終章 春を待つ
文字数 4,263文字
エリザがノート片手にユーウェンの研究室を訪れたところ、ちょうど彼はティーポットで紅茶を淹れていた。最近ハイバネイト・シティでは、食糧を提供するソフトウェアに追加のプラグインが加えられたので、紅茶くらいならボタン一つで提供される。だが、どういうわけか、ユーウェンはいつも前時代的なティーポットで紅茶を淹れていた。
「淹れるのが楽しいんだよ」
非効率では、と指摘すると、ユーウェンはそう言って苦笑した。
「図書館だって似たようなもので、合理性だけ考えれば電子化したほうが良い。だけど、その手間暇というか、面倒さの周縁にあるものが、結局のところ面白いっていうか」
「そういうものですか?」
「君が勉強するのだって、同じような理由じゃないの?」
「……違います。私は、誰かに騙されないように、賢くなりたいんです」
「君を騙そうとするような人は、もう、どこにもいないよ」
そう呟いて、ユーウェンは研究室の天井を見上げた。
「人間は……もう、ほとんどいないんだから」
「それは、そうですけど」
エリザは頷く。
数年前、エリザが違法取引とオフィスビルの崩落事故に巻き込まれたときには、まだ警察や司法、ひいては統治機構というものが存在していた。しかしながら、絶望的かつ全世界的な食糧難や住居不足によってそれら組織の体力は削られ続け、一方で、生活を追い詰められた人々による犯罪の件数はどんどん増加していった。国家の秩序を守ろうとする組織たちは、縮小と再編を繰り返して弱体化していき、一年前に首都の近辺で発生した大型のクーデターを抑え込めないまま、事実上の崩壊に至った。
市民は行き場を失い、方々に散逸していった。
現在となっては、学会発表で訪れた講演会場も、あのとき入院した病院も、マカロンを買ったコンコースも、利用者と運営者の双方がいなくなったため、すべて廃墟と化した。人間がいなくなった、とユーウェンが言ったのはそういう意味だ。
また、ハイバネイト・シティは、本来、行き場を失った市民の保護も目的として作られた巨大居住施設だった。ニコライの運営する建築会社と連携して、居住区域を大幅に拡大する予定だったのだが、資金不足によってそれも撤回された。
結果として、ハイバネイト・シティには静寂だけが残された。
ユーウェンたち七人のプロジェクトメンバーが人工冬眠カプセルに入ったあと、あまりにも広い居住施設と、潤沢すぎる資源を少しずつ消費して、エリザはこれから五十年ほどの孤独を生きる。
「やっぱり……私には、勉強が必要なんだと思います」
あまりにも長すぎる孤独に、心を苛まれないように。寿命を迎えるためだけに流れていく、無為な時間に、それでも意味を与えられるように、打ち込める何かが必要だった。エリザの言葉の真意は、おそらくユーウェンには伝わらなかったのだろうが、彼は「そう思うのは良いことだね」と答えて微笑んだ。
「ねえ、ユーウェンさん」
ふと思いついて、エリザは尋ねてみる。
「寒冷化が終わって春が来たら、新しく街を作るんでしょう。その街に、どんな名前を付けるんですか。ハイバネイト・シティとは、別の名前が必要ですよね?」
「さあ。考えたこともなかったけど」
「じゃあ、今、考えて下さい」
「難しいリクエストだなぁ」
脈絡を無視したエリザの質問に、ユーウェンは苦笑しながらも、キーボードを叩いていた手を休めて「そうだね」と呟いた。
「こういうのって、創始者にゆかりのある名前を付けたりするんだろうけど、八人みんなの名前を付けるわけにも行かないし。あとは特徴的な地形から名付けたりかな。地理的には、かつてパリだった場所に街を作るわけで……あ、そうだ」
そこで彼はぱちんと指を弾いた。
「
「……正解」
「え?」
「いえ、何でも」
エリザは首を振る。
同時に、やっぱりそうだ――というほのかな落胆と、裏切られた感覚が胸を満たした。五十年ほど未来に創られるであろう街の名前、そして因果のうえでは四世紀前にすでに決定されていた地名を、ユーウェンは正しく口にした。
やっぱりこの人も、D・フライヤの被造物でしかない。
どれだけ優しく微笑んでくれたって、子どもとして大切に扱ってくれたって――ユーウェンの笑顔も優しさも正しさも、全部、オリジナルの朱・宇文のレプリカでしかない。おそらく、彼の内側に魂とか自由意志というものは存在せず、ユーウェンはただ、D・フライヤの描いた道筋を忠実に再現しているだけなのだ。
だけど。
白い丸皿に乗せたマカロンを、エリザはひとつつまんで口に放り込む。ハイバネイト・シティの食糧を提供するソフトウェアがアップデートされたおかげで、最近食べられるようになったものだ。アーモンドプードルや粉糖から作られた本物のマカロンとは違い、人工甘味料や合成デンプン質から作られたものだと言うが、十分に美味しい。
ユーウェンも、きっと同じだ。
たとえ模造品だとしても、そのレプリカがエリザに「幸せ」を教えてくれたことは疑いようがないのだ。
「ラピス、かぁ……冗談のつもりだったけど、存外きれいな名前じゃない?」
そんなことを言って、ユーウェンが笑う。
「あと……鉱石、みたいな意味合いもなかったっけ」
「ラテン語にありますけど、それはRじゃなくてLの
以前に本で読んだ内容を思い出してエリザが言うと、ユーウェンが「そうだったか」と苦笑して頭を掻く。加齢を反映して、少しずつ張りを失いつつある頬に、彼は屈託のない笑顔を浮かべてみせた。
「そういえば、いま二十歳だっけ、君は。昔なら大学生だ……いつの間にやら、すっかり賢くなったね」
「……いえ」
ティーカップをソーサーに戻して、エリザは俯く。
「貴方には届きません」
「そうかな。君はとても賢いよ」
「誰かに賢いと褒められる程度では、まだまだです」
エリザが答えると「それは一理ある」と言って、ユーウェンが笑った。彼はノートパソコンをぱたんと閉じて立ち上がり、空になったティーカップをトレイに乗せて、研究室に備え付けのキッチンに運んでいった。シンクの前に立って洗い物を始める、少ししわの寄ったシャツの背中を見て、エリザはぎゅっと唇を噛んだ。
もうすぐ彼は手が届かない場所に行ってしまう。
この世界に先行する七つの分枝世界の、そのどこでもない未来へ。
どうして七つあるのかと言えば、七人のハイバネイト・プロジェクト主要メンバーが、誰の母語をラピス公用語とするかで揉めたためだと言う。ユーウェンの母語である中国語、サティの母語であるヒンディー語、ルーカスの母語である英語、マリアの母語であるポルトガル語、ジゼルの母語であるフランス語、アマンダの母語であるスペイン語、ニコライの母語であるロシア語。それぞれの母語を公用語として、七つのラピスはそれぞれに栄えたが、三世紀半ほど未来において、滅びに近づきつつあるという。
そして第八の分枝世界は、そのどれとも違う未来につながる。
どうやって?
七つのものからひとつを選ぶ方法は、七通りしかない。八番目の選択肢を無理やり作り出すのなら、それは「どれかひとつを選ばない」以外にないだろう。だけど、第八の分枝世界において、プロジェクト主要メンバーの協調性はないに等しい。複数の公用語を同時に運用することは、多分、できない。
だから。
残された答えは……選択に辿りつかないこと。
どの公用語を選ぶか、という問い自体が立てられないこと。
つまり――
ラピスという街が作られないこと。
エリザは椅子から立ち上がり、洗い物をしている彼の後ろに立つ。
「……ユーウェンさん」
彼の着ているシャツの背中を握りしめて、エリザは呟いた。
おそらく、ハイバネイト・プロジェクトは失敗する。
五十年後の未来にユーウェンたちが辿りつき、さて新しい世界を作ろう――と腕まくりをするより前に頓挫する。それがD・フライヤの描いた物語なのだ。だけど、プロジェクト主要メンバーは、いずれも、人間性はともかくとして能力は高い。綿密に練った計画を、そう簡単に失敗するとは思えない。
で、あれば。
「……っ」
目の奥から熱いものが沸いてきて、エリザはユーウェンの背中に顔をぐっと押し付けた。彼が戸惑った声で「どうしたの」と尋ねるが、エリザは小さく首を振って、溢れ出てくる嗚咽を後から後から吐き出し続けた。
いずれ、D・フライヤの手によって彼は死ぬだろう。
この世界が他の分枝と合流しないために。他の七つの世界のどれとも違う、第八の分枝世界として存続するために、D・フライヤはラピスの創都を阻止するだろう。では、用意周到に練られた計画と、そのために準備されたハイバネイト・シティやさまざまな物資と、ユーウェンたちラピスの祖のうち、いちばん簡単に壊せるものはどれだろうか。
その問題は呆れるほど簡単だった。
エリザは問題の答えを口に出して言う代わりに、ユーウェンのシャツを握った手に、ぐっと力を込める。いずれD・フライヤに壊されるだろう彼の体温を、ただ、いつまでも感じていようとした。
「……あのさ」
気まずそうに、ユーウェンが切り出した。
「僕のカプセルを、君に譲っても……良いと、僕は思っていて――」
「要りませんよ」
最後まで聞かず、エリザは首を振る。
ふふ、と思わず笑ってしまった。人工冬眠のカプセルが割り当てられなかったなんて、そんな些細なことで涙を流せるほど、歪んでいない世界を生きられたなら。あの黄昏の街を歩いていたエリザのように、何の障壁もなく因果の最前線――すなわちフォアフロントを闊歩できたなら、それはきっと幸せだっただろう。
でも。
涙を拭い、ユーウェンの隣に立って、エリザはスポンジに手を伸ばす。
「洗うの、お手伝いします」
「え、いや、良いよ――」
「私がしたいんです」
エリザがそう言うと、ユーウェンは「じゃあ」と申し訳なさそうに頷いて、カップの一つを差し出した。一定のボリュームを保った流水音と、爽やかなシャボンの匂いが満ちるキッチンで、エリザはカップを洗う。洗い終えたカップを水切り用のラックに置こうとして、裏側に泡が残っているのを見つけ、あわてて流水で洗い流した。
きっと大丈夫だ――と思った。
ここにいるエリザだって、ちゃんと、幸せを知っている。
凍てつく星のレプリカ 了