chapitre172. 約束
文字数 5,495文字
腰ほどの高さにある止水壁を乗り越えて、アルシュは霞んだ目をこすりながらカノンの背中を追った。彼は振り返りもせず、浸水した通路を早足で進んでいく。勢いよくかき分けられた水が渦巻いて流れを作り、後ろを歩いているアルシュは足を掬われそうになる。
「ねえ――どうしたのってば」
「悪いが」
彼はペンライトで前方を照らしたまま、横目でこちらを見た。
「少し声を抑えてくれ」
「えぇ……?」
何それ、とアルシュは唇を尖らせる。
不満には思いつつも、カノンが意味もなくこんな行動を取るとは思えないので、アルシュは大人しく口を噤んで濁水のなかを進む。しばらく歩くうちに、カン――という微かな金属音が、どこかから規則的なリズムで鳴っているのに気がついた。通路を進んでいくと、その音はどんどん近づいてくるようだった。
「……ここだ」
カノンがそう呟いて、無数に並ぶ居室のひとつに入る。壊れて半開きのまま止まっている扉の横をすり抜けた途端、音が大きく聞こえるようになった。
だが、中に誰かいるわけでもない。
アルシュが不思議に思って顔をしかめると、カノンがペンライトで奥の壁を照らした。壁には斜めに亀裂が入り、崩れた部分から配管が露出している。直径三十センチ程度の金属管で、見たところ換気用のものだが、どうやらカンカンという音の発信源はこれらしい。配管内部の空洞を伝って、どこかから音が聞こえてきているようだ。
つまり、その意味するところは。
「この向こうに、誰かいる?」
鼓動が加速し始めた胸元を抑えて尋ねると、カノンが神妙な表情で頷いた。それから彼は崩れた壁を乗り越えて奥のスペースに入り、どこかから借りてきたらしい工具で配管の一部を外し始める。一分もせずに作業を終えて、二人は配管内部の暗闇を覗き込む。
湾曲した壁を叩いて音を鳴らしてみると、間髪入れずに音が返ってきた。向こう側に誰かがいるのは明らかだが、これでは何の情報も伝わらない。
「聞こえますかぁ――?」
試しにと思い、大声で叫んでみる。
すると、今度は金属音の代わりに、ぼやけた音が返ってくる。人の声らしいと言えばらしいのだが、配管内部で反響するためだろう、音が何重にも重なり合っていて、とても聞き取れるものではなかった。
「……ダメか」
アルシュが肩を落とすと、そうだ、と小さく目を見開いて、カノンがこちらを見下ろした。
「いま、
「え――あ、うん、あるけど」
首を傾げながらも、後ろのポケットに手を回して
「何に使うの。バッテリ、できるだけ節約した方が良いと思うけど」
「向こうにメッセージを送れるか、試したい」
「え? でも……」
すでにハイバネイト・シティの大部分は停電しており、
***
不意に、後ろで音がした。
配管の向こうから聞こえてくる不鮮明な声に耳を澄ましていたロンガは、突然すぐ近くで鳴った音に、思わず跳ね上がりそうになった。隣でシェルが立ち上がり、傍らに置いてあった彼の荷物を探る。
「……やっぱり」
彼が怪訝そうな表情でリュックサックから取り出したのは、ひび割れた
「メッセージが来てる」
「え、停電しているのにか?」
「うん――」
暗闇に投影したウィンドウを見て、シェルの表情がはっと強ばった。
「どうした?」
「こ――これ、見て」
ロンガが立ち上がると、シェルはぱちぱちと瞬きを繰り返しながらウィンドウを指さす。届いたメッセージは『応答を求む』というだけの簡素な内容だが、その末尾に発信者の情報が記載されていた。その名前を見て、ロンガは息を呑む。
「アルシュの端末だ」
「もしかして――この管の向こうにいるのも?」
「あり得るな。あ……そうか」
ロンガはそこで、
「そうか……電波が配管のなかを反射して、ここまで届いたんだ」
金属製で、なおかつ中が空洞だからこそ可能な手法だ。
「ああ――なるほどね」
シェルが頷く。
だとすれば、こちらからも応答ができる。
シェルとロンガが二人でコアルームを出てきた旨と、推測したおおよその所在地を書いてメッセージを送ると、今度はすぐに返事がやってきた。
***
アルシュです。
今、第21層にいて、上に登れる場所を探しています。浸水は腰までくらい。局所的な話なので、あまりそちらの参考にはできないと思うけれど……。ところで、端末はシェル君のみたいだけど、このメッセージって、シェル君も見てるんでしょうか?
《Arche》
《Address NaN / Date 345-0129-0231》
そうだ、そのことを伝え忘れていた。アルシュにはずっと、嘘に付き合ってもらったけれど、私がいまエリザの身体を借りていることは、彼にも伝えた。多分、それを気にしてくれたんだよな。ありがとう。だけど、もう嘘は吐かなくて良いんだ。
ところで他のMDPの人は?
一緒に発電棟に向かったはずだろう?
《Ciel》
《Address NaN / Date 345-0129-0234》
良かった。
あ、カノン君もいます。
だけど、他のMDPの人たちとは、はぐれてしまいました。貯水槽で崩壊に巻き込まれて、私たちが水の中に落ちてしまって……。だけどきっと、地上に向かってくれてるはずです。そう信じてます。
追記)中間層にいるなら、まだ発電棟が動いているかどうか分かるか。
《Arche》
《Address NaN / Date 345-0129-0237》
カノンか?
発電棟のことは、今は分からないな。
でも、二時間ほど前までは、稼働していたはずだ。コアルームで監視していたから。少なくとも、現在、私たちのいる地点では完全に停電している。コアルームからここまで登ってきたけど、どこも同じ具合だ。
そちらは、地上に行けそう?
落ちたってことは、怪我してて動けないとか、そういうことない?
《Ciel》
《Address NaN / Date 345-0129-0240》
▽怪我
二人とも無事です。
登れる場所さえ見つかれば、先は長いですが、地上に行けると思います。そちらと合流したいけれど、お互い場所が分からないので、流石に厳しいよね……。端末のバッテリが不安だし、二人もあんまり中間層に長居するのも良くないので、そろそろ、切り上げても良いですか。
《Arche》
《Address NaN / Date 345-0129-0246》
そうか、怪我がないなら良いんだ。時間はかかるだろうけど……どうか、安全な場所を探して、アルシュとカノンも安全な場所まで逃げてほしい。
足止めしてしまって悪かった。
話ができて良かったよ。
また。
《Ciel》
《Address NaN / Date 345-0129-0251》
地上で会いましょう。
《Arche》
《Address NaN / Date 345-0129-0253》
***
「……本当に良かったのかい」
アルシュを横目で見ながら、ぼそりとカノンが呟いた。
「あんな約束をして。俺たちの方だって、地上に行ける保証はどこにもないというのに」
「そうだよ? でもね」
まさかロンガたちと連絡が付くとは思っていなかったので、降って沸いた喜ばしい出来事に、まだ目元が緩んでいる。涙で濡れた頬のまま、アルシュは無理やり口角を持ち上げて笑顔を浮かべてみせた。
「こういう時は、無理目の理想を、さも絶対的な未来みたいに言うべきだ――って思った」
「あぁそう……」
「うん、やっぱ、寝てる場合じゃないや……」
アルシュは両手を組んで上に伸ばし、疲労でじんわりと痛む全身の筋肉を伸ばした。
「地上に行くって言ったんだもん。責任持って、私も、上に行けるとこ探すよ。まだ動いているベルトコンベアとか、あると良いんだけど……」
足を骨折しているカノンがいる以上、あまり無理な道は選べない。何か良案が閃かないかと、アルシュが視線を左右に巡らせていると「俺には、あんたの動機が分からないんだが」と言ってカノンがこちらを見下ろした。
「あんたが、俺の怪我に責任を感じて、助けようとしているのは分かる。だが……それに拘った結果、あんたまで逃げられなくなったら、元も子もないだろう。あんたが俺を背負って動ける訳でもないのに、どうしてまだ、ここに残っているんだ?」
「まあ……そうなのかも知れないけど」
アルシュは肩をすくめた。
この期に及んで、彼の言い分を否定しても仕方がない。怪我をしていないアルシュひとりであれば、もう少し強引な手段で地上を目指せることは事実だ。止まっているベルトコンベアの坂を這い上がっても良いし、天井が崩れているところを見つけてよじ登っても良い。
「でも、なんかね……カノン君と別れないほうが、生き残れる気がするんだよね」
「どうして」
「勘かな」
「……勘って」
彼は呆れたような笑いを浮かべる。
「自分の生死を賭けておいて、ずいぶん呑気だねぇ……だいたい俺、あんたにそこまで信頼されるようなことしたかい」
「え? 色々たくさん、してもらったよ」
アルシュは唇を尖らせる。
頭を打った後遺症で動けなかった頃に、泥で覆われたラ・ロシェルから助け出された一件を代表として、カノンには助けられてばかりだ。もともと二年前から地下にいた彼は、地上にいたアルシュでは思いつかない案を、何度となく挙げてくれた。多少、MDPの方針と合わない行動を取られて苦言を呈したことはあるが――それを差し引いても、恩と信頼がアルシュのなかに蓄積されるには十分すぎるほどだった。
「一個一個、どうやって世話になったか、言わなきゃだめ?」
「……いや」
指を折りながら尋ねると、カノンは苦笑いして「良いよ」と片手を広げた。その口元に見慣れない形の笑みが浮かんでいて、おや、とアルシュは目を見張る。以前から思っていたが、どうも彼は、正面から感謝されることに慣れていないらしい。無表情な彼の、たまに見せる不器用な反応が、アルシュは案外嫌いではなかった。
「実は……あんたの期待に、応えられるかは分からないが」
話題を逸らすように、カノンが口調を真面目に作り替えた。
「俺ひとりなら、試してみてもいいと思っていた脱出ルートがある。本当に存在するかも定かではないルートなんだが――アルシュ、発電棟で見た、水路の地図を覚えているか?」
「水路の地図……」
アルシュは目を細めて、半日前の記憶を辿った。地熱発電施設のマニュアルのなかで、たしかに、それらしい立体地図を見た覚えがある。
「ああ……あったね。こう、詰まった水路と、予備の排水路と」
おぼろげに覚えている図を指先で辿ってみせると、それだ、とカノンが頷く。
「予備の水路は、北東の方角に続いていた。ラ・ロシェルから見て北東というと、バレンシアだが……その向こうには何があると思う」
「
腕を組みながら、アルシュは頭の中にラピスの地図を思い描いた。バレンシアはラピスの外縁に位置する街であり、その向こう側はそもそも地図に載っていない。例えば、死者を乗せた葬送の船は、ラ・ロシェルを出てスーチェンの少し横を掠め、フィラデルフィアの隣を抜けてからバレンシアの近くを通る。
だが、その先は、ラピスではない領域だ。
誰も見たことがないはず――
「あ……」
いや、違う。
以前ロンガから聞いた話を思いだして、アルシュははっと顔を上げた。葬送に見せかけて、彼女とシェルが統一機関を脱出したときのことを、彼女は繰り返しこう語っていた――眠っているうちに葬送の船が壊れて、海の中に投げ出されたロンガの身体を、シェルが引き上げてくれたと。
そうか、と目を見張る。
「ラピスの北東には、
「そう」
カノンが頷く。
「俺は、あの水路を辿っていけば、海に出られる可能性があると踏んでいる」
「辿るって……その足で?」
「言い方が悪かった。
「えっと、流され――え、えぇぇ?」
ようやく意味を理解して、アルシュは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。つまり、排水のなかに飛び込んで、流されるままに海まで向かおうと――そういう奇抜極まりないアイデアらしい。アルシュが目を剥くのとは対照的に、カノンは落ち着いた口調で「見込みはなくもない」と指を一本立てた。
「さっきロンガたちに聞いた通り、少なくとも数時間前までは発電棟が動いていた。水路に問題がある場合、発電棟が緊急停止するのは俺たちの見てきたとおり。つまり、まだ……排水機能が生きている可能性がある」
「ま――待って待って」
千切れんばかりの勢いでアルシュは首を振った。
「そんな上手く行かないって。絶対、どこかで堰き止められて終わりだよ」
「だが、この事態だ。瓦礫くらい排水に混入していてもおかしくない。それでも発電が止まらないなら、
「いや……確かに私、カノン君なら何か、私の思い至らないようなことを思いついてくれないかなぁって、期待してたけどさ……」
背中に冷たい汗が伝うのを覚えながら、アルシュは乾いた笑いをこぼす。
「……正気?」
「さてねぇ」
彼は音を立てずに笑った。
「とっくにおかしくなってるのかもね」