chapitre177. 消失
文字数 5,835文字
――新都ラピス
シェルの腕のなかで、エリザの身体から今度こそ完全に力が抜ける。灰色の瞳は半開きのまま光を失って、唇は微動だにしなかった。腹部を鉄骨に貫かれ、蜂蜜色だった髪を鮮血に染めた凄惨な死体が、瓦礫の合間に崩れ落ちる。
「あ――あぁぁ……」
口元を抑えて、シェルは膝を付く。
ほんの数分前まで大切な友人であり、同時に、懐かしい思い出の人であったはずの彼女の身体。華奢で虚弱ではあったものの、何ら不自由なく歩き、笑っていたはずの身体から、どんどん体温が失われていく。
「エリザ……」
彼女の死体の前で、シェルは頭を垂れた。
「これで、良かったんでしょうか……?」
返事はない。
永遠に、ない。
まだ人間の形を保っているけれど、もう
不意に、耳元に雑音が響く。
うっすらと目を開ける。すると、地面に落ちていた無線機のスピーカーから、ノイズ混じりのざらついた言葉が聞こえてきた。
『――聞こえ――るか』
知らない声だ。
『こちらはMDPの者――だ。そちらから発信された救助要請を――受信――した。この通信が聞こえ――か? 応答し――くれ』
「ああ……」
地面に倒れ伏したまま、シェルは無線機をぼんやりと見つめる。そういえば確かに、地上に助けを求めたところだった。だけど、エリザが死んでしまった今、助けを求める意味はない。だって――ここに残っているのは瓦礫と死体だけで。助けるような価値があるものは、全て失われてしまった。
失われてしまった――
本当に?
「あ……」
そこで愛しい人の声を思い出して、シェルはゆっくりと瞬きをした。
「そっか、そうだ……約束、した」
地上を目指すことを、シェルは彼女と約束したのだ。約束を交わした相手は、今はもう隣にいないけれど、だからといって不履行が許されるわけでもない。シェルは血で汚れたコンクリートに手を付いて立ち上がり、無線機のマイクを引き寄せた。
そのときだった。
突然、ノイズの音量が上がる。
『な――なんだ!?』
「……え?」
同時にスピーカーの向こうで、通信の相手が突然焦ったような声を上げた。シェルは不測の事態に戸惑いつつも、マイクのスイッチを入れて向こうに話しかける。
「あ、あの――大丈夫ですか」
『
「表示?」
眉をひそめて、相手の言葉を繰り返す。それから、
空が白い。
太陽光の白でも、雲の乳白色でもない。不透明で一様な白色。天球そのものが最大明度の白に光り、何もかも飲み込むような異様な光が全方位に広がっていた。
驚きに目を見開いたシェルの耳に、きぃんと耳鳴りが響いた。次の瞬間に、神経ごと絞られたような凄まじい頭痛に襲われ、シェルはこめかみに爪を立てて膝を付く。天球の白が、視界から侵食して意識を塗りつぶしていった。
***
「どこだ――どこ、どこに――どこに行った、エリザ……!」
荒れ狂う、感情の嵐。
巨大な怒りと激情の渦が、真っ白い光球の形を為して、早朝の新都ラピスを隅々まで覆い尽くした。思い思いに夜明けを迎えていたラピス市民たちは、突然の事態に抗う術もないまま意識を焼き尽くされ、ある者はその場に倒れ伏せ、ある者は
五十万の脳をひとつひとつ探して回ったのに、彼女の意識はどこにも見つからない。ビヨンドあるいはD・フライヤと呼ばれた超越者は、無数の腕を全方位に伸ばすが、あの蜂蜜色の髪も華奢な体躯も、自分が与えた虹色の双眸も、研ぎ澄まされた美しい祈りも――なにひとつ指に触れなかった。
「なぜ……なぜ、どこにもいない!」
超越者は吠える。
四世紀もの間、待ち望んだ瞬間がついに訪れるはずだった。太陽系第三惑星の、とある大陸の西端近く、雪に閉ざされた街の古びた教会で見つけた、この宇宙のどんな物質より美しい少女。その姿形こそ幼い子供の姿をしているが、ひたむきで汚れを知らない祈りは、鋭いパルスとなって超越者を貫いた。
彼女――エリザを手に入れたい。
無垢な少女のまま奪ってしまうこともできた。だが、彼女の祈りはまだまだ成長の余地を残していると思えた。ちょうど当時の文明社会は滅びの危機に瀕しており、エリザには遠く及ばないにせよ、世界のあらゆる場所から美しい祈りが発せられていた。
彼女はこの世界で生きるべきだ。
超越者はそう考えた。
滅び行く世界の多彩な絶望のなかで、エリザの祈りはより一層磨きが掛かるだろう。幸も不幸も含めたあらゆる感情を知って、ときには笑わせて、色々なことを考えさせて、最後には全てを奪うのだ。
人として生きること。
人を越えて生きること。
そのどちらも彼女に与えた。
エリザがこの世界に生を受けてから四世紀後の文明、新都ラピスと名付けられた新しい街に彼女を送り込んだのも、七つに分岐した世界の全てに彼女を配置したのも、その一環に他ならないはずだった。分岐した世界のひとつ、ラ・ロシェル語圏に辿りついたエリザが、現地の男と恋に落ちたのは予想外だったが――それはそれで、彼女に未知の感情をもたらし、エリザの祈りに奥行きを与えた。また、自身の血を引いた娘という存在に向けるまなざしも、同様に未知のものであり、彼女の祈りはさらに洗練された。
全て、思うままに進んでいるはずだった。
なのに。
――なのに!
四世紀の時をかけて美しく織りなされた祈りを、ついに手に入れようと思った瞬間、エリザの姿がかき消えた。
「どこに――どこに、逃げた」
どれだけ逸脱しても人間である以上、五次元宇宙を見渡す超越者の目から逃れられるわけがない。ないのだ。ないのに、どこを探しても、見つかるのは彼女の記憶ばかり。かつて存在した彼女の欠片ばかりで、今まさに思考して未来を生み出そうとしている、あの祈りがどこにも見つからない。
超越者が幻像世界で白い腕をひときわ大きく震えさせた、そのときだった。
「……逃げたんじゃ、ないよ」
誰かの声がした。
「いないんだよ、もう――どこにも」
「――はぁ?」
超越者は振り返る。
オレンジ色の髪をなびかせた青年が、白い幻像世界に浮かび上がり、超越者に向けて銃を構えていた。
「だから……こんな真似は止めて」
シェルは言う。
「そうやってきみが、ラピス市民の意識を乗っ取るせいで、こちらに弊害が出る。だけど――どれだけ探したところで、エリザはもういないんだ。もう死んだんだ。だから、この
「は?」
混じりけのない幻像世界へ突然やってきた異分子に、そして彼の語った内容に、超越者は困惑する。
「そんな……そんな、わけがないだろう――誰だよ、お前は……ぼくに分からないことが、どうしてお前に分かる」
「分かるよ」
シェルは視線をまっすぐ据えたまま、頷いてみせる。
「ぼくがエリザを殺したからだ。きみに奪わせる前に、彼女がまだ人であるうちに、頭ごと撃ち抜いた」
超越者は、一瞬だけ沈黙する。
そして彼は叫んだ。
幻像世界ごと揺らすような鳴動に、シェルは今にも吹き飛ばされそうになる。目も開けていられないほどの逆風の中で、必死に「だから」と声を張った。
「もう探さないで。ぼくらの世界を壊さないで!」
「違う、うるさい、止めろ、ぼくはそんな未来を求めていない! こんな、こんな結末が欲しかったわけじゃない――ぼくは……ぼくは彼女が欲しかっただけだ!」
「きみがエリザを愛していたのは知ってる、でも! もう探しても意味がないんだ」
「黙れ……!」
低く押し殺した声が言う。
次の瞬間、白い腕が凄まじい速度で飛んできて、シェルの首を締め上げた。苦痛に歯を食いしばりながら、シェルは銃を構え直して腕に発砲するが、まるで効いていない。息を切らすように蠢いていた腕たちが、首を抑えつけられたシェルの周囲にゆっくりと這って近づいた。
「……お、お前が」
その指はわなわなと震えていた。
幻像世界が空間ごと歪んで、シェルを全方位から睨みつける。
「お前が……エリザを――殺した? ぼくの愛した人を、あれだけ時間を掛けて手に入れた彼女を、ただの人間ごときが?」
「そうだよ」
意味がないと分かりつつ、シェルは超越者に銃を構える。再び引き金を引いて撃つが、銃弾は白い腕をすり抜けて彼方へ飛んでいった。
「ビヨンド。ぼくは、きみのことは殺せないみたいだ」
首をぎりぎりと締め上げられながら、シェルは超越者を睨む。
「だけど、エリザは人間だ」
「あ――あぁぁああ! うるさい!」
咆哮とともに、締め上げる力が増した。喉元でバキッと言う音が鳴り、首の角度を保っていられなくなる。斜めに傾いた視界で、それでもシェルは目を見開いていた。
「きみがどれだけ彼女を逸脱させようが、エリザは人だった。人だから、人として死んでいったんだ」
「違う、違うだろう……
「その理由も同じだ」
シェルは、エリザという存在を思い出す。
図書館で本を読み、幼い娘に微笑みかける口元を。地下深くで眠り続ける彼女の、痩せた指先を。彼女の伴侶について語る、悲しげでありながら愛しそうなまなざしを。彼女は夫と友人と娘と、そしてこの世界を愛したごく普通の女性であり、それ以上の何者でもなかった。
「エリザが、人間だからだ」
シェルが答えると、首元を掴んでいた手から力が抜けた。シェルは支えを失って、無数の腕の絡み合うなかに崩れ落ちる。腕たちはしばらく無秩序にざわめいていたが、不意に壊れたように笑い始めた。
「あ――ははは、そうだ、簡単だ……」
世界が鳴動する。
「……もう一度、やり直そう」
超越者の虚ろな呟きとともに、世界が収縮し始めた。宇宙の外縁よりさらに遠方、ヴォイドの遙か向こうまで広がっていた
「なに……?」
かつて経験したことのない息苦しさを感じて、シェルは声を上げた。
「何を、しようと……してるの」
「フォアフロントを……世界を消すんだ。やり直すんだよ……ぼくが彼女を見つけた、あの四世紀前の冬から」
「でも――ビヨンド」
泣いている腕たちに、シェルは力尽きそうになりながら語りかけた。
「ぼくらのいる、この世界だって、きみの守りたかったものじゃないのか。きみは文明を愛していたんじゃないのか」
「彼女のいない世界になんて……意味が、ないんだよ。エリザの記憶から彼女を作り直して、もう一度……今度は確実に手に入れる」
「だけど……」
シェルは銃の引き金から指を外して、震えている腕のひとつに触れる。
「エリザがきみを拒絶した事実は、たとえ時間を遡ったって消せない」
どうしようもなく失われたものを、それでも欲しいと願う姿勢に、どこか自分と通じ合うものを感じた。ありとあらゆるものは時間とともに失われて、そのうえ何かを失ったからと言って、対価を手に入れられるとも限らない。対価無しに何かを手に入れることは叶わないのに、価値あるものが失われるときは一方的なのだ。
でも、だからこそ。
「そこに在るものを否定しても、意味がないんだ。時間を遡って取り戻そうとしたって、大切なもののレプリカに、意味はなかったんだよ……ビヨンド」
有形無形を問わず、あらゆるものは失われる。存在は非存在の余事象であり、時間とともにいずれ反転する。だけど、それがかつて存在し、そして失われたという事実だけは、絶対に消すことができない。
なかったことにはできないのだ。
「だから……お願いだ」
シェルは
「手に入らないものを求めて、ぼくらの世界を消さないで。この世界には価値があるんだ。みんな、それぞれに選び取って、希望を握りしめて、今日の朝までやってきたんだ」
「じゃあ……」
それまで静かにすすり泣いていた超越者が、不意にシェルに視線を向けた。
「せめて、きみを頂戴よ」
「――え」
シェルはひとつ瞬きをする。
同時に、下向きの加速度を感じる。幻像世界が消失して、シェルはラ・ロシェル直下の穴の底に帰ってきた。砂塵を吸い込んでしまい、咳をしながら立ち上がると、どこからともなく声が轟いた。
「きみが彼女を殺したというのなら――それが、きみの祈りだと言うならば!」
身体がぐらりと揺れる。
足下に目を移したシェルは、そこで初めて、自分が立っている床も崩れ始めていることに気がついた。強度限界に到達した床が傾き、無数の瓦礫となってシェルの身体を飲み込む。
「きみの、その心を!」
崩れたコンクリートと共に、真っ暗な場所に落ちていく。
受け身を取る余裕もなく、固い床に身体を強かに打ち付ける。全身を揺さぶる衝撃に意識が朦朧とした、そのときだった。
「だ――誰だ!」
超越者が、驚いたように叫ぶ声。
「邪魔をするな」
「シェル、逃げて!」
頭のなかに直接響いた声に、シェルははっと目を見開く。膝を付いて立ち上がり、ハイバネイト・シティの暗い通路を走る。その床も崩れ、また下の階層に身体を叩きつけられながらも、シェルは再び立ち上がって走った。
「シェル!」
エリザに似た声が言う。
「奪わせないために、閉じ込めるのよ、貴方自身を! D・フライヤの手が届かないくらい、心の奥のさらに奥まで!」
また落下する。
金属の床に背中を叩きつけ、一瞬だが息が止まる。暗闇を掴み、痛みを抑えつけて、僅かに明るいほうへ走る。転がり込んだ部屋で、偶然にも指先に触れた
ラベルの貼られた、細い注射器。
シェルはほとんど迷わず、首の後ろにそれを刺す。
自分という存在が一点に圧縮されていくのが分かった。超越者の声も、エリザに似た誰かの声も、全ての感覚が遠ざかる。やがて、シェルはシェル自身を知覚しなくなり、ただ虚ろな双眸で、崩れかけた天井を見上げた。
どれくらい経っただろうか。
ロボットアームが力尽きたシェルの身体を抱え上げ、どこかへ運んでいった。
Ⅸ ラピシアの夜明け 了