、シェル君もマダム・エリザも、良ければ答えてくれ」
「どうしたの?」
アルシュが問いかけるが、カノンは一旦言葉を切って、休憩室を見回す。それから声を潜めて、ここだけの話だが、と前置きした。
「このままでも良いんじゃないか、と思えてしまってね。言葉の壁、感染症のリスク、文化の違い――そんなものを乗り越えなくても、
「え――ちょっと」
アルシュが血相を変えた。
「私たちの根幹を揺るがすようなこと、言わないでよ。皆に聞かれたらどうするの」
「だから今、聞いたんだ。こんなことは、会議の場では間違っても言えない」
カノンはもう一度休憩室をぐるりと見渡した。
シェルもようやく彼の意図を理解する。ちょうど休憩を取っていたメンバーが入れ替わり、今ここにいるのはシェルたち4人しかいなかった。このなかでMDPに正式に関わっているのは総責任者のアルシュだけであり、たしかに今は、MDPの掲げている
つまり、とシェルは眉をひそめる。
「このまま地下で、語圏同士が干渉しないまま暮らす、それで何が悪いのか……っていう意味?」
確認の意味を込めて問いかけると、カノンが静かに頷く。
「
「ああ……そういうことね」
腑に落ちて、頷く。
「だから、
「そう。七語圏が手を取り合うことを諦めれば、そもそも必要なくなる」
どうだい、と穏やかに微笑んでみせるカノンとは対照的に、アルシュは鋭い目つきで彼をじっと見つめていた。血の気の失せた唇から、掠れた声がこぼれる。
「なんか……後ろから刺されたみたいな気分」
「悪いね。ただ断っておくが、俺は、あんたたちに異を唱えてるわけじゃない。ただ意見が聞きたいんだ。みんな、信じたいものを信じて、平和に小さく丸まって生きていく。改めて問わせてくれ――」
カノンは開いた拳をゆっくりと握りしめて、手のひらの内側を隠す。
「それの、何が悪い?」
*
しばらく、誰も言葉を発さなかった。
エリザの身体を借りているロンガは、静かに睨み合う友人たちを緊張して見つめつつも、カノンの問いに対する答えを探していた。七語圏が同じ立場になり、共同で未来を創り出す――それは、問うまでもないスタートラインに思えたのだ。
だからこそ、カノンの問いに即答できなかった。おそらくアルシュやシェルも、同種の葛藤の中にあるのだろう、と彼らの思い悩んだ表情から推測する。
平等、自由、協調、真実。
そんな耳に心地よい言葉は、目の前のどうしようもない現実に比べて、あまりにも頼りなく思えた。分断することで安全が手に入るのに、わざわざ労力を割き危険を冒してまで手を取り合う必要性は、いったいどこから生まれるのか。
「――それでも私は」
小さく息を吸って切り出すと、友人たちの視線がこちらに向いた。
「七つの語圏が手を取り合う必要があると、理屈抜きに、そう感じています」
「でも……それじゃ答えにならない」
シェルの呟きに頷いてみせて、だから、と言葉を続けた。
「私がそう感じる理由を、言葉にできれば良いんですよね。たとえば、陽の当たる地で暮らすため――という答えでは、不足ですか」
「あんた、総代さんみたいなことを言いますね」
苦い笑顔と共に、カノンが応じる。
「たしかに“
「サジェス君と同じ……」
エリザの前にハイバネイト・シティの総権を保持していた青年の名前を、シェルが呟く。今となっては死んでしまった彼も、太陽の下でラピス市民が暮らす未来を目標に掲げていた。かつては名前すら持たなかった地底の民は、彼の語る神話と理想に共感し、感動して、ひとつの集団として蜂起するに至ったのだ。
「経緯はどうあれ……サジェス君は、10万の“
苦々しく噛みしめるような声で、シェルが言う。
「まあね、今のぼくらに、サジェス君と同じことができるとは思えないよ。でもさ、そんなことをする意味はないと思う。強すぎる理想に引きずられて、みんな考えることを辞めていたでしょう。それじゃ駄目なんだって」
「ああ、いや俺はね……全員の合意を得ろと言っている訳じゃない。そんなことは不可能だ。逆だよ」
そう言ってカノンは、アルシュに顔を向けた。
「MDPはかつて、
「え……? そういうものがないと困るからだよ。配電系統がやられちゃったんだもの」
「そうだね。誰かに問うまでもない、当たり前の正義だ」
「う、うん――あ」
呆気に取られた口調でアルシュが答える。それからはっと表情を変えて、そうか、と呟いた。
「今の私たちには当たり前の正義がないって、そう言うことか」
「まあ……率直に言えば、そうだね」
渋い表情で頷き合う彼らを見て、なるほど、と内心で呟いた。数十万に増加したラピス市民、その全員から合意を取り付けることなど不可能だからこそ、疑うまでもない正しさが必要だと、そう言われているのだ。
「軍部にいた頃は、最大多数の人間が安全に暮らせること、それが善であり正義だと、そう教えられた。俺もそう思っていた。協調を目指した結果として人命が脅かされるのなら、これは俺の思う正義と反している」
「でもさ……既成の枠組みの範囲内で生かすって、それはさぁ、ラピスが今までやってたことと同じだよ。だから統一機関は崩壊したんじゃないの?」
「いや、それは違う」
シェルの反論に対して、アルシュが小さく首を振った。
「統一機関が崩れたのは、あくまで、地下にある膨大なリソースを手放したから。枠組みのなかに社会を収めて、人々を抑えつけて動かすことはできる。現に、できていた」
「――じゃあ、そこは訂正するけど」
やや気後れした様子ながらも、シェルが視線を持ち上げる。いつかの朝を思い出す、まっすぐな光を放つ瞳が、ぐるりと仲間を見渡した。
「もう一度あんな不自由な社会を作り直そうって言うなら、ぼくは反対する。役割で人を縛って、塔の上に閉じ込めていたのと、何も変わらないもの。生きるために生きている、その、何が楽しいのさ」
「自由の代償に危険を冒しても、かい」
カノンに即座に問い返されて、シェルは一瞬言葉に詰まったが「そうだよ」と頷いてみせた。
「自由にはそれだけの価値がある」
「……そういうもんかね」
「それに、七つの語圏は……遅かれ早かれ、必ず交わろうとすると、そう思う。言葉と文化が違う
「うん、それは、私も同意かな」
アルシュが相槌を打って、視線を上に持ち上げる。ロンガもその視線を追いかけて、秋から冬に移り変わるラ・ロシェルで過ごした日々を思い出す。言語の壁を越えて手を伸ばそうと奮闘していた彼らは、物理的な壁などでは阻めないだろう、というのが容易に想像できた。
「今まで私たちは、たしかに、枠組みのなかで生きてきた。ラピスの中の統一機関の中の研修生という立場にいて、それを何とも思っていなかった。でも――みんな、外を知っちゃったんだよ。地上の他にも世界はあって、このラピスの外側にも違う世界があって」
眩しいものでも見たかのように、アルシュは目を細める。
「もう、元の居場所になんて、大人しく戻ってはくれないと思うんだ」
「だから、彼らが望むように語圏の壁を越えられるよう、手を貸すと。つまりあんたにとっては、ラピス市民の願いを叶えることこそが善なわけだ」
「そうだけど――いい加減、回りくどいな。結局、何が主張したいの? カノン君は」
「いや……俺はただ、従うべき方向が欲しくてね。何が善で正義なのか、あんたらの方がよく分かっていそうだから、聞いただけだよ」
「なにそれ……」
アルシュが片方の眉を吊り上げて、ハイバネイト・シティ特有の乾いた空気に緊張が溶け込む。
「私、カノン君を従えてるつもりはないんだけど。私たちって、もっと対等でしょう。同じ信念を持ってるから、協力してるんだと思ってた」
「俺は……偶然ここにいただけだよ。だが、あんたらの力になりたい。利用して欲しいと、そう思っている」
「なっ――無責任なこと言わないでよ」
「頼られるのには慣れてるでしょう」
「MDPの仲間になら、ね」
アルシュが苛立ったように息を呑む。
にわかに剣呑になった雰囲気に困ってしまうが、彼らにとっては他人に近いエリザの姿を借りている以上、率先して間に入るのも気が引ける。所在なく視線を巡らせると、呑気な無表情で携行食を食べているシェルと目が合った。彼は口の中のものを飲み込みながら、困りましたね、とでも言うように首を傾げた。
仲裁をするなら彼に頼みたいのだが――と、そんな思いを込めて視線を送ってみる。その祈りが通じたのか、無言で睨み合うアルシュとカノンを交互に見て、シェルは小さく息を吸った。
「あのさ――それで結局、カノン君の欲しい答えは出たの?」
「いや。あんたらの考えは良く分かったが、俺はどちらにも共感できなかった」
「そう……」
溜息と共に、アルシュが立ち上がる。包み紙を握りつぶして、壁のダストシュートに放り込んだ。
「いい加減、お喋りは終わりにして、作業に戻ろうか。この話はまた、別の機会に」
「うん、でも――エリザ」
太陽を模した蛍光灯の光を反射して、シェルの視線がまっすぐ向けられた。彼の目がエリザの内側をのぞき込んだ――そんな錯覚を起こして、思わず姿勢を正す。
「貴女の意見を、まだ聞いてないなと思って。ぼくたちラピス市民は、どうあるべきだと考えますか」