君に貴方にさよならを
文字数 10,108文字
新都ラピス全域において謎の白い光球が観測され、ほぼ全てのラピス市民が一時的に意識を失う異常事態が発生した。その外見的な特性はD・フライヤの干渉とされる時空間異常、通称「
本来なら、原因の解明と再発防止に取り組むべき大事件である。
しかしながら、異常事態が数十秒しか持続しなかったこと、その持続期間の短さゆえに犠牲者が出なかったこと、さらには前日から続いた地下からの避難で人々が疲弊しきっていたことにより、この一件の重要度は低いものと見なされた。
フォアフロントの消失――すなわち彼らが生きている《現在》ごと消されかけるという、未だかつてなく甚大な危機が訪れていたことは、五十万を越えるラピス市民の誰ひとりとして知らされないまま、事態は収束を迎えた。
***
ある日の朝。
堅牢な石造りの街、ハイデラバードの片隅にて。窓から差しこむ朝日で、アルシュは目を覚ました。見慣れない構造の天井が目に飛び込んでくるが、梁の特徴から、どうも自分はハイデラバードにいるようだと気がつく。しばらくの間、自分がここにいる理由を考えていると、こちらに硬い足音が近づいてくるのに気がついた。石張りの床だからなのか、やけに足音がよく響く。
ノックの音。
「――はい」
ほとんど反射で答えると、ドアの向こうでけたたましい音が響く。頭をぐらぐらと揺らす喧しさに目を細めながら首を持ち上げると、開け放たれた扉の向こうにいる少女と目が合った。
「……フルル?」
目を見開いてこちらを見ている彼女は、アルシュが地上にいたころ身辺警護を務めてくれていた少女だ。去年の秋にラ・ロシェルで別れたので、実際に顔を合わせるのは久しぶりだった。彼女の足下から、取り落としたらしい金属製のトレイがカラカラと転がり、寝台の近くまでやってきた。
「えっと……ここはどこかな」
トレイを拾い上げながらフルルに尋ねると、立ち尽くしたままの彼女の両目から、ぼろりと涙がこぼれる。その表情を見てアルシュは、ああ、どうもそれなりに長い間眠っていたようだ――と直感した。
「……なぁんだ」
だからこそ、
「もっと時間が経っちゃったのかと思った」
「な……なぁんだ――って、貴女」
充血した目元を擦りながら、フルルが叫ぶような口調で言う。それから彼女は不安そうに眉をひそめて、アルシュの顔をのぞき込んだ。
「普通なら、一日以上も目覚めないだけで大問題なんですけど……あの、色々ちゃんと認識できてます? ご自分の名前とか立場とか、覚えてますか」
「えっ――だ、大丈夫だよ」
アルシュは慌てて手を振る。
どうもフルルは、冗談ではなくアルシュの認知機能を疑っているようだ。自分の名前やMDPのこと、地下から脱出するまでの経緯などを、馬鹿馬鹿しいと思いつつも話してみせると、フルルはほっとしたように息を吐いた。
「良かったです。まさか、貴女まで――」
「……え?」
「ああ――いえ」
彼女は言葉を切って立ち上がった。
「あの――とりあえず医療部に連絡しますので、身体の調子を診てもらって下さい。じゃあ、私は一旦失礼します」
「うん……あれ、えっと、それだけ?」
従者であるフルルとは、いつも膨大な伝達事項を交わしていた気がして、アルシュが思わず首を傾げると「重体なんですよ、貴女は」と溜息を吐かれた。じとっとした横目で、フルルがこちらを見る。
「あんまり難しいこと考えないで、寝て下さい」
それだけ言われて、扉が閉まる。
アルシュの想像以上に、フルルがこちらに気を遣っていたと分かったのは、それから半月後のことだった。
「マダム・エリザの死体が上がった」
とつぜん病室を訪ねてきたカノンが、椅子に腰を下ろしたかと思うと、見舞いの社交辞令を省いてそう告げる。アルシュは彼の言葉がすぐには理解できず、寝台に腰掛けたまま二、三回と瞬きを繰り返した。
「え、ごめん……よく分からない」
「これ以上、分かりやすく伝えることはできない」
複雑な言葉を弄して本音を隠す癖があったはずの彼が、残酷なほど端的な言葉で告げる。
「マダム・エリザが死んだんだ」
「……嘘だ」
「嘘だったら良いと、俺も思う。だが――俺も確認してきたが、一寸の疑いようもなく、明確に死んでいる」
「なっ……なんで」
「なぜ――というのは、死因を聞いているのか。実は、それなんだが――」
「そ、そうじゃなくて、違うっ……だって、私たち、地上で会おうって!」
ほとんど悲鳴のような叫びが、石造りの冷たい部屋に響く。息苦しくなって咳き込みながら、アルシュは寝台の上で身体を丸めた。認めたくなかった事実が、じんわりと染みるように全身に広がっていく。
「なんで……?」
胸元を抑えて呟く。
「約束……した、じゃん」
「……そうだね」
カノンが淡白に頷く。
それから唇を横に引いて、視線を逸らした。
彼の表情を見て、はっと気がつく。
その淡々とした振る舞いの奥底に、自身を抑えつける強い圧力があった。彼は無表情ではあるが、無感情ではないことを今は知っている。アルシュが休養している間、一足早く事態を知らされた彼は、今日こうして見舞いに来るまでに、どうにか自身の感情に整理を付けてきたのだろう。
「……分かった」
ふぅ、とアルシュはひとつ息を吐く。
胃がずっしりと重たかった。だが、自分だけがいつまでも、起きてしまった事態を受け入れずに逃げるわけにはいかない。
「ありがとう、教えてくれて」
「――いや」
「さっき言いかけてた……死因は」
「そこが不明瞭だ」
彼が首を振る。
「致死傷になり得たものが二つある……腹部を、背中側から前へ貫くように鉄骨が刺さっていた。そして、頭部に銃創があった。そのどちらが先なのか……つまり、彼女が死んだ経緯は、判然としていない」
「待って……」
喉がからからに渇くのを感じながら、アルシュは彼の腕を掴んだ。
「鉄骨は、分かる。でも銃って」
「辻褄が合うように考えるならば……先に、何らかの事故によって腹部に鉄骨が貫通し、死を悟って自決した……という筋書きになる」
それから彼は「あるいは」と呟いて足を組んだ。
「シェル君が撃った可能性もあるが」
「そ――そうか、マダム・エリザは……というかロンガは、シェル君と一緒にいたんだよね?」
「ああ……そうだね」
「じゃあシェル君に聞けば――」
そこまで言って、嫌な予感が胸をよぎり、アルシュは思わず口元を抑えた。
「――まさか」
「いや……シェル君は、大した怪我はしてない」
「あ……そ、そうなの?」
エリザに続いて彼の訃報を聞かされるかもしれない、と身構えていたアルシュは、一瞬だけ安堵する。だが、言葉の内容に反してカノンの表情は暗く、無事なら良かった――とは言い出せない雰囲気を醸していた。
「どう……説明したら良いのか」
カノンは独り言のように呟く。彼はしばらくあごに手を当てて窓の外を眺めていたが、やがて寝台のアルシュに視線をもどして「あんたは」と問いかけた。
「もう、動けるのか」
「えっと……少しなら」
「じゃあ、明日にでもスーチェンの臨時本部に行って、直接会ってくると良い。あの子にでも
あの子――というのは、おそらく従者であるフルルのことを指しているのだろう。カノンはそれだけ言って、松葉杖をついて立ち上がる。
「じゃあ――用はそれだけだ。ハイデラバードとの交渉のついでに来ただけなんでね、また」
「えっと、わ……分かった。お疲れさま。シェル君のお見舞いなら、明日、カノン君も来たら?」
「いや……俺は」
彼はふっと顔を背ける。
「当分は、彼の顔を見たくない」
***
その夜は眠れなかった。
翌日の早朝、
「なにが?」
「色々と黙っていたことです。貴女がもう少し本調子に戻るまで、言うべきではないかと考えて……」
「……ううん」
雪のうっすらと積もった森を見下ろしながら、アルシュは小さく首を振った。気の利く彼女のことだ、アルシュの体調を気遣ってくれたのだろう。それを咎める気にもなれない。
それに今日、これから見るもの次第では、フルルの判断が正しかったと思うことになるかもしれない。カノンもフルルも、シェルの現況について何かしら良くない雰囲気を匂わせるものの、具体的なところを口に出そうとしないのだ。その態度が、かえって事態の深刻さを強調しているように思えた。
スーチェンの広場に着陸し、アルシュたちはMDP支部に向かう。フルルが施錠された扉を開けて、仲間たちに声を掛け、病棟として利用されている旧学舎の鍵を受け取っていた。彼女を待ちながら、アルシュが何の気なしに休憩室をのぞき込むと、書類整理をしていた少女と目が合った。
「あ……! アルシュさん」
以前に二ヶ月ほど共同生活をしていた少女、リヤンがぱっと立ち上がって頭を下げる。
「お久しぶりですっ。もう、身体は大丈夫なんですか?」
「うん……そうだね、もう少し休んでおけとは言われてるけど、でも元気だよ」
「良かったです。今日は、どうしてスーチェンに?」
「お見舞い、かな」
「あ……もしかして」
リヤンの顔がぱっと陰る。
「シェルさんですか」
「え――うん、そうだけど」
アルシュが眉をひそめつつも頷くと、そうですか、と暗い声で呟いてリヤンが視線を落とした。そもそもリヤンと彼は面識があっただろうか――などと考えていると、背後からフルルに「行きますよ」と声を掛けられる。
丁寧に除雪された、レンガ積みの道を行く。
突き当たりを右折し、細い路地を抜けた先の扉を開ける。暖房の効いていない階段を五回折り返して昇り、最上階である四階の、さらに隅にある扉の前まで向かう。
フルルが硬い表情でノックをする。
「はい、どうぞ」
対して、返事の声は明るかった。
フルルがこちらに目配せをするので、アルシュはひとつ頷いて、握ったドアノブを回す。部屋の奥に木製の椅子があって、見慣れたオレンジ色の髪が、勢いよく開け放たれた扉が起こした風で揺れる。
見たところ怪我もない様子を見て、アルシュはほっと安堵の息を吐いた。
「……シェル君」
なんだ。
元気そうではないか。
アルシュは室内に入って、彼の座っている窓際までまっすぐ向かった。
「良かった、無事そうで――」
「……え、あ――あの」
彼の表情に戸惑いが浮かぶ。シェルは椅子の背もたれに身体をぴったりと付けたまま、目を丸く見開いてアルシュを見つめた。
「すみません」
明らかに動揺した態度。
「もしかして――ぼく、あなたとも、初めまして……じゃない感じですか」
膝から力が抜ける。
ぐらりと傾いた身体を支えようとして、アルシュは窓ガラスに手を付いてしまう。ばんと大きい音が部屋中に響き、シェルが視界の片隅で動揺に肩を震わせた。身体中を揺さぶる衝撃に耐えながら、アルシュはゆっくりと目を閉じた。
「……そういう、ことなのか」
「ムシュ・シェル。ご紹介します」
フルルが背後で静かに言う。
「MDPの創始者であり、貴方の同期であり、ご友人であった、マダム・アルシュです」
***
MDPスーチェン支部に戻り、アルシュは温かいハーブティに口を付けてから、大きく溜息を吐いた。
「みんな、言いたがらないはずだよ」
「……すみません」
申し訳なさそうに頭を垂れるフルルに、アルシュは無言で首を振ってみせる。人々が揃って口を閉ざした理由が、今となっては骨身に染みて理解できた。
「説明したくないよね。見かけはシェル君のままなのに、中身がそっくり抜け落ちてしまったなんて」
「それも、そうですし……あの、言い方は悪いんですが、虚言である可能性も少しだけ検討したんです。彼がマダム・エリザの死に関与していると仮定して、その罪から逃れるためではないか、と」
「……シェル君はそんなことしないよ」
アルシュは唇を噛む。
荒れた唇に歯が食い込んで、じわりと血の味が広がった。
「そんな嘘は吐かない。そんな人じゃない」
「はい……いえ、分かってますが」
フルルが気まずそうに頷いてから「それに」と言って背後からバインダーを取り出した。彼女は挟まれていたプリントをぱらぱらと捲って、何かの検査結果らしい表をアルシュに見せる。
「先日の精密検査の結果なんですが……血液中から、記憶領域を阻害するとされる物質が微量に検出されたそうです」
「ああ――記憶操作に用いられていた……?」
「はい」
フルルが頷く。
「統一機関時代に用いられたものが、地下に残っていたようです。同時に、首の後ろに注射痕のようなものも見つかり……刺した角度から、ムシュ・シェルが自身の意志で記憶阻害剤を打った可能性もあるのですが、なんにせよ憶測の域を出ません」
「自分で、か……シェル君に限って、そんな真似はしないと思うんだけどな……」
結露した窓を見つめて、アルシュはぼんやりと呟く。何もかも不明瞭な点ばかりだが、シェルがかつて彼であった記憶を完全に失っている、その一点においては、アルシュ自身の目で確認して、間違いないと確信した。
***
シェルの病室で、所在なさげに椅子に座っている彼に、アルシュは「じゃあ」と思い切って問いかけた。
「ロンガのことも、覚えてない?」
「……はい」
彼は長い睫毛を悲しげに伏せて頷く。
「色んな人に、その名前を聞かれるんですけど、覚えてないんです」
「……そう」
「その人は、ぼくの大切な人だった――と聞きました。本当ですか?」
「うん……そう思うよ」
アルシュは頷く。
おそらく、カノンやリヤンが彼と話したときにも、シェルが記憶を失っていると知った彼らは、まず最初にロンガのことを尋ねたのだろう。第三者の目から見ても、彼とロンガの関係性は、ただ友人と表現したのでは足りないように思えた。
「特別な関係だったと思うよ」
「特別……」
シェルがぼんやりと言葉を繰り返す。
「どう、特別だったんですか」
「――そんなの」
アルシュは痛む額を抑えて呟く。
「私に聞かれたって、分からないよ……」
そう答えたときの、不安で頼りないシェルの表情が、脳裏に焼き付いて離れない。かつて友人だった彼は、本当に消えてしまったのだ――と、アルシュはその瞬間に確信した。何よりも大切にしていたはずのロンガの存在にさえ反応を示さないなら、もう、それは彼ではないのだ。
***
「ともかく」
バインダーをフルルに返して、アルシュは呟く。
「シェル君が地下で、マダム・エリザと何をしたとしてもだよ。叱責はできないし、詰問する意味もない……ってことだね」
「そういうことになりますね」
「うん……」
何度目か分からない溜息を吐いて、アルシュは椅子の背もたれに深く身体を預けた。頭痛と目眩に襲われて、まぶたにしわが寄るほど強く目を閉じる。
ひどく疲れていた。
「ごめん、フルル」
額を抑えながら、アルシュは立ち上がる。
「どこかの部屋で休んでも良いかな」
「あ――勿論です。すみません、気が利かなくて……今、ご案内しますね。お昼頃に起こしに行きましょうか?」
「ううん……いらない」
アルシュは首を振る。
当分は、目を覚ましたくない――と思った。
***
冬の終わり、粉雪のちらつく夕刻。
カノンはハイデラバードとの交渉を終えて、スーチェンの拠点へ戻る。
少し立ち止まり、西の空を眺める。
地下から脱出を果たしてからというもの、こうしてぼんやりと空を見つめる数十秒が、生活の合間に挟まるようになった。その行為に、何らかの生産性を見出しているわけではない。ただ――今日も太陽は空を回り、時間は着実に前に進んでいるのだと、確認するまでもないことを確認するだけだ。
スーチェンに辿りつく頃には、すっかり夜になっていた。カノンはレンガ積みの階段を登って、MDP支部まで向かう。
現在MDPでは、ラピスの都市機能を移動させる計画が進んでいる。地上ラピスと
都市移転計画に当たって、カノンは一時的にハイデラバードとMDPの交渉役を担っていた。ハイデラバードは他と一線を画した高い建築技術を持ち、この計画においては欠くことのできないメンバーだ。そして、最初こそ脅すような形で協力を取り付けたのだが、現在はハイデラバード側も積極的に計画に関わろうとする意思を見せている。
その甲斐あってか、すでに場所の選定はほぼ終わり、早くも今年の夏から基礎工事が始まると聞いている。居住区ができてから順次人々を移動させていき、十年を目処に、全てのラピス市民が生活できるだけの都市を整備するそうだ。
目まぐるしく進む日々。
何もかも、あっという間に変わっていくのだ――と思った。
果てしない未来に思いを馳せて溜息を吐くと、それはかすかに白く濁って東の空に消えていく。それを何の気なしに視線で追いかけたカノンは、真円に近い月が地平から昇ってくることに気がついた。
「……ああ」
思わず、見つめてしまう。
忙しない日々であるからこそ、夜空を変わりなく照らす白が、どこか懐かしい。その煌めきには何の意味もなく、それどころか自分で光ってすらいない。ただ太陽の光を跳ね返しているだけなのに、その素直さにかえって救われた心地になる。
その夜。
真夜中も近い時刻に、間借りしている部屋を出て、カノンはペンライト片手に夜の街を歩いた。レンガ積みの、緩やかな勾配の道を登っていき、突き当たりにある見晴らしの良い広場を目指す。
すると、先客がいた。
「あ――」
近づいてくる足音に振り向いた彼は、カノンの顔を見て、どこか気まずそうに顔を歪める。オレンジ色の髪を夜風に揺らして「あの」と申し訳なさそうに切り出した。
「席を外します」
「いや……別に、良いよ」
カノンは首を振って、ペンライトを消す。
天頂近くに浮かび上がった月が、夜の街を支配していた。まっすぐ月を見つめている、かつてシェルだった彼の横顔が、青白い光に縁取られている。
「――あんたは」
カノンは彼に問いかけた。
「月を見るために、わざわざ出てきたのかい」
「いえ……何となく、です」
「――あぁ、そう」
カノンが溜息とともにレンガの塀に肘を付くと、シェルが「何となく」と続けて呟いた。
「ぼくは――ここにいちゃ、いけないような気がして……遠くに行って――《ルナ》を探さないと、いけないような」
「……え?」
一瞬、息が止まる。
何かの聞き間違いかと思いながらも、カノンは勢いよく彼のほうに振り向いた。樹にもたれているシェルに大股で歩み寄り、自分より頭ひとつ分以上も低い肩をがっと掴む。
「シェル君、今――何と言った」
「え――《ルナ》ですか?」
「そうだ……それだ」
肩を掴む手のひらに、思わず力がこもる。
「覚えているのか」
「いえ……何となく、なんですけど……
カノンはしばらく、言葉を失って立ち尽くす。そんなカノンを不思議そうに見つめながら、シェルは「もしかして」とあごを持ち上げた。
「《ルナ》がどこにあるか、知ってますか。スーチェンにあるんですか?」
「……いや」
夜空の月をちらりと見て、カノンは首を振る。
「ここにはない」
「……そうですか」
残念そうに呟いて、シェルが俯く。
「探しに行きたいんですけど……ここにいる限り、無理ってことですね」
「……それなら」
夜に覆われたスーチェンの街を見下ろして、カノンはぽつりと呟いた。
「探しに行けば良い」
***
一時間ほど道案内をしてやって、二人はスーチェン市街地の外縁まで辿りつく。レンガの塀によじ登ったシェルが「あの」と呟いて、下にいるカノンを見下ろした。
「あなたには、嫌われていると思ってました」
「怒ってはいるよ、まだ」
「じゃあ……どうして、助けてくれるんですか?」
「さぁ……」
曖昧に首をひねる。
ただ、そうしてやりたいと思ったから、行動したまでだ。そこに理由を求めるのはナンセンスに思われて、カノンは明確な答えを出さないまま「それより」と言って塀の上を見上げた。
「さっさと行った方がいい。MDPの連中に見つかったら、連れ戻されかねない」
「それも、そうですね」
塀の向こうに両足を投げ出したシェルが、ふと思い出したように振り向いた。長い髪が夜風に流れて、月光を反射して光る。カノンを見るまなざしは、昔のように遠慮を知らないまっすぐさで、なのに瞳の向こう側にあるものは、ほとんど全て抜け落ちてしまった。
あの、と彼が問いかける。
「ぼくとあなたは友達だったんですか?」
「さてねぇ」
それこそ、答えが出ない問いだ。カノンは外套のポケットに両手を突っ込んで、言葉の適切な落としどころを探した。
「友達……には、一歩及ばないくらいだったかな」
「そうですか」
シェルが淡白に頷く。
それから、ありがとうございます――とだけ言い残して、小柄なシルエットは塀の向こうに消えた。一秒後に、枯れ葉の積もった地面に飛び降りた音が聞こえる。そして足音が遠くなっていき、あっという間に聞こえなくなった。
***
シェルがいなくなって、しばらくのあいだMDPは大騒ぎだった。その理由の一端は、彼がエリザの不審死における関係者と考えられたからだ。しかし、彼が悪意を持ってエリザを殺したとは考えがたいこと、そしてMDPが都市移転計画に関わる諸々の業務で多忙を極めていたこともあり、数日も経つと事態は収束を始めた。
そして、MDP構成員たちが完全にシェルの失踪を忘れた頃、穏やかな春の日の朝だった。フルルから衝撃的なニュースを聞かされて、アルシュは抱えていた仕事を放り出し、スーチェン支部まで向かった。
「――カノン君!」
アルシュが息を切らして駆けつけると、ブーツの紐を締めていた彼が「ああ」と呟いてこちらを見上げた。
「今から、挨拶に行こうと思っていたんだが」
「……挨拶って」
走ったせいでずり落ちたカーディガンもそのままに、アルシュは唖然として彼を見つめた。
「本当に出て行くの?」
「ああ」
何でもないことのように彼が頷き、大型のリュックサックを背負って立ち上がる。
「とっくに足も治ったし、ハイデラバードとの交渉も引き継いだ。あんたらに、いつまでも世話になってるわけにも行かないだろう」
「でも……行くって、どこに行くの」
「夏から基礎工事が始まるだろう。そちらで、大きく募集が掛かっている。あんたも、知っているだろう?」
「知ってる……けど」
アルシュは頷く。
彼の言うとおりだ。都市移転計画に伴う基礎工事は大がかりなプロジェクトゆえに、広く人材を募っている。仕事内容は資材の運搬から機械の操縦、図面の作成など多岐にわたるが、それゆえに募集の間口はきわめて広い。
「でっ……でも!」
今にもスーチェンを出て行こうとする彼の腕を掴んで、アルシュは声を上げた。
「ここに――MDPとして、残ってくれたって、良いんだよ?」
「俺には性に合わない」
彼はばっさりと切り捨てて「それに」とアルシュに視線を返す。
「あんただって、前に言ってたじゃないか。俺を従える気はない、と」
「――え?」
一瞬、何のことを言われているのか理解できなかった。
それからアルシュは、まだ自分が地下のコアルームにいた頃に、カノンと交わした言葉を思い出す。思い返せばたしかに、カノンを従えているつもりはない――と宣言した記憶があった。
だけど――違う。
「じゃあ」
南の方角に下る階段を見下ろして、カノンがアルシュに微笑んだ。彼の薄笑いは今までも散々目にしてきたが、なんだか、何かから解放されたような――そんな透明感のある笑顔を浮かべていた。
振り返った横顔が言う。
「あんたには結局、春まで世話になって悪かったね。じゃあ――また、どこかで」
後ろ姿が遠ざかっていく。
彼の背中に縋り付いて止めるほどの理由もなく、かと言ってその場を立ち去れるほど冷淡でもなく。伸びてきた髪を揺らす春風の中に、アルシュはただ立ちすくむことしかできなかった。
従える気はない――と言ったのは。
友達でいたい、という意味だったのに。